駒澤大学「情報言語学研究室」

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かみとけ・かみとき【霹靂】2017.02.09作成

2022-11-24 02:27:22 | 古辞書研究

『倭名類聚抄』から『倭名類聚抄箋註』へ

いかつち・なるかみ【雷公】語註記所載の【霹靂】「かみとけ」と「かみとき」の語例
萩原義雄識

二〇一七年二月九日に公開した吾人の発表資料を『和名類聚抄』から『名義抄』『色葉字類抄』へと和訓が継承していくなかで見出したことに聯関して、明日の古辞書コーパス研究会(池田証壽さんとそのケンキュウチームによる観智院本『類聚名義抄』DBエクセル版)を推進していくうえで改めて掘り返ってみた。

 はじめに
 字類抄系の古辞書における、標記語「霹靂」の和訓が「かみとけ」「かみとき」「かみとり」と一定訓でない所載状況にある、一種揺れのある語訓であることを提示しておきたい。何故、このような揺れの語形が表出しているのかを推察してみると、各々の語形で表現する場が当時存在していたということになろうか。
  この字類抄の原拠となっている古辞書は、源順撰の『和名類聚抄』であり、現存する十巻本、二十巻本という二種系統を含め、些か見定めておくと、

雷公 霹靂電附 〈略〉釋名云霹靂〈霹音辟靂音歴也 和名加美渡計〉霹坼也靂也所歴皆破坼也〔卷第一〕

雷公 兼名苑云雷公一名雷師雷音力典廻和―奈流加美一云以賀豆知釋名霹靂辟歴二音和―賀美度岐霹折也霹靂也所歴皆破折也玉篇電音甸和―以奈比加利一云以奈豆流比 〈略〉又云以奈豆末雷光也〔享和元年本卷第一〕

としている。標記語「霹靂」について、典拠名『釋名』を記載し、「辟歴二音和名」で「賀美度岐(かみとき)」と記載する。ここには、次の二十卷本に添えられている和名「加三於豆(かみおつ)」の語は見えず、語註記に関わる「霹折也。靂歴也。所歴皆破折也」としている。小学館『日国』第二版が用例として用いた十卷本と異なる点が和名「加美渡計」と賀美度岐(かみとき)」の和訓として見えている。(尾張本=真福寺本、宝生院本とも云う)享和本の有する此の表記例が或意味では特殊な要素を有していることに氣付かされるであろう。十卷本系統については、先学宮澤俊男さんの考究について見定めておくことが必定である。が今は、この作業を先に進めておくため、この部分については保留にしておきたい。
   
雷公 電等附 兼名苑云――一名雷師音力典反和名伊加豆知一云奈流加美電甸和反和名伊奈比加利一云伊奈豆流比一云霹靂辟靂二反俗云加三於豆一云加美止介霹折也霹靂也所歴皆破折也

としている。標記語「霹靂」の和名としては、「加三於豆(かみおつ)」と「加美止介(かみとけ)」の二語があり、語註記は、「霹折也。霹靂也・所歴皆破折也(ふるところみなやぶれをりなり)」と「折」と「破折」の箇所が次なる字類抄に継承されたところとなっている。茲で、俗云の「かみおつ」の訓は消去し、「かみとけ」の訓が継承されたことになる。この「カミトケ」が「カミトキ」と変容し、これが「カミトリ」とカタカナの「ケ」と「リ」を見誤って写し間違えられていく書写過程が見えてくるのである。字音訓みの「ヒヤクリヤク」も伝えられずして、

色葉字類抄
  二巻本
          霹靂(カミト)  上ハ折下破也

  三卷本
          霹靂  カミトケ/キ  上ハ折下ハ破也

世俗字類抄
  二卷本
          霹靂  カミト  上ハ折下ハ破也

  七卷本
        霹靂(カミト)ヒヤクリヤク     
  ※「かみとり」の和訓「リ」は「ケ」の字形相似による誤写と見ておく。

  ※左訓表記の字音「ヒヤクリヤク」は、他古辞書には未記載であり、唯一此の一例のみが見て取れるものである。(小学館『日国』第二版には未収載)

節用文字
         霹靂(カミト)  上折/下破也

伊呂波字類抄
  大東急記念文庫蔵
         霹靂  カミト
                      上ハ折下ハ破也

 大阪府立図書館蔵

    霹靂  カミトケ  上ハ折下ハ破也

とあって、『色葉字類抄』加部天地門に、標記語「霹靂」で、訓みを「カミツケ」「カミツキ」「カミトリ」と揺れながら書写していた。語註記は、「上は折れ、下は破すなり」と記載する。字音は現代語では「ヘキレキ」だが、七卷本『世俗字類抄』〔尊経閣文庫藏〕では、「ヒヤクリヤク」と記載する。だが、この訓みは現行の国語辞典には未収載となっていて、字音「ヘキレキ」が採択されているに過ぎず、その語解析もないものとなっている。
  
