八田焼 利兵衛窯始動?

 江戸時代初頭に操業を始めた、歴史のある八田焼です。ところが、13代、14代佐兵衛が相次いで、この世を去りました。そして

ドクダミを生けてみた

2013-06-26 22:29:08 | 八田焼
 庭にドクダミが咲いていたので、生けてみたくなりました。ドクダミは、茶道では、あまり使われませんが、結構かわいい花だと思います。日陰に咲いて、臭いがあることや、名前から嫌われているのでしょう。







 ちょうど、梅雨に入ったので、山あじさいもきれいでした。

 田舎に住んでいると、こんな花も、庭にあってすぐ手に入りますけど、都会に引っ越すとなると、こう言うことも出来なくなってしまいます。滋賀に引っ越すのですけど、やっぱり、田舎の方が良いかも知れませんね。

 ドクダミの花器は、滋賀県大津市の長石を砕いて釉薬にし、八田で焼いた物です。壺は、野洲のあたりで出る、鉄分の多い粘土を使って,穴窯で焼成しました。こう言う焼き物もしたいので、やはり、都会は無理です。

佐平と考えた新しい八田焼

2013-06-13 22:58:48 | 八田焼
 八田焼の事を、絶滅寸前の「特別天然記念物」とか「生きた化石」なんて揶揄していたのです。例えば、イリオモテヤマネコ、トキ、またまたシーラカンスやオームガイとかですけど。そしたら、今現在は、本当に、自分1人になってしまいました。本当に絶滅寸前です。ここで、何とかしないと絶滅すると、がんばっている訳です。
 しかし、佐平も、あのまま絶滅するつもりはなかったのです。何とか新しい道を見つけようと努力はしていたのです。その一つが、八田焼によく使われる緑釉です。緑釉と言えば織部の緑色陶器です。それに、人形とか動物を作るのも得意だったのです。そこで、考えついたのが、織部の異人像燭台です。これは、何処か本人にも似ていると言う声もありましたが。結構、面白い物も作れていました。でも、全くの模倣でしたから、何とか、八田の特長を入れないとと思って、八田の花柄を入れてみました。


 これは、僕が作ったので、ちょっと可愛らしくなったのですが。


 緑、それなら信楽の狸に対抗して、カッパはどうかと言うことで、幾つかやってみたのです。




 カッパの箸置きです。


 
 なら、ムツゴロウの箸置きも。



 同じ緑釉でも、もっと変わった緑釉もと言うことで、作ってみたのです。



  小皿。梅の実をイメージしてみました。


 さらにエスカレートして、もっと色を入れたらと言うことで、こんなものまでもやったのでした。

 ピエロの小物入れ。

 今回の掲載作品は、僕と協力者が作った物でした。




利平窯再開計画

2013-06-05 23:08:38 | 八田焼
 利兵衛窯の再開計画を色々とやっていますが、何せ、八田から遠い丹後に住んでいるものですから、遅々として進まないのです。でも、何とか、その道は付いてきたようです。

 昔、八田焼の発展と登り窯の保存を目指して、「八田焼保存振興会」を立ち上げたのです。 この会、長らく休眠していたようですが、去年辺りから信楽の人を迎えて、陶芸教室などで八田焼の再興を目指しておられます。また、伝統よりも、全く新しい八田焼を目指して行かれるようです。
 この会の私の目的は、本来、八田にある二基の登り窯の保存を目指していたのです。そのために、会の名前に、わざわざ「保存」という言葉を入れたのです。でも、結局は、この目的は達成せずに、二基の登り窯は、既に崩壊しつつあります。私は、この状態では、窯の保存はとてもおぼつかないと思い、窯の保存は諦めました。

