●人間は自由だ。技術や法律の奴隷ではない。
昨夜、夕飯をとりながら家族で、テレビ放映されたディズニーのミュージカル・アニメ「アラジン」を見ました。実は、恥ずかしながら、この作品のファンなんです。
娘たちがまだ小学校低学年のときから、ビデオで一緒に見てました。次女などは繰り返して何度も見ているので、セリフも音楽も、ほとんど全部覚えているようです。
お子様向けの他愛ない魔法物語、いかにもアメリカの娯楽映画らしい、単純でわかりやすい愛と冒険のハッピーエンド・ドラマ・・・といういうふうに冷ややかに見る人も、少なくないでしょうね。
けれど私は、はまってしまっています。なにか、こう、夢を与えてくれるのですね。めぐり合った恋人たちの、ひそやかな愛の語らい、そして魔法による変身(現実離脱)、魔法の絨毯で二人きりの夜間飛行(世界旅行)・・・といったものには、人を心底魅惑するものがあると思います。(ほんとに恥ずかしい。)
流れている音楽も好きです。『A Whole New World』も、もちろんいいし、私のような年代の者には、哀愁のある昔風のアップテンポの曲(王子に変身したアラジンが行進しているときの)も、すごくいい。
それから魔法使いのジーニーのキャラクターがまたいい。このアニメの主役といってもいいかも知れない。(日本語の吹き替えをしている声優さんがまた、素晴らしい。)ネットで探して見たら、このアニメがディズニー作品のなかでも一番だと語っている人が少なくないです。
なぜこの荒唐無稽な夢物語が、人を惹きつけるのか。
私は、一見おとぎ話ではあるが、テーマの最深部に、命と心の真実と、その根本倫理が秘められているからではないかと、想像しています。アニメ作家の、哲学的な洞察力を感じます。
ランプのなかの魔法使いであるジーニーは、万能ではあるが、ご主人様の願いであっても、かなえてあげることの出来ないことが三つあります。
1.人を殺すこと
2.死んだ人間を生き返らせること
3.その気のない異性を好きにならせること
これはたぶん、昔からのおとぎ話である「アラジンと魔法のランプ」にはない話です。
現代において、この魔法に相当するものは、科学技術でしょうね。この魔法によれば、病気の克服も、長寿も、安全で快適な生活も、世界旅行も、空中遊泳も、なんだってかなう。
でも、この魔法(科学技術)によってもできないこと(してはいけないこと)、それが上記の三つです。これだけは、魔法のランプを手に入れたところで、人間の自由にはならない、神聖なものです。
「人を殺してはいけない」というのは、生ある人間にとって、絶対的な規範であって、「人を殺してもいい」という価値観は、決して容認されない。(科学技術の粋である核兵器の保有国は、速やかにそれを撤廃すべきです。)
どんなに科学技術が進んだところで、死んだ人間を生き返らせることはできない。(DNAにより過去に生きていた人間を復活させるなどというのも、絶対にできない。)
どんなに心理学や精神科学が発達したところで、その知識や技術をもとに、その気のない異性を好きにならせることはできない。(してはいけない。)
生まれてくること、異性を好きになり結ばれること、そして死んでいくこと。
これは魔法(科学技術)では、どうすることもできないものです。神秘であり、神聖なものです。(異性とのめぐりあいだけが、新しい生命を生む。)
逆に、だからこそ人間は自由なのだ。技術によってどうにでも加工できるような存在ではないのだ。確かな実在なのだ。
物語のラストでは、アラジンは三つ目の願いをジーニーのために捧げます。ジーニーを、ランプのなかのとらわれの身から、自由にしてやる。そして自分は魔法に頼らずに生きていく決心をする。ジーニーはアラジンの友情に涙する。
ここに人間の愛と勇気がある。
私は、強く、そう思います。
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ネットでいろいろ探すと、この作品に「非常に感動した」と語っている人が少なくないです。
何がそんなに人を感動させるかというと、
