FRIENDS

船橋に住む7人の幼馴染と26人の友人たちが過ごす2019〜2026の7年間

当ブログの無許可のコピーを禁止します

84日間の旅8:フィンランド3

2016-09-25 18:21:05 | 小説
空港を出たのは、8時のこと。
まだ、外は薄暗かった。
ぼくは、重たいトローリーとビジネスバッグとスポーツバッグを持ち、空港を出た。
雪の積もった道は、思っていたよりも歩きづらかった。
大きな通りに出た。
その時になって、チャンドラーさんが言っていた、いけないよ? の意味がわかると同時に、バラエティ番組で聞きかじった知識が蘇ってきた。
フィンランドの歩道には、転倒防止のための砂利が敷き詰められているのだ。
右手には、大きな駐車場が見えた。
レンタカーショップだろうか。
道は、多分これで合っているはずだ。
そう思いながら、後ろを振り返り、辺りを見回し、標識を探す。
見つけた標識にはLentasenaの文字。
どうやら、それがフィンランド語で言う所の、空港、に当たるらしい。
右手の脇道、駐車場の方から、男性がやってきた。
レイフさんに負けず劣らずの巨漢だ。
ぼくは、少し迷って、彼に声をかけた。
「ーーあの、すみません」
男性は、こちらを振り返ると、気さくに、輝くような笑顔を浮かべた。「やあ、どうしたんだい?」
「あー、えっと、ヘルシンキ・サウス・ハーバーに行きたいんですけど、道はこれで合ってますか?」ぼくは彼に地図を見せた。
彼は、ぼくの地図を見ると、頷いた。「ああ、ここで合ってるよ」千葉県の某人気テーマパークの支配者のように高い声で、ハハッ! とでも笑い出しそうな男性に、ぼくはおもわず笑いそうになってしまった。
「ありがとうございます」
「ちょっと待ちなよ、歩いていくきかい?」
「ええ」
「正気じゃないな。20キロも離れてるぜ。それが賢くない選択だってことはとっくにわかってるようだから、この地図はいらないよな」と、ぼくの手から地図を取り、それをたたんでこちらの胸にポンポンと押し付けてくる男性。「あっちの駅から行くといい」と、駐車場の中央にある、小さな建物を指差す。
「駅?」
「地下鉄から行けば、あっという間にセントラル・レイルウェイ・ステーションだ」
「セントラル……」中央駅か。
「そう、セントラル・レイルウェイ・ステーションだ」
「ありがとう、助かりました」
「どういたしまして。どこから来たんだい?」
「日本です」
「大好きだぜ。日本は。ようこそフィンランドへ」
「ありがとうございます」
「楽しめよ」
ぼくたちは、微笑みあって別れた。
その小さな駅を見ていると、大好きな映画のワンシーンが浮かぶ。
ATM。
あの映画の舞台も、これくらい大きな駐車場と、これくらいの小さな建物だった。
それの何に魅力を感じるのかはわからないが、ぼくは、昔から、何というか、場違いなものが好きだった。
砂漠のオアシス、山道のコンビニ、高速道路のサービスエリア、真っ暗闇の中の光、晴天の下の日陰……。
場違いという言い方は正しくないかもしれない。
一息つける休憩所のような場所、そんな感じだ。
そんな休憩所でのひと時が、ぼくは大好きだった。
ずっとこの時間が続けばいいと思うけれども、休憩時間とは、仕事があってこそ輝きを持つものだ。
遠い昔の思い出。
今となっては、それが現実にあったことなのか、夢の中の出来事なのかもわからない。
まだ、シチューを上手に発音できずにティチューと言っていた時のこと、ぼくは、クラスメイトたちと、引率の先生と一緒に、山道を歩いていた。
しばらく歩くと、下り坂に差し掛かった。
下り坂は、半径が10メートルはありそうな大きな穴の内周にへばりついていた。
10メートルほど下にまで降りると、辺り一面タンポポの綿毛の舞う、天国にたどり着いた。
綿毛は、光を放ちながら、上空に上り、そして、青く晴れ渡った空に消えた。
その前後の記憶は、全くなかった。
個人的には、実際にあったことだとは思う。
駅舎とでもいうべき北欧デザインのシンプルな建物にたどり着いたぼくは、大きなエレベーターに乗り込み、下に降りた。
ぼくは、海が嫌いだった。
なぜなら、大きな鯨やサメやシャチがたくさんいるからだ。
大きなザトウクジラと添い寝をしている夢を見た時は、嫌な汗に起こされた。
シロナガスクジラだったかな。
それともジンベエザメだったかもしれない。
いずれにしろ、エレベーターのガラス壁の向こうに広がる景色は、巨像恐怖症の患者を殺しても不思議ではない程の広大なものだった。
