
ショートヘアにするサナの話から(TWICE)
From Sana's story about getting short hair
大晦日に放送される番組の収録がもう始まってるとは…この映像を年の暮れに見て、サナが痩せたとか太ったとか、顔色悪いとかいいとかを言ったりしてたら、笑われてしまいそうである。
これからのテレビは、ドラマや映画だけじゃなく、バラエティ番組だって登場する人たちの現在を普通に伝えるものでなくなっていくかもしれない。何せ、年が始まったばかりのこの時期にもう年末放送用の番組を収録しているのだから。
それはつまり、年の暮れまで”TWICE人気は安泰だ”と約束してくれるもののようだが…。
アインシュタインの相対性原理がニュートンの絶対時間を覆した。人間の営みとは一切関係なく流れていると思われていた時間は、人間の生活と無縁の存在ではなくなった。使い心地のよい便利なものとして人間の生活にかかわるようになってきた、
知ったのはずいぶん前だが、これが生活の中に反映して目に見えだすまではずいぶんかかった。当時、若者だった自分はすでにお年寄りである。
自分たちの若い頃ではつかの間の刹那主義を排する一方、絶対時間に支配された”一ミリもない時間の上”を無視できない実存主義が持てはやされた二律背反の時代だった。
当時”明日のジョー”というコミック漫画が爆発的にヒットした。主人公の名は矢吹丈。下町の冴えないボクシング事務所から這い上がってきたボクサーだった。
彼は最後のリングで燃え尽きるが、師匠の丹下段平が投げ入れようとするタオルを拒んだ結果だった。
その時、矢吹ジョーは言い放つ。
「オヤジはよ、自分が最高だった時はいつだった? 俺はよ、今なんだよ! だからやらせてくれ」 当時は絶対的な観念や信念が愛されていたから、ジョーのこの言葉(スタイル)は感動をもって愛されたものだった。ドラマや映画でもしばしば類似の表現がされていたように思う。
そうしてリングの戦いで灰になった矢吹丈は当時のコミックを代表するヒーローとなり、現実に葬式まで営まれる現象まで引き起こした。
今は一つの価値に支配される時代でなくなり、自分の生きてる意味も価値も考えも毎日更新しながら生きていく時代となっている。
サナのヘアスタイルだが、どれがいいとかのこだわりはない。ロングの髪がセミロングになり、ショートになっても彼女の髪形に対する好き嫌いは出てこないだろう。
というか、顔と性格に親しみを感じているから、髪形変わっても気づかないかもしれない。ショートになったらなったで前からそうだったように馴染んでいくだけな気がする。しかしショートからロングに変わった時はさすがに、あれ(?)ってなるかもしれない。
髪形変えても自分の心境に変化が起きないなら変えた意味はない。ショートヘアの話をしてのは、それで変えたい何かがサナの心にあるのであろう。髪形変えて鏡の前でサナの気持ちが弾んでくれるのを願う次第である。
ごちゃまぜの話になったが、人類はうまく生き延びれば太陽圏内を庭のように支配する生き物になっているかもしれない。そうなってからも光の速度以上の通信網を確保できていないなら、遠く散らばって人工の星で暮らす地球人は、20年や30年もの時間のずれたエンタメコンテンツを楽しむようになっているだろう。そこに何前年間のサナの姿もあってずっと宇宙を飛び回っているかもしれないなあ…。
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