「に」について

2022-10-19 | 日本語
「に」の意義について学研国語大辞典は次のように簡潔な注釈をしている。

《動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。》
要所に着目した優れた表現と思うが、
「イメージで教える日本語の格助詞」 
https://www.lang.nagoya-u.ac.jp/proj/sosho/1/sugimura.pdf
の内容は、その理解を深めるために有意義なサイトだ。
筆者の杉村泰氏は、

《全て〈着点〉という一つのプロトタイプ的意味に還元することができる》

と述べている。

《「収斂性、到達性、密着性、近接性」の制約がある》

という説も紹介し、また、

《「に」によってマークされる対象は話し手に よって「点」として認知されたもの》

と述べる。
「から」「へ」「まで」「で」「と」などの格助詞と比較しつつ論じているのもわかりやすい。
本記事では、学国語釈と杉村論文を解説しつつ新たな視点も加えることで格助詞「に」理解の一助とならんことを目指す。 
まず、以下を提示する。

「に」について
構文:「 A に B 」
本質的意義: 静止点(着点)を表わす。
ーB の動作・状態などについて、その時間的・空間的・心理上などの静止点を A と指定する。ー

導入としてとりあえず、

「空に星がまたたく」

という文について言うと、この「に」は、またたくという動作の空間的静止点(着点)を空だと指定している。
ということだ。
《またたくという動作の空間的静止点(着点)を空だと指定している》と言われて戸惑う向きも多いかもしれない。
以下、他の格助詞と比較することによってその意味をつまびらかにしていくが、極めて重要な点について最初に注意を促しておきたいのは、
《「星」の空間的静止点(着点)を空だと指定している》のではない!
ということ。あくまで、

《「またたく」という動作の空間的静止点(着点)を空だと指定している

のである。

1.「に」と「で」の違い

「で」について
構文:「 A で B 」
本質的意義:動作などが行われる領域(環境)や背景を示す。
意味: A において B だ。

ア. (場所という類似要素)
[ 1-アーa. 空で星がまたたく ]

「空で」は、またたくという動作の行われる領域が空だと示している。
この場合の《領域》という表現には広範囲な場所という含意がある。
空という広範囲な領域の中で、星が「またたく」という動作を実際に行っているイメージ。
空は「またたく」という動作の積極的活動領域と認識されており、「またたく」はそれが現に実行されているところの動的動作として捉えられている。
「またたく」という動作は空という領域を得て活発に活動しているのである。

[ 1-アーb. 空に星がまたたく ]

「に」も同じように場所を表わすことができるが、「で」とは場所の意味するところが異なる。
「に」の場合、上で述べたように、星がまたたくという動作の空間的静止点(着点)を空だと示している。
「またたく」という動作の行われている場所が空であること 【だけ 】 を伝えたい構文。単に「空という活動地点」を知らしめるだけで「に」の役目は終了しているのである。
星にとって空は(一定の範囲を持つ広範囲な)領域でもなく積極的活動の場でもない。
「またたく」は静的動作として捉えられている。

[ 1-アーc. 海で飛び込むのが好きだ ]

飛び込むという動作が、海という広大な領域において行われるイメージ。飛び込むという動作が生き生きと立ち上がってくるだろう。
「飛び込む」という動作は海という領域を得て活発に活動しているのである。
「飛び込む」は動的動作として認識されている。

[ 1-アーd. 海に飛び込むのが好きだ ]

飛び込むという動作の空間的静止点(着点)を海だと示している。
「飛び込む」という動作の行われている場所が海であること 【だけ 】 を伝えたい構文。単に「海という活動地点」を知らしめるだけで「に」の役目は終了しているのである。
「飛び込む」という動作にとって海は(一定の範囲を持つ広範囲な)領域でもなく積極的活動の場でもない。
「飛び込む先が海であることだけ」を知らしめるだけの静的動作として捉えられている。

イ. (原因という類似要素)
[ 1-イーa. 恐ろしさでふるえる ]

「恐ろしさ」は、「ふるえる」という動作の積極的活動の背景と認識されており、「ふるえる」はそれが現に実行されているところの動的動作として捉えられている。
「ふるえる」という動作は「恐ろしさ」という背景を得て活発に活動しているのである。
そうした背景があるからこそ「ふるえる」のであり、それが「原因」を意味する用法となっている。

