武士ーもののふー

菊千代版、真田十勇士

第三話/情けと誇り

2016年03月28日 | 一章/捨てきれぬ誇り
佐助は才蔵との死闘で消費した忍具の回収に来ていた。

才蔵は肉体を川に浸して、失った水分と体力を回復している。
半日程はかかるらしい。

その時間を利用して、死闘の跡を辿り、忍具の回収をする。
それも自分の分だけでなく、才蔵の分もしなければならない。

というのも、佐助と才蔵は今後、行動を共にする事になった。

─────

「何故?」

手応えを打ち消された、佐助が才蔵に尋ねた。
才蔵ははぐらかす。

「そこまでお前に言う必要は無い。俺の個人的問題だ」

「確かに、それはそうだが、今、お前の命をどうするかは俺次第なんだけどな」

佐助が才蔵を脅すかの様に言った。
才蔵は何も言えなくなってしまう。

そして佐助が言葉を続ける。

「このまま、お前を生かしておいたら、この先また、俺や信繁様にとっての大きな障害になるとも限らない」

「だったら、とっとと殺すがいい」

才蔵が突き放す様に言った。
微笑を浮かべながら話を続ける、佐助。

「しかし俺はお前を気に入った。お前程の男を殺すのは勿体なく思ってな」

才蔵は何も言わない。
佐助が更に話を続ける。

「だから話次第に拠っては、見逃してやらん事もないが」

「甘いな。見逃して貰ったからと言って、お前の味方になるとは限らないのだぞ!?」

才蔵は呆れる様に言った。
誇らし気に話す、佐助。

「確かに甘いのかもしれん。しかし、これも我が主君、昌幸様の教えでもある」

才蔵は黙ったまま、佐助の言葉を待つ。
佐助が話を続ける。

「力ある者には情を以って接すべき」

「おかしな教えだな。力無き者にこそ情を与えるべきではないのか!?」

才蔵は佐助の言った真田昌幸の教えに疑問を示した。
再び佐助が微笑みながら話す。

「日常の生活において、それはわざわざ言うまでもない事。昌幸様の教えは戦場での事だ」

「それにしても、力ある者こそ殺せる時に殺しておくべきではないのか!?」

才蔵はまだ疑問が拭えなかった。
微笑みを残したまま話し続ける、佐助。

「そう思うのが当たり前ではあるだろう。しかし昌幸様は九度山に配流の身ながらも徳川方に警戒をされる程の人物故、当たり前な考えには収まらないのだ」

「どういう事だ!?」

才蔵が佐助に尋ねた。
佐助は誇らし気に答える。

「敵になるにしろ、味方になるにしろ、力ある者の存在が自らを高める事になる。そして敵味方は巡り会わせにしか過ぎない」

才蔵は何も言えなくなってしまう。
話を続ける、佐助。

「俺はお前を生かすだけの価値があると判断した。例え再び敵になろうとも、だ」

「だったらば、何故、俺を脅す!?」

才蔵は再び佐助に疑問をぶつけた。
苦笑しながら佐助が応える。

「それは言葉の綾というものだ。それに脅した方が答え易かろうとも思ってな」

才蔵は再び黙り込んでしまう。
話を続ける、佐助。

「だから最初から見逃すつもりだった。答えたくなければ、答えなくともよい。しかし、お前に答える気がないのであれば、俺は此処に居ても仕方がない」

「分かった。話せる事だけ打ち明けよう」

才蔵は意を決した様に言った。
佐助が応える。

「聞かせて貰おう」

「俺はある命を受けて今、一人の男を探している」

才蔵が話し始めた。
相槌を打つ、佐助。

「うむ」

「その仕事で俺は命を落とす事になるやもしれん」

才蔵は淡々と悲観的な事を言った。
佐助が才蔵に疑問をぶつける。

「命を懸けてまで、やらなければならない仕事なのか!?」

