内気な風景

日々の雑記

わが心のオルガン

2005-09-22 | 妄想無上 わ
初恋映画No.1の不動の地位を占めるはずだった『初恋のきた道』をあっさり逆転した映画である。中国の巨匠監督の作品の格調の高さ、芸術性には遥かに及ばないし、ラストまで畳み掛けるような「感動」的なエピソードの連発があるわけでもない。けれど平凡さ直球勝負のこの映画を私はこよなく愛しく思う。
二枚目男優でありながら、善良・誠実・純朴な新人教師を嫌味なく演じられるイ・ビョンホンはやはり稀有な存在だ。彼はきどった役よりこういう素朴系の役にこそ本領が発揮できる。上辺だけのイメージ・チェンジなどしてほしくない。
26歳で「17歳の小学5年生」を演じたチョン・ドヨンのはじめるような笑顔は理屈ぬきで観る観る度心が温かくなる。実はどこかに彼女の若手演技派女優の面目躍如たる見せ場のシーンがあるのではないかと予想していたのであるが、それは外れた。ホンヨンがカン先生に自分の心情を吐露するシーンもカン先生を諭すシーンもないのだ。だからこそかえってホンヨンの恋心に気づかないカン先生の鈍感さにいらだちながら、ホンヨンの「初恋のゆく道」を気遣う思いを最後まで維持できたとも言える。
『初恋のきた道』のヒロインは料理上手で機織りの名手の村一番の美女である。故に周囲もやがては彼女の一途な想いを叶えるべく動き始めるのも自然な成り行きだ。
しかしホンヨンは粗野でがさつで軽率なところのある平凡な女にすぎない。カン先生のために文字通り火の中・水の中に突進していく彼女に手をさしのべる者もいない。『初恋のきた道』で、割れた茶碗は娘を思う母親の心情を知った職人によって修繕され、どこかメルヘンの趣きのある作風を象徴する存在となるが、本作で割れたレコードは、ホンヨン自身が調達した新品のレコードとしてカン先生に贈られることで、カン先生の終わった初恋から、ホンヨンの終わらない初恋の象徴へと再生される。
「誰かを待っていたのではないか」と問うカン先生に「先生ったらバカみたい」と応えるホンヨン、ベンチに二人並んで座っている時の彼女の幸せそうな表情、(バケツを一緒に運んでいる姿を)「人に見られますよ。」とカン先生を制する時の少し大人びた表情には何度も笑みを誘われる。
そしてラスト、先生を見送る彼女は涙に暮れてはおらず、別れの悲しみに耐える以上に彼女の静かではあるが力強い決意が浮かんだ表情が、観客がエンドクレジットと共に画面に現われる3枚の写真によって知る彼女の初恋の結末へとの道標となる。
この映画は、とかく「過剰」に走りがちな韓国映画としては終わり方に抑制が効いている。
カン先生はあの時引き返したのだろうか。
二人の再会はどんな風で、どのように二人は愛を育んでいったのだろうか。
ホンヨンは先生を逆に虜にするほどの聡明で美しい女性に成長したのだろう。
映画が終わっても想像は尽きない。
チョン・ドヨンは後に出演した『スキャンダル』での自分の役柄の設定に不満で、「あの映画は二度と観たくない」と漏らしたというのを聞いて、私はますます彼女のファンになった。




仕立て屋の恋

2005-09-20 | 妄想無上 さ
 いらつく登場人物にいらつく展開。こういう言い訳がましい映画は嫌いである。しかし男は自分を利用し裏切った女に、最後に言うのだ。
 「僕は少しも君を恨んでいないよ。ただ、死ぬほどせつないだけだ。」
 この一言でアブナイ中年男は大天使ミカエルに華麗に変身。
 何の予兆もなく、いきなり大決壊した涙腺。
 いまだに最大瞬間号泣量を誇る映画である。

