フレーベル少年合唱団OB会

OB会からのお知らせや、活動報告のページです。

OB総会&偲ぶ会、紫郎實さんの文章

2010年05月26日 | お知らせ
OB総会 の日程と内容

(日時)平成22 年6 月19 日(土) 夕方5 時から
(場所)♪フレーベル館・5 階ホール(文京区本駒込6-14-9)

 ・ 会計報告、予算案
 ・ 会則の変更提案(現状に即した姿に)
 ・ 活動報告と今後の活動について
  (秋の第50 回記念定演に向けての状況説明)

懇親会(渡辺さんを偲ぶ会)

(日時)総会終了後の夜7時~
(会場)トラットリア・イタリア 文京店(パーティールーム)
(会費)5,000円予定(学生応相談)

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先日OB通信を発送しましたので、みなさまのお手元に届いていることと思います。引っ越しなどで住所が変わったり、OB通信を受け取っていないというOBの方がいらっしゃいましたら、事務局までご連絡下さい。

さて、今号のOB通信は一面から悲しい訃報となってしまいましたが、渡辺女史の写真が手元に見あたらず、在りし日のお写真を入れることができませんでした。思えば渡辺さんは常に裏方でしたし、演奏旅行などではスナップ写真に写りたがらなかったこともあって、あまり残っていないのではないかと思います。もしお写真をお持ちの方がいらっしゃいましたら、事務局までお貸し頂けますでしょうか。偲ぶ会にお持ち頂いても結構です。みなさんの思い出の言葉を冊子にまとめる際に、写真を差し込めればと思います。

渡邊紫郎實元社長のお写真も募集します。記事の欄外に、還暦祝の冊子の写真を載せましたが、この内容が興味深く、写真にはS46.4六義園(運動会)となっています。今でこそフレーベル館は六義園の前にありますが、僕らの現役時代は神田小川町に社屋がありましたから、なぜ六義園で運動会をしたのかちょっと不思議です。ご存じの方がいたらコメント下さい。

紫郎實さんは享年90才でしたから、還暦祝の冊子は30年前のものということです。冊子には磯部先生や娘の隆子さんからのお祝いの言葉も掲載されているのですが、紫郎實さんご本人の文章もありますので、それを以下に記します。少し長いですが、ちょっとおつきあい下さい。

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渡邊紫郎實会長還暦祝(1979年OB会制作冊子より)

「合唱と私」
フレーベル少年合唱団会長 渡邊紫郎實

 60年と言っても長いようであるが、私自身にとっては平凡な歳月の繰り返しであり、ふりかえって見てもあまり人に語れるような生き方をしてきたわけではないし、所謂「私の履歴書」などと書けるような人生でもない。ただこの稿を依頼されて思ったことは、この機会に今まで人に尋ねられるまま折にふれて話してきた過去を年代を追って書いてみることも一興であろうし、反省の1つにもなるのではなかろうかということである。

 出生は大正8年(1919年)10月2日である。出生地は宮城県遠田郡不動堂村(現在の小牛田町)、仙台から東北線で北へ1時間位のところの東北一の穀倉地帯である。

 父秀一郎の長男であるが、1人っ子で兄弟はいない。父は東北電燈株式会社(現在の東北電力)に勤めていたが、実家は仙台藩の「御用百姓」と言われた先祖代々の百姓である。母みさをは微禄の仙台藩士の娘である。

 父の勤務の関係で、小学校を3回転校した。このせいかおとなしい引っ込み思案の喧嘩の下手な子供だったようだ。小学校の通信簿を母が全部保存しているが、どの学校でも成績は1番から3番の間であったようだ。が、これも小学校までで年をとるに従って駄目になり「神童」は唯の人になり下がってしまった。

 中学校は岩手県の一関中学校(現在の県立一関一高)。5年間水泳部に入っていた。小学校2年生まで海のそばに住んでいたので、泳ぐのは4才ごろからできた。しかし、これも選手の補欠になるのがせいぜいであった。