「どの様な仕事であれ、引き受けた以上は命懸けでやるのが我々の価値じゃないのか!?」

才蔵が佐助に訊き返した。
更に疑問を重ねる、佐助。

「確かにそれはそうだが、お前は今の処遇に不満があるのだろう!?」

「不満があろうとも引き受けた以上は言い訳にはならない。仕事を途中で投げ出してしまっては、志まで失ってしまう」

才蔵は淡々と語っている。
佐助は相槌を打つしかなくなってしまう。

「うむ」

「また仕事を失敗する様であれば、我々に待つのは死だけだろう」

才蔵は表情一つ変えずに語っている。
話を合わせる、佐助。

「確かに我々に与えられる仕事の殆どは失敗が許されない」 

「だから、お前の誘いはありがたいが、今、その事を考える事は出来ない」

才蔵がきっぱりと言い切った。
佐助は残念さを漏らし、その上での疑問を口にする。

「そうか、それは残念だが、だったらば何故、俺に挑んできたのかが不思議だな」

「確かに仕事を最優先に考えるならば、余計な事ではあっただろう。しかし仕事で命を落とす事も私闘で命を落とす事も大して変わりは無い」

才蔵は相変わらずに淡々と話をしている。
それでも疑問が晴れない、佐助。

「それはそうなのかもしれないが、仕事で命を落とすとは限らないだろう」

「お前と闘っても命を落とすとは限らない。いや、俺はお前に勝てる気でいた。でもそれは俺の思い上がりにしか過ぎなかった」

才蔵は自らを省みる様な言葉を口にした。
佐助はやっと納得する。

「なるほど」

「俺は一対一の闘いであれば、誰にも負けない自信はあった」

才蔵はあくまでも淡々と話をする。
慰める様に言う、佐助。

「あれだけの技を使えるのであれば、無理もなかろう」

「それでもお前には通用しなかった。上には上がいるという事を思い知らされた」

才蔵は淡々と話を続ける。
佐助は言う。

「いや、通用はしたさ。この俺が手傷を負わされるとは」

「ふっ」

才蔵が少しだけ苦笑した。
そして話を続ける。

「俺の技は相手に留めを刺せなければ意味は無い」

「確かにその点はあの技の最大の欠点ではあるだろう。しかし、あの技を凌げる者もそうはいないはず。尤もそれも俺の自惚れなのかもしれないがな」

佐助が冷静な分析を含めての話をした。
才蔵は黙ったまま空を見上げている。

少しの間をおいて佐助が再び才蔵に訊く。

「先程、お前は一人の男を探していると言った。そして命を落とすかもしれない、と。そんなにも危険な仕事なのか!?」

「ああ」

才蔵が短く応えた。
更に疑問を続ける、佐助。

「その後にお前は一対一なら誰にも負けない自信があったと言った。矛盾しないか!?」

「探しているのは一人だが、相手をする事になれば、その仲間も相手せざるを得なくなるだろう」

才蔵が佐助の疑問に応えた。
佐助は納得して、助力を申し出る。

「なるほど。ならば俺が手伝ってやろうか!?二人掛かりであれば、生き残れる可能性も高くなるはずだ」

「余計なお世話だな。これは俺の仕事だ。何故、わざわざ首を突っ込もうとする!?」

才蔵が佐助の申し出を突き放した上で訊いた。
率直に応える、佐助。

「だから言っただろう。俺はお前を気に入った。出来る事ならば、是非とも信繁様にお前を引き合わせたい」

「お前まで命を落とす事になるのかもしれないのだぞ!?」

才蔵は呆れる様に訊いた。
佐助が微笑みを浮かべながら応える。

「どんな困難であろうとも、必ず解決策はある。やる前から悲観的になってどうする。そして可能性がある限り、成功を求めるべきだろう」

