厖大な量になってしまった「武富健治論」も今回で幕を閉じる。その掉尾を飾って、観劇論を述べながら、「鈴木先生」における読者教育について論じていこうと思う。
まずは、いきなり過激な言葉から入ろう。
演劇における観客は窃視者である。
こう書くと、いささか驚く人がいるかもしれないが、劇場に芝居を見に行くということは、原理的には覗き見することなのである。
舞台の設定は、たとえば一幕物で家の中が場面の舞台とすると、その部屋の観客側の一枚の壁を取り払った部屋の中で行なわれている出来事を観客は覗き見るという構造になっている。
演劇はフィクションである。フィクションであろうが、見ず知らずの他人が仕出かした密室の悲劇を覗き見て、自分事のように感情を高ぶらせる。そのことをアリストテレスは「悲劇の快」と述べたが、それはカタルシス効果ばかりでなく、他人の不幸は蜜の味的な感情も交じっていないとは言なくもない。
映画はもちろん、テレビを見る行為も窃視といえる。ドラマばかりでなく、たとえニュースであっても、遠くで起きた出来事をテレビという穴から覗き見ているのである。
私たちの日常は、覗き見が常態化しているのだ。
「鈴木先生」においても、教室ばかりではなく、喫煙室、生徒指導室とか、出入りの限られた人のプライベートな会話を読者は覗き見ては楽しんでいる。
手軽にスマホで映画やテレビが見られる現代社会にあっては、私たちの視線はいつのまにか覗き見テクノロジーの影響下に置かれている。つまりは、知らないうちに私たちの視線は教育されているのだ。
演劇には演劇の、映画には映画の、漫画には漫画の、テレビにはテレビの視線誘導の文法があるのはもちろんだが、この中で一番厄介なのはテレビだろう。住居のいたるところ(各部屋一台、それにスマホ、タブレット)に「空いた穴」からのべつ幕なしに垂れ流される情報によって、私たちの物の見方はいつのまにか教育され、テレビ映像をお手本として、日常の諸風景をみているのではないだろうか。
それではテレビによって知らずのうちに私たちに染みついた視線とはどんなものをいうのか。
現在のテレビの見方は、リモコンを片手にチャンネルを次々に変えて、面白い番組に出会うとしばらく滞在し、飽きるとまたチャンネルを変えるといった、ザッピング方式が主流ではないだろうか。
番組欄を見たり、毎週お目当ての番組を見るという人もいるかとは思うが、生まれた時からインターネットが普及して小さい頃からインターネットに慣れ親しんだデジタルネイティブ世代はとりわけじっくりテレビを見ようとはしないように思われる。
ネットサーフィンのように、次から次へと視線が移り、テレビを見ていてもほとんど視座というものが存在しないかのような状態になっているのではないか。
まして、電車を待つわずかの時間でさえ、人々はスマホの小さな「穴」を覗きこんでいる。生活のいたるところで情報が溢れだし、いっときも休むことなく視点が入れ替わっている。確かな視座のもと、自分独自の視点でものを見るということはもはや失われたように思われる。
風景にしても、人にしても、テレビのチャンネルを変えるようにして、ちらちら覗き見して、正面切って相対するということがないのではないか。
喫茶店や飲み屋では、二人連れがスマホをちらちら見ながら、話している姿を目にする。会話さえこうであるのだから、対話などもう過去の遺物かもしれない。日本社会にはもともと対話など存在しないという見解もあるが、現代は会話を越えて、さらに視線の問題へと人間関係は新たな局面を迎えている。
冒頭に戻ろう。一巡して演劇の話。
演劇における覗き見は、しかしながら、確かな視座を要求される。フワフワした視線ではなく、どっしりとした見据える視線が観劇における視線のあり方なのだ。
観劇の作法が身についていない者にとって演劇はさぞかし苦痛だろう。ザッピングテクノロジーに毒された現代人にとって劇場は退屈以外なにものでもないにちがいない。
変わりばえのしない景色を見させられ、同じところでじっとしていなければならない。少々照明が変化したところで、暗転で場面が変わったところで、普段から刺激に溢れたテクノロジーの景色を見慣れたものにとっては、何とも耐えられないつまらな景色に映るだろう。終演を迎えた時には、這う這うの体で劇場を後にするに決まってる。
演劇をコントのようなものと勘違いしているものにとってはまさに悲劇である。「お笑い」ごときのエンターテイメントは演劇の本質ではない。
