秋光詩集

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ネコ・ウィリアムズがリバプールの知られざるチャンピオンズリーグ・ヒーローになった理由

2021-12-09 18:37:57 | サッカー
Liverpool ECHO 2021/12/08

チャンピオンズ・リーグのノックアウト・フェーズに進出したリバプールにとって、ACミラン戦でユルゲン・クロップ監督が先発メンバーを交代させるのは必然だった。
リーグカップでのメンバー変更を除けば、ウルブズで印象的な勝利を収めたときのメンバーから8人を変更したのは、レッズの監督が今シーズン行った中で最も多い。
アリソン・ベッカー、サディオ・マネ、モハメド・サラーだけがモリノックスでの試合からポジションを維持したが、彼らは2-1の勝利で活躍したリバプールチームの中でも目立たない存在だった。

ディボック・オリジが4日間で2度目の勝ち越しゴールを決め、アレックス・オックスレイド・チェンバレンのシュートがサラーのゴールにつながり、ナット・フィリップスがレッズのボックス内で華麗なプレーを披露して1人ではなく2人のミランのスターを困らせた。
もう一人、黄色の服を着た男がいた。彼はこれほど目を引くような場面はなかったが、それでも非常に良いパフォーマンスを見せた。

ネコ・ウィリアムスは、いろいろな意味で不遇の立場にある。クロップ監督のチームの多くの控え選手にも同じことが言えるが、フルバックとしてプレーすることの意味を再定義したトレント・アレクサンダー・アーノルドがチームに提供しているものを再現しようとするのは、簡単なことではない。
マンチェスター・シティは、ピーク時のケビン・デ・ブルイネのようにすぐにプレーできる20歳の選手を連れてくることができるだろうか?もちろんそうではないが、リバプールがウィリアムズを起用した場合、事実上それが求められることになる。
ミラン戦でアレクサンダー・アーノルドのような活躍はできなかったかもしれないが、この若きウェールズ人選手は、少なくとも試合の重要な部分で自己ベストを更新した。
その中でも特に注目すべきは、「パス、ドリブル、ファウルを誘うなど、シュートに直結する2つの攻撃的アクション」と定義されているシュートクリエイトアクション(SCA)に関するものだ。
それまでの2シーズン、ウィリアムズはリーグ戦と欧州で3回、2回のSCAを記録していたが、それ以上はなかった。しかし、ポルト戦では3回、リバプールのグループステージ最終戦では、両チームの選手の中で最も多い5回のSCAを記録した(FBRef調べ)。
そのうち、直接チャンスを作ったのは、後半途中にオリジが放ったヘディングシュートの1回だけだったが、3回にわたってクリエーターにパスを出し、ファウルを受けて南野拓実のシュートにつながった。
リバプールの選手がチャンピオンズリーグの試合でSCAを多く獲得したのは、今シーズンでは4回しかなく、2020/21年には3回しかなかったので、ウィリアムズは自分がゴールチャンスを作るのに貢献したことを誇りに思うだろう。
シュートにつながるパスを出していなくても、この20歳の若者はピッチ上でボールを前進させていた。アレクサンダー・アーノルドは、この試合で7本のオープンプレーパスを出したが、これはこの試合の最多記録であり、日常的に出しているものではない(今季は6回出しているが)。