才蔵は再び黙ったまま空を見上げていた。
そして佐助が言葉を続ける。

「もう決めた。お節介と言われようとも、俺はお前の手助けをする」

─────

佐助は才蔵という男の話を聞けば聞く程、死なせるには惜しい様に思った。

そして、この才蔵という男を九度山に連れて帰れば、さぞ信繁様に喜んで貰えるんじゃないかと、その事が楽しみで仕方がない。

そんな期待を胸に忍具の回収を続ける佐助であった。

第二話/仕える者と雇われ者

2016年03月08日 | 一章/捨てきれぬ誇り
佐助は自分の体力を幾らか回復すると、先程まで死闘を繰り広げた相手の介抱を始めた。
川の水を布に含んで、男の口の中に水を絞り出す。
それを何度か繰り返していく。

すると何度目かに男が目を覚ます。

男が目を覚ますと佐助は男から距離を取って、大きな石の上に腰を下ろした。

そして男は体を横たえたまま、再び佐助に訊く。

「何故!?俺を助けた?」

「助けるかどうかは、まだ決めちゃいない。その前にお前の素性を確かめておきたくてな」

佐助は淡々と応えた。
男は納得する様に呟く。

「なるほどな」

「何故!?俺を襲った?」

佐助が男に訊いた。
男は佐助に訊き返す。

「お前は猿飛であるだろう!?」

「如何にも。お前に誤魔化しは効かないだろうからな」

佐助は素直に答えた。
男が苦笑しながら言う。

「ならば、身に覚えはあるだろうに」

「確かに身に覚えは腐る程にあるが。もう少し詳しい話を訊いている」

言いながら、佐助も苦笑した。
男が心外である事を表すかの様に訊く。

「それを俺が言うとでも!?」

「言える範囲で構わない。それで俺が判断する」

佐助はきっぱりと言い切った。
男が佐助に伺う。

「何が知りたい!?」

「誰の指示で俺を襲ったのか」

佐助は一番の疑問をずばり言った。

恐らく相手が忍者であれば、その様な事は答えるはずはない。
佐助はそれを承知の上で、あえて訊いて、相手の反応を伺う。

「誰からも指示はされていない」

男が佐助の疑問を否定した。
佐助は男の言葉に疑問が膨らむ。

「だったらば、何故!?俺を襲う?そうなると逆に俺は身に覚えが無くなる」

男は何も答えない。
佐助が男の態度に疑問を呈する。

「お前の言う通りだとすれば、お前の個人的な事情で俺を襲ったのであろう。それならば逆に言えるはずだと思うが」

「確かにそうだな。なら言わせて貰う」

男は佐助の言葉に納得して、打ち明ける意思を見せた。
相づちを打つ、佐助。

「ああ」

「我が名を広めて、我が身を高く買って貰う為だ」

男が佐助を襲った理由を述べた。
佐助は男の名を訊く。

「名は何と言う?」

「霧隠才蔵」

才蔵は素直に自らの名を明かした。
その名は佐助にまで届いている様である。

「伊賀者に霧隠某という優秀な下忍がいるとの噂は耳にした事があるが、それがお前だったのか」

「我が名はお前の耳にまで届いていたのか」

才蔵はその様な話を聞いても寂しそうであった。
佐助が才蔵の言葉を受けて、次の質問をする。

「ああ。それでお前は伊賀の里を抜けて、逸れ者になったのだな!?」

「如何にも」 
 
才蔵は短く応えた。
質問を続ける、佐助。

「ならば何故!?徳川方の味方をする?」

─────

佐助の主君である真田昌幸は次男の信繁と共に関ヶ原の戦で豊臣方に味方をして、その責を負わされて九度山へ蟄居させられている。(直接に参加した訳では無く、松本城で徳川方の秀忠軍を迎え撃ち損害を与えた上、関ヶ原への到着を遅らせた)