地下に広がる大きな空間。
地下までの距離は、30mはあるように思えた。

ある夜、ぼくは、富士の樹海を歩いていた。
真っ暗な景色。
足元には、人骨のようなものが転がっていた。
でも、ぼくの気分は晴れやかだった。
ぼくは、自殺をするためにここにきたからだ。
ぼくは、分厚い茂みに身を押し込んだ。
分厚いように思えた茂みは、紙のように薄かった。
茂みの向こうには、不思議な空間が広がっていた。
整えられた足元。
歩いてみた感覚で、芝生の下には、柔らかい土が敷き詰められているようだということがわかった。
ある程度の規則性を感じられる程度の感覚で生える木々と、直径30センチ程度の小さな風車たち。
茂みを背に、しばらく歩いた。
猫や鶏や鴨やガチョウとすれ違った。
連中は、ぼくに向かって視線を向けてきたが、これといった興味を惹かれたりはしなかったようで、ぼくに背を向け、どこかへ歩いて行った。
しばらくすると、天国にたどり着いた。
レモン色の日差しの差し込む畔りと大きな湖、その中央へと伸びる桟橋。
そして、桟橋の行き着く先には、ガラス製のコテージ。
誰かがいるのだ。
ぼくは、少しだけ悩んで、桟橋を渡った。
ギシギシと音を立てる木製の桟橋。
たくさんの魚が、透き通った湖の中をゆったりと泳いでいた。
湖の中に、たくさんのベッドルームが見えた。
誰かはわからないが、このコテージに住み着く誰かは、この空間をとことんまで使い尽くしているようだった。
ほとりには、小屋があり、その周辺に鶏と鴨とガチョウがいた。
ふと、視線を感じて、湖の下のベッドルームに目を向ければ、そこには、こちらに笑顔を向ける中東系の男性がいた。
ブリーフ派のようだった。
屈強な肉体。
大きく盛り上がった胸筋、八つに割れた腹筋。
まっすぐな目、好奇にあふれた笑顔。
ぼくは、彼に笑顔を向けた。

84日間の旅:7−フィンランド2

2016-09-11 17:56:22 | 小説
ぼくは、トイレに入り、荷物を整理することにした。
やはり、ぼくの肩を引きちぎりにかかってくる荷物のいずれもが、必要なもののように思えてしまい、手放そうにも、思い切りがつかない。
途方に暮れているところに、アタッシェケースが目に止まった。
ぼくへのプレゼント。
ぼくはアタッシェケースを開け、すぐに閉じた。
レイフさんが大好きだ。
彼は、ぼくのことをよく理解してくれている。
それでも、これを知っていたら、テイラーにもらうものを変えたのに。
中には、色々なものが入っていた。
ぼくへのプレゼント、手紙、角ばった封筒。
封筒の中には、分厚い20ユーロ紙幣の束。
手紙には、仕事を引き受けてくれたこととトーカちゃんの話し相手になっていることへの礼だという旨と、ユーロ圏では20ユーロ紙幣が一番便利なのだという旨、リトアニアの中央駅からショペーノ通りへの道を簡略化して書いた地図、そして、プラスティックのライセンスが入っていた。
ライセンスには、ぼくの個人情報が記されており、ぼくの顔写真が貼られていた。
レイフさんには、ぼくが両親と喧嘩をしている時などに、学園の書類の書き方を教えてもらったり、書類を偽装してもらったことがあったので、彼はぼくの個人情報をその時に知ったのだろうけれど、突然目の前に現れたこれは、少しばかりの空寒さをぼくに感じさせてくれる。
そういえば、彼はぼくのことをよく知っているようだが、ぼくは、彼のことをあまり知らない。
初めて会った時、ぼくは9歳で、レイフさんは27歳。
彼の祖国はここフィンランドで、父親がロシアとウクライナのハーフらしい。
幼い頃はウクライナのキエフで過ごし、その頃に、トーカちゃんのご両親と知り合ったらしい。
知っていることといえば、それくらいだ。
時折、ふらりと姿を消しては、2、3日帰ってこないことが頻繁にあり、一週間、もっと長い間帰ってこないことも、しばしばあった。
トーカちゃんにレイフさんの仕事を訪ねても、しゅっちょーがおーいの、としか答えてくれなかった。
おそらくは、トーカちゃん自身もレイフさんの仕事の内容をよく理解しているわけではないのだろう。
そういえば、レイフさんとトーカちゃんの家には、二人の写った写真が飾ってあったけれど、それ以外の誰かの写った写真はなかった。
今まで、深く考えたこともなかったけれど、一体、レイフさんは、どんな仕事をしているのだろう。
貿易会社の仕事ってなんだ?
輸出入業とか?