 しかし私は佐平窯とは30年の付き合い、佐平から教えて貰ったこと、習ったことを後世に伝えるべく、新たに、「八田焼伝統継承会」を立ち上げました。
 佐平窯は、八田焼の歴史400年の最後の窯元、その伝統技術を知るものは、もう私1人だけですから、この技術を継承してくれる人に伝えておきたいと考えたのでした。現在は、1人の弟子も出来て、後は、佐平窯の血筋の方が、それを継いで貰えるのを期待しているのです。そうなれば、私の「八田焼伝統継承会」の利兵衛窯と佐平窯、そして八田焼保存振興会系の二つの系統、少なくとも三つの八田焼窯元が出来るわけです。

 「八田焼保存振興会」は、八田の土を使って八田で焼くと言う事にこだわって、全く新しい焼物を創造されるとのことです。
 私の「八田焼伝統継承会」は、あくまで八田の伝統の上に立ち、それを発展させると言うことにこだわりたいと思います。 
 そうなると、良い意味で競争が始まり、明るい未来が生まれてきました。私も、どんな新しい八田焼が出来るか、大変楽しみです。是非、振興会もがんばって欲しいものです。


 後は、いよいよ、私が甲賀に移住しなければならないわけで、住居探しの開始です。出来れば、農家の古い家が借りられると有り難いのです。陶器の展示場と鉱物の展示場を併設した住居にしたいのです。それと、薪の窯も作りたいので、その用地も確保しないとならないのです。



叶匠寿庵 寿長生の郷に作った陶房ですけど、このようなものになれば最高です。





野焼の楽しさ

2013-04-24 23:10:08 | 八田焼
 私の知り合いに、会社を辞めてから陶芸教室にちょっと通って、窯を買って、髪の毛を伸ばして、作務衣を着て、髭を伸ばして、そしてその日から、「俺は陶芸家だ。これからは先生と呼べ」とやっている人が居るのです。私なら「陶工だ」と言いますけどね。
 ある陶芸家は、「自分は陶工になれるほどの技術はないけど、創作力がある。陶工は作ることは出来るけど、創作は出来ない。」なんて言う人も居ましたが。

 私、他で、「理学部のゴミ箱」なんて、鉱物関係のブログやっているのですけど、これじゃあ、陶芸は「美術部のゴミ箱」ではないですか。
 三年程前にダニに食われて、そのダニに神経毒を出す菌が居て、それが元で高次脳機能障害の病気になって、感覚が研ぎ澄まされて、なんか、物事が良く見えるようになりました。その性か、音楽を一日中聴くようになったのです。マライア・キャリーから始まって、エイミー・ワインハウス、そして、今はジャズを主に聴いています。このミュージシャン達、会社を辞めてから、音楽教室にちょっと通って、楽器を持ったら、その日から音楽家と言う人達とは、レベルが全然違います。さすがに、世界で通用する人達は違います。
 と言うものの、私だって、同じ様な物で、30才の頃、シンポ工業の陶芸教室に通って、窯を買って、陶器作り始めました。もちろん趣味ですけどね。その頃から、八田焼の窯元を訪ねたのですけど、なんか、そこが気に入って、度々訪れるようになりました。そのうち、なんか、自分も陶工になったような気がして、個展等をやり始めたのです。でも作る方が楽しく、自分が作りたい物を作っていたので、売れなくても、どうでも良かったのです。そのうち、生活に追われて止めていたのですけど、八田には、時たま顔を出しては居ました。なんか、魅力のある人達、焼き物でした。

 陶器をやるには窯が要るのですが、別に窯はなくとも出来る陶器があるのです。私が、陶器作りを始めて、一番感動したのが、この窯が無くても焼ける「野焼」という焼き物だったのです。有る骨董屋さんのショーウィンドウに、野焼の花瓶があったのです。多分手が出ない金額、おそらくは10万円以上は言うだろう、それまでなら買おうと思って、妻に聞いて貰ったのでした。妻は、店内で、片手を出したのでした。片手は、10万円以上なら50万円になります。それを見て買うのを諦めたのですけど、店から出てきた妻に聞くと、それがたったの5000円でした。それで、直ぐに気に入った二つを選んで購入したのでした。
 そして、それを写そうとしたのですけど、難しくて、なかなか出来ないのです。試行錯誤している内に、それが粘土にあることに気が付いたのです。この花瓶は、画家が、畑の土で作った物だと言うことが分かったのです。その後、この人は、ある陶芸家に、粘土を頼み、焼成も手伝って貰うようになってから、ありきたりの作品になってしまいました。この時、陶器は、人間が作るものではなく、「土が作らすもの」と気が付いたのです。