本来であれば死罪になってもおかしくはなかったが、長男の信幸を徳川方へ仕えさせていたので、その信幸の功績と働き掛けにより、死罪だけは免れて配流の身となったのだ。

それにより、真田昌幸は実質的な大名としての力を失ってはいたが、周囲の者達は以前から変わらずに真田昌幸を豊臣方の有力な大名の一人と目してもいた。

以上の事から真田家に関わる者は必然的に豊臣方となり、真田昌幸の家臣である佐助の事を承知の上で佐助を襲ったという事は、徳川方についたという事になる。

─────

「ああ、その発想は無かったな」

才蔵が意外そうに、そう言った。
佐助は才蔵の言葉を理解しかねる。

「なに!?」

「豊臣方に雇われるという発想が無かった」

才蔵が自らの言葉を改めて解説した。
再び納得して、質問を続ける、佐助。

「そうか。それでお前は今、誰かに雇われている訳ではないのだな!?」

「いや、そういう訳でもない。名まで明かす事は出来ないが、一応、徳川方のある大名に雇われている」

才蔵が言える範囲で素直に応えた。
佐助は才蔵の言葉に別の疑問が生じてくる。

「雇われていながら、誰の指示も無く俺を襲ったのか!?」

「そうだ」

才蔵が短く応えた。
佐助は短く訊く。

「何故!?」

「だから我が身の値を上げる為。お前の首を差し出せば、もっといい条件で雇ってくれる大名もいるだろう」

才蔵が先程述べた理由の詳細を付け加えた。
漸く、佐助は納得が出来た様である。

「なるほどな。現状に満足が出来ずに、という訳か。それにしても、お前程の男が金に目を眩ませる事になるとは」

─────

確かに、言われてみれば納得は出来る。
この才蔵の様に自らの名を上げる為にと、他者から謂われ無き争いを吹っ掛けられた事は、これまでに幾度となくあった。

そして、その様な者は大概において、自らの力を過信した愚者にしか過ぎなかった。
しかし、才蔵はその様な愚者とは違う。
先程の様な術は今まで見た事がない。

また、その前の佐助との死闘でも佐助と互角に渡り合った。
その事からも才蔵が相当な実力者である事は間違いない。
逸れ者になっても十分に自立が出来るどころか、佐助がこれまでに出会った者達の中でも、ずば抜けた実力がある様に感じた。