 音楽との出合いは、小学校4年生のときキリスト教の日曜学校に同級生に誘われて行き、そこで賛美歌の幾つかを教わったことにある。美人の女の先生が教えてくれるのが楽しくて行ったまでで、キリスト教に帰依することにはならなかった。もう1つ、小学校の音楽の先生が「赤い鳥」運動に傾倒していて、教科書の小学唱歌を教えずに、もっぱら「かなりや」「あわて床屋」「七つの子」「てるてる坊主の歌」「夕やけこやけ」というような当時の新しい童謡を歌わせてくれたのが音楽に対する開眼であったように思う。中学校に入ってからは音楽から離れてしまった。

 当時の男子中学校では、1・2年に音楽の時間はあったが、私が入学する2・3年前にやっと正課となったもので、それまでは男子に歌謡音曲の類は必要なしということであったらしい。だから、音楽の先生の本業は国語であった。そんなことで音楽の授業は非常につまらなく、また石川啄木や宮沢賢治にあこがれたこともあって音楽の成績は「乙」である。それがどういう風の吹きまわしか受験勉強が嫌だったせいなのか、中学4年生の終わりごろから音楽に興味を持ちだし、卒業の頃には楽譜を何とか読めるまでになっていた。

 この中学卒業の年、父が44才で亡くなっている。なお母は、今、81才で健在である。

 早稲田に入ったとき、入学式の日に水泳部の呼び込みに応じたところ、中学で水泳部に在籍していたのが効いたのか入部を許可された。ところが数日後他の大学に入った中学のクラスメートに会うと、「早稲田の水泳部は高石勝男以来のスパルタ教育で大変だぞ」とおどかされ、それきり水泳部には顔を出さずじまいとなった。

 ということで、学内で目についた募集ポスターによって合唱団に入ることに変えたのである。合唱団(正しくは早大合唱団とシンフォニックコーラスの2団体を統合した)は戦後「グリークラブ」と名を変えたが、その伝統は続いている。

 在学中の思い出は、磯部俶さんの指揮で合唱コンクールに出、学生団体の第1位になったことである。大の男が泣きながら優勝カップにビールを注ぎ飲みまわしたことなど、青春のひとこまとして懐かしい。

 昭和16年卒業と同時に凸版印刷株式会社に入社し、間もなく軍隊へ現役で入隊した。入隊は新潟県高田の第30連隊で、数日後中国へ渡り終戦まで同地で転戦した。

 軍隊というところは、音楽が全然理解されないところであるのは、経験のある方はご存知のとおりである。夜間演習の帰路必ず軍歌を歌わされる「軍歌演習」というのがあるが、大きな声を張り上げれば良いというやり方で、斉唱になるなどというものではなく「雑唱」である。だから兵隊にとっては、苦痛以外何ものでもない。

 これを何とかならないかと常々思っていたが、少尉に任官して初年兵教官を命ぜられたのを機に、兵隊が楽しく歌う方法を考えてみた。それには歌いやすい音の高さにそろえて歌い出すこと、歩調に合ったリズミカルな曲を選ぶことにし、実際にやってみたところ大変な好評で、非番の下士官まで参加するという人気となった。

 他の中隊が雑唱?であるのに、私の中隊だけが遠くからでも澄んだ音で潑刺と聞こえるというので部隊長から感心してもらったことがある。もっとうまく教えれば「ビルマの竪琴」の中国版ができたのではないかと、少々残念に思っているのは大げさか。

 歌謡曲風軍歌が嫌いだったので、「抜刀隊」や「雪の進軍」などの明治・大正期のものをとり上げたのが良かったのかも知れない。

 昭和21年に復員し、凸版印刷で職場合唱団を組織したり、早大OB合唱団の設立に参画したりしていたが、その後フレーベル館に出向となり、故管野前社長時代の昭和34年に同氏の発案で「フレーベル少年合唱団」を設立し、磯部さんの協力を得てその組織作りや育成に当たってきたわけである。

 少年合唱団も今年で満20年を数える。創立の時の私の年齢は39才であった。1期、2期の諸君とは御岳神社の石段を競争で駆け登ったものだが、今はもうその体力もない。その分を、今のOB諸君がやってくれている。

 私は音楽を通じての人格形成を常に考えて、団員諸君に接してきたつもりである。現在のOB諸君を見ていると、それぞれが心豊かな立派な若者に育っていることに感銘を受ける。そのことに幾分でも私の考え方或は私の生き方が影響していることがあるとすれば、私にとってこれに過ぎる喜びはない。
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