?色の「ためいき」

ほんと世の中「わからない」ことばかり。ニュースを見ても「?マーク」が増えるだけ。そんな「?」を書き連ねてみました。

子どもとスマホ、子どもとネットを考える前に。

2014-07-31 16:29:59 | この報道に??
最近「スマホのマナー」とか「子どもとネット」などをテーマにした特集番組や論説が目につく機会が増えている。たしかに、これだけ普及すれば、それなりに問題が起きるのも当然だろう。

ただ、少々ムカつく。あれだけ、スマホやサービスをニュースや記事で煽っておいて、ちょっと問題になっただけで、もっともらしく番組にしたり、記事にしたりするマスコミの姿は鉄面皮過ぎるように思えてならない。

ニュースで「スマホが広く普及」と伝えれば、「ならスマホにするか」と思うのが自然だろう。またFaceBookなどもニュースで伝えられれば「やってみようかな」と関心を持つのが当然である。

それだから、ニュースや記事で「一定の年齢になるまでスマホは使わせない」とか「『LINE』の利用には慎重に」と主張することはない。たしかに「それは無茶すぎるだろ」という側面はあるとしても、広告主やスポンサーへの配慮が、まったくないとは断言できないだろう。

したがって、ニュースも記事も似たような結論にしか到達しない。「子どもと話しあって」「ルールを決める」というのが最も目につくようだ。もちろん、それが妥当なのか議論があるとしても、「それなりに有効」な方法という印象を持つ人も多いかもしれない。

ただ「これって携帯電話が問題になったときと同じでは?」とお感じになる方も少なくないかもしれない。

もっとも携帯電話が高度化したものをスマホと思えば、当然のことと思えなくもないが、別ないいかたをすれば「携帯電話で現れた問題がスマホで拡大再生産した」といえるかもしれない。

「ルールを決める」というの対応策にしても、携帯電話が問題になった際には「学校には持ち込まない」ルールを学校側が定め、校門で携帯電話を没収してまわったたり、「家庭での携帯電話は夜9時まで」と教育委員会が決め、両親は「それが決まり」と子どもを従わせたという話があったが、「ルールを決め」それに従わせるという発想では、「ほんとうに問題が解決するのか」という疑問が残るような気がする。

やはり肝心なのは「子どもと話しあう」という点にあるのだろう。しかし、なんの準備もなく「ルールを決めるため」に話しあっても、はたして子どもためになるののだろうか。

少なくとも、具体的な問題点を知り、子どもに自分で考え判断する力を養うことを第一に「話し合って」「ともに考える」ことを目的にすべきなような気がする。
「夜遅くまでメールしていてはダメ。どうしたらやめられるか」と話しても、一定の年齢まで育った子どもは「相手だって起きてメールしてる」と反発する可能性のほうが高いかもしれない。

それよりも「相手のご両親だって起きてきにしてるかもしれないね」のように、子どもに考えさせ「自分や相手以外のひろい関係に目を向けさせ、「けっして急がず」丁寧に話していったほうが、「ともに考える」ことはできるように思う。

多くの方が指摘しているように「いかに進歩しても」スマホに子どもの教育を任せることはできない。たしかに、それでなくとも会話が成立しにくい年代の子どもが話に応えてくるとは限らない。しかし、逆に考えれば「スマホ」という共通の話題の基盤があるといえなくもない。簡単には言い切れないが、SNSの話題などで話が弾むことだってないわけではないだろう。

なにも「スマホ」とか「ルール」と意識しないで、普通の親子の会話に「スマホ」 をめぐる具体的な話題を持ち込むだけと考え、手を変え品を変え、粘り強く親子の会話を試みると思うほうが、親にとっての負担も少ないかもしれない。

もちろんだが、その際、親がスマホのメールを気にしながら話すのは禁物である。自分のスマホの電源を切り、子どもと真剣に向き合うことこそ、出発点なのは間違いない。

静かな厨子の海岸に考えること。

2014-07-30 12:54:17 | この報道に??
今年の厨子は海岸が静からしい。
もっとも、なんらかの理由で海水浴客がマナーを守ることになったからではない。