そんな貿易会社勤めの彼は、今、ラップランドの山奥で何をしているのだろう。
そもそも、年中ラップランドの山奥でトナカイと戯れてるという話も、どこまで本当のことかわかったものじゃない。
こんな大金をポンと手渡せる彼、おまけに、ぼくに、こんなものまで簡単に手渡せる彼。
貿易会社とは、それほどまでに収入のいい仕事なのだろうか。
貿易会社とは、それほどまでの権力を持っているのだろうか。
テイラーがポーカーで打ち負かした相手とは、どんな奴なのだろうか。
レイフさんの話が、脳裏に浮かんだ。
ひょっとすると、ぼくが知らないだけで、ぼくの身近には、権力者が大勢いるのかもしれない。
あるいは、ぼくが貿易会社や、北欧諸国の法律に詳しくないだけかもしれない。
長期旅行とは、気になった事への理解を深めるいい機会だ。

ぼくは、トイレを出て、観光案内所の窓口へ向かった。
そこにいたのは、色白の、耳のでかい、ちょっと可愛い笑顔を浮かべるおじさんだった。
「ーーハイ、どうも」
「やあ、こんにちは」と、観光案内所のおじさん。そのフランクな口調は、『どうもこんにちは、ラディソン・ブル・ロイヤル・ホテルへようこそ』とは全く別の声色で、当然、脳内で変換される彼の口調も、フランクなものになる。ああ、なんだ、ぼくって英語使いこなせてんじゃん。あとはもう、ボキャブラリーを増やして、難しい言い回しとスラングを覚えて、イントネーションを矯正すれば、完璧にネイティヴの仲間入りだ。「要件はなんだい?」
「あー、えっと、タリンに行きたいんですけど、ヘルシンキの市内地図とかってありますか?」
「ありますよー?」と、カウンターの下に手を潜り込ませるおじさん。その瞬間に頭によぎったのは、あれ? 俺これから撃たれんの? 俺が何したってんだよ、ただ道を聞こうとしただけじゃんか、それなのに、どうして銃を向けられなくちゃいけねぇんだよ、まあ、仕方ないよな、こんなご時世だし、という、持ち前のネガティヴな被害妄想だったが、彼がカウンターの下から取り出してこちらに差し出してきてくれたのは、ぼくがご所望の、ヘルシンキの市内地図だった。「タリンに行くには、まず、ここ、ヘルシンキ・ヴァンター国際空港から、ヘルシンキ・サウス・ハーバーに行く必要があるね。ちょうど、フィンランドの一番下だ。ここからだいぶ離れてる。構内発の電車に乗って、中央駅まで行って、そこからトラムでいくのが、一番手っ取り早い方法だよ」
「あ、いや、できれば、歩いて行きたいんですけど」
おじさんは、動きを止め、静かに笑みを浮かべた。「行けないよ?」
そのおじさんの口調に、ぼくが頭に思い浮かべたのは、アメリカの、大人気シチュエーションコメディ、フレンズのワンシーン、ジュリア・ロバーツのパンツをはけると知ったマシュー・ペリーが、キュートな笑顔を浮かべるジュリアに向かって言い放った一言だ。
風邪引くよ?
ぼくは、静かに笑った。「いや、でも、たったの20キロでしょう?」
おじさんは、何かを考えるように、彼自身の左上を見上げた。「かもね」
「ヘルシンキの景色を楽しみながら向かいたいなぁって思って」
「それなら、もっと詳細を描いた地図が、200mほど歩いたあちらのカウンターでもらえますので、お向かい下さい。歩いて。当空港の内装を楽しみながら」
おっと、怒らせた?
それとも、うざがられたのかな?