殺人の追憶

2005-09-19 | 妄想無上 さ
まずは映画のタイトルに唸らされた。「殺人の記憶」でも「○○の殺人」でもなく、「殺人」と「追憶」という不釣合いの言葉を結びつけた大胆さと緻密さ。さすがは「ほえる犬は噛まない」の監督である。韓国では興行的に失敗したという映画だが、私には韓国映画の中で一番笑わせてもらった映画であり、今までに観たコメディ映画の中でも出色の出来ばえの作品として強く推したい。私が一番期待するボン・ジュノ監督の第二作が大ヒットし、海外でも高く評価されたことは誠に喜ばしい。実際にあった事件を題材にしているとはいえ、登場人物の設定やインパクトあるエピソードのほとんどは脚本も担当した監督の創作なのである。並み並みならぬ才能を感じさせる監督の出世作のこの映画こそ最も完成度の高い韓国映画であると確信している。
この映画の前編を通してみなぎる緊張感・緊迫感には尋常ならざるものがある。サスペンス映画やホラー映画を観て、背中がゾクリとしたり、粟立つ思いがするのとはまた異質の「震え」が観る者に伝染してくるのだ。刑事たちの義憤や焦燥や挫折感を、容疑者達の不安や屈辱や自暴自棄を、そして被害者の恐怖や絶望や無念を、生々しくも体感させられる。
印象的なシーンは多いが、犯人の口笛を耳にした(被害者となる)女性が立ち止まり、あたりを懐中電灯で照らした後、夫のために所持した傘を持ちかえて一気に走り出すシーンは、冷たい雨の中草むらに長時間身を潜ませて獲物を持つ犯人の異常さを際立たせる。
そして私が「追憶」したのは中学生の時に読んだレイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」であった。この小説の中に、連続殺人が女性をまた一人絞殺した夜に、一人山道を歩いて帰る女性の話が出てくるのだ。皆の忠告を無視した分別に欠ける彼女が家に辿り着くまでの心理描写が数ページ続く。「神さま、どうか無事で家に帰れたら、もう二度と一人で外出しません」と心の中で叫びながら走る彼女の気持ちは子供心にも真に迫って、予想外の結末とともに忘れ難い。この犯人もまた「ごく普通のありふれた顔」の男なのであった。映画ではその事実を告げるのは少女であり、こちらの小説では少年であるという違いはあるが。




猟奇的な彼女

2005-09-18 | 妄想無上 ら
 拍子抜けするほど、オーソドックスな恋愛映画である。女性は理解と忍耐力のある男性に愛されてこそ幸せになれるという古風な物語だ。再会を果たした運命のカップルに快く祝福の拍手を送ればいい。
 それでも何度も観てしまうのは、おバカをやっても下品にならないチャ・テヒョン君の不思議な魅力のせいである。
 酔いつぶれてベッドで眠るヒロインを抱きかかえて水を飲ませるシーンがある。その時の彼のしぐさが実に優雅なので観る度に見惚れてしまう。その後ヒロインの寝姿に見入る表情は、ベッドで眠る白雪姫を見つけた時の小人のよう。エロティックとも言えるシチュエーションで、≪女神≫に対して邪念の無い澄んだ瞳を向けるテヒョン君は誠に素直で善良な王子様である。

恋愛恋歌

2005-09-18 | 妄想無上 ら
 チャン・ドンゴンという男優は、私にとって「韓国のアンディ・ラウ」である。つまり顔立ちの濃さ故に長らく敬遠してきたが、次第に大スターらしからぬ素直さを持ち続けている好人物ということがわかってきて、今や手を振って応援したい男優の一人である。(そーなのだよ、ドンゴン王子。旧作の鑑賞に熱心ではないので公言は控えていますけど。)
 済州島の風景をバックに立たずむドンゴン王子の姿は文句なく麗しい。彼の笑顔と穏やかな口調は、日常生活にささくれ立った心に甘露のごとく染み入る。鬱屈したものを抱えた役柄であっても、誠実さと清潔感を漂わせた好青年であることは隠しようもない。
 ヒロインに「笑顔が素敵だから、いつも笑顔でいて」と言われて、鏡の前で笑顔を練習するシーンがある。ビョン君も得意とするシーンであろうが、彼の場合巧くてもいささか「やりすぎ」の観がある。そこへいくと、ドンゴン王子は加減具合が適度で好ましい。
 この映画、二大スターの共演にもかかわらず韓国ではヒットしなかったという。
 後半にしつこいまでの「すれ違い」(<お約束>とはいえ、不自然さと思慮の足りなさにはあいかわらずイライラさせられる。ドンゴン・マジックもこれには効かない。)はあるものの、韓国ラブストリーでありながら、主役カップルは、泣きわめきも、走りも、他の誰かと婚約したりもしないせいに違いない。

リメンバー・ミー

2005-09-17 | 妄想無上 ら
 「自分で自分にしかけた罠ほどおそろし罠はない」とフィリップ・マーロウは言ったけれど、自分で自分にかけた呪縛もまた覚めない悪夢だ。「運命」と名づけた媚薬を塗った毒りんごを齧り昏睡を続ける女が選択した「物語」は、覚醒を誘う王子の登場を最初から拒絶している。

