駒澤大学「情報言語学研究室」

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十三拍の和語―「うるしぬりのやきしるのつほ【炙函】」―

2023-02-26 07:48:46 | ことばの溜池(古語)

十三拍の和語 ―「うるしぬりのやきしるのつほ【炙函】」―

日本語の名詞として長いことばは幾つかの挙例が知られている。通常は長いことばでも八拍くらいで示すのだが、茲に紹介することばは「十三拍」という長さにもかかわらず、厨膳具の一つとして用いられてきたようだ。

 平安時代を代表する古辞書する源順編『和名類聚抄』に、下記のように「和名」を真名体漢字表記「宇流之奴利乃夜岐之留乃都奉【炙函】」とする。此を承けて鎌倉時代の観智院本『類聚名義抄』には、カタ仮名表記で「ウルシヌリノヤキシルノツホ【漆炙函】」と記載する。

 【翻刻】
   廿卷本『倭名類聚抄』巻十四調度具中厨膳具第百八十二
    炙函  東宮旧事漆炙函[今案和名宇流之奴利乃夜岐之留乃都奉
   十巻本『和名類聚抄』巻六調度具中厨膳具
    炙函  東宮舊事𣾰炙函[今案  宇𣴑之奴利乃夜歧之留乃都奉
    ※語注記「和名」の有無。
    
  【訓読】
炙函 『東宮旧事』に、「漆炙函」[今案ふるに「宇流之奴利乃夜岐之留乃都奉(うるしぬりのやきしるのつぼ)」]と云ふ。
    
  【影印】
  天正三年書写『倭名類聚抄』〔大東急記念文庫蔵〕

    炙凾  東宮舊事漆――(炙凾)[今案和名宇流之奴利乃夜歧之留乃都奉
    
  伊勢廣本『倭名類聚抄』東京都立中央図書館河田文庫蔵
 炙凾  東宮舊事漆――(炙凾)[今案和名宇流之奴利乃夜歧之留乃都奉上上上上上上上上上平○○]]
    ※語注記、真字体漢字「宇流之奴利乃夜歧之留乃都奉[上上上上上上上上上平○○]」と差声点がある。
    
  昌平本『和名類聚抄』〔東京国立博物館蔵〕巻六
       (ウルシヌリノヤキシルノツホ) 東宮舊事𣾰――(炙函)[今案和名宇𣴑之奴利乃夜歧之留乃都奉
    ※標記語「炙(函)」の「函」字を欠く。
    
  京本『和名類聚抄』〔国会図書館蔵〕
 炙函   (ウルシヌリノヤキシルノツホ) 東宮舊事云𣾰――(炙函)[今案宇流之奴利乃夜歧之留乃都奉上上上上上上上上上平平上上
    ※注記語「和名」二字なし。差声点あり。
    
  狩谷棭齋『倭名類聚鈔補訂』巻六注膳具九十
    炙凾  東宮舊事𣾰炙凾[今案宇𣴑之奴利乃夜歧之留乃都奉
    
  慶安元年板『倭名類聚抄』〔棭齋書込宮内庁書陵部蔵〕欠冊
    <慶安元版>国会亀田,内閣,宮書,慶大斯道,神戸大,東大史料,鳳鳴青山,神宮,多和,天理吉田,無窮神習,村野
    
  狩谷棭齋『倭名類聚鈔箋注』〔明治十六年刊森立之〕
 炙函 東宮舊事云、𣾰炙函、[今案宇流之奴利乃夜歧之留乃都奉、○太平御覧引云漆栢炙大函一具、此係節文、」昌平本有和名二字

【古辞書】
  観智院本『類聚名義抄』〔僧下七十一8~七十二1〕

    漆炙函  和名/ウルシヌリノヤキシルノツホ上上上上上上上上上平平上上

    ※標記語「漆炙函」と三熟字で収載し、『和名抄』の二字標記語「炙函」を正式の表記するものとなっていて、『和名抄』の語注記には「𣾰炙函」としていて見えていることもあって、慣用として冠頭字の「漆」字を省き当時用いられていたことを示唆するものとみておくこともできよう。