「すみません。ありがとうございました」
おじさんは笑顔を浮かべ、肩をすくめた。「どういたしまして。次の人」
ぼくは、窓口を離れ、通路を進んだ。
右には先日のバゲージルームへの4枚の扉、左には、まだ足を踏み入れていない通路。
ぼくは、道を左へ曲がった。
左手に、プラットフォームを示す標識が見えた。
もうしばらく歩くと、右手に自動販売機が見え、そして、もう少しだけ歩くと、観光案内のカウンターがあった。
しかし、北欧の人は背が高い。
カウンターの向こうの若いおにいさんの目線も、ぼくよりも10センチ以上高いところにあった。
「こんにちは」ぼくは言った。
「こんにちは」おにいさんは、無愛想に言った。「ご用件をお伺いします」
「えっと、ヘルシンキ・サウス・ハーバーへ行きたいのですが。歩きで」
「歩きですか?」おにいさんは、無感情に言った。「当空港初の地下鉄で行けばあっという間ですよ?」
「美しいヘルシンキの街を楽しみながら向かいたいと思いまして」
「そうですか。目的地はタリンですか?」
「ええ。できれば、一番安いチケットで行きたいんですけど」
「一番安いチケットが幾らかはわかりかねますが、私が知っていることを申し上げさせていただきますと、タリンへ向かう船の出る港は、ヘルシンキ市内に4つあります」おにいさんは、ヘルシンキ市内の地図を取り、ペンで、目的地に丸をした。「最もポピュラーなのが、お客様がおっしゃられたヘルシンキ・サウス・ハーバーから、タリンへ向かうという方法です。ポピュラーで客の入りもいい為に、おそらくは、ヘルシンキ・サウス・ハーバーからの船が一番安いのではないかと思われます」
「なるほど」ぼくは相槌を打った。しばらく間をおく。何かを言わなくてはいけない、という強迫観念が、ぼくを苛む。「わかりました。ありがとうございます」
「どういたしまして」最後まで無愛想なおにいさん。
若いうちは、俺、やる気ないっすから、というスタンスが格好いいと思ってしまうものだ、君もいつかわかるだろう、汗をかいて情熱を注ぐことの大切さが、などという、何かの映画か小説かドラマのセリフを頭に思い浮かべながら、ぼくはおにいさんを見た。「良い1日を」
「あなたも」おにいさんはぼくを見もせずに言った。
少しだけ傷ついたぼくは、レイフさんと話をしたカフェまで向かい、そこで、コーヒーとサンドウィッチを口にした。
先ほどはいなかった店員のおねえさんが、とてもキュートだった。
北欧は物価が高い代わりに給料もいいらしいが、最低賃金はいくらくらいなのだろう。
チップはなかったはず。
おねえさんは、大学生くらいの年齢。
こんな朝早くからバイトをして学校にも行くなんて、立派なもんだ。

情熱がそうしているのか、義務感や責任感がそうしているのか。
前に見たバラエティ番組によれば、フィンランドの小さな子供たちの将来の夢は、ニートらしい。
はたらきたくなぁい、と無垢な笑顔で答える小さな子供たち。
北欧は福祉が充実しているため、やりようによっては、そんな生活も可能なのだとか。
ダグ・ハマーショルドというどっかで何かをやっているらしい高名なおじさんは、北欧に生まれることは宝くじが当たるのと同じくらいの幸運だ、と言った。
美男美女の集まり、充実した福祉、雄大な自然、オーロラ、きれいな空気、年中降り注ぐ雪。
できることならここに生まれたかったものだけれど、日本に生まれてしまったものは仕方がないし、ワーキングホリデービザを使えば、一年の間北欧で遊ぶことができる。
そうでなくとも、金さえあれば、半年の間に三ヶ月間遊ぶことができる。
金さえあれば。
5ユーロするハーフサイズのバゲットサンドウィッチに3ユーロのコーヒー。
これだけで、8ユーロ。
空腹は治まったけれど、満足したかどうかと聞かれれば微妙だ。
サンドウィッチには、ゆで卵とチキンが入っていた。
最後のひとかけらを口に押し込み、ゆっくりと噛んでいたところで、ふと思い立った。
家計簿をつけよう。
ぼくは、コーヒーをすすった。
1ユーロは150円として考えるくらいがちょうどいい。
1デンマーククローネを20円で考えたように、かかりそうな経費は多めに考え、残り予算は少なめに考えるぐらいがちょうどいい。
1ズウォティは30円。
1チェココルナは5円。
1ポンドは180円。
エトランジェのノートを取り出し、日記の下に、家計簿スペースを設ける。
デンマークのカジノで勝ったのは大きかった。
それに加えて、毎月のブログの収入が、5万円程度。
ポーランドの人たちの平均収入は、月7万円らしい。
ぼくはポーランドの人たちとは違って税金を納める必要もローンや家賃や光熱費などの生活費を納める必要もないので、7万円よりも少ない金で一月を過ごすことができるはず。