《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
かみ‐とけ【神解・霹靂】〔名〕(「雷(かみ)解け」の意)雷が落ちること。落雷。かんとき。かんとけ。かみとき。*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一「雷公 霹靂電附 〈略〉釈名云霹靂〈霹音辟靂音歴也 和名加美渡計〉霹坼也靂也所歴皆破坼也」【語源説】(1)神解の義〔箋注和名抄〕。(2)雷解の義〔大言海〕。(3)トキは疾の意〔東雅〕。(4)カムツキ(神着)の転呼。雷が地につく意〔日本古語大辞典=松岡静雄〕。【辞書】和名・色葉・言海【表記】【霹靂】和名・色葉・言海
かみ‐とき【神解・霹靂】〔名〕「かみとけ(神解)」に同じ。*日本霊異記〔八一〇(弘仁元)〜八二四(天長元)〕上・五「霹靂(カミトキ)に当りし楠(くすのき)有り〈国会図書館本訓釈 霹靂 二合可美止支乃〉」*観智院本類聚名義抄〔一二四一(仁治二)〕「霹靂 カミオツ 一云カミトキ【辞書】色葉・名義・言海【表記】【霹靂】色葉・名義
かむ‐とけ【神解】〔名〕→かんとけ(神解)
かむ‐とき 【神解】〔名〕→かんとき(神解)
かん‐とけ【神解】〔名〕(「かむとけ」と表記)「かみとけ(神解)」に同じ。*日本書紀〔七二〇(養老四)〕天智八年八月(北野本訓)「是の秋、藤原内大臣の家に霹礰(カムトケ)せり」*万葉集〔八C後〕一三・三二二三「霹靂(かむとけ)の 日香空の 九月の 時雨の降れば 雁がねも いまだ来鳴かぬ〈作者未詳〉」【語誌】(1)挙例の「万葉‐一三」の「霹靂」は、『万葉集童蒙抄』では「ナルカミ」と訓んでいるが、一般には「カムトケ」と訓まれている。(2)この語は、雷が落ちて木や岩が裂けることを意味する語であると考えられ、音の鳴る方に主眼をおいた「なるかみ(雷鳴)」とその意を異にする。(3)「霹靂」は字音語「ヘキレキ」として用いられていくが、「カムトケ」は中世以降の文献にはほとんど現われることがない。【辞書】言海【表記】【霹靂】言海
かん‐とき【神解】〔名〕(「かむとき」とも表記)「かみとけ(神解)」に同じ。*日本書紀〔七二〇(養老四)〕推古二六年八月(岩崎本訓)「好き材を得て将に伐(き)らむと将(す)。時に人有りて曰く、霹靂(カムトキ)の木なり、伐る可からず、といふ」*延喜式〔九二七(延長五)〕三・神祇・臨時祭「霹靂神祭〈略〉右荒魂。和魂各中分。並煮レ粥而祭。若新有二霹靂神一者。依レ件鎮祭。移二弃山野一」【語源説】(1)カミトケ(雷解)の転〔大言海〕。(2)トキはイカツチのツチと同語。カントキは疾雷の義〔東雅〕。【辞書】言海【表記】【霹靂】言海

へき‐れき【霹靂】〔名〕(1)かみなり。いかずち。雷鳴。なるかみ。*続日本紀‐天平二年〔七三〇(天平二)〕閏六月庚子「縁去月霹靂、勅新田部親王、率神祇官之」*譬喩尽〔一七八六(天明六)〕一「霹靂(ヘキレキ)とははたたがみなりなり〈大雷をいへり〉」*篁園全集〔一八四四(弘化元)〕一・五荘行「豈料東軍従天降、霹靂枯力不支」*黒潮〔一九〇二(明治三五)〜〇五〕〈徳富蘆花〉一・一四・四「迅雷耳を掩ふ間もなきクーデターは〈略〉失意の老翁の頭上に霹靂(ヘキレキ)の如く落ちかかったのである」*枚乗‐七発「冬則烈風漂霰飛雪之所激也、夏則雷霆霹靂之所感也」(2)(─する)雷が激しく鳴ること。稲光りがすること。また、雷が落ちること。*小右記‐長和元年〔一〇一二(長和元)〕六月二八日「一昨同宿、而今日彼家」*今昔物語集〔一一二〇(保安元)頃か〕三一・三七「霹靂する時にも不動ず、大風吹く時にも不揺ず」*師郷記‐永享一二年〔一四四〇(永享一二)〕一一月九日「及暁天大雨、霹靂以外事也」(3)(形動タリ)(─する)大きな音の響きわたること。また、そのさま。*太平記〔一四C後〕三九・自太元攻日本事「鉄炮〈略〉霹靂(ヘキレキ)すること閃電光の如くなるを、一度に二三千抛出したるに」*内地雑居未来之夢〔一八八六(明治一九)〕〈坪内逍遙〉一二「霹靂(ヘキレキ)たる雷鼓は、怒浪の船体を撃声なり」*南史‐曹景宗伝「与年少輩数十騎弓、弦作霹靂声、箭如餓鴟叫」【補注】「霹靂」を古くは「かみとけ」「かみとき」「かんとけ」「かんとき」と訓じた。【発音】〈標ア〉[0]〈京ア〉[0]【辞書】色葉・ヘボン・言海【表記】【霹靂】色葉・ヘボン・言海
《類語表現》
なる‐かみ【鳴神・雷】【一】〔名〕かみなり。なるいかずち。いかずち。らい。《季・夏》*万葉集〔八C後〕一一・二五一三「雷神(なるかみ)のしましとよもしさし曇り雨も降らぬか君をとどめむ〈人麻呂歌集〉」*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕一「雷公 霹靂電附兼名苑云雷公一名雷師〈雷音力回反 和名奈流加美 一云以加豆知〉」*観智院本類聚名義抄〔一二四一(仁治二)〕「雷 イカヅチ 一云ナルカミ」*太平記〔一四C後〕一〇・鎌倉兵火事「太刀を打振て、鳴雷(ナルカミ)の落懸る様に、大手をはだけて追ける間」*曾我物語〔南北朝頃〕五・浅間の御狩の事「なるかみおびたたしくして、雨かきくれてふりければ」*謡曲・道成寺‐間狂言〔一六八五(貞享二)〕「『今のはなんであったぞ』『されば鳴る神であらうか』」*鷹〔一九三八(昭和一三)〕〈松本たかし〉昭和一三年「鳴神や暗くなりつつ能最中」【二】(鳴神)歌舞伎十八番の一つ。天和四年(一六八四)に江戸中村座で初演された「門松四天王」(初世市川団十郎作)に始まり、その後諸作品を経て、寛保二年(一七四二)年頃大坂大西芝居で初演された『鳴神不動北山桜』によって定着。朝廷に恨みを持つ鳴神上人は、龍神を封じ込めて天下を旱魃(かんばつ)におとし入れるが、朝廷から遣わされた美女雲の絶間姫の容色に迷って呪法を破ってしまう。現行曲は、岡鬼太郎が『鳴神不動北山桜』によって改訂した一幕物で、明治四三年(一九一〇)二世市川左団次が復活したもの。【方言】〔名〕(1)雷。《なるかみ》東京都八丈島340島根県石見724広島県054771774山口県792大島801愛媛県840846《なるかみさん》愛媛県周桑郡844《なりかみ》青森県南部072秋田県北秋田郡068群馬県吾妻郡012島根県石見724広島県062比婆郡772高田郡779愛媛県840大分県南海部郡939《なりかみさま〔─様〕》大分県東国東郡・速見郡941《なりがみ》下北†051岩手県気仙郡101《ならかみ》島根県那賀郡・江津市725広島県比婆郡772佐賀県887《ならかみさん》長崎県佐世保市902《ならかめ》島根県鹿足郡・那賀郡725《なりかめ》島根県石見724《なるかんがなす》鹿児島県徳之島975(2)声の大きい人。《なりがみ》山形県東田川郡054(3)二月八日と四月八日の早朝、男児たちが鈴を鳴らしながら笹を束ねたもので各家の雨戸をたたき回る悪魔払いの行事。《なりがみ》静岡県榛原郡521【発音】〈標ア〉[0]〈ア史〉平安●●○○〈京ア〉[0]【辞書】和名・色葉・名義・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【雷公】和名・色葉・文明・伊京・明応・天正・饅頭・黒本・書言【雷師】色葉・易林・書言【雷】名義・ヘボン【雷神・豊隆・阿香・動神】書言【鳴神】言海