 今此語があまりにも目立たない語となっていたその事由のひとつには、『名義抄』が頁を跨ぐ記載になっていることも一端にあるやもしれないが、伊勢廣本と京本『和名抄』の和訓差声点とも共通することも茲でおさえておく必要があろう。

《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版には標記語「炙函」=「𣾰炙凾」も和語「うるしぬりのやきしるのつぼ」と云った十三拍にも及ぶ最も長い此の語例は未収載とする。
 或る意味で、「うるしぬりのやきしるのつぼ」が「漆塗りの灼き汁の壷」と云う意味の語を載せたことについて極めて反応が薄い語となっていたこと、更には、廚膳具の「𣾰炙函」→「炙函」→「炙」そのものが変容していたこともその一端に潜んでいたかもしれない。


かすみ【霞】

2023-02-22 13:40:12 | ことばの溜池(古語)

かすみ【霞】

小学館『日本国語大辞典』第二版に、

かすみ【霞】【一】〔名〕(動詞「かすむ(霞)」の連用形の名詞化)(1)空気中に広がった微細な水滴やちりが原因で、空や遠景がぼんやりする現象。また、霧や煙がある高さにただよって、薄い帯のように見える現象。比喩的に、心の悩み、わだかまりなどをいうこともある。《季・春》*万葉集〔八C後〕二〇・四四三四「ひばり上る春へとさやになりぬれば都も見えず可須美(カスミ)たなびく〈大伴家持〉」*新訳華厳経音義私記〔七九四(延暦一三)〕「晨霞 音計以反 可須美」*源氏物語〔一〇〇一(長保三)~一四頃〕須磨「来(こ)し方の山はかすみはるかにて、まことに三千里のほかの心地するに」*寛永刊本江湖集鈔〔一六三三(寛永一〇)〕四「でも烟でも卒度した物のが掩へば見へぬぞ」*俳諧・曠野〔一六八九(元禄二)〕二・初春「行(ゆき)々て程のかはらぬ霞哉〈塵交〉」*唱歌・霞か雲か〔一八八三(明治一六)〕〈加部厳夫〉「かすみか雲か、はた雪か、とばかり 匂う、その花ざかり」(2)朝または夕方、雲や霧に日光があたって赤く見える現象。朝焼け。夕焼け。*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一「霞 唐韻云霞〈胡加反 和名 加須美〉赤気雲也」和訓栞〔一七七七(安永六)~一八六二(文久二)〕「かすみ。霞をよめり。赤染(あかそめ)の義也。〈略〉全淅兵制に霞をやけと訳せしも亦此義也。俗に朝やけ夕やけなどいへり」(3)酒(さけ)の異称。*蔭凉軒日録‐延徳三年〔一四九一(延徳三)〕六月二七日「集諸徒瓜。顕等喫雲飲又喫瓜」*俳諧・犬子集〔一六三三(寛永一〇)〕一・元日「年徳へ四方の霞や引出物〈良徳〉」*仮名草子・ねごと草〔一六六二(寛文二)〕上「あはれかすみを汲まんさかづきもがな」*俳諧・西鶴大句数〔一六七七(延宝五)〕五「を入るる徳利一対 今からも只暮(くら)そより山桜」*随筆・筠庭雑録〔一八三二(天保三)頃〕増補「むかし酒をといふこと、俳諧などに常の事也。〈略〉かすみとは明らかならぬ也。水の濁りて底徹せざるを、今もかすむといへり。濁酒にいふも是なり」(4)酒または酢などを温める時に出る湯気。*日葡辞書〔一六〇三(慶長八)~〇四〕「サケノ casumiga(カスミガ)タツ」(5)(「翳」とも書く)視力が衰えてはっきり見えないこと。