少なくとも、ポーランドでは飢えることも食欲を抑える必要もなさそうだ。
チェコの人たちの平均収入も調べておこう。
問題はユーロ圏とイギリス。
そこでの一日の予算をいくらくらいに納めることができるか。
一応、野宿用の寝袋はあるし、空港で数日間寝泊りをするつもりでもあるが、金の心配をしながら旅行をするのは、あまり楽しい時間の使い方とは言えない。
1日の予算は、25ユーロ、20ユーロくらいが妥当かもしれない。
気がつけば、エトランジェのノートを5ページ分も使っていた。
思えば、自己管理などという行為をするのは、これが初めてかもしれない。
今までは、着の身着のまま、気まぐれに日々を生きていた。
給料日の週の豪遊費が、その後の3週間の生活費と同じくらいなどということは頻繁に起こっていた。
気まぐれに節約や節制をしようと思っても、そんなものは、続いたところで1週間が限度。
1週間節制を頑張ったご褒美、とかなんとか、自分に言い聞かせ、そして、そのご褒美から、再び堕落への道が始まる。
そうだ、毎週土曜日はハメを外そう、ついでに金曜日の夜と日曜日の朝から晩までと……。
ぼくは一人で小さく笑った。
今回のチャレンジは、いったい何日続くことやら。

84日間の旅:6−フィンランド:1

2016-09-05 18:31:11 | 小説
空港のロビー
人気のない通路を進む。
自動ドアをくぐりぬければ、そこは荷物受け取り場。
ぐるぐると回るベルトコンベアの周りには、たくさんの人がいた。
ぼくは、その人ごみから一歩引いた場所でベルトコンベアの上の荷物を見つめた。
しばらくすると、ぼくのスーツケースがやってきた。
蛍光の黄緑色。
重さは23kg。
きっちり計ったから覚えている。
ぼくは、エクスキューズ・ミーを何度も言いながら、日本人らしく、下手をすれば卑屈にも見えるほどの謙虚さをもってして人ごみをくぐり抜けた。
周りを見て、標識を見つける。
意味がわかるはずもないフィンランド語と、その下に英語が書いてあった。
自動ドアの前まで行くと、左右に設置されている2枚ずつの扉が開いた。
ぼくは、ぼくのようなちっちゃい男にも反応してくれたことに感謝すら覚えながら、空港の中を歩いた。
通路を左に曲がり、さらに左に曲がる。
そこは、静かで薄暗いロビーだった。
チップスやサンドウィッチ、ドリンク類の収まっている自動販売機。
レイズのポテトチップス、小さい袋が2ユーロ。
北欧の物価は高いらしいが、これが果たして高いのか安いのかがいまいちわからなかった。
概して、自動販売機の売値は高いものだし。
ぼくは、一度空港の外に出ることにした。
二つの自動ドアをくぐり抜ける。
澄み切った空気。
凍えるほどに冷たい。
気管や肺に、刺すような痛みが走った。
空は美しく晴れ渡っていた。
満天の星空。
大きく丸い月。
今の時期は極夜に当たるのだろうか。
それとも、その時期はとうに過ぎたのかもしれない。
膝の高さほどの背丈のシロクマの石像が目に入った。
iPod touchでそれをとった。
iPod touchは、電話機能の付いていないiPhoneだ。
Wi-Fiさえあればなんだってできる。
現在の気温は、−2度。
こんなもんかよ、とか思いながら、フィンランドの空気を味わった。
あたりには、雪が積もっていた。
雪の上を歩けば、ズリッ、という、くぐもったいい音がした。
もう一度、空気を吸った。
昔を思い出す。
昔は、空気が美味しかった。
故郷の空気と同じ匂いがした。
故郷の冬も、昔は、これくらい寒かった。
懐かしい。
子供の頃を思い出す。
登下校に使っている、歩き慣れた道。
行ったことのない脇道の前を歩くだけで、胸がわくわくした。
この道を歩いてみたい。
休日になると、その道を歩いて、今まで見たこともない景色を楽しんだ。
ぼくは、もう一度、フィンランドの空気を、深く吸い込んだ。
この懐かしい匂いは、好奇心の匂い、冒険の匂いだ。
ぼくは、空港の中に戻り、ベンチに腰掛け、夜が明けるのを待とうとしたが、疲れに負けて、ベンチに横たわった。

目を覚ましたのは、朝の五時ごろ。
すでに、観光案内所の窓口や、カフェが空いていた。
カフェの立ち食い用のテーブルの一つに、見覚えのある顔を見つけた。
雪のように白い肌。
鮮やかなゴールデンブロンド。
ゴールドブラウンの光彩に、緑色の光輪。
2メートルを超える背丈、引き締まった体、がっしりとした広い肩幅はぼくの二倍ほどもある。
彼は、ぼくの視線に気がつくと、右手を上げ、口元に笑みを浮かべた。
ぼくは、重い荷物を引きずりながら、そちらへ向かった。
こちらにやってくる彼。
ぼくは荷物から手を離し、彼、レイフ−マティアス・ファーゲルホルムさんとハグを交わした。