ご存知の方も少なくないと思うが、いわゆる「全国一厳しい海水浴場条例」で「海の家以外での飲酒やバーベキュー」や「拡声器を使った音楽」に加え「海水浴場での入れ墨(タトゥー)の露出」さえも禁止し、警備員を四人常駐させ、パトロール用の臨時職員などで巡回しているというのだから、「まあ当然のこと」かもしれない。

しかし、それが条例がめざす「静かなファミリービーチ」のあるべき姿なのか、意見は大きく分かれるようである。個人的には「静かなファミリービーチ」というより「戒厳令下の厨子海岸」のように思えてならないのだが、それは人によって違うだろう。

おそらく「マナーの悪い海水浴客の迷惑行為をガマンしている住民の立場になってみろ」と「騒音」や「ゴミ放置」の被害を訴えるかもしれない。それは理解できる。

個人的な事情で申し訳ないが、お花見で有名な公園の近くに長く住んでいたので、
「お花見」客が毎年繰り広げる乱痴気騒ぎが、近隣住民によって「どんなに迷惑なのか」は実体験で想像はつく。なにしろ、海水浴やお花見に来る方は「一日だけの楽しみ」かもしれないが、そこで暮らす住民には連続するのだから「ガマン」の限度など越えてしまうような事態なのは間違いない。

しかし、それでも「全国一厳しいお花見条例」はなかったし、住民から区や公園の管理者に「条例でなんとかして」という声も、知っている限りでは起きなかったように記憶している。

だからといって、お花見客のすべてがマナーを守ったいたわけではない。毎年、公園の利用時間を超えても大騒ぎしているお花見客はいたし、なかにはパトカーのお世話になるグループもいることはいた。それでも、「ゴミ箱」大きくし目立つ場所に設置し、閉園時間にある程度の音量で「蛍の光」を流すようにしたくらいで、警備員を常駐させるようなことにはならなかった。

これからはわからないにせよ「全国一厳しいお花見条例」を定めなかったのは、区や公園の管理者の見識なのだろう。個人的には、条例で禁止するよりは遥かに好感を持つ。

厨子には厨子の事情があったにしても、なんでもかんでも「禁止」と定めるのは、どこか「おカミが決めたとおりにしろ」という権威意識が透けて見えるような気がする。学校では「校則」、携帯電話やスマホを持てば「つかいかたの決まり」海に行けば条例。このような社会では「自分で考え自分を律する」という発想は生まれないし、「マナー」という発想も根づかないだろう。

「決まり」や「規則」で戒厳令のような社会のストレスから、逆に「これまでは起きなかった」犯罪が頻発する可能性さえあるかもしれない。

厨子の条例でそこまで考えるのは考え過ぎだろう。それしかったのかもしれないが、「なんでも禁止」の「戒厳令の海辺」で「自分で考え自分を律する」こともできない夏の一日を過ごすのだけは、ご免蒙りたい。

長崎の事件を伝えるニュースやワイドショーを考えてみた

2014-07-29 15:58:44 | この報道に??
はっきりいって長崎の事件を、ニュースやワイドショーで騒ぎたてるのは、もう勘弁して欲しい。

もちろん、あまりにも衝撃的な事件なので報道するのは当然かもしれない。しかし「事件だ、事件だ」とばかり「新事実がわかりました」などと騒ぐワイドショーの司会者の顔を、被害者のご家族は「どんな気持ち」で見るのか、想像しただけで心が痛む。

あるいは「生命(いのち)を守る道徳教育を」などとしたり顔でタレントが、加害者のご家族や、同級生をどれほど傷つけるのか、ワイドショーの関係者は考えないのだろうか。

淡々と事実を伝えるニュースは別にして、解説やコメントがつきまとうワードショーは、このような衝撃的で深刻な事件を素材に放送できる能力はない。あれもこれもとツメ込む構成も、自分の価値観とあわない情報は理解せず結論ばかり急ぐ司会者も、自分が映る機会を貪欲に狙うタレントも、思春期の少女が、クラスメートを殺害した事件を考え語る能力に欠けているように思えてならない。

まして加害者のプライバシーを暴きたて「問題行動があった」と極悪人に描こうとするに至っては、加害者の「心の闇」に近づき、「再び同じような事件が起きないように」教訓を考えることに、何らかの役に立つのか疑問である。