*俳諧・犬俤集〔一六一五~二二頃〕「年よりの眼よりたつ霞かな〈為春〉」(6)衣類などが、日に焼けて変色すること。*油地獄〔一八九一(明治二四)〕〈斎藤緑雨〉六「黒の太利(ふとり)とかいふ袢纏の、袖口の毛繻子に褐色(ちゃ)の霞(カスミ)が来て居るのを、商売柄外見(みえ)無しに引被(ひっか)け」(7)大和絵で時間的経過、場面の転換、空間の奥行きなどを示すために描かれる雲形の色面。多くは絵巻物に用いられた。(8)「かすみあみ(霞網)(1)」の略。*物類称呼〔一七七五(安永四)〕四「てんのあみ 小鳥を捕あみ也。関西四国にて、てんのあみと云。京にては、かすみといふ」(9)喫煙することをいう盗人仲間の隠語。〔隠語構成様式并其語集{一九三五(昭和一〇)}〕【二】「かすみがせき(霞が関)」の略。*雑俳・柳多留-一三〔一七七八(安永七)〕「小百万石もかすみの中に見え」*雑俳・柳筥〔一七八三(天明三)~八六〕一「霞からのぞけば下につなぎ馬」【語誌】古く「かすみ」と「きり」が同様の現象を表わし、季節にも関係なく用いられたことは、『万葉集』巻二・八八の「秋の田の穂の上(へ)に霧相(きらふ)朝霞」などの例で知られるが、『万葉集』でも、「かすみ」は春、「きり」は秋のものとする傾向が見えており、『古今集』以後は、はっきり使い分けるようになっている。現在の気象学では、視程が一キロ以下のときは「霧」としている。また、「かすみ」を術語としては用いず、「もや」「煙霧」という。【方言】鳥を捕獲する時に張る網の一種。かすみ網。《かすみ》栃木県安蘇郡208広島県771山口県豊浦郡798【語源説】(1)「カスカ」に見える義から〔和句解・日本釈名・滑稽雑談所引和訓義解〕。(2)「カス」は明瞭でない意を表わす語根〔箋注和名抄〕。(3)「カ」は「カ(気)」から。気がたつこと〔国語溯原=大矢透〕。(4)「ケスミ(気進)」の転〔言元梯〕。(5)「ケウスミル(気薄見)」の義〔日本語原学=林甕臣〕。(6)「カ」は発声、「スミ」は染で、俗にいう朝やけ、夕やけのこと〔俚言集覧〕。(7)「カスミ(赤彩)」から〔東雅〕。 また、「アカソメ」・「アカソミ(赤染)」から〔名言通・和訓栞〕。(8)赤曇りの義から。「カ」は「アカ」の略、「ス」は「ク」に通い、「ミ」は「モリ」の反〔冠辞考〕。「スミ」はくもるの古語〔類聚名物考〕。(9)「カスミ(香染)」の義〔紫門和語類集〕。(10)峰にかかって山の稜線を染めることから「カカリ染メル」の義〔桑家漢語抄〕。【発音】〈標ア〉[0]〈ア史〉平安来●●●〈京ア〉[0]【上代特殊仮名遣い】カス(※青色は甲類に属し、赤色は乙類に属する。)【辞書】和名・色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【霞】和名・色葉・名義・和玉・文明・明応・天正・饅頭・黒本・易林・書言・ヘボン・言海【窔】名義

とあって、和語「かすみ」に漢字として【霞】字、字音「カ」を宛てる。

だが、漢籍詩文にみる「霞」字は「朝焼け」「夕焼け」の景をいう。訓読資料として『新訳華厳経音義私記〕〔七九四(延暦一三)年「晨霞 音計以反 可須美」』の語例を採録していて、標記語「晨霞」に、真名体漢字表記「可須美」を示す。