「初めてのフライトはどうだった? スカンジナビアの座席をションベンで濡らしてやったか?」
ぼくは笑った。「うるさいっすよ。思ってたほど、怖くはありませんでした。ロシアの上空で、戦闘機が迫ってきた時だけですね。肝を冷やしたのは」
「こんなご時世だから、プーチンも気が尖ってるんだろう」
「初めて飛行機に乗ったんですけど、空港で通った検査とか、あんな緩かったら、危険物を持ち込むのも楽なんじゃないですかね」
「マジックと一緒で、お前が見たものが全てじゃないってことだよ」
「覆面警官も乗り合わせてたんでしょうしね」
「そういうことだよ。セキュリティの心配をするのは、航空会社の仕事だ。顧客はただ楽しむことだけを考えていればいい」レイフさんは、コーヒーをひと口啜ると、深く息をついた。まるで、余韻を堪能するかのように。「旅はどうだ」
「楽しいですよ。まだ、テントの出番も寝袋の出番もありませんけど、でも、デンマークじゃ、いい1日が過ごせました」
「ふうん?」
「入国審査官のボディガードと仲良くなったんです。ブロンドの綺麗なデンマーク美女。おしゃれなバーで酒を飲んで、カジノで一勝負。ホテルでも楽しんで、ウィーンで再会を約束。旅の始めとしては最高です」
「文句無しのビギナーズラックだな。昨日の雪景色を見せてやりたかったぜ。表じゃ、ちっちゃなガキどもがはしゃいでたよ。雪合戦に雪だるま。昔を思い出したぜ」レイフさんは、窓の外に目を向けると、小さく笑った。「トーカは元気か?」
「お友達に囲まれて、楽しそうです。いつも幸せそうに笑ってますよ」
トーカとは、彼の容姿である、12歳の女の子の名前だ。
彼女のご両親は、レイフさんの幼馴染の大親友だったが、不幸な事故によって命を落としてしまったらしい。
幼いトーカちゃんを拾ったのは、レイフさんに言わせれば、当然のことらしいが、彼は別に責任感に熱い男というわけでもない。
レイフさんは、トーカちゃんを学園に預け、芸能プロダクションでの仕事を幼い彼女に用意すると、さっさとフィンランドの山奥に引っ込んでしまった。
今の時代、ネットでいくらでもつながれる、と言うレイフさんに、人の成長に人の温もりは大切だということを理解している様子はなかった。
ぼくがレイフさんとトーカちゃんの事情を知っているのは、ちょっとした巡り合わせというものだった。
人付き合いの苦手なぼくは、いつも、学園付属の児童養護施設に入り浸っていた。
そこは、同時に児童館でもあった。
共働きの家庭の子どもが、両親の仕事が終わるのを待つ場所だ。
ぼくは、そこで、たいした理由もなく時間をつぶしていた。
保母のおねえさんがキレイだったのだ。
ぼくとトーカちゃんはそこで知り合った。
レイフさんと知り合ったのは、自然な流れだった。
レイフさんは、ぼくとトーカちゃんのうちとけ方が気に入ったらしく、何度か家に呼んでもくれた。
簡素なマンションの一室だったことを覚えている。
あるいは、それは、シンプルなイケアで統一されていたから、そう思ったのかもしれない。
レイフさんとトーカちゃんに出会ったのは、9歳の頃のこと。
それから9年後の今、ぼくとレイフさんは、トーカちゃんとは関係のない場所で、友人として顔を合わせている。
巡り合わせとは不思議なものだ。
「そいつはよかった」
「あなたの顔を見たがってます。たまには会いに行ってあげてください」
レイフさんは、シナモンロールを摘んだ。「もうしばらくは無理だな」
「何が無理なんです。ラップランドの山奥でトナカイ食ってるだけでしょう」
「俺にだって理由があるんだよ。誰にだって、何にだって、理由があるもんだ」
ぼくは、何も言わず、コーヒーを飲んだ。
手持ち無沙汰になった時は、意図を感じられる何かをすればいい。
そうすれば、自分の気まずさを、薄い霧の向こうに隠すことができる。
ぼくは、いつだって手持ち無沙汰になりがちだ。
誰かが口にした何かに対して何かを言えるような気の利かせ方をすることに慣れていないし、誰かの心に踏み込んだことに対する責任を果たせるほどの甲斐性もない。
レイフさんはコーヒーを一口すすり、もう一口すすり、紙コップを置いた。「リトアニアに行くって?」
「多分、3月の中頃になると思います」
「頼めるか?」
「何をです?」
レイフさんは、身をかがめて、足元の荷物に手を伸ばした。「友人に配達をお願いしたいんだが、複雑な手続きが面倒くさくてな」と言って、こちらに小さな包みを3つ渡してくる。
二つの手紙用の封筒、一つは四角く角ばっており、もう一つは、真ん中がやんわりと膨らんでいた。
触った感覚では、中には、布状のものと金属製のもの、二つのものが入っているようだった。
頭に浮かんだのはフェルト人形とネックレス。
