Per Mariam ad Jesum!

不肖なる罪僕Maxの徒然

編み直し

2014-10-31 22:41:36 | 教会とか
 拙い手業では有るが、朽ち果てそうな自家用の玫瑰花冠を編み直してみた。
 例によって何の役にも立たない日記だよ。


 
 二十数年前に「カルメル会製」と言われて購った一連のロザリオ。
 当時は「カルメルって一体何?」って状態だったが、何故か購い、そして今も手元に在る。



 
 以前の日記に認めた事の在るロザリオ。
 これも、二十数年前に購ったが、購入した時期はこっちの方がやや遅い。
 十字架の道行きに捕捉される前には、良く祈っていた。



 
 二年前に自作で編んだロザリオ。
 珠の大きさに比して、針金がやや細く思われたので、少々太めの針金で編み直した。
 イメージは、恩師や師匠や色んな方々の腰の物(指料ではないよ)だったモノやら何やら。



 
 メダイやらロザリオやら御絵やら本やら何やら、色んな「善い」と感じた物を沢山購い配布したが、愛着の在るモノを手元に残したのかと言えばそうでも無くて、偶々残ってしまったが為に中々放し難くなって居る自分と事実を面白く思う。



 ロザリオ月の〆って事で記す。

招かざる奴来る。

2014-10-29 22:04:44 | 落書帖
 午後九時過ぎに、我が家の呼び鈴が鳴る。

 こんな時間に事前通知も無く訪問するのは、社会通念上、一般的には憚れる行為だと思われるので、或る種の何か緊急的な事由やも知れぬと思いながら応対する。

 がっ、何かと思ったら日本放送協会が受信契約をして金払えって言う。

 今迄も同種の方が来訪される度に、我が家には何年もテレビが存在しない事実を伝えてお引き取り頂いて居たが、今回の輩(二十代と思しき若者(以下「集」と記す))は違って居た。

 集「今時、テレビを見ないなんてありえない。地震とか災害とかあったらどうするんですか?」

 俺「今時、ネットで情報を探せるからテレビ要らないし、この間の震災の時だってテレビ必要じゃなかったよ。」

 集「テレビをお持ちでなくとも、携帯とかスマホでテレビを観れるんですよ、と云う事は・・・・」

 俺「俺ん家、俺と家内はアイポンだから、ワンセグだのフルセグだの初めから無いよ。車も無いからカーナビも要らないしね。」

 集「ですから、テレビを実際に見てなくとも、お持ちでいらしゃったら・・・・」

 俺「だから、俺ん家にはテレビが無いの。何でテレビも無い家からお金取ろうとするの?」

 それでも「集」が四の五の吐かすモンだから、

 俺「よし解った、こんな時間にイキナリ来て、金払う義務も無い人間から金を取ろうってんだな、警察呼ぶから一寸待ってろ」

 集「すみませんでした(最敬礼)。」

 俺「じゃあ、もういいのね?」

 集「はい、失礼いたしました(最敬礼)。」

 俺「お疲れ様。」

 以上、かなり省略した。

 警察呼ばれたら引き下がるって事は、それなりの事をやらかしているのでしょうかね。

 押し売りみたいなもんだから、強要罪を構成する要件を或る程度満たせるんじゃないのかな?と、法に疎くても思ってみたりもする。

 あっ、でも、テレビが無い家に来て金払えって言う位だから、法をチラつかせた強盗みたいなものだから、本当に非道い話だ。

 でも、もっと早い時間に来ていたら、
 「アンタの所、何処の国の国営なんだ?まさか、日本国じゃねえだろうな?」
 とか何とか、色々と言って居た気がするし、それが飯時だったら一層収まらなかったかもね。

道中の一コマ

2014-10-28 15:37:08 | 教会とか
 大浦天主堂の入り口に佇む聖母マリア様の聖像。
 「サンタマリアの御像は何処?」の聖像は聖堂内の書簡側副祭壇上の聖像。
 
 ひっそりと主祭壇奥の絵硝子が見えちゃった。

 
 天主堂下の下山酒店を挟んで鎮座在す、大浦小教区教会堂の尖塔を望む。

 
 嘗て神学生用の席が有った場所。未だ四半世紀位前にはバンコが在ったが(乱雑だったけど)、今はどうなっているのだろうか。

 
 ド・ロ神父様の手業の一部(かな?)。

 色々と思い出が在るけど、今の処は仕舞って措こう。

放言

2014-10-27 21:14:21 | 日記
 部品を購いに、おっさんには似合わない店舗に入る。

 店員さんもお客さんも殆どが老若女なので、誰も見ては居ないのだが、居心地が悪いと言うか、少々気不味さを感じる。

 店内の温度も、夏は涼しくなく、冬は暑過ぎて、おっさんには優しく無い室温設定で在る。

 本当はジックリと吟味しながら、ゆっくりと買い物をしたいのだが、上記の事由で手早く買い物を済ませ、そそくさと店を後にするのが常だ。

 でも最近は、店内にヤローが居ると、制作者なのか同行者なのかを見分け、もしも制作者らしければ、どの様なモノを作製して居るのかを、手にした部品の種類や爪とか指先の様子から推測して見たりする。

 勿論、ガン見なんて出来ないので、一瞥の内に観察し推測する変な遊びだ。

 以前は、室内に入った瞬間に、凡その員数と性別と種別(何のこっちゃ)と各配置状況を把握する習慣が付いて居たが、最近はそんな習性は影を潜めて居てくれている。

 此のお店は大小の問屋さんや小さな工場が散見される界隈の表通りの一角に在るのだが、此の街は結構面白い街だと思う。

 今回もメッキ屋さんを見掛けて、仕事を覗き見したくなったが、邪魔をするのは本意では無いので見学は断念した。

 工場の前を素通りする際に、職人の動きや仕上げたであろう部品等を観れただけでも御の字で在る。

 職人の動きと言えば、子供の頃の時分、鍛冶屋の前を通る時に、中の様子が気になって仕方がなかったのを思い出す。

 暗い室内に映える炉の明かりや、橙色の鉄を叩いた時に飛び散る火花に魅せられて居ると、鍛冶屋さんにこっ酷く叱られては逃げ、魅せられては叱られてを繰り返したものだ。

 今となっては、諸々の危険に遭わせない為の鍛冶屋さんの優しさだった事が判るのだが、火を見続けると眼に悪いなんて事は知らないガキだったけれど、鉄に熱を加えて赤みを帯びてくると鉄片に命が宿る様な不思議な気がして魅せられて居た。

 嘗ては手仕事で作られて居た多くの作業が、機械に取って代わられた昨今、気のせいだとは思うが、手仕事で作られたモノには温かみが宿って居た様な錯覚を覚える。

 モノを大切にしなくなったのは、世の中が豊かになったのは基より、精魂を込めてモノを造る事が少なくなったからではないだろうか、と言ったら言い過ぎだろうか。

 それと共に、良いモノは概ね値段が高いが、だからと言って高額なモノが偏に良いモノで在るとは限らない、等と言ったら言い過ぎだろうか。

 例えば、時代の淘汰を経た大磨り上げ無銘の古刀や、諸々の必然的な要求に由り性能を高められた戦時中の軍刀身は比較的に廉価であったりするが、其の値段を以って性能が劣る訳ではないし、逆に値段が高くなるに連れて、折れず、曲がらず、良く切れる性能も高まる訳ではないと思う。

 ドヤ顔してW222やS212を乗り回すのと、然りげ無くW100やW124の500Eを乗り熟せるのと、何方が豊かなのか・・・何てね。

 等と、脈絡の無い放言を日記に記す。