リバプールの背番号76は、少なくとも量的には、25回のプレッシャーを記録した。その数は、ホームチームのラデ・クルニッチが1人だけ多く、しかも1人だけだった。

リバプールFCのファンがミラノで「ボトルと椅子で攻撃」される。

2021-12-08 20:52:13 | サッカー
Liverpool ECHO 2021.12.08

リバプールFCのファンが、ACミランと対戦するレッズのチャンピオンズリーグを観戦するためにイタリアを訪れた際に襲われたと言われています。
リバプールFCファンのグループは、市内で飲食を楽しんでいた際に、大規模なギャングに「狙われた」と主張しています。
ある男性は、事件の際に頭を殴られて縫ったとECHOに語っています。
この男性はECHOに、「小さなパブ」で飲んでいたところ、全員が黒い服を着た約30人の男たちが現れ、ボトルや椅子を投げ始めたと語っています。
彼はこう言いました。"基本的に黒ずくめの男たちが、俺たちがいた小さなパブに現れた。瓶や椅子を投げつけてきた。
「俺たちにツバを吐いたり、物を投げたりした。何人かが立ち上がって、僕はギャングの喧嘩の中心になったんだ。
「彼らは瓶や椅子を投げ、テーブルをひっくり返していた。何人かのファンは、あるバーに避難しようとしていました。
"バットかボトルか椅子かわからないもので殴られて、頭が割れた。
「私はなんとかバーの中に入り、ネズミは逃げていきました。ジェンという女の子が私の頭にタオルを当ててくれました。
"救急車のスタッフに病院に行くように言われ、頭を縫うことになりました。"

また、彼はツイッターにも投稿しています。"レッズ、ミラノでは気をつけてね。僕は今、オジー(病院)にいて、10針縫って、スキャンを待っているところだ。それが現実だ」と。
フォーンビーに住むデビッド・ジョーンズは、この攻撃を目撃し、その瞬間をビデオに収めました。
この映像では、人々がバーに入ろうと必死になっている様子が映っており、背後からはグラスやボトルが割れる音が聞こえてきます。
Twitterで公開された映像には、バーやレストランが立ち並ぶ運河沿いの人気エリア、リパ・ディ・ポルタ・ティチネーゼでの騒ぎの様子が収められていました。
ECHO紙の取材に応じたデビッドさんは、事件の際に男たちがテーブルや椅子を投げていたと語っています。
31歳のデビッドはECHOに、「運河沿いのバーでは、リバプールのファンが点々と食事やビールを楽しんでいました。時々、チャントを唱えていましたが、乱暴なものではありませんでした。
「地元のバーのオーナーが出てきて、リバプールファンと一緒に笑っていたんだけど、突然、20人以上の若者のグループが運河の前を歩いてきて、近くにある2つのバーをターゲットにして、1人の男性を襲ったんだ。
さらに、「彼らは他のバーに瓶や椅子、テーブルを投げ込み、ファンを狙っていましたが、数人のファンが立ち上がった後、グループは立ち去りました」と付け加えました。
マージーサイド警察の広報担当者によると、同警察はミラノの地元警察を支援するチームを編成しているとのことです。


えっ!トニー・クロース?

2021-12-07 14:02:37 | サッカー
リバプールはスターに署名するために週20万ポンド以上の契約に合意する準備をしました
2021年12月6日 Farjad Iftekhar


リバプールは数人の質の高いミッドフィールダーと関係があり、脚光を浴びている最新の名前は、来月32歳になるトニ・クロースの名前です。

エルナシオナルによると、レッズは準備ができている、クロップはアンフィールドのクラブにレアル・マドリードからの世界的な選手に署名するように頼んだ。

ニュース–リバプールは署名を確保するために週98,000ポンドの条件に同意する準備ができています。

カタロニアのニュースソースによると、元ボルシアドルトムントのマネージャーは、リバプールが彼の要求に耳を傾け、世界で最も華やかな経歴を持つミッドフィールダーの1人である元バイエルンミュンヘンの男性のサービスを受け入れると確信しています。

クロップは、クロースに現在ベルナベウで稼いでいるよりもはるかに高い給料を稼ぐことになる取引を提供する準備ができていると述べられています。現在、彼は週に約£200,000を稼いでいます(The Daily Mail)。

スペインの報道はさらに、レアル・マドリードは選手の離脱を望んでいないが、彼が契約を延長したくない場合、彼らは選手を維持するためにほとんど何もできません。そのようなシナリオでは、リバプールはオファーを準備しており、約百万ユーロの契約料で彼の署名を確保するのに十分である可能性があります。

フェンウェイスポーツグループが30代の選手を誘惑するために多額の現金を投入することはないため、クラブが元バイエルンの選手に5,000万ユーロを支払う可能性はほとんどありません。

