県央こどもわくわく隊

神奈川・県央地区・こども支援チームの活動を紹介
(旧15NJ神奈川25隊たいちょうのブログ)

被災講話

2012-06-30 16:13:50 | こどもわくわく隊
(西村さん、地震発生時は、自宅にいた。娘さんは中学校)

車でとりあえず避難。

最初の第1波はぴちゃぴちゃできれいな水だった。

黒い第2波に車ごとのまれ胸まで水がはいり、車が浮き街中を流された。

別の車の中で流される人や、壊れた家に取り残された人をみたが、なにもできなかった。

これからそのことを胸にしまって生きていかなくてはいけないと思った。

なにかの拍子に後ろの窓が割れ初めて外に出ることを考えた。

自動販売機にしがみついたが販売機ごと浮いた。

発泡スチロールのケースにしがみついた。

近くのやまげん?ビルの階段にたどりつき竿を使って母親を助けあげた。

ここだけ大変なのだと思った。

ビル所有者の方の好意で、部屋内に布団をひいて寝ることができたが一晩で元に戻ると思っていた。

ラジオで気仙沼全滅と聞く。

ヘリコプターに向かって旗をふったが気づいてもらえなかった。

情報を集めて相談してスニーカーを履いて竿を杖にして二人で冠水道路の真ん中を歩いた。
(道路の端は側溝などがあり危険なため)

港を離れたら水は引いていた。

道路は泥と魚で一杯。

前を見るようにして死体を見ることはなかった。

避難で歩いている男性と一緒になったが、こうゆう場面での男性は弱かった

近くのお店に食品を頂きに入った。(決して略奪ではない。そうしないと生きてゆけなかった)

家は幸いにして残っていたが、車はなかった。
周りでは、あとかたもない所があった。

鹿妻小学校に非難したが1500人以上いて足の踏み場もなかった。

幸い教室に場所がとれ横になることができた。

飼い犬をつれてきてる人がいて、犬が鳴くたび地震がくる

中学生の娘と会えたのは4日目だった

いろいろな人に助けられた

たまたま偶然があって生きている。

山形の実家から帰った日が物質配給の日だった

そういった情報を在宅避難者は知りようがなかった。

電気がないのでウエディングキャンドルを使った

小さい石油ストーブがほしかったが非難所優先

電気通じたのが五月、情報がないふがいなさを感じた

自衛隊には本当に感謝している

必要なものは段階的に変化する

その後、地域で お茶っこ飲み会をはじめた。

全て無料でおこなったが、無料なれを反省した。

支援をいただいてるのではなく、ご縁をいただいていると思っている。

ボランティアのつながりに感謝している

今後、小学生の学習支援、バソコン支援、お年寄りお茶会で笑って帰ってもらう活動をしてゆきたい。

今回の教訓、地震きたらすぐ逃げる

そなえよつねに

自宅非難者には何も支援がない

義援金は欲しいときに届かない

直接物資をもらったのが一番ありがたかった

募金を扇風機にして送ってくれた団体があった

行政に相談したら仮設に入ればと言われた

行政の支援は制約が多い

不平等が多い

女性が取り仕切ったほうが良い

衣料品は普段着が一番良かった

現在は、一人分づつ袋に入れて配布している

第1陣のお汁粉、甘いものは嬉しかった