【語解析】ここで、小学館『日国』第二版では、標記語「霹靂」の語例は右の如くであって、

 ⑴かむ‐とけ【神解】〔名〕→かんとけ(神解)。

 ⑵かむ‐とき 【神解】〔名〕→かんとき(神解)。

 ⑶かん‐とけ【神解】〔名〕(「かむとけ」と表記)。

 ⑷かん‐とき【神解】〔名〕(「かむとき」とも表記)

の見出し語では標記語「霹靂」は削除され、唯一

 ⑸「かみ‐とき【神解・霹靂】〔名〕「かみとけ(神解)」に同じ。」

で「霹靂」と「神解」が同意表現であったことが見られるのである。
 文献作品資料としては、『日本書紀』〔七二〇(養老四)年〕推古二十六年八月(岩崎本訓)に、

〈図参照〉

とあって、標記語「霹靂」で、訓みを「カムトキ」と記載する。
通番原文『日本書紀』漢字
語訓 卷

4081則當時、雷電霹靂、蹴裂其磐、令通水。霹靂カムトキ第九

9919時有人曰、霹靂木也。霹靂カムトキ第廿二

9926雖十餘霹靂、不得犯河邊臣。霹靂カムトキ第廿二

13344己亥、霹靂新宮西廳柱。霹靂カムトキ第廿九

とあって、四例を見出す。このうち通番九九一九の「時有人曰、霹靂木也」のところに、語訓「カムノキ」と記載する例を『日国』第二版、『古語大鑑』第二巻〔一二五頁〕が所載し、

○好き材を得て将に伐(き)らむと将(す)。時に人有りて曰く、霹靂(カムトキ)の木なり、伐る可からず、といふ。
霹靂(カムトキ)の木なり〔也〕、伐(る)可(から)不(霹靂木也不可伐)〔岩崎本推古紀平安中期点333〕

としている。これを慶長十一年版『日本書紀』で見ておくと、
 〈図参照〉
とあって、標記語「霹靂」で訓みを「カントキ」としている。
  そのうえ、『万葉集』にも、卷十三の三二二三番に、