思春期の少年少女の心を、想像することは難しい。それでなくとも、日々、さまざまなに揺れ、ときには絶望する少年少女を、大人の尺度で理解しようとしても無理だろう。まして「人を殺してみたかった」と報道された供述のみを取り上げ短時間で解説しようとしても誤った方向に向く危険性もある。

ワイドショーにありがちな、短時間で結論めいた教訓に導くテレビやワイドショーの方法は、この事件にもっとも相応しくないだろう。

揺れる思春期の心を垣間見るには、時間をかけて少年少女と対峙し、どんな小さな変化にも、真剣に語りあうことぬきには、この事件の深い闇に近づくことは難しいだろう。そのことをしないで、まるで機械のように「生命(いのち)を守る教育」を対置したとしても、一生を悔いて過ごすしかない加害者のような少年少女を救うことはできないかもしれない。

けっして急いで結論を出さず、少年少女が直面する可能性のある「心の闇」に真っ向から向かって乗り越えていくために、必要な環境を整え支えていくために、大人が「できること」を、じっくりと考えていくことが必要だろう。

やはり、短時間で結論めいた教訓に導くテレビやワイドショーは、そのために相応しいとは考えにくい。

「NHKスペシャル STAP細胞 不正の深層」に落胆

2014-07-28 11:14:52 | この報道に??
昨夜の「NHKスペシャル STAP細胞 不正の深層」は、いったいなにを訴えたかったのか、いまもって不思議なままである。「NHKスペシャル」というと「良い番組」という幻想もあり、それ故の先入観があるのは否定しない。

まして、この番組の取材の過程で「NHKの取材班に追いかけ回され、頸椎(けいつい)ねんざなどの全治2週間の負傷を負った」と小保方さんが弁護士を通して訴え、それなりの注目を集めていた。

NHK側は、小保方さん側に謝罪のうえ「(そのときの)取材テープが使わない」としたらしい。

もっとも、個人的には「右手が痛いので実験に支障が出るのが非常に悔しい(朝日デジタル 7月24日)」という小保方さんのコメントと、「実験に支障」と大きく報道するマスコミの姿勢に「胡散臭さ」を感じてしまい、「最悪でも2~3週間遅れるだけじゃないの」と単純な疑問を拭えないでいる。

もっとも「そんなことはない、STAP細胞は小保方さんだけができる特別な手法が必要なのだ」という意見もあるようだ。それに対しては「そうかなぁ」と疑問を抱き「それじゃ、科学ではなく『一子相伝』の職人ワザだろぉ」と思うが、「それが科学だ」と断定されれば「それまで」かもしれない。

ただ、小保方さんに怪我をさせてまで取材した内容が、明確に見えてこなかったこなかった点は、(自分の理解力のなさは棚あげして)残念であるとは思う。その代わり?、理研の研究機関とは思えない体質は、かなり伝わってきたが、それとても、これまでも理研の対応から露骨に匂っていたことのように思えるので、それを「不正の深層」とするのはNHK特有の自画自賛にしか感じられなかったのは大きなマイナスだろう。

そもそも、「STAP細胞はあるのか」と視聴者の興味を煽りつづけてきたマスコミ自身を省みる姿勢が、ほとんどなかったのは、正直なところ落胆せざるを得なか
った。

あえていえば、「STAP細胞」を「夢の細胞の大発見」のように騒ぎたてつづけるだけでなく、その発見者もキャラクターまで祭り上げ大騒ぎしたマスコミにも「不正の深層」の責任の一端があるような気がしてならない。

とりわけ、キャラクターの「割烹着」や「ブランド品」など科学とは無関係なところにまで大騒ぎしたため、意地悪かもしれないが、キャラクターが「舞い上がり」、なんでもマスコミを通して発表する方法に徹したのも、騒ぎを大きくしたのだろう。

「STAP細胞」については、小保方さん中心に発表した論文によって、無関係な第三者が「再現」できるかどうかで判断するのが正解であって、論文が撤回された現在、「レシピ」などとマスコミに発表するのは、残念ながら「科学とは無縁」である。