『万葉集』に「霞」字は、74語を載せ、単に「かすみ」とするのは、三例に過ぎない。あとは「あさがすみ」8語、「かすみかくれ」1語、「かすみたつ」15語「かすみたなびき」6語、「かすみたなびく」16語、「たつかすみ」2語、「たなびくかすみ」1語、「はるがすみ」16語、「はるがすみたつ」2語として見えている。此とは別に真字体漢字「可須美―」の九例をみる。歌として72語、詞書きに「烟霞」2語。万葉歌人は「霞」字をすべて「かすみ」の意として訓むことがうかがわれる。『古事記』には中巻に「壯夫(カスミヲトコ)」の語を見る。

茲で、「かすみたつ【霞立】」と「たつかすみ【立霞】」の相異に着目する。言わば「たはた【田畠】」と「はただ【畑田】」と逆位する語とも関わることになる。その「立霞」は二例と少ない。

巻十1912番と1913番の二首(訳=新潮日本古典集成で示す)

○この私の住む村里の山の上に立ちこめる霞ではないが、立つのも坐るのも、すべてあなたのお心のままです。

○遠く見わたすと、春日の野辺に霞が立ちこめているが、この眺めのように、いつもいつも見たくてならないあなたのお姿です。(春日の野辺に立ちこめている霞は、まことに見事、『万葉集釈注』)

とあって、「霞立つ」との差異を考えねばなるまい。その意味から1913の訳は如何なものかと疑問を生じる。

さて、室町時代の広本『節用集』加部の、

(カスミ)[ 國花合紀  交徒命〈カスミ〉異名。引素。/碧靄。九苑。正陽。仙佩。〔加部天地門二五四頁1〕

であり、この語注記からは本邦の和歌に見える春のかすみの光景にはどうも結びつかない。東麓破衲編『下學集』になぜ未収載なのかを鑑みるとき、大陸の「【霞】カ」=赤い氣の色と本邦の「かすみ【霞】」とのギャップを見ておくことにほかならない。万葉の歌にその原風景を見る思いである。

当該語 よみ
朝霞 あさがすみ
かすみ
霞隠 かすみかくれ
霞立 かすみたつ
霞蒙 かすみたなびき
霞被 かすみたなびき
霞多奈婢伎 かすみたなびき
霞多奈妣伎 かすみたなびき
霞多奈毘伎 かすみたなびき
霞多奈妣伎 かすみたなびき
霞多奈引 かすみたなびく
霞田名引 かすみたなびく
霞多奈婢久 かすみたなびく
霞棚引 かすみたなびく
霞霏霺 かすみたなびく
霞多奈引 かすみたなびく
霞田菜引 かすみたなびく
霞軽引 かすみたなびく
霞棚引 かすみたなびく
霞多奈妣久 かすみたなびく
霞多奈婢久 かすみたなびく
立霞 たつかすみ
多奈引霞 たなびくかすみ
春霞 はるがすみ
春霞立 はるがすみたつ

 


「かたま」→「かたみ」【筐】

2023-02-06 11:40:30 | ことばの溜池(古語)

「かたま」→「かたみ」【筐】

大槻文彦編『言海』〔一八八九(明治二二)年刊~一八九一(明治二四)年刊〕所蔵本は、無刊記本(大型一冊)と明治四四年版本(中型一冊)、他に(小型)など。

かたま【堅間】〔名〕〔編ミテ目ノ密ナル意〕籠(かご)。笊(ざる)。〔架蔵一九五頁二段〕
かたみ【筐】〔名〕〔古名、堅間(かたま)ノ轉〕カタマ。籠(かご)。「花ー(筐)」〔架蔵一九五頁二段〕

「かたま」から「かたみ」という、今の「かご」「ざる」の古名だが、此方も

かご【籠】〔名〕〔圍籠(かきこ)ノ略カ〕竹ヲ削リテ編ミ造レル種種ノ器ノ總名。〔架蔵一九五頁二段〕
ざる【笊】〔名〕〔笊籬(サウリ)ノ音轉ナラムト云、和名抄笊籬(ムキスクヒ)トアリ、うんどんノあげざるナリ、下學集ニ、笊籬(イカキ)、味噌漉ト注セリ〕竹ヲ削リテ編メル圓ク開キタル器ノ稱。カタミイカキ。〔架蔵四二六頁一段〕