クロースは2014年にワールドカップで優勝したドイツ代表の一員でした。彼は国のために106試合をプレーし、今年の欧州選手権の後に引退しました。ドイツの「皇帝」はドイツとスペインのサッカーですべての主要な賞を獲得し、チャンピオンズリーグで4回優勝しています。

チェルシーでのトーマス・トゥヘルのスタートとリバプールでのクロップのスタートを比較する

2021-11-29 17:36:27 | サッカー
Planet Football 28th November 2021

トーマス・トゥヘルはチェルシーで大きな影響を与えましたが、クラブでの彼のスタートは、リバプールでのユルゲン・クロップの最初の数か月と比べてどうですか?

チェルシーは2021年1月にトゥヘルがフランクランパードに取って代わったときプレミアリーグで9位であり、リバプールは2015年10月にロジャーズがブレンダンロジャーズから引き継いだときに10位でした。

チェルシーでのトゥヘルの最初の50試合とリバプールでのクロップの最初の50試合を比較して、誰がトップに立つかを確認しました。

統計が示すように、トゥヘルのチェルシーは1試合あたりの平均得点が多く、クロップのリバプールよりも勝率が高く、敗北率も低かった。

ブルースも2021年にチャンピオンズリーグとスーパーカップで優勝しましたが、クロップは2016年のEFLカップ決勝に敗れ、ヨーロッパリーグ決勝にも敗れました。

クロップの側は、間違いなくより面白く、ゲームあたりの平均ゴール数は多かったが、失点もトゥヘルの50試合後のものより2倍以上も多い。

トゥヘルは間違いなくイングランドでより直接的な影響を与えましたが、多くの人は彼がはるかに強力なチームを継承したと主張するでしょう。

Thomas Tuchel Jurgen Klopp

Games: 50 50
Won: 32 23
Drawn: 11 16
Lost: 7 11

Goals for: 81 85
Goals against(失点): 24 54
Clean sheets: 31 18

Points per game: 2.14 1.7
Win rate: 64% 46%
Loss rate: 14% 22%

Goals per game: 1.62 1.7
Goals against per game: 0.48 1.08

Trophies Won: 2 (Champions League, Super Cup) 0


四国を歩く

2014-09-21 21:40:05 | 旅行
    第1日 剣山
 降り立った阿波池田の駅はくすんで見えた。活気がない。駅前に信号がない。駅からまっすぐに商店街が延びているが、これもどことなく、元気がない。小さな町はたいがい、こんなものである。暇つぶしに通りを歩いてみた。木彫りの彫刻が店先に置かれている。
 本四架橋ができて20数年。できた当時は大賑わいしたであろう四国の町々も今は穏やかに余生を送る老翁のようにひっそりと暮らしている。大資本が投下された町は地元経済が崩壊し、過疎化に見舞われるという原則がここでも生きていた。政府が言う経済成長は東京の経済成長であって、地方都市とは無縁のものだ。
 駅の左前方に学校が見える。一時天下に名を馳せた徳島・池田高校である。
 駅でレンタカーを借りて剣山に向かった。静岡から乗った列車、サンライズ瀬戸は午前0時20分の発車で、乗ってから2時間ほどしか眠ることができなかった。こんな体調で大丈夫か不安があったが、明日は天気が崩れ、山頂は17メートルの風が吹くという予報が出ていたのでチャンスは今日しかない。
 実は山頂近くまでリフトが通っていて、高低差200メートルを歩けば山頂に着くことができる。山頂までリフトをつければいいのに、と思いながらリフトに乗る。いきなり石楠花の群生がお出迎えをしてくれた。ちょうどいい時期に出会ったものだ。しかしあまりすぐに現れたので、カメラを取り出すチャンスさえなかった。
 私たちが選んだ登山コースは、遊歩道という名がついている道だった。時間はかかるがそれだけ急坂がすくないはずだ。しばらくのあいだ、登っては下り、のぼっては下り、とても登山しているようではなかった。前評判とは違って、行き交う人もほとんどない。30分以上進んでからやっと山道らしくなってきた。しかし何と石の多い山だろう。白い石で子供の頃、「蝋石(ろうせき)」といって、道に線を引いて遊んだものに似ている。時に崩落した痕に逢う。そこには草木が生えていない。一方が崖になっている狭い道なので注意が必要だ。ところどころ展望のきく場所があるが、特にいい眺めというわけではない。登るにつれて道はだんだん険しくなり、登山の様相になってきた。まっすぐにひたすら登る、という登山はきついが、ここはずっと九十九折れになっているので登りやすい。ときどき休憩して息を入れながら、1時間あまりで山頂に到着。
 山頂付近ではさすがに何人かの人に出会った。別のコースを登って来たのだろう。若い人も歳の多いおばあさんも来ていた。話す言葉がやわらかな関西風で、子供の頃を奈良、大阪で過ごした私には郷愁を誘う響きがある。旅行中ずっと、話す言葉も関西なまり、出される料理も関西風の味付けで懐かしいものだった。子供のころは関西ふうの味付け、なんて自覚はなかったが、脳のどこかがまだ記憶していたに違いない。静岡に暮らして50年以上になるというのに、やっぱり関西の風土が忘れられないのだ。老後を奈良で送れないものか、と考えてみた。
 山頂にあるヒュッテに入ってみた。ジュースをたのむ。店の人は3人いたが、入ってから出てくるまでほかの客は誰もこなかった。曇っていて山頂からの眺めは、次郎岌という剣山の弟のような山は見えたが、いまひとつだった。高い山は晴天が少ないのを知っているので失望はしなかった。帰りは距離の近い道を選んだ。勾配は登りとは段違いだったが、半分くらいの時間で降りることができた。左のひざは軟骨が減っている、と医者に言われているのだが、痛みもなく、今のところ大丈夫そう。