たしかに、マスコミに「報道するな」というのは間違いだろう。しかし、興味本位に騒ぎたてるのがマスコミの本当の責務ではない。もっとも大切なのは「科学者が、なぜ不正を疑われるようなデータ処理をしてしまったのか」を、理研の体質や研究環境だけでなく若い研究者をめぐる環境やPCやスマホの普及による「コピー&ペースト」に対する良心の麻痺など、「深層」というなら深く追求すべき材料は多いはずである。

そう考えると、「NHKスペシャル STAP細胞 不正の深層」は、物足りない思いばかりが残ったといわざるをえない。正直なところ「STAP細胞 不正の深層」よりも次回の「知床 ヒグマ 運命の旅」のほうが期待が持てるし、再放送にしても「シリーズ 故宮」のほうが見たいと思う。

「熱中症」の時期、「クールビズ」や「サマータイム」よりも経済成長を忘れ「ゆったり」「のんびり」で

2014-07-27 15:56:09 | この報道に??
暑い日がつづいている。天気予報では「熱中症」への注意が呼びかけられ、ニュースでは「熱中症で搬送」が伝えられ、なかには残念な結果になってしまった事態も伝えられている。

極端かもしれないが、もっとも暑い時間帯に街に出ると「生命の危険」を感じるほど「暑い」。気象庁によれば「翌日又は当日の最高気温が概ね35℃(※1)以上になることが予想される場合に『高温注意情報』を発表し、熱中症への注意を呼びかけ(気象庁ホームページ 高温注意情報)」ると定められているので、けっして油断してはならないのは確実だろう。

ところが、「高温注意情報」が発令されても台風や豪雨ほどの危機感持つ方々は多くはないようである。それだから学校から「熱中症」で倒れた児童や生徒が搬送されたり、スポーツの応援団が搬送されるような事態が起きるのだろう。

最近では、テレビの気象情報でも「高温注意情報」や「熱中症へ注意」が伝えられ、「熱中症」への対策も詳しく紹介されている。それにもかかわらず、「熱中症で搬送」が減らないのは、どうやら「暑さ」への警戒感が希薄な傾向が根強いからかもしれない。

たしかに、自分もそうだが「台風が近づいているから外出は止めよう」とは思っても、「『高温注意情』が出ているから外出は止めよう」と思う方々は少ない。

やはり「暑い夏」は「外出は止めよう」のような「ひと休み」には「そぐわない」季節なのだろう。昔は「ジメジメの梅雨」も終わり、田植えが終った田圃で「草むしり」に励むには調度いい季節だったのだろう。夏は「ひと休み」よりも「ひと働き」という農耕民族のDNAが日本人には刻み込まれているのかもしれない。

しかし、同じ夏でも温暖化が進み、アスファルトやコンクリートの都市が熱気を滞留させる現代に、夏は「ひと働き」は無理があるように思えてならない。ひと昔前にも、夏は「ひと働き」の合い間には「お盆」には畑仕事を休み、先祖を迎えていたのに、今では帰省や旅行など「休み」ではなく、かえって疲れ気温を上げることになってしまっている。

そこで、ふと思うのだが「ここまで暑くなったら」「いっそ旧きに習って」はどうだろう。

テレビや雑誌には「レジャーだ、グルメだ」と情報が氾濫し、消費が奨励され経済成長がすべてであるかのような主張が目立つ。せめて「暑い夏」だけは「クールビズ」を着てまで経済成長に励むのを止めたらどうだろう。レジャーや旅行も涼しくなるまで待ち、「サマータイム」などいう過労死の原因となるようなことも止め、「暑かったら涼しいところで休む」を徹底してはどうだろう。

「クールビズ」や「サマータイム」まで使って経済成長して、はたして日本は豊かになるのだろうか。ひと昔前、お盆には休み、暑かったら「ひと休み」していた時代に比べて、「クールビズ」や「サマータイム」の時代になったからといって、使える「お金」は増えたかもしれないが、行楽や旅行に消費するだけで豊かな夏が過ごせるようになったのだろうか。

せめて夏くらいは、経済成長よりも「ゆったり、のんびり」を大切に、スローテンポに、消費を忘れ豊かさを満喫してはどうだろう。さもないと、日本そのものが「熱中症」で息も絶え絶えになりかねない.