と収載する。

 茲には、『和名抄』『色葉字類抄』観智院本『類聚名義抄』に見える「笭箐(レイセイ)」の漢語記載は見えていない。此を同時代の、

高橋五郎『漢英対照いろは辞典』〔一八八八(明治二一)年刊〕
れいせい【笭箵】〔名〕かご、あみたるかご(漁夫等が持つ) A basket or creel. 〔四三九頁r〕
かだみ【筐】〔名〕かご、かご、籠、樊、笯、簍、籃、笭箵(魚籠) A box, a case; a basket.〔三一五頁r〕

とあって、「笭箵」と表記は異なるが見えていて、意味も「(漁夫等が持つ)あみたるかご」とし、標記語「かだみ【筐】」の最後熟字とし「魚籠」としてその記載をみる。

そして、現在の小学館『日本国語大辞典』第二版でも、見出し語「笭箐」、「笭箵」の語例は未収載とする。


あわゆき【沫雪】とあはゆき【淡雪】

2023-02-01 12:38:47 | ことばの溜池(古語)

  あわゆき【沫雪】と『和名抄』について

  狩谷棭齋『倭名類聚抄訂本』〔内閣文庫蔵〕
   陸詞曰雪[音切字亦作䨮和名由歧日夲紀私記沫雪阿和由岐其弱如水/沫故謂沫雪也]冬雨也五経通義云陽則散為雨水/寒則凝為霜雪皆従地而昇者也
 
  ※廿巻本古写本、天正三年菅為名書写本及び伊勢廣本(東京都立中央図書館河田文庫蔵・神宮文庫蔵)共に、標記語「沫雪」の語は未収載としていることから、廿巻本の組み入れは、後世の那波道圓本(温故堂本系統)に依拠することになる経過記載と見てよかろう。此れに対し、十巻本は、此語を標記語「雪」の語注記に汲み入れていることから、源順自身、乃至別人による程遠くない時期に追加した改增編なのか、逆に、編者自身による語句削除とみるのかと考察していくとき、その形跡すら廿巻本からは得られないことに充分考慮しておきたい。推断を重ねていくことにもなるが、「あわゆき」の語は、『日国』第二当該語の初出例として、『万葉集』卷第八・一四二〇に見えている。
 沫雪香 薄太礼尓零登 見左右二 流倍散波 何物之花其毛
あわゆきか はだれにふると みるまでに ながらへちるは なにのはなそも
                  (図表は、校本データベースを参照)
  茲で、「沫雪」のかな表記は、「あわゆき」であって、「あはゆき」とする写本類は『堀川百首』〔一一〇五(長治二)年〕の以降の書写本となる。
 其上で、平安末以降になる『色葉字類抄』や観智院本『名義抄』に、「沫雪」の語が孰れも語注記のない語として収載をみるので、全く編集から外れていた語とは云えないことも考慮しておきたい。このように考えたとき、「ゆき【雪】」を細分する他熟語「粉雪(こなゆき)」「霙雪」「斑雪」などとの聯関性を見定める必要も当然考えておかねばなるまい。孰れにせよ後考とすることにしたい。

※棭齋は、「沫雪」の仮名表記「阿和由歧」について、注記のなかで「阿波」の仮名は誤りとして説く。「沫は阿和と訓む、淡は阿波と訓む、其の訓み相ひ近きを以て、後人、會せ「阿和由歧」と誤り、淡雪に爲る、遂に、春の雪より〈於〉消え易き者に名づく、其の實は古へ淡雪の〈之〉名は無きに有るなり〈也〉」と「沫(あわ)雪(ゆき)」と「淡雪(あはゆき)」との接合に由来することを説く。
  