霹靂之日香天之九月乃鐘礼乃落者鴈音文未来鳴甘南備乃清三田屋乃垣津田乃池之堤之

とあって、曼珠院本『万葉集』は、標記語「霹靂」で和訓「カミトケ」を収載している。
 『続日本紀』〔蓬左文庫藏、八木書店刊〕を見ておくと、

○庚子。縁去月霹靂。勅新田部親王。率神祇官卜之。乃遣使奉幣於畿内七道諸社。以礼謝焉。《天平二年(七三〇)閏六月庚子【十七】四六二頁》

とあって、この写本にはふりがな表記が未記載となっていることが確認され、これを小学館『日国』第二版では、見出し語「へきれき【霹靂】の初出用例としていて、これについては疑問としたい。なぜならば、平安時代の古辞書である『和名聚名義抄』と『色葉字類抄』には「カミトケ」「カミトキ」の語例が存在しているからである。さらにまた、観智院本『類聚名義抄』にも、
―[霹]靂辟歴二音/カミオツ[平・平・平・上]/一云カミトキ[平・平・平・平]琴引名 靂正 霨心俗 〔法下六六、天理三四ウ6・7〕
とあって、この『和名類聚抄』からの継承がここにも色濃く見えていて、「カミオツ」と「カミトキ」の両語訓をこちらでは継承所載しているからである。

   まとめ
 標記語「霹靂」を現在の私たちは字音訓みで「ヘキレキ」と訓むだけにとどまっている。この「霹靂」の古い和訓語として、「カミトケ」や「カミトキ」と云う和訓語があった。曼珠院本『万葉集』の「カミトケ」とか、『日本書紀』の慶長版本類では音便化した「カントケ」「カントキ」と訓んだりもしていたりしてきたのだが……。これを平安時代の源順撰の『和名類聚抄』において、編纂収録され、「霹靂」の語も平安時代末期の『色葉字類抄』にも受け継がれていて、他の資料よりこの字類抄系統の古辞書『節用文字』『世俗字類抄』『伊呂波字類抄』などがこの語訓を鎌倉時代、そして室町時代へと引き継いできたことも明らかにすることができた。この和訓が江戸時代の『譬喩盡』〔一七八六(天明六)年〕卷第一に、「霹靂(ヘキレキ)とははたたがみなりなり〈大雷をいへり〉」の用例をもって、小学館『日国』第二版の見出し語「へきれき【霹靂】」では、その初出用例にしたいと考える。この時代まで「カミトケ」や「カミトキ」の和訓の保持が続いていて、意外にこの和訓は一般世俗化しにくかったと推定しておくことが良いのではないかという立場にある。ここで述べる和訓「はたたがみ」の語をもって、「霹靂」の新たな漢字和訓読みとする。この表出する文学作品資料としては、上田秋成作『雨月物語』に、
○或は霹靂(はたゞがみ)を震ふて怨を報ふ類は。其肉を醢(しゝびしほ)にするとも飽べからず。〔吉備津(きびつ)の釜(かま)〕
○急ぎまゐれといへど。答へもせであるを。近く進みて捕ふとせしに。忽(たちまち)地も裂(さく)るばかりの霹靂(はたゝがみ)鳴響(なりひゞ)くに。許多(あまた)の人迯(にぐ)る間もなくてそこに倒る。〔蛇性(じやせい)の婬(いん)〕
○豐雄漸(やゝ)人ごゝちして。你(なんぢ)正しく人ならぬは。我捕はれて。武士らとともにいきて見れば。きのふにも似ず淺ましく荒果て。まことに鬼の住べき宿に一人居るを。人々ら捕へんとすれば。忽青天霹靂(はたゝがみ)を震ふて。跡なくかき消ぬるをまのあたり見つるに。又逐來て何をかなす。〔蛇性(じやせい)の婬(いん)〕
とあって、標記語「霹靂」を和訓「はたたがみ」に宛ている用例が見えていたりする。
 だが、既に現在の日本語では、「かみとき」「かみとけ」の和訓は忘れ去られ、「はたたがみ」も知られにくい語となっている。ただ字音読みの「ヘキレキ」とだけ用いられ、例えば「青天の霹靂」のように読まれるだけの「ことばの代替え現象」が時代の流れに従って起こっていて、その一つの好例な語として、この「霹靂」の漢字に対する和訓読みが當時から脈々と存在していると言えるのではなかろうか。
 こうして此の「霹靂」の語を眺めて見たとき、現行の国語辞典や古語辞典などがこの語における和訓読みの流れのなかで、ことばの意味や用例を正しく知らしめていくことの大切さが「温故知新」ではないが一種の古典語回帰に伴って知っておくべきではではないかと考えるている。

《補足メモ》はたたがみ
はたた‐がみ【霹靂神】〔名〕(「はたたく神」の意)激しい雷。へきれき。はたがみ。はたはたがみ。はたたがみなり。《季・夏》*色葉字類抄〔一一七七(治承元)〜八一〕「䨔 ハタタカミ」*御伽草子・御曹子島渡(室町時代物語集所収)〔室町末〕「ささやくこゑはいかつちのごとく、いかれば百せんまんのはたたかみ、なりわたりたるごとくにて」*俳諧・犬子集〔一六三三(寛永一〇)〕一五・雑下「うはなりのいかり来にける其気色 はたた神こそねやに落けれ〈由己〉」*読本・雨月物語〔一七七六(安永五)〕蛇性の婬「忽地も裂るばかりの霹靂(ハタタガミ)鳴響くに」【語源説】(1)ハタタク‐カミ(雷)の義〔大言海〕。(2)ハタハタカミナリ(礑々雷)の義〔言元梯〕。(3)海が荒れ雷が鳴ると鰰(はたはた)が喜んで群れるところから〔齶田の刈寝〕。【発音】ハタタガミ〈標ア〉[タ]〈2〉【辞書】色葉・天正・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【霹靂】書言・ヘボン・言海【䨔】色葉【靂】天正【霆】書言
はたたがみなり【霹靂神鳴】〔名〕「はたたがみ(霹靂神)」に同じ。*玉塵抄〔一五六三(永禄六)〕一八「此の黙したが、はたたがみなりの鳴たやうに説法して文殊と問答した位なり」*玉塵抄〔一五六三(永禄六)〕四九「疾雷は、はたたかみなりのことぞ。〈略〉にわかにはためいて物のわれくだくるやうになるを云ぞ」