    第1日 祖谷
 最初の泊まりは祖谷の丸石パークランドに予約していた。二重かずら橋のすぐ向かいに立つホテル、というより民宿に近い。ここで事件が起きた。着いてみると何としたことか、シャッターが閉まっているのだ。裏へまわって見たが人の気配がない。予約を忘れた? そんなことははじめてだ。途方に暮れて、今夜泊まる所はあるんだろうかと不安になった。困った挙句、かずら橋の料金所のおばあさんに尋ねることにした。おばあさんは「私が電話してあげる」と言う。「何番だったかしら」とも言う。ちょっと頼りない。「これじゃないかなあ」と言いながら電話帳の番号を指す。言われた番号にかけてみると、女の人が出る。「丸石パークランドですか」と尋ねると、驚いた様子で、「そうですが」と答える。すぐ来ると言う。果たして仕度ができているのだろうか。はたまた仕度なんてすぐできるのだろうか。
 5分ほどすると一台の車が到着した。男の人が一人。だが、その人は橋を見物に来た人だった。それから又しばらくして、電話の主が現れた。どこにでもいるようなおばあさんになりかけ、の女性である。シャッターを開けて入ると、そこはみやげ物と食事のできる店になっていた。かずら橋を訪れる客相手の店で、今日は暇なので店を閉めて帰ってしまっていたのだ。2階へどうぞ、と言う。2階はいくつか部屋があって、そのなかの「三嶺」という部屋に通された。「みうね」と読む。近くにある山の名前だ。そういえば、「丸石」も近くにある山の名前だった。風呂は近くに「いやしの温泉郷」があるのでそこへ行くようにと言って千円よこした。あきれたが、なんとなく楽しい気分になった。こういう所で楽しい気分になれるのは関西人である。関東の人はユーモアが分からない。その間に食事の仕度をして、帰って来たらすぐ食べられるようにしておくと言う。「自分、運転できるの」と聞く。相手のことを「自分」と呼ぶのは関西である。自分と呼ばれたのは何十年ぶりだろう。故郷の言葉だ。
 「いやしの温泉郷」は車で15分ほどかかる。その間に家は数軒しかない。こんなに遠い風呂は初めて経験した。「いやしの温泉郷」は田舎の風呂とは思えないほど立派で、清潔だった。客も5、6人いて、そこそこ賑わっているようだった。宿泊施設もあるようで、ここで泊まったほうが良かったね、と妻は言う。
 宿の食事は急ごしらえだが、何とか体裁を取り繕っていた。ご飯は柔らかくて、まずくはないが、そんなにおいしいとは思われない。米の銘柄を聞いてみたが、地元の米だと言う。硬い豆腐とそば米雑炊が祖谷の名物らしい。最後に出されたうどんは、コシのある食感とつるつるした喉ごしが昔食べたうどんを思い出させた。やっぱり自分は奈良の人だ、と思った。おばさんは、私は民謡をやるのです、と言う。なるほどトロフィーや優勝カップがいっぱい並んでいる。トロフィーに書かれたおばさんの名前は早苗さんというのだった。「祖谷の粉引き唄」を歌ってくれたが、すばらしい、張りのある、伸びやかな声で数々の優勝カップに恥じない歌声だった。とても70になる人とは思えない。これで今までの減点がすっかり消えてしまった。明日は日本の三大秘境のひとつ、落合集落へ寄ってみようと思っている、と言うと早苗さんは、「私は落合集落の生まれです」と言い出した。ひとしきり、昔話を聞いた。なかなか話し上手で、聞いていて飽きない。自分の幼い頃とオーバーラップして感慨深かった。剣山の石のことを言うと、すぐにあれは石車と言って、石に乗ると車に乗ったように滑ってしまうのだと言った。


