この本を読むと、鹿島茂先生が物欲的にどれぐらいダメなひとなのか、よくわかって楽しい。(「物欲的に」ですよ、もちろん)
タイトルどおり、鹿島先生がこれまでに衝動買いされたさまざまのことどもについて書かれている。衝動ガー(←いま考えたのであんまり気のきいたことばではないが、要は異様に衝動買いするひと、ということを言いたい)としてのタイプは異なるようであるが、それでも節々に私と共通する思想がかぎとれて、親近感をおぼえる。
たとえば「時計」。
旅先で同宿したウサギグッズ収集家の大学の先生に数々のコレクションを見せられる。翌日ミュージアムショップでウサギ時計を見つけたのをきっかけに、さまざまな時計を買い求めてしまう、というくだりなのだが、そのときの先生の心情がとうてい他人とは思えない。
(引用)
つい、俺も負けてはいられない(いったい何にだ!)という理不尽な対抗心が働いて、それを買ってしまったのである。
(引用終わり)
また「パソコン」。
ここで先生は太宰治の『晩年』の一節をひいている。
(引用)
太宰治の『晩年』の冒頭に「死なうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらつた。(・・・・・・)これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思った」というのがあるが、私も、もらった以上は、使ってみなくては悪いと思ってしまうたちなのである。
(引用終わり)
恥ずかしながら私はこの作品を読んでいないので想像だが、どうも太宰治はそういう文脈で書いているのではないのではないかと思われる。
まあそれはそれとして、私は熱しやすく冷めやすい。しかし冷めると言っても完全に消えてしまうわけではなく、執着だけは細々と続く、グラフに描くと反比例の曲線になるタイプ(なんのタイプか)だ。これまでの人生振り返ってみるといろいろあるが、近年ではやはり芝居と着物だろう。一年半ほどほとんど収入のない期間があったのだが、もちろん生活費や就職活動などあたりまえの入用もあったとはいうものの、それまでほそぼそと貯めていた数百万の預金をきれいに使いきってしまった。
まずは芝居。ひと月に同じ芝居を二度も三度も、またよその土地に遠征してまで見るということを覚えた。それも一度新幹線に乗ってまとめて見てくるのならまだしも、初日と真ん中らへんと楽、それぞれ出かけたりするのだからチケット代のほかに交通費も馬鹿にならない。JRのEX予約というサービスを使うとグリーン車に乗るためのポイントがたまっていくのだが、たいへんお世話になった。グリーン車はやはり良いものだ。
それから着物。それほど高価なものには手が出せないのだが、リサイクルの店でもけっこう「新品未着用」というのもあって、次から次へ、新しい店を見つけるたび、お店に行くたび何かしら買っていた。手に当たればなぎ倒す、という具合だったので、はたから見ていれば相当みっともなかっただろうと思われる。現在自宅の一間の押入れの下半分が着物ケースになっているから、何枚あるのか、いくら使ったか...数えたくもない。
この前、友人と話していて怒られたのだが、まったく持ってそのとおりで、返すことばもない。
友「そんなにあるなら売ったら!?」
私「売るほど良いものあれへんもん...」
友「そういう中途半端なものをたくさん買わないの!良いものを少しだけ持っておきなさい!」
まあそれでもこの二つはひと頃のピークは過ぎた。芝居はなるべく安いチケットを買って、遠征はほんとうに見たい芝居だけ。着物は一生着られるぐらいある。だが、業というか宿痾といってもいいのはやはり本。年間二千冊ぐらいずつ増えていくという鹿島先生にくらべれば微々たるものだが、それでも普通のサラリーマンが一生かけて読みきれるかどうか、というぐらいの冊数は持っているだろう。読む能力に対して完全に供給過多であるから、読めていない本も恐ろしいほどある。にもかかわらず、気になる本を見つけるたびに買ってしまうのだから、本にも申し訳ない限りである。いつか本の「もったいないお化け」やってくるのではないか。「虞ヨ虞ヨ 積本ヲ如何セム」である。
衝動買い日記 (中公文庫)