演劇の本質はまさしく悲劇である。
悲劇とは、その結末が死で終わるとか、悲惨であるとか、そういたものではない。それは通俗的な解釈。そうではなく、運命に操られ、先の見えない状況に陥った主人公が格闘して生きるさまを描いたものが悲劇である。
舞台上の悲劇を見る観客は、主人公の視点に感情移入しながらも、実のところ、主人公の運命を知っている。観客は神の視点で劇を見ている。ドラマティックイロニーってやつ、である。
同じ劇場で観るものでも、それが映画と違うところ。あらかじめ筋書きを知っていて見るのが演劇の醍醐味なのだ。
主人公の視点と神の視点を行ったり来たりしながら、観客は劇世界に入り込んでいく。そこには、劇世界を俯瞰する場所中心的自己と主人公の視点で世界を見る自己中心的世界を一致した確固とした視座がある。
その悲劇体験を繰り返し、ようやく観劇の作法が身についてくると、その確固とした視座も出来上がってくる。
演劇の世界には、見巧者と呼ばれる人たちがいる。
見巧者は初心者とはまったく違った劇の見方をする人たちのことである。
たとえば、演劇を見始めたばかりの初心者は、セリフを言っている俳優ばかりに目が活き、筋を追うことで精いっぱいである。
しかし、見巧者は舞台全体を見渡しながら、セリフを聞くばかりではなく、セリフを言っていない俳優の仕草でも見逃さない。
説明しよう。
初心者が自己中心的自己のパースで一杯いっぱいなのに対して、見巧者はまさしく場所中心的自己が開け、全体の流れを把握しながら、舞台上の好きな俳優に自己移入している。
自己移入とは、俳優の身体を借りて舞台上に自分を載せてしまうことにほかならない。
見巧者は客席から離脱して舞台上の俳優に乗り移るのである。
集中の度合いが増すと、場所中心的自己も現れる。劇の流れに沿って劇場を身体にして呼吸している。自己移入した俳優ばかりではなく、全体の俳優を見ながら、演劇を堪能するのである。
観劇することを教育だといったのは、あの有名なブレヒトであるが、演劇はテレビを見るようにチャンネルを変えることができないばかりか、映画を見るように、カメラのフレームワークに視線を誘導されることはない。確かに演劇好きはいる。演劇のストーリーに感激したという話を聞く。しかし、先に述べたように演劇の醍醐味はそこにあるのではない。
同じ演目の芝居を何度も観ている見巧者は、舞台上に視点を這わせ、舞台全体の流れを俯瞰しながら、舞台上に視点を這わせ、ストーリーよりも、俳優の言い回し、しぐさに面白みを発見する。見巧者は劇に同化して感激するだけではなく、自分から離れ批評的に劇を見ている。
いわば、自己中心的自己と場所中心的自己の一致したところに視座を置き、演劇を見ているのである。
武富健治論の最後に観劇論という観客の立場から演劇を論じた文章を書いたのには相応の意味がある。
「鈴木先生」の読者は、「鈴木先生」を読み進めていくうちに、コマからコマへ視線を這わせるばかりではなく、逆戻りしたり、コマの中の脇にいる人物の表情が気になったりするようになるのではないか。それはとりもなおさず、通常の漫画では見られない情報の過剰によるものであり、読者はその情報を自主的に選択しながら、全体の流れを構成しているのではないだろうか。
たしかに読み始めたころは、コマからコマへと誘導させられる。たしかに文字の過剰にうんざりする。しかし、いったん「鈴木先生」の世界に入ってしまった者は、除法の過剰に巻き込まれながら、その世界に没入していくのではないだろうか。
演劇における見巧者のように、舞台上の俳優のセリフ、しぐさ、動きにくまなく視線を這わせながら、その劇を楽しむように、「鈴木先生」の読者も文字、表情、線の過剰を主体的に消化しながら、いつのまにか自己から離れ、「鈴木先生」の世界を楽しんでいる。
いみじくも、読者は、そのとき、見巧者と同じように、視座が確立している。
「鈴木先生」は学校教育でもなしえない、視線教育を読者に施している、と言ったら言い過ぎだろうか、いや、まんざら、間違っているとも言えまい。
読者の観点から「鈴木先生」を論じ、武富健治論を締めくくることにする。
「武富健論1~34」、長い長いお付き合い、本当にありがとうございました。
「武富健治論」をしたためながら、「鈴木先生」の奥深さに触れるとともに、自身も数多くの気づきを与えられ、10月に開校する「愚放塾」の教育指針になるような確固たる柱を築くができたことは、なによりの収穫でした。