 三巻本『色葉字類抄』〔一一八〇(治承四)年、前田本〕
  沫雪 アハユキ〔下卷阿部天象門二四ウ(二九四頁)1〕
  
 観智院本『類聚名義抄』
  沫雪 アハユキ〔法下六九/雨部六十八、三九オ7〕

  ※標記語「沫雪」で、『和名抄』の標記語を継承し、語注記は未記載とする。但し、カタ仮名で「アワユキ」とせず、「アハユキ」と記載していることから『日国』第二版の語誌の「分岐点は『堀河百首』〔一一〇五(長治二)年〕のころで、「沫雪」から「淡雪」への語義内容を膨らませながら季も変化を遂げたらしい。」混用が始まっていたことを検証できる。

  慶安元年板『倭名類聚抄』〔棭齋書込宮内庁書陵部蔵〕
  (ユキ)  個文ニ云雪ハ冬雨也(ナリ)五經通義云陽(アタヽカ)ナル則(寸)ハ散(ー)シテ爲雨-水ト一寒ナル則(寸)ハ凝(コツテ)爲(ナル)雪-霜ト皆從シテ而昇(ノホル)者( ノ)也(ナリ)又作(ツクル)䨮(せツ)ニ音切[和名由木]
  沫雪(アハユキ)  日-本-紀ニ云沫(マツ)-雪[阿和由岐]其ノ弱キヿ如シ水ノ沫(アハ)ノ

  【『倭名類聚鈔箋注』の「雪」翻刻】〔曙出版上冊三〇頁〕
 
【囲い箇所の訓読】
『日夲紀私記』云、「沫雪」は「阿和由岐」、其れ弱く水の沫の如く、故に、沫雪と云ふなり〈也〉。
○『玉篇』に、「䨮」と「雪」同じ上(は正字なり)。」
新井氏、君美して曰く、由は之れ言に爲り齋なり〈也〉。
雪の〈之〉狀(かたち)に爲り、潔清皎然たるを謂ふなり〈也〉。」
沫雪は『神代紀』の上(つ卷)に見える。
按ふるに、『釋日本紀』は『私記』を引いて曰く、問ふに沫雪を謂ひ、其の意は如何、答へて師説に「沫雪」、是れ雪の〈之〉〓〔月+色〕く弱き者なり〈也〉。
其れ弱く「水沫」の如し。
故に、「沫雪」を云ひ、此れ引く所即ち是れなり。」
曲直瀬本・下總本は、「阿和」を「阿波」に誤る。
新井氏の曰く、雪の〈之〉狀(かたち)に爲り、水に「泡沫」を起こすに似たり。
故に、或は之れ「沫雪」と謂ひ、別に一種に「沫雪」の名とする者有るに非ず。
『萬葉集』に、「沫雪の賦」の歌多く、皆、〓〔月+色〕弱の雪には非ず。
『私記』に「泡沫」を以って、雪の〓〔月+色〕弱なる者と爲し誤るなり〈也〉。
是の説、從ふべく〈可〉、又、「沫」を「阿和」と訓み、「淡」を「阿波」と訓み、其の訓み相ひ近く以って、後人、會はせ「阿和由歧」を誤り「淡雪」と爲る。
遂に、「春雪」は消え易き者により〈於〉名づけ、其の實は古へ淡雪の〈之〉名有りや無きやなり〈也〉。」
尾張本は、『日本紀』以下の十八字を脱す。
伊勢廣本は同じく、那波本は、『日本紀』以下を分ち、別に「沫雪」の一條を立する。
蓋し、那波氏に據る所の(温故堂本系統の)本は、亦、『日本紀』以下の字無し。
別本に依り之れを増し、遂に別條と爲(つく)るなり〈也〉。]

