遅れ先立ち 花は残らじ

人生50年を過ぎましたので
そろそろ始末を考えないといけません
浅く深く考えたことなどを綴っていきます

WLB

2016年12月29日 | 閑話
ワーク・ライフ・バランスという言葉を1週間と聞かないことが無くなったほど、一般化したようである。趣旨は、仕事と生活の調和を目指すということだそうで、それは個人にとっても社会全体にとっても大変結構なことだと思う。もっとも、このワーク・ライフ・バランスという言葉はちょっと紛らわしい。
最も強く主張される場合の使われ方は、働きすぎ(ワークホリック)を避けて私生活に時間を割き、心身共に充実させるべきという文脈においてであろうか。これも当たり前と言えば当たり前のことであって、特に異論を差しはさむ余地もない。紛らわしく感じるのは、そんな極端な場合をいうのではなく、ごく普通の生活をしていると仕事と私生活とを全く別のものとして分けてしまうことは難しいと思われるためである。
仕事に私事を持ってくるのは怪しからんことである。サボっていると言われても仕方ない。けれど、仕事を離れて考えたことなどが仕事のヒントになることは別に珍しいことでもないし、趣味の時間であっても仕事のハカが進むということもよくあることである。それはONとOFFの切り替えが悪いということかもしれないが、人生のココからこっちが仕事であるというような切り分けは無理である。仕事も私生活も全て含めて人生に向かう態度が、また同時に仕事に向かう態度にも趣味の迎え方にもなっているのではないのだろうか。
紛らわしいというのは、ワーク・ライフ・バランスという言葉なのである。調和をバランスとしているが、バランスで思い出させるのは、普通はシーソーや天秤であり、つまり二者をこっちとあっちに分けて比較する。本当にONとOFFが厳密に切り分けられる人には違和感がないのかもしれないが、これを一体と考える者には、本来分けられないものを分けて考えるという考え方を押し付けられている印象を抱くのである。ワーク・ライフ・バランスの本来の意味はよく知らないが、おそらくこれを使い始めた人にもそのような考えはなかったのではないかと思う。けれど、バランスという言葉が、二者を分離させて考える思想を反映しているために、紛らわしく感じるのである。
これは言葉が本来持っている制約ないし限界の一例である。せいぜい言葉に騙されないようにしたいものである。
ちょっと趣は異なるが、ワーク・ライフ・バランスの話のマクラに、真面目で勤勉な日本人ということが時々使われる。この勤勉という言葉も明確なようで曖昧な言葉である。カントのような生活を送ることができるなら勤勉と呼んでもよかろうが、勤勉は明確に定義することが出来ない言葉であるし、まして自らを指して勤勉と使うこともできない。けれど勤勉な日本人などという話を聞かされると、そんなものかなあと思わせるのは、これもまた言葉に騙されているのと同じである。よくよく気を付けて使うにしくはない。
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