 想いを寄せていた人が選んだのは、自分の親友であったというのはよくある話。この映画には更に21年の時空を越えてヒロインが交信していた相手が、愛する人と親友の間にできた息子であったというファンタジックな味付けが施されてある。そのため、息子のインは「自分をこの世に産まれさせるために、ソウンは身を引いた」と罪悪感を抱くという設定になっている。しかしインの若者らしい正義感にも似た良心の呵責は見当違いであると、敢えて言いたい。
 夜更けに病院へと自転車を走らせ、二人の病室の窓を交互に見つめながら立ち尽くし、病院の入口が開く夜明けを待ちかねて病室を覗いたソウンが、愛する人のギプスに親友ソンミのサインを見つけた瞬間、ソウンは激しく悟ったはずであるから。二人の恋物語は自分の知らないところで既に始まっていること、自分は、二人の恋の進展と幸福な結末を見届ける脇役にすぎないことを。憧れの先輩にとって<妹>でしかない自分にはそもそも「身を引く」晴れ舞台も許されないことを。
 まるで時の流れを止めようとするかのように、唐突にトンヒの顔を手のひらで覆い(それはかつてトンヒがソンウにしたのと同じしぐさでもある)無言のまま彼に背を向けて立ち去ったソンウの表情の固さが、彼女の深い「絶望」を物語る。
 ソンウには、萩尾望都の『ポーの一族』の中の一編「はるかな国の花や小鳥」のエルゼリの面影が重なる。
 16歳の時の一夏の恋人に「捨てられ」た彼女は独身のままバラの庭で遠い日の愛の思い出を歌いながら暮らしている。「悲しみや憎しみのような行き場のない感情には耐えられない。あの人を愛していたい、それだけで幸せでいられる」というエルゼリ。「ああ、ほんとうだお城だね、と答えたあの人が世界中で一番好きだったの」とエドガー少年に話すエルゼリと、「彼が私を見る時両方の瞳を交互に見るの」と親友に話すソウンは、同じく「はるかな国」の住人である。けれどエルゼリの場合、かつての恋人の死を知った彼女が自殺を図ったことで、彼女の「愛の庭」がはかない幻想にすぎなかったことが露呈する。
 同じような意味で映画のラストに、現在のソンウと会ったインが「幸せそうにみえた」というのは悲しい嘘である。本当に幸せなら、インが入学した年に彼女が大学を去るはずはない。
 エルゼリもソウンも、心に受けた打撃と喪失感を消すために、未来を犠牲にしたのである。「一人の人を愛し続ける」という物語に人生を捧げる巫子になることに、自分のアイデンティティーを賭けたのである。

  観覧車回れよ回れ
  想い出は君には一日(ひとひ)
  我には一生(ひとよ)
                             栗木京子

オーバー・ザ・レインボー

2005-09-16 | 妄想無上 あ
 同じくイ・ジョンジェが出演した『イルマーレ』の焼き直しと言ってもいい内容であるし、しかも主人公は交通事故で記憶喪失になるという韓流お決まりの設定である。その上私は「主人公の恋人捜しを手伝うのは、密かに主人公に想いを寄せていた女性」なのだと思い込んでいたので、そうではなく女性は実は主人公の親友の元恋人という話だとわかった時には面食らった。しかし私は、『イルマーレ』がとても好きなように、この映画の雰囲気も好きである。親友の心情、記憶を喪う前の主人公の親友に対する心情等、大事なポイントが曖昧なのが気になるところではあるが(『イルマーレ』同様突っ込み所には事欠かない。)
 それにしても、韓国の恋愛映画において男性は泣いたり、走ったり、とかくオーバーアクションが多いのに、イ・ジョンジェは実際には列車から飛び降りたり、車を飛ばしたりしているにもかかわらず、常に「静寂」の中に身を置いているかのような印象を与える。かつての後輩(女性)から「考え事をしている時は口元が引き締まる」と指摘されるいような内向的で繊細な青年を品良く演じている。
 彼の立ち姿はいつ見ても美しいと思う。そして細くて長い指に見惚れてしまうのもいつものことである。