    第2日 篪庵(ちいおり)
 朝早くおきて、二重かずら橋を見物した。つり橋はどこにでもあるが、かずらを編んで、というのは珍しい。歩くところも板でなく角材を隙間を空けて並べてあるので、注意して歩く必要がある。もっとも、目立たぬようにワイヤーを入れてあって、純粋のかずらだけではない。いつも思うのだが、かずらの最初の1本をどうやって通したのだろうか。
 ここでは、珍しいものを見た。「野猿(やえん)」といって小屋を小さくしたようなものを対岸に向けて吊ってあるのだ。それに乗ってロープを手繰ると自然に対岸に引っ張られる仕組みになっている。レスキュー隊の訓練でも見かけたような仕掛けだが、昔は貴重な交通手段だったに違いない。早苗さんに話すと、あれは人気があるんだよ、と言った。
 丸石を出て、落合集落はすぐに見つかった。そのちょっと手前に「落合集落が良く見える展望所」なるところがある。向き合う山の中腹が落合集落を一望できるので、そこに展望台を作ってある。まるで見世物だ。いくら観光のためといっても可哀想に。きっと落合の人は喜んではいないだろう。落合の古民家に立ち寄ると、おばあさんが出てきて話を聞かせてくれた。悪い人ではないがちょっと素っ気ない。そのあと、お目当ての「篪庵(ちいおり)」に向かう。
 篪庵はアレックス・カーという人が古民家を買ってそれを宿泊施設に改造したものである。古民家を宿泊施設にするというのは全国にあってどこも人気だが、外国籍の人が関わっているのは珍しい。篪とは中国の横笛に似た古代楽器。アレックスは日本の歴史にも造詣が深いに違いない。篪庵は消え行く日本を残すために買ったという。うたい文句は「何もない、がある」ところ。滝の瀬橋というところを渡って山に入ってゆく。山は急勾配の急カーブの連続で、しているのにそこここに民家がある。まるで落合集落だ。いや、落合よりもっと散在の度合いはひどい。後になって分かったのだが、この祖谷には落合のように斜面に点在する集落というのはごく一般的なのだ。落合は一まとまりになっていて、絵になるのでクローズアップされているだけだというのがよく分かった。
 篪庵は分かりにくい場所にあって、3度も車を降りて人に聞かなければならなかった。一つには山奥で周りに民家などないと思っていたこと、もうひとつは、特徴のかやぶき屋根が道路からは半分しか見えないためだ。3度目にはすれ違う車の人に窓を開けて聞いた。こっちだよ、と反対方向を指す。え、今来たのに分からなかった。車を反転して戻ってくると、その人は車を止めて待っていてくれた。有り難い人だ。指差す方向にはなるほど半分ほどは樹木に覆われた萱葺き屋根が見えた。
 道路から篪庵に降りてゆく道も車で行くには狭くてちょっと勇気のいる道だ。篪庵の隣に新しい建物が建っていて、そこが篪庵の事務所にもなっているらしい。若い男の人がいた。一通り宿泊の説明を聞いて、夜はその人もいなくなるので、と連絡用の携帯電話を置いていってくれた。家の前は雑木林と山なみが見えるだけで、曇り空には月も星も見えない。確かになにもない。山深い場所にしては暖かい夜で寒がりの私には大助かりだった。実はここの夜が寒いかも知れないと念入りに準備してきたのだが、私は準備が無駄に終わったことより暖かいほうがありがたかった。
 篪庵の圧巻は朝にあった。5時ごろだろうか、鳥のさえずりで目が覚めた。窓を閉めているのに、鳥たちの大合唱が聞こえてくる。私は鳥の名前はすずめとカラス程度しか知らないが、名前を知っていれば十や二十くらい挙げるのは簡単なことに違いない。