 そこで、私も野焼を始めたのです。


 この写真は、叶匠寿庵 寿長生の郷での焼成です。 


 これは、私の作ではありません。





 何故、人の作品も掲載したかというと、それは、ろくろに載っていないからです。私の二つの花瓶は、紐作りですが、ろくろに載せて作っています。その違いが分かればと、載せたのでした。ろくろに載せると、単純になってしまうのです。それを単純に見せない、隠し味が要るのです。

利平窯始動

2013-04-15 21:41:36 | 八田焼
 
 いよいよ、利平窯の始動です。徳利の製作開始です。

 八田焼の徳利は、簡単に挽けるようで、実はなかなか難しいのです。そのために、この形は、ほとんど見かけません。普通に挽くと、どうしても、丸い形になってしまうのです。佐平は、生まれながらにして、その製作方法が身に付いているわけですから、簡単に挽いていました。でも、それを真似ることは、非常に難しく、その伝統を継ぐ者は、なかなか居ないのです。で、今から八田焼を始めるとなると、それが出来ないために、全く新しい八田焼をしようとする訳です。
 でも、私は、八田焼の基本は、佐平の徳利にあると思います。14代 佐平も、13代 重平の作を凌駕したように、私も、佐平を凌駕してこそ、八田焼を始める値打ちが有ると言うものです。これが、伝統と言うものだと思います。もちろん、その時代にあった作風でなければなりません。佐平を越えた時、もちろん、佐平も喜んでくれるものと信じています。

 佐平には、娘さんが二人いましたが、今は他家に嫁いで、佐平の後を継がなかった訳ですが、いずれは、どちらかの誰かが継いで欲しいと思っています。そのためにも、八田焼を存続、発展させておく必要があるのです。それをしておくのが、私の役目だろうと考えているのです。それで、私の持っている技術を伝えておくべく、今、1人の人に教えています。近いうちに、間違いなく、これが八田焼と言うものを作れるようになると思います。この人は、結構、感覚も良く、覚えが早いので、楽しみにしているのです。

 そして、ここからが、私の八田焼の本番です。新しい八田焼の道を創らなければなりません。新しい、時代に即した八田焼、どのようなものになるのでしょうか。目指すは、従来の八田焼を活かした、斬新な八田焼を焼きたいと思います。
 理想を言えば、モダンジャズが流れる工房で製作、そして自然の中で登窯を焚く、これが夢なのです。これが実現した時は、こう言う陶芸教室で、皆さんと楽しむ、こう言うことも良いのではないでしょうか。


 八田焼と言うと、花柄の徳利だけと思われるでしょうが、実は、たくさんの窯元が色々なものを焼いていたのです。白釉、飴釉、黒釉等の色釉、絵付けもの、そして青磁等もありました。佐平は、油滴天目にも挑戦していた事もありました。これは、電気炉が悲鳴を上げて、窯の蓋が溶けてしまったこともありました。
 でも、こうした物は、他の大窯業地には太刀打ちできず、努力の甲斐もなく廃絶してしまったのでした。佐平窯が最後まで存続できたのは、一途に、同じ物だけを作り続けたことが幸いしたのでしょう。



