この一ヶ月、仕事で関西地方へと出掛けていました。
ようやくコーヒーでも淹れて画面に向かう事ができたので、今までの「表現」書き方を少し変えるように意識して書いてみます。
強く感じたことは、これまでの自分が少々いいなと思っていた事が、まだぜんぜんまるっきりダメだと言う事。
何がどう駄目かをこれから書くんですが、一つに「人に対して全然優しくない」こと。
自我復元が進むにつれて、「もっと自分勝手でいい」と勘違いを起こしていた側面があることに気がついた。
もともと自分勝手なくせにだ。
自分はこれで良いんだと、へんな自信を持ってしまっていたのではないかと思い直している。
他者に対して与えることが欠けていた。
それは、相手にかける言葉であったり、行動であったりする。
「表現」 他者に対する自己表現がひじょーにヘタクソな自分がダメだ。
簡単に言えばサービス精神がない。
言わなくても分かるだろう、と思ってしまう悪い癖がある。
つまり、私はとても大雑把で、そのくせ妙なところに拘りを作ってしまう癖がある。
それは、このブログにも現れている。
実際ブログを書く事に対して途中で、こんな風に思ってしまう
「こんな事みんな興味ないだろうし、とりあえず吐き出してしまおう」とか
「言わんとしてる事は、こういう事なんだけど、みんなボクの言っている事分かってくれるだろう」など
そうやって書く事や自己表現に際して、他人に理解してくれよっ!と負荷をかけている節があるんだ。
興味持つかどうかは、見た人が判断する物であって私じゃない。
ならば興味を持ってくれた人に対しての説明部分がいい加減ではマズい。
礼儀を欠くというか、当たり前の部分の欠落だ。
店で言えば、自分のお店の商品(情報)に対して、自信をもって説明する事ができないヘボ店長だ。
それじゃあ、客は離れていってしまうし、店が潰れるのは時間の問題だ。
あの店は信用ならねぇって風に。
他者と話している最中にでも、「まあこれは言わなくても分かるだろう」で大事な部分を勝手に端折ったりする癖がある/
この勝手に端折る癖はマズい。
仕事で、説明をするときに、行程の細部を言わなかったりすると、大きな行程は小さな作業の積み重ねであるから
結局中身がスカスカになってしまう。
こうやって書いてると、「わかってるのにやらないという事は、結局身にしみて、解ってない」ということだ。
今までの自己表現である程度の人たちを、誤摩化す事はできていた。いや、みんな見て見ぬ振りをしてくれていた。
いい奴、なんか分からないけどスゴい。
人当たりもいいし、若いのに社交性もある。
実際に言われた評価を思い返すと、決して周囲の評価は悪くない。
でもこんな評価ってなんでもなくて、リップサービスでしかない事に気づいた。
というよりも、もし、私が他人なら、他に評価する点が見つからなければ、差し障りの無い言葉で評価するだあろう。
つまり、上っ面の評価であって、本質的な部分での魅力ではないことをとりあえず、評価する。
その方が、人間関係上、楽だから。
相手にこんな事言ったら、こう思われるんじゃないか?ってリスク取らなくていいし。
年が若いうちは、まだ可能性を天秤にかけて見てもらえるだろう。化けるかもっていう欲目で見られるから
でもいい年こいてからだとキツい。あいつは勝負してこなかった奴だと「見られる」だろうから。
そうすると、このままでは、きっと軽んじて見られる
今、安易なほう安易なほうでやってしまうことで、どんどん道が細くなることになっていく。
もっと踏み込んで人に接することが自分に必要で、自分に対してもっと厳しく律する必要がある。
自分のした事や言う言葉に対して責任を取るというごく当たり前な事に対して向き合っていくべきと思った。
*****
ようやくコーヒーでも淹れて画面に向かう事ができたので、今までの「表現」書き方を少し変えるように意識して書いてみます。
強く感じたことは、これまでの自分が少々いいなと思っていた事が、まだぜんぜんまるっきりダメだと言う事。
何がどう駄目かをこれから書くんですが、一つに「人に対して全然優しくない」こと。
自我復元が進むにつれて、「もっと自分勝手でいい」と勘違いを起こしていた側面があることに気がついた。
もともと自分勝手なくせにだ。
自分はこれで良いんだと、へんな自信を持ってしまっていたのではないかと思い直している。
他者に対して与えることが欠けていた。
それは、相手にかける言葉であったり、行動であったりする。
「表現」 他者に対する自己表現がひじょーにヘタクソな自分がダメだ。
簡単に言えばサービス精神がない。
言わなくても分かるだろう、と思ってしまう悪い癖がある。
つまり、私はとても大雑把で、そのくせ妙なところに拘りを作ってしまう癖がある。
それは、このブログにも現れている。
実際ブログを書く事に対して途中で、こんな風に思ってしまう
「こんな事みんな興味ないだろうし、とりあえず吐き出してしまおう」とか
「言わんとしてる事は、こういう事なんだけど、みんなボクの言っている事分かってくれるだろう」など
そうやって書く事や自己表現に際して、他人に理解してくれよっ!と負荷をかけている節があるんだ。
興味持つかどうかは、見た人が判断する物であって私じゃない。
ならば興味を持ってくれた人に対しての説明部分がいい加減ではマズい。
礼儀を欠くというか、当たり前の部分の欠落だ。
店で言えば、自分のお店の商品(情報)に対して、自信をもって説明する事ができないヘボ店長だ。
それじゃあ、客は離れていってしまうし、店が潰れるのは時間の問題だ。
あの店は信用ならねぇって風に。
他者と話している最中にでも、「まあこれは言わなくても分かるだろう」で大事な部分を勝手に端折ったりする癖がある/
この勝手に端折る癖はマズい。
仕事で、説明をするときに、行程の細部を言わなかったりすると、大きな行程は小さな作業の積み重ねであるから
結局中身がスカスカになってしまう。
こうやって書いてると、「わかってるのにやらないという事は、結局身にしみて、解ってない」ということだ。
今までの自己表現である程度の人たちを、誤摩化す事はできていた。いや、みんな見て見ぬ振りをしてくれていた。
いい奴、なんか分からないけどスゴい。
人当たりもいいし、若いのに社交性もある。
実際に言われた評価を思い返すと、決して周囲の評価は悪くない。
でもこんな評価ってなんでもなくて、リップサービスでしかない事に気づいた。
というよりも、もし、私が他人なら、他に評価する点が見つからなければ、差し障りの無い言葉で評価するだあろう。
つまり、上っ面の評価であって、本質的な部分での魅力ではないことをとりあえず、評価する。
その方が、人間関係上、楽だから。
相手にこんな事言ったら、こう思われるんじゃないか?ってリスク取らなくていいし。
年が若いうちは、まだ可能性を天秤にかけて見てもらえるだろう。化けるかもっていう欲目で見られるから
でもいい年こいてからだとキツい。あいつは勝負してこなかった奴だと「見られる」だろうから。
そうすると、このままでは、きっと軽んじて見られる
今、安易なほう安易なほうでやってしまうことで、どんどん道が細くなることになっていく。
もっと踏み込んで人に接することが自分に必要で、自分に対してもっと厳しく律する必要がある。
自分のした事や言う言葉に対して責任を取るというごく当たり前な事に対して向き合っていくべきと思った。
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