    第3日 奥祖谷
 朝から雨模様で、先が思いやられる。事務所は無人なので、電話で出発を告げて次の目的地、祖谷歴史資料館に向かう。小雨がぱらつくが本降りにならずに済んだ。資料館の人は若い男性だったが、池田の町に見た木の彫刻は、昔はどの店にもいろいろな彫刻を置いていたこと、池田高校が強かったころは、観光客で大賑わいしていたことなどを教えてくれた。400円も払った割には展示品には見るべきほどのものはないが、せめてもの過疎地への一助だと思った。
 大歩危遊覧船は白い巨岩を縫って進む景観が見もの。見事には違いないが、いまひとつインパクトにかける気がした。四国三郎と呼ばれる吉野川に、もっと水が出て急流になっていれば大迫力があるに違いない。


    第4日 しまなみ海道
 朝から雨になった。ここだけは晴れてほしいと思っていたのだが。日を選べないので、雨でも歩くことにする。トラブルがあってバスに乗り遅れ、JRで波止浜駅まで行く。駅にはしまなみ海道までの案内図があった。雨の中を歩き出すと100メートルごとに案内の標識が出ていて助かった。合羽を着てはいたが、橋の入り口に着いたときにはずぶぬれになっていた。11時。予報ではこの時間が一番雨の強い時間だ。雨は強くなったり弱くなったりするが、止むことはない。ズボンのすそはぐしょ濡れになったり生乾きになったり忙しい。
 こんな雨で歩く人は他にはない。自転車も会うことはない。雨とはいえあまりに淋しい。きっと晴れていても平日はさほど混まないに違いない。しかし、土日はきっと混雑するに違いない。この道幅からすると三人並んで歩くのが適当な広さだ。自転車と歩行者が上りと下りを通行すればかなり混雑するとおもわれる。立ち止まっても蛇行しても平気なのは雨のおかげだと思った。
 ほぼ1時間歩いて来島海峡大橋を制覇して大島へ到着。制覇した気分は少しも良くない。濡れた服を何とかしたい、とそればかり。「吉海いきいき館」に着く。いきいき館は東南アジアから来たらしい団体客が来ていて大繁盛していた。ズボンだけでなく、シャツにも雨が入ってぐしゃぐしゃだ。上は着替えをしたが、靴と靴下が濡れて冷たくなってきた。靴の底に紙を何枚も敷いてなんとかなりそう。
 そのあとタクシーで移動して、宮窪という所で潮流観潮船に乗った。瀬戸内海の潮の満ち干に伴う激しい潮流が見ものである。景色はまあまあ、早い潮の流れも感動するほどではないが、船の速いのには驚いた。猛烈なスピードで飛ぶように走るので、それが一番爽快で印象に残った。靴下のことは忘れた。
 なぜかこの日は消化不良のような気がして、大島からさらに伯方島まで歩いてみようと思った。雨は午前中で上がっていたので、このまま歩いて靴下を乾かしたいと思う気が強かった。伯方島へ通じる橋までが遠い。歩けども歩けどもつかない。高速道路に出たときにはかなり疲れてしまって歩みがおぼつかない。雨が止んで少し遠方まで見えるようにはなったが、景色をめでるところまでいかない。
 途中何度も休みながらやっと橋を渡り終えて、伯方島の道路に出るくだりの道で異変が起きた。一歩歩くごとに左足の付け根が痛むようになったのだ。左足を前に踏み出すときが一番痛い。少し歩くだけで休みたくなり、その間隔はだんだん縮まってゆく。痛みはひどくなって10メートルも歩くと休まなければならなくなった。もう歩けない、と思ったころやっと島の道路に出た。