 
 八田焼の陶片。これらは、ゴミとして捨てられていた物を拾い集めた物です。こうした物の完成品が見たい物ですが、最近はほとんど見られなくなりました。

道祖神

2013-03-25 22:34:15 | 八田焼
 八田焼と言うのは、あの花柄だけではなく、色々なものにも挑戦はしていたみたいです。楽焼有り、磁器もあり、色絵ものも有りで、様々ものがありました。しかし、所詮は半農半陶の郷、本場には太刀打ちは出来なかったようで、結局は、あの花柄だけが残ったようです。

 磁器と言えば、八田の前身は青磁の高級品だったようです。それと言うのも、代官が京都から職人を連れてきて、焼かせていたのです。でも、これは、お庭窯、当然のこと長続きはしなかったようです。本来、八田焼と言うのは、雑器ではなく、高級磁器だったのです。

 八田にも、昔は、色々な焼き物があったと言うことで、色々なものに挑戦しようと思います。佐平は、織部の人形燭台も、結構好きで、良く作っていました。それではと言うことで、道祖神もと言うことで、作ってみました。



 叶 匠寿庵 寿長生の郷 霜が降りて、火色が良い感じです。
 この作品は、バレンタインデーの販促に使いたいと持って行ったきり、返ってこなくなりました。今は、どうなっている事やら。

 道祖神と言っても、ただ男女だけでは面白くないので、月のウサギをイメージして作ってみました。




 欲しい人が、結構あったのですけど、直径が40cmもあると作るのが大変なのです。それで、ウサギは売らずに玄関に置いてあります。



 

八田の匣とツク

2013-03-12 23:25:45 | 八田焼
 
 八田焼の匣を伊賀の「破れ袋」風に接いで見ました。何度も焼かれて、ついに破れて、使い物にならず捨てられてしまった物を拾ったのでした。



 匣には、一部切り込みが入れてあります。これは片口の口を出しておく穴です。もう一つの役割は、密閉しておくと匣内の温度が上がり難いためです。


 登り窯は薪を焚きます。そのため、灰が降りかかり、八田では傷になります。そのため、火前には、匣に詰めて積み上げたのです。その後ろは棚板を組んで、裸で焼いたのでした。



 これは、私が作った匣で、一度だけ焼いた物です。匣は何度も使う物で、灰が掛かると柔らかくなり、火で曲がってしまいます。そのため、灰が掛かっても、内部にしみ込まないように、細かい土を塗ってあるのです。これが、本物は味、魅力になっています。今度作る時は、土も掘りたての土を使い、半磁器土等の化粧をしてみようと思います。















 これらも、棚板を支える「ツク」です。匣と同じ様に、細かい土で化粧が施されています。

八田の焙烙

2013-02-27 22:27:50 | 八田焼
 八田では、かわらけの生産が長く続いていました。その延長で、焙烙も焼いていたようです。焙烙(ほうろく)とは、素焼の土鍋の一種で、形は平たく、低い温温で焼かれます。八田では、ごま炒り器等があったと思います。茶陶では、赤い焙烙も好まれているようです。例えば、水指の蓋にしたり、灰器として用いられています。14代佐平は、赤い焙烙も、好んで焼いていました。

 
 焙烙の大皿を挽いている14代 佐平です。赤い焙烙ですから、鉄分の多い土を使っています。

 私も、この焙烙を見て、閃いたのです。善哉の入れ物を作ろうと。





 実は、ある店から善哉の器が欲しいと注文があったのです。それで、究極の善哉の器を作ってやろうと。それで、その店の商売敵の店に行って食べてみたのです。味もひどかったけど、器が合っていないのです。塗り物でしたけど、あれは汁粉の器です。それに善哉を入れて、炭火で焼いた餅を入れ、塗りの蓋を完全にしたものだから、餅の焦げた味と臭いが善哉に染み渡り、ひどいものでした。そして、食べ終わる頃には、底に溜まった繊維質で、舌触りも悪いのです。

 ならと言うことで、浅い鉢にして、杓子で底からすくい食べることにより、最後まで、同じ味が楽しめるだろう。そして、餅も完全に沈み込まないし、餅の焼けた感触も楽しめる、栗なども添えると見た目も良い。そして、焙烙の蓋を添えることにより、臭いもこもらない。

