この記事の記者のように、そういう人をバカにし顔をしかめるような人は、目に見える障がいを持った人に対して顔をしかめる人と本当は同類であり、さらに残酷な人間だと思います。
以前、ドナ・ウィリアムズの『自閉症だった私へ』という本を読んだ時に思ったことは、主人公と接する多くの『正常』とされる人々の方が、平気で主人公を傷つけたり利用したり、よほど精神的にねじまがっており病んでいると思える場面がかなり多いということ。
ただ、彼らは社会に適応した形のゆがみであるというだけのことで。彼女も最初は自分を大切にするという事自体が理解できず、自分の気まぐれや周囲の状況に流されて滅茶苦茶に傷つけられて生きていくけれど、
大人になって何年もかけて、自分を本当に大切にしてくれる人は誰なのか、どう生きていきたいのか、自分を大切にする事に気付いていく。でも誰しもがその能力を得られる訳ではないし、彼女のように日の当たる方に向かっていける人ばかりじゃない。ほんの少しの違いでどう転ぶかなんて分からないと思う。
職場の飲み会でイッキすることになったとき、梅酒ソーダ飲もうとしてると、ある先輩に「なんやお前?!そんなジュースじゃあかんやろ!wこのウーロンハイを飲めや!」って強引に交換させられて、こいつ殺したろか…と恨みつつ死ぬ気で飲んでみたらただのウーロン茶だったときは胸キュン死しそうだった
余裕がないから「自力で余裕を作ろう」として、数字を誤魔化したりする訳じゃないですか。これって給料の低い公務員や警官が自力で稼ごうと賄賂を求めるロシアと、構図は何ら変わりはない。日本神話は本当に「神話」になった。
脈々と受け継がれてきた「伝説の秘技」的な職人の仕事が、ぞんざいになって、「真面目なやつは馬鹿を見る」的な「なぁなぁ」風潮が神話にしちゃったんでしょうねぇ。
スパナやトンカチが飛んでくるH社のおじさん的なのも減りましたし(´・_・`) twitter.com/hitononaka/sta…
ピアノの先生が言っていた。
「人の演奏をきちんと聴ける人になりなさい。人の演奏に、その演奏のための努力に敬意を払える人になりなさい。それが一番上達への近道です」と。
「ピアノを弾くのが上手な人 と、 素敵な演奏をする人 は、似てるようで全然違うのよ」とも。
良い先生だった。
放課後デイの、諸々の問題点は様々な場所から聞こえてくるが・・・ただ昔の流れがあって現状があるんですね。息子が小学部の時、PTAで要望を募ると、多かったのは、放課後支援と登校支援でした。保護者が体調が悪くなると、学校までの送迎が出来ずに登校できない問題。
放課後デイの数が増えることが直接質の低下に繋がるということは論理的にありえない。なぜならユーザーは選ぶこともスイッチすることもできるのだし、その際の自由度は数が増えるほど増すのだから。もし低下しているように見えるとしたら、それはまだ需給関係で需要がまさっていることの証だと思う。
以前書いたことの繰り返しになるけど、放課後デイって「要件としては」ただ預かってればいいんだよね。療育的なこととかってNice to haveの付加価値サービスで、業者がやりたくなければやらなくていいんじゃなかったっけ。もちろんそういうところは基本淘汰されてくだろうけど。
子供が親の操り人形になって自主性が奪われてしまうっていうのはカルト関連の問題で一番えぐいところなんだよね...スピリチュアルアビュースと言う...と滝本弁護士らが主催してた脱カルトグループの勉強会で言ってた
「山と川に囲まれた活力のある市章です」
「森と海に囲まれた活力のある市章です」
「山と海に囲まれた活力のある市章です」
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「山と海と「森と「山と「森と「山「山「山 pic.twitter.com/yXkUH0rI6n