開けてみないことには中身もわからないが、多分、中身はぼくが頭に思い浮かべた通りのものだろう。
最後の一つは、アタッシェケース。
「住所はショペーノ通りの7番、駅前から伸びる道だから、すぐにわかると思う。名前はカリナック。トルコ人だが、奴の親父はイタリア人でな、見た目だけじゃクルド人だがラテン系だかわからない。まあ、そこは重要じゃないさ。俺からの荷物だって言えば話は通じる」
「アタッシェケース?」
「いや、それはお前へのプレゼントだから、適当なところで捨ててくれて構わない。カリナックには、四角い封筒を渡してくれ」
「わかりました」ぼくはアタッシェケースを見た。「プレゼントですか」
「イケてるだろ? スウェーデンのワスプ社製だぜ」
角の尖ったアタッシェケース。
ブラウンのボディとダークブラウンの角は、ともに革製だった。
金色の留め金。
6桁のナンバー。「ナンバーは?」
「6のぞろ目」
ぼくは笑った。「わかりやすい」なんだかレイフさんらしい。
「ここで開けるなよ」
ぼくはアタッシェケースを足元に置き、再びコーヒーを飲んだ。
「これからどうするんだ?」
「とりあえず、エストニアに行くので、港に行こうと思います。次の目的地がタリンなので、船で」
「いい国だぜ。酒は安いし、女は綺麗だし、それに、空気も美味い。今の時期は、寒さと天気の意味じゃ最悪だが、あそこは元が良いからな。それに、何より、人が素朴なんだよ。バルト三国から東の人間は好きだぜ。素朴さってのは魅力だ。ロシア人なんかは金に貪欲だったりもするし、ウクライナとかベラルーシの連中も金に貪欲だが、それはあいつらが悪いわけじゃない。この世のシステムの中で必死にもがいてるだけだ。そこが好きなんだよ」
「どういう意味です?」
「民主主義社会とか、現代ビジネスのやり方ってのは、あんま好きじゃないんだ。持つ者が持たざる者から奪う構図が自然と出来上がっちまってる。持つ者たちの最高の娯楽はなんだと思う? 俺たち人間が、自分たちの作ったシステムの中でどう動いているかを見ることさ」
興味深い話だと思い、話の先を待ったが、レイフさんは、それについてそれ以上何かを言おうとはしなかった。
「ゲスい話さ。ゲームなんてのはチェスとかカードとかを使ってやるもんだ。それでも、東欧中欧バルトの連中は、文句も言わず、おとなしく、ルールをはみ出さないように、和を乱さないように、精一杯もがいてる。その健気さが、俺は好きなんだよ」
若い頃に世界中を飛び回っていたらしい、元貿易会社勤めのレイフさんは、どこか達観したような物言いで、奥深げな話を次々と口にしていった。
時々、ジャケットの内ポケットから取り出したスキットルから、強そうな酒をゴクゴクと飲んでは、酒臭い息を深く付き、遠い目をするレイフさん。
そんな彼はまだ36歳だが、その疲れ切った雰囲気は老後のそれのようにも思える。
「楽しめよ」
ぼくたちは、ハグをして別れた。

84日間の旅:5−コペンハーゲン4

2016-09-02 16:27:28 | 小説
ぼくは、テイラーに、やるべきことリスト、を見せた。
テイラーは、大きなウォークインクローゼットを開けると、その中から、幾つかのものを出して、ベッドの上に並べた。
ぼくは、その中から、三つのものを取ろうとしたが、それでは契約違反になる。
ぼくは、テイラーにお願いして、革の入れ物に、その三つのものを入れてもらうことで、一つのものとして判断してもらうことにした。
それを持ったままでは飛行機に乗れないので、ぼくたちは、方法を考えた。
ぼくがこれからウィーンに行くと言うと、テイラーは、自分もだと言った。
ぼく達は、オーストリアで再会することになった。
「こんなもの、どこで手に入れたんだ?」
「ギャンブルよ。カジノには、色んな人が集まるの。ーー」
翌朝、ぼく達は、シャワーを浴びて、空港へ向かった。
テイラーは仕事。
ぼくは、ぼくの目的地へ。
ホテルを出るとき、キスをしていいか、と聞いた。
テイラーは、笑って頷いた。
晴れた朝のコペンハーゲンを、二人で歩いた。
朝露に濡れた公園の芝生が、朝日を受けて生き生きと輝いていた。
静かな朝。
誰かが何かをする音が、あちらこちらから聴こえてきたが、あたりには、誰もいなかった。
中央駅まで歩き、そこから電車に乗った。
第3ターミナルの地下から、階段で、構内まで上がった。
寝泊りをする空港利用者達が大勢いた。
高齢者達を乗せた車のようなものが、ぼく達のそばを往来した。
テイラーは、従業員用の扉の奥に消えると、昨日と同じ制服に身を包んで出てきた。
昼の休憩に、スターバックスでの再会を約束した。
ぼくは、空港の中を散策した。
朝日の降り注ぐ待合室で、職員から質問を受ける酔っ払いを見た。
彼が枕にしていたのは、柔らかそうな、大きいバックパック。