    第4日 料理旅館せと
 どうにも歩けなくなって、そこから旅館に電話をかけた。すぐ迎えに来てくれるという。5分も待つと車が来た。気さくな感じのお姉さんが運転している。車に乗り込むとき、左足に負担がかかったのか、ずきんと痛みが走って「いてて」と言ってしまう。お姉さんが
 「大丈夫ですか、気をつけてくださいね」
 足の事は知らないのだから、どこかへぶつけたと思ったのだろうか。それにしても、彼女の場合は、どちらの場合にも通用する便利なせりふだと思った。
 旅館は外観は立派とはいえない。ふつうの街中でも見かけるような様子である。大きな敷石を踏んで玄関を開けるとまっすぐに広い廊下が奥に伸びている。ちょっと暗い廊下が耀いて見えた。私にはその耀いているわけが一瞬で分かった。見事まなでに磨き抜かれた廊下がそれ自体、光を放って輝いているのだ。すばらしい。これだけでもこの旅館に泊まる値打ちがある。
 廊下には過去、訪れたのであろう、芸能人の色紙がたくさん並んでいる。お気に入りの歌手でも見つかれば、その人と同じ風呂へ入ることになるのだ。
 それらはものは言わなくてもこの旅館の人たちの客に対する誠実さ、丁寧さ、奉仕の気持ちを雄弁に語っている。来てよかったと思った。
 夕食は部屋まで運んできてくれた。食べた後でメモをしたのでまだ忘れたしまったのがあるかも知れないが、以下のようなものだ。

   刺身 たい、かんぱち、あかがい
   たこ 酢味噌和え
   さざえ 刺身
   いか 数の子と粕漬け
   さわら 焼き魚
   めばる 煮付け
   かに から揚げ
   茶碗蒸し
   鯛めし 釜飯
   お吸い物
   おしんこ
   パイナップル

 ここでは一番にメバルの煮つけをあげたい。私は魚料理が好きで、なかでも煮魚がいちばん好きなのだ。煮魚を出すところは少ないが、それだけにやっぱり味に自信があるのだ。薄味で、そう、おいしいと言われる料理はどこも薄味で勝負する。素材を吟味して素材と出汁で味を調えるから、濃い味付けをしてごまかす必要がないのだ。もう一皿、出ても食べられそう。
 かにのから揚げには驚いた。初めて見た料理だ。脱皮したすぐの蟹は殻が柔らかく、殻ごと食べられると聞かされて、おどろいた。ちょうど食べる時間に合わせて脱皮してくれる献身的なカニがいるのだ。珍しいだけでなくこれもおいしかった。日本語には「おいしい、うまい」しか表現がないのがもどかしい。
 最後の鯛を炊き込んだ釜飯は、まさに絶品だ。こんなにおいしい釜飯は初めて食べた。料理旅館の名に愧じないと思った。ご飯はふっくらつやつやして口当たりが良く、ほどよくちりばめられた鯛は今まで食べたこともないようなおいしさだった。

 しまなみ海道によって周辺の人たちに変化が起こったことといえば、それは過疎化を誘発したことである。塩の生産で有名なこの伯方島も例外ではない。鉄道ができる以前は山間地の村ほど豊かであったという。交通が発達して山間地は没落した。1872年の鉄道開業から続く図式がここでも繰り返されていた。