[ 1-イーb. 恐ろしさにふるえる ]

「に」も同じように原因を表わすことができるが、「で」とは意味するところが若干異なる。
「ふるえる」という動作の行われた心理的静止点(着点)が「恐ろしさ」であること 【だけ 】 を伝えたい構文。
単に「恐ろしさという心理的静止点」を知らしめるだけで「に」の役目は終了している。
「ふるえる」という動作にとって「恐ろしさ」は(一定の範囲を持つ広範囲な)背景ではないため、その動作が活発に積極的に行われているのでもない。
「ふるえる」は静的動作として捉えられている。

2.「に」と「へ」の違い
(方向性という類似要素)

「へ」について
構文:「 A へ B 」
本質的意義:動作・作用の向けられる方向・対象を示す。
意味:A へ向かって B する。

[ 2-ア. 明日、家へ帰る ]
家へ向かって帰る。
家は帰るという動作の向かう方向を示している。

[ 2-イ. 明日、家に帰る ]
家という空間的地点に帰る。
家は方向ではなく、帰るという動作の静止する空間的地点を示している。
帰るためには家に向かうという方向性が必要なのであるが、「に」は、その方向性には関与していない。
「に」の役目は、あくまで帰るという動作の行きつく先 [ =静止点 (着点) ] だけを示すことである。

3.「に」と「と」の違い
(変化の結果という類似要素)

「と」について
構文:「 A と B 」
本質的意義:合一性の対象を表わす。
意味:A とともに B する。

[ 3-ア. 明日、先生と会う ]
会うという動作が先生と合一する(一体となる)形で行われる。
私と先生の双方が歩み寄って会うという状況を作り出すイメージ。
「会う」という動作が積極的に動的動作として認識されている。

[ 3-イ. 明日、先生に会う ]
先生は合一性の対象ではなく、会うという動作の静止する空間的地点を示している。
「会う」のは私であり、先生側からの積極的関与は薄い。
「に」は、あくまで会うという私の動作の対象が先生という [ 静止点 (着点) ] であることだけを示している。
「会う先= 静止点 (着点)」を示すことが目的であるから、会うという動作そのものはクローズアップされない。
「会う」はあくまで静的動作としてより認識されていないのである。

[ 3-ウ. 彼女もいよいよ社会人となる ]
彼女が社会人(いう立場)と合一する(一体となる:吸収される)というイメージ。

[ 3-エ. 彼女もいよいよ社会人になる ]
社会人は合一性の対象ではなく、「に」は「なる」という動作の静止する社会的地点を示している。
「なる」のはあくまで彼女であり、その動作の行きつく先(静止先)として社会人という地点が示されているだけだ。
「なる」先を示すのが「に」の本義であり、「なる」という動作自体は着目されていない。あくまで静的動作としてより捉えられていない。

4.「に」と「まで」の違い
(限度・到達点という類似要素)

「まで」について
構文:「 A まで B 」
本質的意義:限界点・到達点を表わす。
意味:B する到達点が A 。

[ 4-ア. 一緒に駅まで行きましょう ]
駅は経路を通過した結果としての到達点を示している。
そこまで一緒に行く道程が意識されている表現。
「行く」は駅までの動的動作として認識される。

[ 4-イ. 一緒に駅に行きましょう ]
駅は「行く」という動作の静止点を表わしている。
駅までの動的な道程は意識されていない。
駅という静止点を示すことが文の本意であり、「行く」という動作自体は静的動作としてより認識されていない。

5.「に」と「から」の違い
(起点という類似要素)

「から」について
構文:「 A から B する
本質的意義:起点を表わす。
意味: A を起点として B という移動動作が行われる。

[ 5-ア. 先生から本をもらった ]
先生は、本が(私へと)移動した起点である。
「本をもらった」ことについて、先生という起点から私へと向かう方向性が意識されている。

[ 5-イ. 先生に本をもらった ]
先生が、移動した本の起点であるのは「から」と同じだが、「に」が示しているのは「移動した本の起点」ではないという点が重要だ。
先生はあくまで「もらった」という動作の空間的静止点である。
ここで冒頭の、