彼の荷物はそれだけ。
綺麗な身なりはどこからどう見ても旅行客で、ホームレスのようには見えなかったが、バックパッカーにしては、綺麗すぎるようにも思える。
おそらくは、空港職員も同じことを思ったのかもしれない。
そういえば、福祉の行き届いているデンマークには、ホームレスはいるのだろうか。
昼ごろ、テイラーに聞いてみよう。
徐々に徐々に、店舗を囲うカーテンやシャッターが開けられ、その下から、店が出てきた。
職員たちは、いずれもぼくよりも背が高く、美男美女揃いだった。
でも、その中でもテイラーが一番綺麗なように思えた。
空港の中に、徐々に、徐々に、人影が増えていった。
ぼくは、先日と同じバーで、生牡蠣と白ワインのグラスをいただいた。
酒は好きだが、違いなんてわからない。
でも、最近になって、コーヒーの違いぐらいはわかるようになってきた。
ということは、やはり、ワインには、誰かが何かしらのこだわりを持てる程度には、味の違いがあるのだろう。
それがわかるようになる時が、楽しみだ。
ビールも飲んでみようか。
でも、金の使いすぎはまずい。
前日勝ったと言っても、それでも、それを84で割ったら、大した額にはならない。
今日の豪勢は、これで終わらせるべきだ。
そう自分に言い聞かせた15分後には、ぼくは2本目のカールスバーグの瓶に口をつけていた。
美味しかったけれど、ビールの違いも、ワイン同様にわからなかった。
ぼくは腕時計を見た。
まだ、時間があった。
ぼくは、空港内を歩く人波に目を向けた。
色んな人が、空港内を行き交っている。
様々な人種。
様々な宗教。
様々な容姿。
様々な感情。
様々な目的。
世界には、たくさんの人間がいる。
それなのに、どうして、人は他人を、自分の枠の中に収めようとするのだろう。
そんなことをするから、争いが起こる。
幸せになることを恐れる。
いつまでたっても、くだらないことで、悩むようになる。
スターバックスでコーヒーを飲んでいると、テイラーがやってきた。
先に相手を見つけたのは、ぼくの方だった。
キリッとした顔つきが、ぼくを見た瞬間に、解けた。
それだけのことが、とても、嬉しかった。
ぼくたちは、キスをして、短い会話をして、そして、最後の時間を、共に過ごした。
「じゃあ、ウィーンで」ぼくは言った。
「ええ。ねえ、カイ」
「ん?」
テイラーは、何かを言い淀んでいた。
「じゃあ、ウィーンでね」ぼくはもう一度言った。
「カイ」
「ん? ごめん、もう行かないと」
「うん」テイラーは、何かを言おうとしていたが、なぜか、言おうとしなかった。
「行かないと。じゃあ、テイラー、また、ウィーンで」
「カイ」
ぼくは、テイラーを見つめた。
声の調子が、変わったからだ。
「テイラー?」
「あなたは、悪くないわ」
「へ?」
「あなたは、悪くない。あなたがそうなったのは、あなたのせいじゃない。あなたは、小さかったんだから」
ぼくは、笑った。
いつからだろう。
反射的に作り笑いをすることができるようになったのは。
そのあとで、少しだけ考えた。
寝言でも言っていたのだろうか。
それとも、何か失言をしたのかもしれない。
うっかり、気を許してしまったのかもしれない。
あるいは、それも、テイラーの才能の一つなのかも。
「そうなのかな。わからないよ」ぼくは笑った。「ポーカーの間に何を見てたんだ?」
「あなたよ」
ぼくは、テイラーを見た。
テイラーは、ぼくを見ていた。
その目は、これっぽっちも笑ってはいなかったけれど、その目に映るぼくは、笑っていた。
ぼくは、自分のその笑顔が、大嫌いだった。
見ているだけで、反吐が出てくる。
「テイラー。ウィーンで会えるかな」
テイラーは、笑顔を浮かべた。「もちろん」
「会えてよかった」
「わたしもよ。カイ」
「良い人生を。テイラー」
「あなたも、良い人生を、カイ」
ぼくは、テイラーにキスを求めることもせず、彼女に背を向け、ゲートを抜け、飛行機に乗り込んだ。
通路の右側。
右には中東系の青年、左には中国人の老女。
ぼくは、背もたれに体を預けた。
先ほどの、テイラーの言葉、その余韻に、じっくりと、浸りたかった。
目尻から、熱い涙がこぼれた。
涙が溢れる寸前に、頭に思い浮かべていたのは、ここはこういう場面だから泣け、というもの。
いつからかはわからない。
いつからか、ぼくの人生は、ぼくのものではなかった。
ぼくは、自分の人生にすら、没頭することができなかった。
これまで、18年間の人生を生きてきた。
でも、ぼくの人生は、まだ、始まってもいなかった。
窓の外は薄暗かった。
アナウンスが流れると、右どなり、窓際の席の中東系の青年が、カーテン代わりのプラスティックのプレートを下ろし始めた。
しばらくすると、飛行機が、離陸した。