  ※棭齋は、「雪」の語のなかで、此の「あわゆき【沫雪】」の語例について注記説明を大幅に使っていることに氣付く。江戸時代の流布本版本、廿卷本の掲載は、「雪」と別仕立てにして「沫雪」の語をなすように那波道圓が編纂したこと、此れは同じ廿巻本でも古写本廿巻本とは一線を画して置くことを後世の読み手となる吾人達に、注意深く読むことを求めていることになる。
  とは言え、流布本刷り本は、棭齋の説明「別本に依り、之れを増し、遂に別條と爲(つく)るなり〈也〉」であって、此れを検証することなく、読み進めていてはその編纂作業の過程や書写内容を知ることにはならないことを意味している。そこには、「沫雪」と「淡雪」の「わ」と「は」の語音が近いことにも多大な影響となって後世に受け継がれていることを理会しておかねばなるまい。

《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
あわ-ゆき【泡雪・沫雪】〔名〕(1)泡のように溶けやすいやわらかな雪。→泡雪の。*万葉集〔八C後〕八・一四二〇「沫雪(あわゆき)かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花そも〈駿河采女〉十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一「雪 陸詞曰雪〈音切 和名由岐 日本紀私記云沫雪也 阿和由岐 其弱如水沫故云沫雪也〉冬雨也」*源氏物語〔一〇〇一(長保三)~一四頃〕行幸「堅きいはほもあはゆきになし給うつべき御気色なれば」(2)梨の品種の一つ。みずみずしく、雪をかむのに似るところからいう。*雑俳・柳多留-一二三〔一八三三(天保四)〕「淡雪を不二形(なり)に積む水くゎしや」(3)「あわゆきどうふ(泡雪豆腐)」の略。また、その料理を出す店。*談義本・教訓続下手談義〔一七五三(宝暦三)〕一・八王子の臍翁手代への説法「両国の無縁寺へ這入角に淡雪(アハユキ)の見世がある」*談義本・根無草〔一七六三(宝暦一三)~六九〕前・四「沫雪(アワユキ)の塩からく、幾世餠の甘たるく」*雑俳・柳多留-八五〔一八二五(文政八)〕「泡雪できへも入たい人に逢」(4)「あわゆきかん(泡雪羹)」「あわゆきそば(泡雪蕎麦)」などの略。*改正増補和英語林集成〔一八八六(明治一九)〕「Awayuki アワユキ〈訳〉菓子の一種。米粉でつくる」*風俗画報-九七号〔一八九五(明治二八)〕漫録「あわ雪と申吸物は先だし水すましげにして玉子の白みを茶わんへ入茶せんにて茶をにる様にあわをたて」【語誌】(1)『万葉集』では、巻八と巻十に集中し、表記は「沫雪」。「はだれに降る」「ほどろほどろに降りしけば」などから降ったばかりで積もったり固まったりしない新しい雪と思われる。それが消えやすく柔らかいところから泡に見立てられたか。(2)その後、しだいに単に雪をいう歌語のようになり、平安時代以降は「淡雪(あはゆき)」と表記も語義も混用混同されるようになった。→あわゆき(淡雪)。(3)『万葉集』から『後拾遺集』までは多く冬の景物であったのが、『源氏物語』若菜・上では女三宮が「はかなくて上の空にぞ消えぬべき風にただよふ春のあは雪」と、不安定な我身を今にも消えそうなはかない春の淡雪にたとえており、『新古今集』では春の景物に変わっている。その分岐点は『堀河百首』〔一一〇五(長治二)年〕のころで、「沫雪」から「淡雪」への語義内容を膨らませながら季も変化を遂げたらしい。(4)(1)の『源氏物語』行幸の例は、記紀を踏まえた表現なので「沫雪」と解したが、(2)以下の意には「泡」「淡」が混用されており、便宜的に本項にまとめた。【方言】(1)乾いた雪。《あわゆき》兵庫県美方郡012鳥取県八頭郡012(2)新雪。《あわゆき》富山県中新川郡012(3)植物、しょうま(升麻)。《あわゆき》防州†122【発音】〈標ア〉[ワ]〈京ア〉[ア]【辞書】和名・色葉・名義・易林・書言・言海【表記】【沫雪】和名・色葉・名義・易林・書言【泡雪】易林・言海