そして、その様な実力者であっても、忍者である限り、十分な待遇が得られる訳ではない現実がある。
佐助はその様な現実を嘆いた。

─────

しかし才蔵はそう受け取れなかった様である。

「俺を買ってくれるのはありがたいが、金に目が眩んで何が悪い!?我々の評価は報酬が全てではないか」

佐助の嘆きが自分に向けられたものだと思い、才蔵は佐助に疑問を示してきた。
才蔵の言葉を聞いて、佐助が再び嘆く。

「可哀相な奴だ。そして勿体ない」

「俺を愚弄する気か!?」

才蔵が少し怒気を表した。
佐助は構わず、才蔵に語り掛ける。

「別に愚弄はしていない。率直にそう思っただけの事だ。俺は報酬以外で評価して貰えているのでな」

「何!?それはどういう事だ!?」

才蔵には佐助の言っている事が理解出来なかった。
佐助が誇らし気に話を続ける。

「我が主君は俺を家臣として配下に置いて下さっている」

「それは真なのか!?」

才蔵は佐助の言葉が信じられない様だった。
今度は苦笑しながら佐助が応える。

「その代わりに報酬は全然、頂けないけどな。我が主君は配流の身、故に経済的なゆとりがある訳ではない」

「そうか。その様な世界があったのか」

才蔵が寂しそうに言った。
そして佐助が男を誘う。

「お前も来るか!?」

「何!?それはどういう事だ!?」

才蔵は佐助に確認をした。
佐助が詳しく話し聞かせる。

「我が主君は高齢故、もう戦場に出る事は無いだろう。しかし後継者である信繁様であれば、お前が仕えるに十分な人物であると俺は思ったまでだ」

「俺も配下として加えて貰えるのか!?」

再び才蔵は佐助に確認をした。
佐助が自信あり気に言う。

「俺が推挙すれば不可能ではないだろう。ただし、報酬は期待するなよ」

「確かに魅力的な話ではあるな」

才蔵は佐助の誘いに関心を寄せた。
佐助は手応えを感じる。

「悪い話ではないだろう!?」

「ああ。しかし、それは叶わぬだろうな」

才蔵は佐助の手応えを打ち消すかの様に言った。

第一話/朱雀と青龍

2016年03月01日 | 一章/捨てきれぬ誇り
武士(もののふ)とは。

『困難に立ち向かう事の出来る者』

主君である真田昌幸の言葉であった
そして、その困難を乗り越えて、初めて武士としての評価が得られるのだろう。
佐助は今、正に、そんな困難に直面していた。

猿飛佐助。

紀州にある九度山に蟄居中の真田家に仕える忍者である。
昌幸はそんな佐助を武士として扱ってくれるのだ。

この時代はまだ、その様な見方は一般的ではない。
武士と忍者には明確な区別がされており、あくまでも忍者は忍者でしかなかった。
どんなに努力を積み重ねても、忍者が武士になる事は出来ない。

主君である大名や武将に仕える形で、忍者は道具として存在していたのである。 
そして道具も同然に扱われて、決して待遇は良いものではなかった。
だから所属する流派を抜け出す、所謂、抜け忍も後を断たない現状がある。

ただでさえ良くない待遇であるのに、流派の上層部に報酬を間引かれてしまう。
実際に手足となって働く下忍にとっては堪らない。
流派を抜け出して、自立して仕事を請け負った方が報酬は桁違いになる。

しかし自立してやっていくには、それなりの実力も必要であった。
抜け忍になると元々居た流派から裏切り者とされ命を狙われる。
自らの力を過信して抜け忍になる者は数多く居たが、その殆どは、そう長くは続かない。
ごく限られた実力者だけが、それら多くの困難を乗り越え、抜け忍として自立が出来るのである。

また佐助は甲州忍者であった。
甲州忍者は元々、武田家や、その家臣に限って雇われる存在だった為、武田家の滅亡により、それぞれ散り散りになっている。
その為、甲州忍者という流派自体が無きにも等しかった。

それらの事を踏まえた上でも、周囲を見る限りは忍者である以上、武士程の待遇が得られる事は先ず無かったのである。

そんな中で昌幸だけは違った。
他の一般的に武士と云える家臣達と同様に、忍者でしかない佐助を家臣の一人として迎えてもいたのだ。
佐助からすれば、これ以上のものはないとも言える程の厚遇である。