「人の愛と勇気は、技術や法律の力よりも、強いのだ。その愛と勇気こそが、人間の本当の自由を現すものなのだ。」
ということが、非常に鮮やかに表現されているからだと思います。
倫理道徳の論文でこんなことが主張されても、ほとんどの人は納得しないし、ピンと来ない。でも文学や芸術の力で、それが人間のドラマとして表現されると、人は素直に感動する。
ジーニーの技術は、悪大臣ジャファーにとって、欲望を満たすための魔法です。これは現代人も同じです。
そしてジーニーもアラジンも、最初は法律に縛られています。ジーニーはご主人様の命令であれば、それがどんなに悪いことであっても従わなければならないし、アラジンは国法のせいで、恋人と結婚できない。
でも物語のラストではそれが打破されます。人間は技術や法律の奴隷ではないということが、美しく証明される。ここに私は、人間がこの宇宙に存在することの意味を見ます。
私はただの素人です。専門的な研究をしたことはありません。だからお勉強なさらないでください(笑)。
ディズニーの「アラジン」について、書き足りなかったことを補足します。
ネットでいろいろ探すと、この作品に「非常に感動した」と語っている人が少なくないです。(私もその一人です。)
何がそんなに人を感動させるかというと、「人の愛や勇気は、技術や法律の力よりも、強いのだ」ということが、非常に鮮やかに表現されているからなのだと思います。
倫理道徳の論文でこんなことが主張されても、ほとんどの人は納得しないし、ピンと来ない。でも文学や芸術の力で、それが人間のドラマとして表現されると、人は素直に感動する。
ジーニーの技術は、悪大臣ジャファーにとって、欲望を満たすための魔法です。これは現代人も同じです。
そしてジーニーもアラジンも、最初は法律に縛られています。ジーニーはご主人様の命令であれば、それがどんなに悪いことであっても従わなければならないし、アラジンは国法のせいで、恋人と結婚できない。
でも物語のラストではそれが打破されます。人間は技術や法律の奴隷ではないということが、美しく証明される。ここに私は、人間がこの宇宙に存在することの意味を見ます。
愛と勇気こそ、RIEさんのおっしゃる「宇宙のエネルギー」なのだと思います。RIEさんの「pure mind」から抜粋引用させていただきます。
http://blog.goo.ne.jp/r-delight/e/03c5e31ea558f342265f25aba14909ce
■引用はじめ■
私は時折、祈ります。宇宙のリズムをイメージして、それに呼吸を合わせる、というようなもの。「宇宙のひとり」の意識に立ち戻ること。宇宙と地球と、またありとあらゆるものと同化すること、「生」を祈る思い・・・。
宇宙エネルギーをイメージすると、そこには絶対的な「生」が感じられます。
宇宙エネルギーとは、絶対的「生」であるという印象を受けています。生命を維持する方向へひた走っているような莫大なエネルギーで、それは宇宙を構成する星々へ送られ、また戻り、循環している・・・。
その祈りの最中に、「宇宙からのエネルギーは地球へ届く」という普遍的な真実を聞いたような気がしました。。これはまるで太陽エネルギーのような感じ。地球に生命の源である光を届けていながら、そこに生きる生命達もその恩恵を受ける。
■引用おわり■
私は時折スピリチュアルについてUPしますが、実はそんなに声高に叫ばなくても多くのさまざまな職業に就いた人々は自然にスピリチュアル、そして「宇宙のひとり」をご実感なさっているのではないか・・と思うことがあります。
私の場合は、ブログで表現方法を学んでいる、といったところがあるのかも知れませんが、まだまだ未熟です。
ただ「宇宙のエネルギー」については、本当に、宇宙のエネルギーが目指した場所は人ではなく地球であるのだ、と実感しました。その時に人が何より崇高な存在ではなく、やっぱり「宇宙のひとり」であること、そして母なる大地である「地球」を大事にしたい気持ち、さらにまだひもとけない宇宙の懐を感じ、温かな気持ちになったことを記憶しています。
今夜も「宇宙のひとり」を想いながら就寝することに致しましょう...って、実は仕事中でーす!(笑)