《動作・作用が存在し、成立し、由来し、おもむくところ(=時間・空間・心理上ノ静止点)をそこと指定し、連用修飾句を作るのに用いる。》

という学国語釈を再度確認していただきたい。
「に」は【動作・作用の静止点】を指定するのである。
「もらった」という動作の行われている場所が先生であること 【だけ 】 を伝えたい構文。単に「先生という活動地点」を知らしめるだけで「に」の役目は終了している。
「もらった」という動作にとって先生は起点ではなく、「(わたしが)もらった」という動作が発生することになった空間的静止点なのである。
「もらった」は静的動作として捉えられている。

<着点>という意義については、この授受表現がひとつのネックになるかもしれないのでもう少し述べてみたいと思う。

[ 5-ウ. 先生にチョコレートをあげた ]

という文について考えてみよう。
たしかに、先生は、移動したチョコレートの着点である。
しかし、ここで着目しなければならないのは、「に」が示しているのは「チョコレートの着点」ではないという点だ。
先生はあくまで「あげた」という【動作の着点】、すなわち「あげた」という【動作の(空間的)静止点】なのである。
「先生(に)」が「あげた」の場合は着点(到達点)だが、「もらった」の場合に限っては起点であるなどという論理は筋が通らない、ということに気づかなくてはならない。
そのような解釈が通用するのであれば、それは《本質的意義》とは言えない。
【動作の静止点】という説明はわかりづらいかもしれないが、

[ 5-イ. 先生に本をもらった ]
[ 5-ウ. 先生にチョコレートをあげた ]

といった例文において、「もらった」「あげた」という動作が、先生という着点(静止点)を得た時点ですでにその動作性は失われているというニュアンスだ。
動作性が失われる替わりに、着点(静止点)としての「先生」が大きくクローズアップされるのである。
本やチョコレートがどのように移動したのかという方向性は、あくまで二義的な問題として捉えられている。つまり「に」の本質的意義ではないのだ。

[ 5-ア. 先生から本をもらった ]

という例文が持つ明確な方向性と比較してもらえばわかりやすいかもしれない。
また、

[ 2-ア. 明日、家へ帰る ]
家へ向かって帰る。
家は帰るという動作の向かう方向を示している。

[ 2-イ. 明日、家に帰る ]
家という空間的地点に帰る。

という比較例も思い出していただくとよいだろう。
若干くどめに述べてきたが、杉村氏は次のようにも記している。

※※※
(8) 
a. 私は友達に本をあげる。(受益者)  [本:私→友達]  
b. 私は友達に本をもらう。(授与者)  [本:私←友達]
(9)  私は友達から本をもらう。(授与者) [本:私←友達] 
たしかに、(8b)の「友達」は本の移動の起点には違いない。しかし、それを「友達から」ではなく「友達に」と表現したのは、話し手がそれを〈起点〉ではな く別のものとして認知したからにほかならない。堀川(1988)はこうした「に」 について、「相手としての意味役割を持ち、主語が、相手に対して何らかの働 きかけをすることが意味される。ここでいう働きかけとは、相手の好意を求め る気持ち、相手の意志を動かそうとする気持ちが相手に向かって働くことであ る」と説明している。本稿でもこの「に」は密着の〈着点〉を表すと考える。
※※※
《密着の〈着点〉》という表現が面白い。
個人的にはさほど気も乗らないが、腑に落ちやすい向きはこの解釈を採用するのもよいと思う。

6.最後に(場所という類似要素)について有名な比較文を挙げておく。
それぞれの違いはお分かりになるだろう。

[ 6-ア. 米洗う前に蛍が一つ、二つ ] いる。
[ 6-イ. 米洗う前を蛍が一つ、二つ ] 飛んでいった。
[ 6-ウ. 米洗う前へ蛍が一つ、二つ ] 飛んできた。
[ 6-エ. 米洗う前で蛍が一つ、二つ ] 飛んでいる。
 
「を」について
構文:「 A を B 」
本質的意義:動作の対象を表わす。場所の場合は通過点を表わす。