きたきす【牛蒡】

2022-11-09 17:28:22 | 古辞書研究

 

2022/11/09 更新
 きたきす【牛蒡】
                                                                          萩原義雄識
  植物菜蔬根菜の食材「牛蒡」の古名を「きたきす」と称し、その根菜は日本の食文化にあって、今も変わらず調理され「金平牛蒡」や「煮染牛蒡」などと呼称される逸品を作り上げてきている。では、此の「牛蒡」をどのように古辞書では記載してきたのかを探ってみることにする。

  源順編『倭名類聚抄』に、
   きたきす【牛蒡】廿・巻十七菜蔬部第二十七野菜類第二二九、十・菜蔬野菜

【原文】巻十七と巻九菜蔬部第二十七・野菜類第二二九
    7808牛蒡 本草悪實一名牛蒡[愽郎反和名岐太岐須一云宇末不々岐今案俗作者非也]
    2385牛蒡 本草云𢙣實一名牛蒡[愽郎反  岐太岐湏一云宇末不〻岐今案俗作者非也]

【訓読】
牛蒡 『本草』に云はく、「悪実」は一名に「牛蒡〈博郎反、岐太岐須(きたきす)」、一に「宇末不〻岐(うまふふき)」と云ふ。今案ふるに俗に「房」に作(か)くは非さるなり〉といふ。
【語解】
典拠書名の『本草』とは、本邦の深江輔仁編『本草和名』〔延喜十八(九一八)年成る、江戸時代末多紀氏にて古書再見し転写され、その一本が棭齋所持本で森立之から大槻文彦の蔵した此の書であり、近年、別写本の西尾岩瀬文庫藏が影印され、武倩、丸山裕美子共著『本草和名の研究』汲古書院刊が公刊されている。〕で、
    『本草和名』上巻〔三十五オ3〕に、
    悪實一名牛蒡[仁詣音博郞切]一名鼠粘草[已上二名出/蘇敬注]
      和名歧多伊(歧爪)一名宇末、布〻歧
※和名「歧多伊( 歧爪)湏」は、見せ消ちで「歧多歧湏」に改められ、『和名抄』の記述と符合する和名となって今日受け継がれてきた。
    【訓み解き】
「悪実(アクジツ)、一名を「牛蒡([ゴバウ])」、一名を「鼠粘草([ソネンサウ])」、和名を「岐多岐須(キタキス)」(イ音便化して「キタイス」とも呼称歟)、一名を「宇末布々岐(ウマフフキ)」」と云う。「悪実」は「果実」に対する漢名。「馬蕗(ウマフキ)」を意味する。その葉が「蕗(ふき)」に似ていること、この葉を馬が好んで食べることから呼称する。

とあって、「悪實」、「牛蒡」「鼠粘草」の漢語標記字に和名「歧多伊(歧爪)湏」と「宇末布〻歧」の両語を所載し、順和名には、右内容から此の箇所から編述したと見て良かろう。此の時に、『蘇敬注』に見える標記語「牛蒡」のみを採り上げ、標記語「鼠粘草」については未採録とした点が重要であろう。
原産地は、欧州北部からシベリア、中国東北部。薬効があり、漢方薬として中国、朝鮮半島を経て渡来した。古くは、縄文時代の頃から、その根を食していたという。食用としたものは栽培種で、現代でも、此の「牛蒡」を食用にしているのは日本人だけとか、「キタキス(岐多岐須)」、「ウマフフキ(馬蕗、旨蕗)、アクジツ(悪実)、ソネンサウ(鼠粘草)、此のほか「ゴボウ」の根が牛の尾に似ていたところから、「牛房(牛の尾の意味)」とも記した。
    
  【牛房】の表記
    前田本『色葉字類抄』〔下卷古部二ウ5〕
     牛蒡(ゴバウ)[上濁上濁]北朗反/又キタキス/又ウマフヽキ〔下卷古部植物門二ウ5〕
    黒川本『色葉字類抄』〔中卷宇部五十七オ8~五十八ウ1〕
     牛蒡(ゴハウ)  ウマフヽキ俗作房
  ※右訓「コハウ」に差声点[去・上濁・上]を記載する。

『字類抄』には、宇部と古部の食物門の両部に所載していて、取り分け宇部の註記に「俗ニ「房」に作く」とあって、「牛房」という『和名抄』とは異なる標記字の後付けがなされていることになる。実際、此の表記で示された資料だが、鎌倉時代の『名語記』に、
    牛房トイヘル精進ノ菜アリ。《『名語記』三の条》

