カエルと仁左衛門と文具と本と...

サンデー兆治は銀河に浮かぶまばゆい星

Kindleで読んだ本 鹿島茂『衝動買い日記』

2013年08月21日 10時19分06秒 | 読書

 この本を読むと、鹿島茂先生が物欲的にどれぐらいダメなひとなのか、よくわかって楽しい。(「物欲的に」ですよ、もちろん)


 タイトルどおり、鹿島先生がこれまでに衝動買いされたさまざまのことどもについて書かれている。衝動ガー(←いま考えたのであんまり気のきいたことばではないが、要は異様に衝動買いするひと、ということを言いたい)としてのタイプは異なるようであるが、それでも節々に私と共通する思想がかぎとれて、親近感をおぼえる。

 たとえば「時計」。
 旅先で同宿したウサギグッズ収集家の大学の先生に数々のコレクションを見せられる。翌日ミュージアムショップでウサギ時計を見つけたのをきっかけに、さまざまな時計を買い求めてしまう、というくだりなのだが、そのときの先生の心情がとうてい他人とは思えない。

 (引用)
 つい、俺も負けてはいられない(いったい何にだ!)という理不尽な対抗心が働いて、それを買ってしまったのである。
 (引用終わり)

 また「パソコン」。
 ここで先生は太宰治の『晩年』の一節をひいている。

 (引用)
 太宰治の『晩年』の冒頭に「死なうと思つてゐた。ことしの正月、よそから着物を一反もらつた。(・・・・・・)これは夏に着る着物であらう。夏まで生きてゐようと思った」というのがあるが、私も、もらった以上は、使ってみなくては悪いと思ってしまうたちなのである。
 (引用終わり)

 恥ずかしながら私はこの作品を読んでいないので想像だが、どうも太宰治はそういう文脈で書いているのではないのではないかと思われる。



 まあそれはそれとして、私は熱しやすく冷めやすい。しかし冷めると言っても完全に消えてしまうわけではなく、執着だけは細々と続く、グラフに描くと反比例の曲線になるタイプ(なんのタイプか)だ。これまでの人生振り返ってみるといろいろあるが、近年ではやはり芝居と着物だろう。一年半ほどほとんど収入のない期間があったのだが、もちろん生活費や就職活動などあたりまえの入用もあったとはいうものの、それまでほそぼそと貯めていた数百万の預金をきれいに使いきってしまった。

 まずは芝居。ひと月に同じ芝居を二度も三度も、またよその土地に遠征してまで見るということを覚えた。それも一度新幹線に乗ってまとめて見てくるのならまだしも、初日と真ん中らへんと楽、それぞれ出かけたりするのだからチケット代のほかに交通費も馬鹿にならない。JRのEX予約というサービスを使うとグリーン車に乗るためのポイントがたまっていくのだが、たいへんお世話になった。グリーン車はやはり良いものだ。

 それから着物。それほど高価なものには手が出せないのだが、リサイクルの店でもけっこう「新品未着用」というのもあって、次から次へ、新しい店を見つけるたび、お店に行くたび何かしら買っていた。手に当たればなぎ倒す、という具合だったので、はたから見ていれば相当みっともなかっただろうと思われる。現在自宅の一間の押入れの下半分が着物ケースになっているから、何枚あるのか、いくら使ったか...数えたくもない。

 この前、友人と話していて怒られたのだが、まったく持ってそのとおりで、返すことばもない。
 友「そんなにあるなら売ったら!?」
 私「売るほど良いものあれへんもん...」
 友「そういう中途半端なものをたくさん買わないの!良いものを少しだけ持っておきなさい!」



 まあそれでもこの二つはひと頃のピークは過ぎた。芝居はなるべく安いチケットを買って、遠征はほんとうに見たい芝居だけ。着物は一生着られるぐらいある。だが、業というか宿痾といってもいいのはやはり本。年間二千冊ぐらいずつ増えていくという鹿島先生にくらべれば微々たるものだが、それでも普通のサラリーマンが一生かけて読みきれるかどうか、というぐらいの冊数は持っているだろう。読む能力に対して完全に供給過多であるから、読めていない本も恐ろしいほどある。にもかかわらず、気になる本を見つけるたびに買ってしまうのだから、本にも申し訳ない限りである。いつか本の「もったいないお化け」やってくるのではないか。「虞ヨ虞ヨ 積本ヲ如何セム」である。



衝動買い日記 (中公文庫)

衝動買い日記 (中公文庫)


 

 
 

そして、坂東竹三郎の会...なのでござる

2013年08月13日 00時33分44秒 | お芝居


 ええ、もうタイトルのとおり。会の様子、もろもろについてはtwitterなどで多くの方が述べておられるので、ここでは改めて書かない。己の感想一本勝負(誰と...)!
(でもいい歳して恥ずかしいことを書くので、以下は読まなくてもいいです...などといまさら恥じらってみたりして)



 演目の順番は後先になるけれど、なんと言っても『東海道四谷怪談』伊右衛門浪宅の場から堀の場まで。お岩は竹三郎さん、伊右衛門は仁左衛門さん。

 圧倒的なピカレスク。幕が開いて伊右衛門の家が見えた瞬間に、もう普通の場所ではなくて、ある種の魔窟、悪の溜り場だとわかる(伊右衛門が妙にきっちり几帳面に傘貼りをしているのが、仁左衛門さんの役作りなのかご自身の性格ゆえなのか悩むところだが)。こんなたとえが適当なのかどうかわからないが、綾瀬のコンクリート詰め殺人事件がふと脳裏をよぎった。

