最近「スマホのマナー」とか「子どもとネット」などをテーマにした特集番組や論説が目につく機会が増えている。たしかに、これだけ普及すれば、それなりに問題が起きるのも当然だろう。
ただ、少々ムカつく。あれだけ、スマホやサービスをニュースや記事で煽っておいて、ちょっと問題になっただけで、もっともらしく番組にしたり、記事にしたりするマスコミの姿は鉄面皮過ぎるように思えてならない。
ニュースで「スマホが広く普及」と伝えれば、「ならスマホにするか」と思うのが自然だろう。またFaceBookなどもニュースで伝えられれば「やってみようかな」と関心を持つのが当然である。
それだから、ニュースや記事で「一定の年齢になるまでスマホは使わせない」とか「『LINE』の利用には慎重に」と主張することはない。たしかに「それは無茶すぎるだろ」という側面はあるとしても、広告主やスポンサーへの配慮が、まったくないとは断言できないだろう。
したがって、ニュースも記事も似たような結論にしか到達しない。「子どもと話しあって」「ルールを決める」というのが最も目につくようだ。もちろん、それが妥当なのか議論があるとしても、「それなりに有効」な方法という印象を持つ人も多いかもしれない。
ただ「これって携帯電話が問題になったときと同じでは?」とお感じになる方も少なくないかもしれない。
もっとも携帯電話が高度化したものをスマホと思えば、当然のことと思えなくもないが、別ないいかたをすれば「携帯電話で現れた問題がスマホで拡大再生産した」といえるかもしれない。
「ルールを決める」というの対応策にしても、携帯電話が問題になった際には「学校には持ち込まない」ルールを学校側が定め、校門で携帯電話を没収してまわったたり、「家庭での携帯電話は夜9時まで」と教育委員会が決め、両親は「それが決まり」と子どもを従わせたという話があったが、「ルールを決め」それに従わせるという発想では、「ほんとうに問題が解決するのか」という疑問が残るような気がする。
やはり肝心なのは「子どもと話しあう」という点にあるのだろう。しかし、なんの準備もなく「ルールを決めるため」に話しあっても、はたして子どもためになるののだろうか。
少なくとも、具体的な問題点を知り、子どもに自分で考え判断する力を養うことを第一に「話し合って」「ともに考える」ことを目的にすべきなような気がする。
「夜遅くまでメールしていてはダメ。どうしたらやめられるか」と話しても、一定の年齢まで育った子どもは「相手だって起きてメールしてる」と反発する可能性のほうが高いかもしれない。
それよりも「相手のご両親だって起きてきにしてるかもしれないね」のように、子どもに考えさせ「自分や相手以外のひろい関係に目を向けさせ、「けっして急がず」丁寧に話していったほうが、「ともに考える」ことはできるように思う。
多くの方が指摘しているように「いかに進歩しても」スマホに子どもの教育を任せることはできない。たしかに、それでなくとも会話が成立しにくい年代の子どもが話に応えてくるとは限らない。しかし、逆に考えれば「スマホ」という共通の話題の基盤があるといえなくもない。簡単には言い切れないが、SNSの話題などで話が弾むことだってないわけではないだろう。
なにも「スマホ」とか「ルール」と意識しないで、普通の親子の会話に「スマホ」 をめぐる具体的な話題を持ち込むだけと考え、手を変え品を変え、粘り強く親子の会話を試みると思うほうが、親にとっての負担も少ないかもしれない。
もちろんだが、その際、親がスマホのメールを気にしながら話すのは禁物である。自分のスマホの電源を切り、子どもと真剣に向き合うことこそ、出発点なのは間違いない。
ただ、少々ムカつく。あれだけ、スマホやサービスをニュースや記事で煽っておいて、ちょっと問題になっただけで、もっともらしく番組にしたり、記事にしたりするマスコミの姿は鉄面皮過ぎるように思えてならない。
ニュースで「スマホが広く普及」と伝えれば、「ならスマホにするか」と思うのが自然だろう。またFaceBookなどもニュースで伝えられれば「やってみようかな」と関心を持つのが当然である。
それだから、ニュースや記事で「一定の年齢になるまでスマホは使わせない」とか「『LINE』の利用には慎重に」と主張することはない。たしかに「それは無茶すぎるだろ」という側面はあるとしても、広告主やスポンサーへの配慮が、まったくないとは断言できないだろう。
したがって、ニュースも記事も似たような結論にしか到達しない。「子どもと話しあって」「ルールを決める」というのが最も目につくようだ。もちろん、それが妥当なのか議論があるとしても、「それなりに有効」な方法という印象を持つ人も多いかもしれない。
ただ「これって携帯電話が問題になったときと同じでは?」とお感じになる方も少なくないかもしれない。
もっとも携帯電話が高度化したものをスマホと思えば、当然のことと思えなくもないが、別ないいかたをすれば「携帯電話で現れた問題がスマホで拡大再生産した」といえるかもしれない。
「ルールを決める」というの対応策にしても、携帯電話が問題になった際には「学校には持ち込まない」ルールを学校側が定め、校門で携帯電話を没収してまわったたり、「家庭での携帯電話は夜9時まで」と教育委員会が決め、両親は「それが決まり」と子どもを従わせたという話があったが、「ルールを決め」それに従わせるという発想では、「ほんとうに問題が解決するのか」という疑問が残るような気がする。
やはり肝心なのは「子どもと話しあう」という点にあるのだろう。しかし、なんの準備もなく「ルールを決めるため」に話しあっても、はたして子どもためになるののだろうか。
少なくとも、具体的な問題点を知り、子どもに自分で考え判断する力を養うことを第一に「話し合って」「ともに考える」ことを目的にすべきなような気がする。
「夜遅くまでメールしていてはダメ。どうしたらやめられるか」と話しても、一定の年齢まで育った子どもは「相手だって起きてメールしてる」と反発する可能性のほうが高いかもしれない。
それよりも「相手のご両親だって起きてきにしてるかもしれないね」のように、子どもに考えさせ「自分や相手以外のひろい関係に目を向けさせ、「けっして急がず」丁寧に話していったほうが、「ともに考える」ことはできるように思う。
多くの方が指摘しているように「いかに進歩しても」スマホに子どもの教育を任せることはできない。たしかに、それでなくとも会話が成立しにくい年代の子どもが話に応えてくるとは限らない。しかし、逆に考えれば「スマホ」という共通の話題の基盤があるといえなくもない。簡単には言い切れないが、SNSの話題などで話が弾むことだってないわけではないだろう。
なにも「スマホ」とか「ルール」と意識しないで、普通の親子の会話に「スマホ」 をめぐる具体的な話題を持ち込むだけと考え、手を変え品を変え、粘り強く親子の会話を試みると思うほうが、親にとっての負担も少ないかもしれない。
もちろんだが、その際、親がスマホのメールを気にしながら話すのは禁物である。自分のスマホの電源を切り、子どもと真剣に向き合うことこそ、出発点なのは間違いない。