わたし、派遣の校正者

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映画「未来世紀ニシナリ」

2010-05-16 15:54:14 | 映画・演劇
「未来世紀ニシナリ」

題名のとおり、大阪・西成区についての映画だ。

西成に関しては、あいりん地区、ドヤ街、釜ケ崎、地区 etc. といった言葉が付属する。
そして、この作品はある団体が、この地域の生活のすべて、すべての人を包み込もうとする町づくりの試みを描いている。
彼らの活動を記録したこの作品に対し、もっと表現すべきものがある、こういう部分が描かれていない、という批判が少なからずあるかもしれない。

しかし私は、終盤近くにはさみこまれたひとつのエピソードの存在に、この作品の意味があると思う。


ひとりの若者が清掃会社を訪ねてきた。
彼は以前、この会社で働いていた。
けれど、あるとき何の前ぶれもなく失踪し、今は別のところに住み込みで働いているという。

いなくなったのはこれで3度目だ。
ここでは毎日熱心に働き、職場の貯金箱に小銭を集めてもいた。
失踪していた彼が戻ってきたのは、その貯金箱を受け取るためであった。

40才前後かと思われる会社の女性は、ある提案をする。
彼とこことの縁をつなげるために。
長い時間のやりとりの末、彼はそれを受け入れる。
そして、今いるところに帰っていく。

人と人との「絆」、「つながり」がモノによって確保された。
いつでも戻ってきていい、口実。

この映画を貫いているのは、人と人との「つながり」である。
それは、この団体の基本理念でもあるだろう。
確かに、人間らしく生きるために、セーフティネットはあらねばならぬ。
だが、今の彼にとって、つながっていることが必要なんだろうか。

彼が陥っているのは、継続できないこと、先を見ないこと、危機感の希薄ではないか。
自覚はないだろうが、潜在的に「なんとかなる」と思っている。
「なんとか」とはつまり、最終的には誰かが助けてくれる、ということだ。
手を差しのべられることにより、自分の限界ぎりぎりの地点で、ふんばって超える経験を持てない。
危機にひんした自分を、どうにかして自分で脱出させなければならないのに。
自ら考えに考え、汗をかき、力を振りしぼることがない。

ぎりぎりになると、助けてくれる誰かを探すことに注力してしまう。
だから毎回、元にもどり、同じ過ちをおかしてしまう。
反省し、今度こそがんばろうと思う。

たぶん彼は、始めるときは本当に「一生懸命やろう、きちんとやろう」と思うのだ。
それが1か月、3か月・・・と時を経て、最初のようには続けられなくなる。
誰でもその時期がある。
スランプ、不安、新しく始めるときとは別の困難さ。
そこが彼の「ぎりぎり」の地点であり、おそらく今まで、常に手助けがあったのだろう。
そして彼は成長せず、挫折感を得、また反省する。

身近に助けてくれる人がいても、自分を崖っぷちに追い込んで、自ら成長していける人はいる。
だけど、どんなに細い糸であってもそれを掴み、「ひとりでは生きられない」はめに陥る人もいる。
目の前の人が、どちらのタイプかはわからない。
援助したくても、見守ることに徹しなければならない場合もある。
本人にとって、良い手助けなのか、それとも裏目に出てしまうものなのか。
心理テストの結果によって、すべての人の深奥までわかればどんなにいいか。


このエピソードが語るのは、「つながりの大切さ」ではない。
個々の対応であるということ。
個別に対応するには、時間も、気持ちも、すべての面で余裕が必要ということだろう。
失敗・落胆し、傷つき、あきらめかけながら、試行錯誤するのが実のところだ。
今、必要とされる「絆」とは、昔のおせっかいや家族のあたたかさなどではない。
ましてや、遠慮のない、ある種暴力的なコミュニケーションでさえないのだ。


「未来世紀ニシナリ」
2006年/68分/ドキュメンタリー
監督:田中幸夫、山田哲夫


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