 これで、どうだと納品しましたが、アイデア、形などには感心して頂けましたけど、結局、善哉の器になりませんでした。なかなか、良いアイデアだと思ったのですけど、常識を破ると言うことは、なかなか難しそうです。

 私のアイデアで、ヒットしたもの一つに、「紅白のかわらけ」があります。赤と白をセットにして、選挙の戦勝祝いに配られたのですけど、これは喜ばれました。

 八田焼も、焙烙にも力を入れたいですね。出来れば、花器、茶陶、食器など、色々と作れそうです。陶器と焙烙のコラボもなかなかです。私場合は、薪の楽窯も使っていますから、八田本来のかわらけの焼き方も出来ますし。ただ、赤い色を出すのが難しいのです。佐平も、土作りに、たいそう苦労していました。



八田の釉を掛けたぐい飲み

2013-02-23 22:15:52 | 八田焼
 八田では、たくさんの釉はありませんでした。ほとんどが、絵付けの上に、ただの透明釉を掛けた物でした。最近は、銅釉を口に掛けた物が流行で、定番のようになっていました。

 
 14代 佐平の作った湯飲みです。八田焼特有の花柄に透明釉を掛け、口に銅釉を施して有ります。この花柄ですが、聞いても、何の花なのか教えて貰えませんでした。おそらくは、描いている本人も、何か分からないのでしょうけど。朝顔にも似ているし・・・・・。

 それで、この釉に変化を与えて、ぐい飲みを作ってみました。


 上野焼も、ちょっとやったことがあるので、一つは上野焼風に、そして、もう一つは、素地に鉄分の多い土を使い、八田焼風にしてみました。どちらにしても、佐平窯で焼いたので、八田焼ではあります。

八田焼 利兵衛窯始動?

2013-02-19 21:29:32 | 八田焼
 八田焼最後の窯元、14代 佐平が他界し、その後を継ぐ身内の者がおらず、廃窯になってしまいました。私は、その佐平から八田焼 利兵衛の名を貰い、窯印も八田伝統の物を引き継いでいました。その後、叶匠寿庵から丹後に引っ越し、こちらで、八田焼、楽焼などの焼成をしていました。数年前、病気で倒れ、しばらく休んでいましたが、回復の目処が立ってきましたので、再び八田焼をやってみたくなりました。と言うものの、今年で65才、甲賀で八田焼を再興したとしても、ほんの数年で終わりです。私の後を継ぐ者が居ればと思っていたところ、その目途も立ってきましたので、私の人生最後の八田焼再興の機会として、始めることにしました。この結果は、追々書いていくことにします。

 
 利兵衛の窯印

 八田焼、佐兵衛窯では、今から17年ほど前に、作業場を建てました。その基礎工事の折、地下1m程のところから、陶器や匣の欠片が出てきました。それは、今の素朴な八田焼とは、まるで違い、青磁や清水焼のような精緻で高級な焼き物でした。
 八田焼の始まりは、京都から、陶師を呼んで始めたとされており、それが、この焼き物ではないかと、私は考えたのでした。
 その中に、今まで見たこともない窯印の陶片が出てきました。私は、それを見て、大きなショックを受けました。そんな昔に、こんな、センスの良い窯印があるなんてと。
 そして、その窯印を、「違桝(ちがいます)」と名付けました。
 佐兵衛窯には、たくさんの桟板がありました。この桟板は、廃業した窯元から集めた物で、様々な窯印が刻印されていました。この桟板を調べると、確かに、「違桝」の焼印が押してあるものがありました。ところが、佐平は、この窯印は八田には無いと言うのです。
 そこで、佐平から使用許可を貰い、私が頂くことにしたのです。それ以来、私は、この窯印を使っています。もちろん、多少修正してありますけど。

 八田焼の伝統の火が再び、灯ることを願って。