インファナル・アフェア

2005-09-15 | 妄想無上 あ
 香港映画は中国返還以後すっかりパワーダウンしたと言われ、特に日本ではこの映画の公開当時に既に韓国映画の攻勢が目立ち始めていた。かくいう私もすっかり重心は韓国映画寄りになっていたのであるが。
 香港映画の底力を見せつけられる作品だ。香港ノワールの伝統を踏襲しつつも、スタイリッシュな映像とスピーディな展開で、登場人物達の錯綜する関係と心理を捌いて行く見事さには脱帽するばかりである。男達が死花を咲かせる壮絶な銃撃戦をクライマックスシーンに配置することでカタルシスを昇華させていた過去の作品から格段の進化を遂げていることに驚きを隠せない。
 長年の潜入捜査の疲れと気持ちの揺れを全身で表わすトニー・レオンの柔軟かつ安定感のある演技にはいつもながら唸らされるが、アンディ・ラウの台詞や動作に最小限の≪泣き≫しか入れていない役者ぶりにも感心した。
 『ギャング・オブ・ニューヨーク』を観たという友人に感想を聞いたら、「主役はレオナルド・ディカプリオでもダニエル・デイ・ルイスでもなくて、ニューヨークの街そのもの。監督は人間ではなく、ニューヨークの街そのものを描きたかったのだと思う。」とのことだった。
 この映画のリメイク権を早々に買い付けたハリウッド映画界の鈍感さと無礼さが腹立たしい。たとえこの映画の製作側はビジネスとして割り切っていても。潜入捜査ものの犯罪映画ならニューヨークでもロサンゼルスでもシカゴでもお手のものだと考えているのだろう。しかしこの映画は香港という特異な歴史と事情を背負った街自体が主役であるものなのだ。プロットが同じで、テイストの違う映画はあってもかまわないが、『インファナル・アフェア』のリメイクを名乗ってほしくない。
 屋上で相対するヤンとラウの頭上に広がる香港の空の色を忘れることはできない。

ロンゲストナイト

2005-09-13 | 妄想無上 ら
 「ヒーロー・ネバー・ダイ」よりもこちらを買う。スキンヘッドのラウチンさんも武田さん評通りのクールさがビシっと決まっている。香港ノワールにおいては異色のキャラクターと言えるのではないか。
 悪徳警官のトニー、正直なところこういう役の彼を観るのは心苦しい。しかし、窮地に陥った時の表情と変化となると、さすがの巧さである。彼の必死のあがきが画面にシミのように広がって行く。
 ラストは、主役の二人は生き残れないという香港ノワールの定石を踏んではいるが・・・
 この種の香港映画には、最初はテンポも良くストーリーの展開を期待させるような勢いが感じられても、最後の方で「たが」がゆるんで、失笑せざるをえなくなるケースがけっこうあるような気がする。それこそが香港映画の醍醐味のひとつと言い切るには、私はまだまだ修行の足りない未熟者だ。
 「The Longest Nite」という英語タイトルはなかなか映画の雰囲気に合っていると思う。いつ明けるとも知れぬ長い長い夜、夜明けの光を浴びることなく散っていく男達。
 黒社会に生きるということは、長く酷薄な夜をやり過ごして生き抜くことなのだと、寝転びながら映画を観つつ思いに耽っていられる我が身の幸せを噛み締める夜であった。

故郷の香り

2005-09-12 | 妄想無上 か
 ありふれた物語である。中国の山奥の村に限らず、古今東西あらゆる場所で同じように繰り返されてきた物語。
 待てと言った者、待つと言った者、待てとは言えなかった者、待つとは言えなかった者、待ち続けた者、待てなかった者、待ってしまった者、待てと言ってもらえなかった者・・・・・・
 10年ぶりの再会の結末はジンハーにとって都合が良すぎるような気がする。あるいはあれから20年、30年後の再会であったのなら・・・・・・
 良心の呵責よりも次第に過去への郷愁に引き込まれて行くジンハーには、愛する男の約束を信じることにより、信じられる男を愛そうとしたヌアンの断念と覚悟を深く理解することはできないのかもしれない。
 ジンハーはヌアンの娘に言うのだ。「(北京で勉強できるよう)必ず迎えに来る」と。この期に及んで、なおも約束を口にしてしまうのは優しさ故か弱さ故か。いずれにせよ、彼は都会の暮らしに戻った後も、幾度となく約束を口にしてはその約束に縛られて、苦しんだり、悔やむことになるのではあるまいか。彼をたしなめたくもなる。しかし、ヌアンの娘を抱き締めるジンハーの、幼女にするには不似合いなほどの激しさでかき抱くその様子に、彼がそのような抱擁を交すことなくヌアンと別れたこと、そして何より遠い日に彼が、他の男に恋をして村を離れようとさえしたヌアンを見守り待ち続けていたことを思い起こし、落涙を禁じ得なかった。
 ありふれた物語である。人が人を想うせつなさと哀しさを静かに歌うばかりの映画である。
 スクリーンに映し出される風景は夢のように美しい。それは人が記憶の中に留めたいと願う一瞬の<永遠>そのものだ。