 そこへ赤子を抱えて登場する病み疲れたお岩さんは、ひとめで周りの色に染まっていない、運の悪さと悪縁がゆえに迷い込んでしまった、極めて真っ当なおんなであることがわかる。なぜこんな羽目におちいってしまったのか嘆きながらも、まだ世間の善意とひかりの存在を信じる善良なおんな。
 そんなおんなが、善意への信仰を奪われ、おとこに愛でられた容貌を奪われ、おんなとして持っていた全てを剥ぎとられていく。鉄漿をつけたり髪をといたり、必死におんなを取り戻そうとすればするほどに、逆におんならしさがもぎ取られてゆく。伊右衛門がこれから金持ちの家に婿入りするというのに掻い巻きだの蚊帳だのまではがしていくのも、あるいはお岩がそのおんなとしての最後の最後までを奪い取られる象徴なのだろうかという気がする。

 そうして全てを失くしたあとにあらわれるのは、すでにおんなではない、ただ「お岩様」としか呼びようのないなにか。「恨めしや」「恨みはらさでおくべきか」という、笑ってしまうほどに使いふるされたこの台詞が、なんと深い恐怖だろう。


 それに対峙できるのは、ただの一人のおんなを、そんな「なにか」に変えてしまえるほどのおとこ。目の前の享楽以外にはなにも愛していない、欲望のままに他人を己の運命に巻き込んでおいて、それでなにも感じない、なにもかまわない、ただひとりで生きられるほどに強く、ただひたすらに美しいおとこ。
 金持ちの隣家にに婿にと乞われても、たぶん鬱陶しい連中に見込まれた、しち面倒くさいことになった程度にしか思っていない。言い寄るおんなにも、生娘である以上の魅力はさして感じていない。それが、多少は執着があったのだろう女房の「おんな」がなくなったと知った瞬間に、かんたんに振り捨ててしまえる自儘なおとこ。お岩を捨てて出てゆくときのあの疎ましげな目つき、汚いものに触れられた嫌悪感。
 だが、そんな別世界に生きているおとこであればこそ、逆におんなは手に入れたくて焦がれてくるってしまうのだろうか。




 お岩は「亡霊」となることで、やっとそういうおとこに釣り合うおんなになれたのかもしれない。
 そんなふたりの行き着く先を、もっと見つめていたかった。

 てなかんじ。




竹三郎さんの傘寿記念であるとともに、四世尾上菊次郎三十三回忌追善でもありました。
 

日本橋のお香

2013年08月12日 22時20分57秒 | 文具

 この暑いなか、わざわざ煉香を焚いている。

 きょうの薫りは、山田松香木店の「黒方」。


 タイトルに「日本橋」とうたいながら、また京都じゃないか!という気もするが、日本橋の高島屋で買ってきたものなので良いことにするのだ。
日本橋の高島屋は、古式ゆかしい百貨店という感じがして好きだ。(イヤダカラ、ソウイウハナシデハ)

 鳩居堂の煉香は酸っぱめな感じだけれど、こちらは伽羅が強いのか、少し甘めのにおいがしておちつく。

 そしてまたカエルどもが口をあけて集まってきている。


そして「坂東竹三郎の会」...なのですが

2013年08月12日 00時09分33秒 | お芝居


 すみませんもう眠いので明日書きます。
 とりあえず、凄かった、とだけ。小学生みたいな感想だけど。

道具屋筋で漆器

2013年08月12日 00時01分54秒 | 旅行

 先月の松竹座以来、一ヶ月足らずで再び大阪。

 今回のおめあては、国立文楽劇場で開催される「坂東竹三郎の会」。なのだが、芝居だけ観て帰るのもなんだか味けないので、少し早めの新幹線に乗ってきた。


 とはいえ、とくにあてがあるわけでもなく、炎暑のなかほっつき歩く気にもなれず。ひとまず宿に荷物を預け、近くの競馬新聞読んでるおやっさんがうにょうにょしてる喫茶店でアイスコーヒー飲んでるうちに、おっちゃんと意気投合して馬券買ったり当てた配当金をあっという間にパチスロですってしまったり、まあそんなことをゆるゆるしたあとに、ふと思いついて、ずいぶん久しぶりに道具屋筋へ行った。




 話は飛ぶが、最近思いたって漆塗り教室に通っている。今回は蒔絵や螺鈿の加飾方法を教えてもらうのだが、それにあたって、以前に京都でやはり漆塗り教室に通っていたときのお道具もろもろを引っぱりだしてきた。

 その中から発掘されたのが、すでにできあがっている漆器。といっても値が張るものではむろんなくて、蔵出しセールとか棚卸し一掃セールだとかで、店先にひとつ何百円で並んでいるようなもの。材質がプラスチックであればもうどうしようもないが、木ならば表面のウレタンなどの塗装を削り落とせば、じぶんの好きなように加工できる。もともとはそういう目的で買った品々だ。(もともと加工用に売られている器類もあるが、そういうのは買うとけっこう高い...)


 だが、そんな安物・傷物の漆器であっても並べて眺めていると、あらためてなんだか漆器って良いものだな。じぶんで塗る塗らないは置いておいて、暮らしのなかにもう少し取り入れたいな、と年齢のせいか感じてきた。

 そこで、道具屋筋。なにも出先の大阪でなくても、合羽橋でもどこでもええにゃろ。ええのやが、まあ出物水物(で合ってただろうか?)。買えるときが買いどきだ。

 ということで、今回購入したのは(主に)このふたつ。くり返すまでもなく安物だし、とくに目新しいものでもないのけれど、しばらくこのまま使ってみても良いかな、と思っている。