観光客で都会のような人混みだ。
平和とは穏やかなこんな世界を言うのかと思った。
大正池はバスの車窓から眺め上高地を後にして安曇野に移動した。
念願がかない碌山美術館の前に立った。
鬱蒼とした木々に囲まれて落ち着いた佇まいを見せていた。
地方美術館の故か来館者の姿はなく静かだ。
美術館正面入り口の扉の「ドアのぶ」を触れるようにして眺めた。
「ドアのぶ」は啄木鳥の形をして真鍮でできていた。 多くの来館者に永年に亘り触れられ啄木鳥は金色に薄黒く鈍く光って見えた。
学生時代にアトリエの隅に誰が忘れたのか、置いてあった古いカメラ雑誌に紹介されていたのを見て、何か惹かれるものを感じ、いつしか機会があれば訪れたいと思っていた。
美術館の扉を「啄木鳥のドアのぶ」に触れて引いて開けた。
赤子の手を取るようにそうと・・・。
館内に入ると中央に「トルソー」が胸辺りの高さの台に置いてあった。
高窓から夏の午後の陽ざしが差し込み展示物を明るく照らしていた。
「待ち焦がれた恋人に会えたわね。よかったわね」
涼子は弱々しい声で言いながら、宿願を果たせたことを祝福してくれた。
郊外の街道筋にある囲炉裏を囲んで郷土料理をだす田舎家に予約をしておいた。 店内は雪国にある太くて黒い柱が中央に位置し大黒柱の時代を感じさせる店構えであった。
ふたりして、夕食をしながら懐かしい当時の合宿の話に盛り上がっていた。
帰りの特急列車の出発時刻にはまだ余裕があった。
学生時代も今も若者に人気の高かったのは「歌声喫茶」だった。
信州松本は上高地の玄関口でもあり岳人の間で自然発生的に歌われていた「穂高よ さらば」など山の歌に人気が高く駅前の歌声喫茶は活況を呈していた。
時間調整に学生に戻った気分で歌声喫茶店入った。
もう、何組かがアコーデイオンを弾く調べに合わせて歌っていた。
珈琲を手に眼は小さな歌詞の本を開いていた。
ふと、話かけて来ない涼子に眼を転じた。
涼子の様子がおかしかった。
過呼吸をしている。 休日診療の時間は過ぎていた。
とにかく過呼吸を治すのが先決だと一時的な処理方法だが、医師の従兄に教えられていたのを思いだし涼子の頭に近くにあった紙袋を被せた。 驚いて一瞬、暴れたが呼吸は整いた。
反対に微熱が出て来たようだ。
帰りの予約をしていた最終列車は発車の時刻を過ぎてしまった。
急遽、泊の旅館を探したが、どこも夏シーズンで満室だった。
古い旅館には不意の来客に備え、控えの間を兼ねた女中部屋が階段下辺りにあるものだった。 しかし、ほとんどの旅館では活用することもなく、何時しか納戸になったりしていた。
部屋は狭いが、穴場のそこを探すしかない。
小さな旅館でやっと見つけてくれた。
そこは旅館と言うより古くからある商人宿の旅籠屋の控えの間であった。
冷たい寂れた布団に寝かせた。 三畳間はあるのか、暗くて狭い。
兎に角、安心した。
直ぐ傍に、朽ちかけた椅子があった。
お互いに独身である。 同室に寝る訳にはいかない。 とは言え、見知らぬ一室に心配で放る訳にもいかない。 荷物を床に置くと、意を決し、上着を脱ぎ、その椅子に疲れた身を横にした。 涼子の軽い寝息をたてて眠っている横顔には苦悩の影は微塵にも感じられなかった。
暫し横顔を見ていた。 可愛く、愛おしく感じた。
(つづく)
平和とは穏やかなこんな世界を言うのかと思った。
大正池はバスの車窓から眺め上高地を後にして安曇野に移動した。
念願がかない碌山美術館の前に立った。
鬱蒼とした木々に囲まれて落ち着いた佇まいを見せていた。
地方美術館の故か来館者の姿はなく静かだ。
美術館正面入り口の扉の「ドアのぶ」を触れるようにして眺めた。
「ドアのぶ」は啄木鳥の形をして真鍮でできていた。 多くの来館者に永年に亘り触れられ啄木鳥は金色に薄黒く鈍く光って見えた。
学生時代にアトリエの隅に誰が忘れたのか、置いてあった古いカメラ雑誌に紹介されていたのを見て、何か惹かれるものを感じ、いつしか機会があれば訪れたいと思っていた。
美術館の扉を「啄木鳥のドアのぶ」に触れて引いて開けた。
赤子の手を取るようにそうと・・・。
館内に入ると中央に「トルソー」が胸辺りの高さの台に置いてあった。
高窓から夏の午後の陽ざしが差し込み展示物を明るく照らしていた。
「待ち焦がれた恋人に会えたわね。よかったわね」
涼子は弱々しい声で言いながら、宿願を果たせたことを祝福してくれた。
郊外の街道筋にある囲炉裏を囲んで郷土料理をだす田舎家に予約をしておいた。 店内は雪国にある太くて黒い柱が中央に位置し大黒柱の時代を感じさせる店構えであった。
ふたりして、夕食をしながら懐かしい当時の合宿の話に盛り上がっていた。
帰りの特急列車の出発時刻にはまだ余裕があった。
学生時代も今も若者に人気の高かったのは「歌声喫茶」だった。
信州松本は上高地の玄関口でもあり岳人の間で自然発生的に歌われていた「穂高よ さらば」など山の歌に人気が高く駅前の歌声喫茶は活況を呈していた。
時間調整に学生に戻った気分で歌声喫茶店入った。
もう、何組かがアコーデイオンを弾く調べに合わせて歌っていた。
珈琲を手に眼は小さな歌詞の本を開いていた。
ふと、話かけて来ない涼子に眼を転じた。
涼子の様子がおかしかった。
過呼吸をしている。 休日診療の時間は過ぎていた。
とにかく過呼吸を治すのが先決だと一時的な処理方法だが、医師の従兄に教えられていたのを思いだし涼子の頭に近くにあった紙袋を被せた。 驚いて一瞬、暴れたが呼吸は整いた。
反対に微熱が出て来たようだ。
帰りの予約をしていた最終列車は発車の時刻を過ぎてしまった。
急遽、泊の旅館を探したが、どこも夏シーズンで満室だった。
古い旅館には不意の来客に備え、控えの間を兼ねた女中部屋が階段下辺りにあるものだった。 しかし、ほとんどの旅館では活用することもなく、何時しか納戸になったりしていた。
部屋は狭いが、穴場のそこを探すしかない。
小さな旅館でやっと見つけてくれた。
そこは旅館と言うより古くからある商人宿の旅籠屋の控えの間であった。
冷たい寂れた布団に寝かせた。 三畳間はあるのか、暗くて狭い。
兎に角、安心した。
直ぐ傍に、朽ちかけた椅子があった。
お互いに独身である。 同室に寝る訳にはいかない。 とは言え、見知らぬ一室に心配で放る訳にもいかない。 荷物を床に置くと、意を決し、上着を脱ぎ、その椅子に疲れた身を横にした。 涼子の軽い寝息をたてて眠っている横顔には苦悩の影は微塵にも感じられなかった。
暫し横顔を見ていた。 可愛く、愛おしく感じた。
(つづく)
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