とある。 次に南北朝時代の『庭訓往来』〔至徳三(一三八六)年古写本〕に、
    古写本『庭訓徃來十月日の返状に、
菜者繊蘿蔔煮染牛房昆布烏頭布荒布黒煮蕗莇蕪酢漬茗荷薦子蒸物茹物茄子酢菜胡瓜甘漬納豆煎豆荼苣園豆芹薺差酢和布青苔神馬藻曳干甘苔塩苔酒煎松茸平茸雁煎等隨躰可引之〔至徳三年本〕※文明十四年写「煮染(ニシメ)ノ牛房(コハウ)」と記載。
    此れを承けて、室町時代の『庭訓往来註』にも、
    691 煮染(ニシメ)牛房 似ル牛之閉ニ間云尓也。〔謙堂文庫蔵五八左8〕
とあって、その語註記に「牛の閉に似る間に尓(し)云ふ」と茲では「尾」とせず「閉」として語解する。さらに、頭書訓読庭訓徃來精注鈔』と『庭訓徃來講釈』の語註記には、
    ▲牛房ハ本字(ほんじ)牛蒡(きうほう)と書。和名(わめう)キタキスムマブキといふ。〔六六ウ7、一二〇オ2・3〕

として古名を所載する。
また、江戸時代の市場通笑作『牛房挟多』 三巻〔一七八一(天明元)年〕に見る。現在では、姓名として「牛房」が知られる。
    因みに、『日葡辞書』(一六〇三(慶長八)-〇四年成立)に、
    Gobǒ.ゴバゥ(牛蒡) 薊(あざみ)の根のようなある種の根で,食用になるもの.→Acujit.〔邦訳三〇四l〕


とあって、標記語「牛房」の語の意味は「薊(あざみ)の根のようなある種の根で、食用になるもの」と記載する。
 明治から大正・昭和時代の大槻文彦編『大言海』には、
ご-ばう〔名〕【牛蒡】〔ゴは、牛(ギウ)の呉音〕古名、きたきすうまふぶき。蔬菜(あをもの)の名、春、又は秋、種を下す、莖、高さ二三尺、根の上、紫色なり、葉は、芋に似て、長く厚く、皺あり、夏の初、淡紫の小花、簇り開く。根、長大なるは、長さ、二三尺、圍、六七寸にも至るものあり、皮黑くして、肉、白し、畠に作りて、專ら、食用とす。音便に、ごんばう。實(み)の殻(から)に、棘(いが)あり、中に、數十子あり、葡萄の核に似て、赤黑し、藥用とす。惡實。康頼本草、上14「惡實、支太支須、ゴバウ」〔七一一頁2〕

とあって、標記語「ご-ばう〔名〕【牛蒡】」の語を収載する。茲で大槻文彦は、『本草和名』を以て引用するのでなく、『康頼本草』の用例を付記したのか、少しく疑解しているのだが、此の編纂時に手許に所持出来ていなかったのかとも思わずにはいられない。実際、国立公文書館写本『康頼本草』〔写本江戸初、請求番号196ー0060〕を以て検証しておくと、
    ○悪實  味辛平无毒。和支太支乃須
         己波宇[去濁・去濁]・所々有之臨時取之
 となる。

《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
きたきす〔名〕植物「ごぼう(牛蒡)」の古名。*享和本新撰字鏡〔八九八(昌泰元)~九〇一頃〕「牛髈 根食者也 支太支須」*十巻本和名類聚抄〔九三四(承平四)頃〕九「牛蒡 本草云悪実 一名牛蒡〈博郎反 歧太歧須 一云宇末不々歧 今案俗作房者非也〉」【語源説】イキタケス(勢猛為)の義〔言元梯〕【辞書】字鏡・和名・色葉・名義・書言・言海【表記】【牛蒡】和名・色葉・名義・書言【牛髈】字鏡
うま-ふふき【牛蒡】〔名〕(「うまぶふき」とも)植物「ごぼう(牛蒡)」の異名。*本草和名〔九一八(延喜一八)頃〕「悪実 一名牛蒡、一名鼠粘草、和名岐多岐須、一名宇末布々岐」*色葉字類抄〔一一七七(治承元)~八一〕「牛蒡 ゴバウ 又キタキス又ウマフフキ」【語源説】(1)「ウマ」は大の意〔東雅〕。(2)「ウマフキ(美蕗)」の意。葉が蕗に似ているから〔和字正濫鈔〕。【発音】〈ア史〉平安○○○●○と○○○○○の両様ウ×マフフキ[フ]〈1〉【辞書】和名・色葉・名義・書言・言海【表記】【牛蒡】和名・色葉・名義・書言【牛房】色葉【馬蕗】言海


たきき【薪】その三 ー『倭玉篇』所載の「ミヅクサ」ー

2022-11-06 16:16:29 | 古辞書研究

たきき【薪】字ー新編『倭玉篇』(江戸期の版本)所載の「ミヅクサ」ー

萩原義雄識

  同じく、慶長十五年(一六一〇)版、慶長十八(一六一三)年版・慶長癸丑(一六一三)版『倭玉篇』では、
    薪(シン)  タキヾ 〔中卷艸部百五十・二一六頁6〕
    薪(シン)  タキヾ 〔中卷艸部百五十・一一四齣6〕〔中卷艸部百五十百五十・一一四齣6〕
      
    薪(シン)  タキヾ〔慶長庚戌(一六一〇)年版、中卷艸部〕
    
とし、和訓を「タキヾ」と記載し、此れを寛永各版、寛文十一年版、そして寛文二年版、元禄で見ておくと、

    薪(シン)  タキヾ〔寛永五年(一六二八)版横本、中卷艸部百五十〕
    薪(シン)  タキヽ〔寛文二年(一六六二)版、中卷艸部百五十〕
    薪(シン)  タキヽ〔元禄六年(一六九三)版、中卷艸部百五十〕
    薪(シン)  タキヾ〔寳永六年(一七〇九)版、中卷艸部〕
    