そんな昌幸であったが、今はすっかり衰えて、実質的な真田家の当主は信繁になっていた。
その信繁の密命を受けて、その帰途で目の前にいる男に襲われたのである。

そして、その男との死闘を繰り拡げながら、今さっき、此処に辿り着いた。
男の背後には大きな川が流れている。

大井川。

男の背後に流れている川の名である。
駿河の国にある東海道きっての難所であった。
男に導かれるままに、この大井川の河原へやってきたのである。

佐助にとって障害物の無い、この河原は好都合であった。
しかし、それは相手の男も同様であろう。
お互いの秘術を尽くす時が近づいているのだ。

此処までの死闘で、佐助は忍具の殆どを使い果たしていた。
相手の男はどうだろうか。
残っていたとしても、そう多くは無いだろう。

相手の男も、これまでの死闘で相当の忍具を消費してきた。
ある意味、佐助が消費させたとも言えるが、逆に佐助の方も消費させられていたのだ。

しかし佐助には、とっておきの術が一つだけ残されていた。
佐助は、そのとっておきの術を使う機会を伺う。

すると男は後退りをして川の中に足を踏み入れた。
佐助からすれば、こちらから迂闊に近づく訳にはいかない。
寧ろ男の方をこちらに引き寄せたかったくらいである。

佐助の秘術は火を使うものだったからだ。
障害物が無いのは好都合だが、川の水は不都合だった。
だから出来れば、もう少し川との距離を取って闘いたい。

しかし男は川の中に入ってしまった。
佐助の思惑に気付いての事なのだろうか。
それとも相手にとっては水があった方が好都合なのかもしれない。

いずれにしても、この様な状況で佐助の方から動く事は出来なかった。
相手の出方を伺うしかない。

それを承知での事なのか、男は膝下まで川の水に浸かりながら、手で印を組んで、何やら唱え始めた。

佐助は直感で危険を察知するが、かと言って迂闊に近づく訳にもいかない。
万が一に備えて、いつでも秘術を繰り出せるよう準備するしかなかった。

すると男の背後から少しずつ何かが現れる。
全体が現れると見た目には大きなヤマタノオロチの様であった。
そのヤマタノオロチの頭が一つ一つ水で出来た龍の様である。
そして頭が八つある、その水龍が四方八方から佐助に襲い掛かって来た。

これが男の狙いだったのだ。
これが男の秘術だったのである。

佐助はこの様な秘術を目の当たりにして、逃げる訳にはいかなかった。
それよりも、自らの秘術を試したくなったのだ。
すでに信繁から与えられた密命は済ませてある。
今、此処で自分が倒されたとしても、最悪の事態だけは避けられるのだ。

自らの秘術を試すには絶好の機会でもある。
また自分の秘術の方が相手の秘術を上回る自信もあった。
この様な秘術と相対する機会は、もう二度と無い事なのかもしれない。
そして相手の秘術を捩じ伏せてこその勝利であろうと思った。

本当は直接相手に秘術をぶつけようと思っていたが、それで勝利したとしても、相手を殺してしまう事にもなりかねない。
男の秘術を目の当たりにして、男を殺してしまう事が惜しくなったのだ。
相手を生かしたまま勝利する為にも、相手のとっておきを捩じ伏せる。
あわよくば、味方に引き入れる事は出来ないものかと、そんな事も考えていた。

信繁は常日頃から優秀な家臣を求めていたからだ。
これ程の男なら、味方としても大変に心強いし、主君とも云える信繁も、さぞ喜ぶ事だろう。

そして佐助は何かを口に含み、別の何かを襲い掛かって来る水龍に向けて放つ。
続け様に口から炎を吐き出した。
その炎がまるで鳳凰が羽根を拡げる様な感じで、水龍の攻撃を受け止める。

炎の鳳凰にぶつかったものから、一つ一つ水龍が消え去っていく。
しかし七つ目の水龍の攻撃で、炎の鳳凰が力尽きる様に姿を消す。
そして八つ目の水龍が佐助を襲った。

佐助は咄嗟に左腕を差し出した。
八つ目の水龍が佐助の左腕に食いつく。
佐助の左腕は折られてしまう。

それでも佐助は表情も変えずに、男の次の行動に対して注意を払う。
しかし男は前のめりになって、川の中に倒れ込んだ。

佐助は警戒をしながらも、男に近付いて男の体を川から引き上げた。
男の体を見ると、随分と窶れている。
恐らくは自らの肉体を触媒にして、川の水を用いヤマタノオロチを作り出す技だったのであろう。

男は意識朦朧としている様だ。
それでも正確に状況の把握も出来ている様だった。
引き上げられた河原の上で男が口を開く。

「何故!?俺を助けた?」

「別に助けた訳じゃない。お前を水の中に置いておく方が危険だと判断した」

佐助は半分の本音と半分の方便で応えた。

「そうか。それは賢明な判断だったな」

男はそう言うと気を失った。

佐助は考え込む。
この男は一体、何者なのか。
何故、自分を襲って来たのか。
更にこの男を味方に引き込む事は可能なのか。

佐助は様々な事を考えながら、折られた左腕の応急処置をして、自らの体力回復を図った。
そして改めて、男の実力に感心をする。
更には取り敢えずの危機を脱した事による安堵感に包まれてもいた。