 とその継承が見られる反面、同時代の版本類に和訓を「ミヅクサ」乃至「ミツクサ」なる語を此の標記語に仕立てた新編『倭玉篇』類が登場している点を、今回紹介しておく。
    薪(シン)  ミヅクサ〔寛永七年(一六三〇)版版、中卷艸部百六十二58齣左4〕
    薪(シン)  ミヅクサ〔寛永九年(一六三二)版、中卷艸部百六二62齣左4〕
    薪(シン)  ミツクサ〔寛永十六年(一六三九)版、中卷艸部百六十二58齣左4〕
    薪(シン)  ミツクサ〔寛永十六年(一六三九)版、中卷艸部百六十二58齣左4〕
    薪(シン)  ミツクサ〔正保三年(一六四六)版・正保四年版、中卷艸部56齣左4〕
    薪(シン)  ミツクサ〔慶安五年(一六五二)版中卷艸部〕
    薪(シン)  ミツクサ〔延寳九年(一六八一)版中卷艸部42齣左4〕
    薪(シン)  ミツクサ〔無刊記版、中卷艸部百六十二52齣〕
   
    ※字の下位部の左側の旁字が「立+小」字、「亠+止+小」、そして「新」字と変改している点も留意せねばなるまい。
    
とあって、標記語「薪(シン)」に別語の和訓が江戸時代の新編『倭玉篇』編纂出版のなかで記載されはじめてきたのかについて見定めておくことと、此の標記漢字の和訓が寛永七(一六三〇)年の頃から既にさだまりのあった「たきぎ」の語でない全くの別訓「みづくさ」の語を茲に記載するようになったことについて、江戸時代の知識人が此の語に対する和訓としてどう認知し、此の新訓「みづくさ」を誤謬とは見ずに刻版を黙々と重ねてきたことに対して、どのような識字意識があったのか、この字引を繙き、此を利用する受容性にまで突き詰めて考えておくことにもなろう。


たきき【薪】其の二

2022-11-05 13:38:55 | 古辞書研究

たきき【薪】其の二

※9029の箇所を文禄本『平家物語』では、「残レル枝散レル木葉ヲカキアツメテ風冷シキ朝ナレハ、縫殿ノ陣ニテ酒アタヽメテタヘケハニコソシタリケレ」〔卷六・七一三頁1〕 

  室町時代の広本(=文明本)『節用集』に、
    ○(タキヾ)[平軽シン〔た部草木門三三三頁1〕
とし、第三拍の踊り字は「ヾ」とし、濁音化表記としている。
  刷り本の堺本(天正十八年版)、饅頭屋本、易林本の三種は、
    ○(タキヾ)〔堺本・上卷多部草木門二十九オ9〕
    ○(タキヾ)〔饅頭屋初刊本・上卷太部雑用門三十一ウ3〕
    ○(タキヾ)〔饅頭屋増刋本・上卷太部草木門60齣4〕
    ○(タキヽ)〔易林本・上卷太部草木門四五ウ5〕
  
 とあって、饅頭屋本が初刊本では雜用門の排列したのを増刋本では堺本・易林本と同じ草木門に移動した点が此の語を分類していく上で当代の編纂者が此の「薪」の所在位置が斯くも揺れていたことを證明するものとなっている。また、易林本だけが第三拍を清音表記とし、上代語表記の語に回帰した語となっている点も見逃せない。
    
  愈々、江戸時代の狩谷棭齋『倭名類聚抄箋註』の此の語をどう見定めているのかを検証するところに立ち帰ることになる。
 纂要云、火木曰薪、[音新、多歧々]、○説文、薪、蕘也、」昌平本下總本有和名二字、」應神紀同訓、多歧歧萬葉集相模國歌、〔卷四・燈火部・灯火類〕
    
    ※『日本書紀』應神記
『日本書紀』一文訓み下し  │
2126薪(たきぎ)の名をば嚴山雷(いつのやまつち)とす。 〔三 二一五15〕 
                                                                  
4682群卿(まへつきみたち)、便(すなは)ち詔を被(う)けて、有司(つかさ)に令(のりごと)して、其(そ)の船の材(き)を取(と)りて、薪(たきぎ)として鹽(しほ)を燒(や)かしむ。〔十 四九三4〕 
                    
4695初(はじ)め枯野船(からののふね)を、鹽(しほ)の薪(たきぎ)にして燒(や)きし日(ひ)に、餘燼(あまりのもえくひ)有(あ)り。〔十 四九三11〕 
                                                               
9327嶋人(しまびと)、沈水(ぢむ)といふことをしらずして、薪(たきぎ)に交(か)てて竃(かまど)に燒(た)く。〔廿二五三三7〕 
                                                               
12986戊申(つちのえさるのひ)に、百寮の諸人、初位(うひかうぶり)より以上(かみつかた)、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔廿九〕 
                                                   
13056甲寅(きのえとらのひ)に、百寮(つかさつかさ)、初位(うひかうぶり)より以上(かみつかた)、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔廿九〕
                                                               
13076△是の月に、勅(みことのり)すらく、「南淵山(みなぶちやま)・細川山(ほそかはやま)を禁(いさ)めて、並(ならび)に蒭薪(くさかりきこ)ること莫(なか)れ。〔廿九〕
             
14088戊辰(つちのえたつのひ)に、文武(ふみつはもの)の官人(つかさのひと)ども、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔卷卅〕
                                                                   
14167壬辰(みづのえたつのひ)に、百寮(つかさつかさ)、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔卷卅〕
                                                                   
14496己亥(つちのとのゐのひ)に、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔卷卅〕
                                                                   
14549甲午(きのえうまのひ)に、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔卷卅〕
                                                                   
14586戊午(つちのえうまのひ)に、薪(みかまぎ)進(たてまつ)る。〔卷卅〕

『日本書紀』中には、標記字「薪」字は十二例があって、卷廿九以降は、「みかまぎ」と訓む。「たきき」は、卷三、卷十二例、卷廿二の四例となっている。棭齋は應神記の語例を以て此の箇所を註記するのだが、卷十は「薪(たきぎ)として鹽(しほ)を燒(や)かしむ」と「鹽(しほ)の薪(たきぎ)にして燒(や)きし日(ひ)に」の二例の孰れかになる。 
    
    ※『万葉集』相模國歌
卷十四・三四三三番    [題詞]

[原文]多伎木許流 可麻久良夜麻能 許太流木乎 麻都等奈我伊波婆 古非都追夜安良牟

[訓読]伐る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ[仮名]たききこる、かまくらやまの、こだるきを、まつとながいはば、こひつつやあらむ    [左注]右三首相模國歌    [校異]    [KW]東歌・譬喩歌・神奈川県・鎌倉・地名・掛詞・恋情  

 
「万葉集校本データベース」所収の『万葉集』巻十四3433の初句語「多伎木許流」の語だが、江戸時代の寛永版本は、「たきぎこる」と第三拍めを濁音表記し、これに対し、古写本類は「たききこる」と清音表記を貫く。
 此れを承けて、本文翻刻資料についても『万葉集註釈(仙覚抄)』『万葉代匠記』(初稿本)(精撰本)『万葉集古義』は、清音表記を以て記載するのだが、以下の『万葉集拾穂抄』『万葉集僻案抄・童蒙抄・剳記』『万葉集略解』『万葉集全釈』『万葉集総釈』『 万葉集評釈』『日本古典全書』『万葉集全註釈』『評釈万葉集』『万葉集私注』『日本古典文学大系』『万葉集注釈』『日本古典文学全集』『新潮日本古典集成』『万葉集全注』『新編日本古典文学全集』『新日本古典文学大系』『万葉集釈注』は、「たきぎこる」と此の語を濁音表記にして掲載する。
 此の「多伎木」語の第三拍目、真名体漢字「木」字の上代かな表記の清濁表記については、改めて茲で回顧して考察することの必要性を説いておかねばなるまい。
  先にも述べておいたが、鎌倉時代の高野本『平家物語』、それ以前で謂えば、院政時代の今様歌『梁塵秘抄』にあって、「たきぎ」の濁音化を見据えることになり、実際の語表記は、室町時代の広本『節用集』以下、刷版系の堺本、饅頭屋本『節用集』に「タキヾ」とその濁音表記を見定めるものとなっている。易林本は、「タキヽ」と清音表記にて所載する。


ゆ【湯】

2022-11-04 13:47:02 | 古辞書研究

源順編『倭名類聚抄』及び、江戸時代の狩谷棭齋『倭名類聚抄箋註』を基本にして、水土類第三の「ゆ【温泉】」について、その語注解を丹念に稽査した報告書とした。

発表予定は今のところ、定めていないが、この内容を元に発表が許されるのであれば、その調査経過とその実態報告とを用意していきたい。
源順がどのように介在したかは容易に結論は出しにくいものの、『冝都山川記』を『冥都山川記』と書写した本『和名抄』書写本は十巻本と廿卷本に跨がっていて、此を正しく記載した資料も十巻本系の眞福寺本、天文本と纔かに過ぎないことも見えて来た。
 そのなかで、語研究により、「石硫黄」と「石流黄」の文字表記に近づき、「石」字を刪った表記の過程が明らかになった。実に、此のことばの筋立てを学ぶことで、棭齋自身が数多くの漢籍資料を目前に置き、その数多なる参考資料にこれまた、多くの備忘書込みを絶えず行ってきていることも明らかとなってきている。その多くは、一度は一研究者の執念とでも云おうものか、彼の手によって集められて研究の緒にあった筈だったのが、今はまとめて見ることすらできずになってしまっている。彼の遺族が支え置く資産運用が続かず、そして門人を持たなかったための継続性が稍薄れて、別の研究者たちが選び取った重要な部分を遺したとも見てとれよう。棭齋自身の書込み資料の全公開がやはり、今後の狩谷棭齋傳の研究そして、この『倭名類聚抄箋註』が此の将来に向かってどのように活かされるべきかものか、当に東アジア漢字文化圏にあって、和漢標記語における一文毎の知恵の宝蔵庫としても重要であり、博覧強記とも言える資料引用術を知ることが急務となろう。そのために、源順『倭名類聚抄』がこれまた那波道円刊刷り本として世に流布し、これを基軸に江戸時代の契沖『倭名類聚抄』書入れ他、本居宣長『古事記伝』他随筆集など、そして狩谷棭齋『倭名類聚抄箋註』の記述を先ずは丹念に読み解くことがこれまた不可欠となることは云うまでもない。萩原義雄識