コメント
人と機械
(
junseok
)
2009-04-22 22:42:57
こんばんは。
僕も全部見ていないのですが、
昨晩のニュースでその様子を見ました。
「ドクターK」という医学漫画があり、その中で貧しい東南アジア人の内臓を売買する話がありました。
僕の母親も移植体験者ですが、
それはペースメーカーという機械で
生きた部分ではない。
生きた部分となるとさまざまなハードルがあるものなんですよね。
だから海外に活路を見出す人がいるし、
お金のために臓器を売る人もいる。
日本で移植が受けやすくなれば、
募金をして莫大な費用を準備する事も減るし、
貧しいとは言え臓器を売る人も減りますしね。
良い意味での連鎖反応が起きてくれたらと思います。
問題点は大きい現行法
(
かんぞう
)
2009-04-22 23:03:54
junseokさん、こんばんは。
移植医療が問題になって、世間の耳目が集まると、何故か自分の事を考えてしまうのです。
だからあまり意見みたいな、強い意思表示が出来ないというか、する資格が無いと思ってしまいます。
良きにつけ悪しきにつけ移植で救われた事を思うと、もし移植という概念さえ無かったとしたら死を待つばかりだったわけで、なんだか複雑な気持ちです。
junseokさんのお母さんも形は違えど移植者なんですもんね。
骨髄も血液もみな移植ですから、ある意味、多くの人に関係のある事象なのかもしれませんね。
メリットだけに目を向けるのもどうかとは思いますが、現行法が現実と大きく乖離し、大きな問題点を抱えている事だけは確かです。
とても
(
匿名希望
)
2009-04-24 23:04:41
難しい問題ですね。
移植経験者の家族として、いろいろな想いが駆け巡ります。
目の前に突然突きつけられた「移植」という言葉。
深く考えたり、いろいろ調べる間もなく海外移植を選ばざるをえなかったこと。
それがどういう意味を持つのか。
そして残念な結果。
後悔はありませんが、自分の身に起こったとしたら・・・
それは一人一人が置かれた立場によっても変わりますね。
これを機会に、できるだけ多くの人に「自分だったら?」と考えて欲しいと思います。
答え
(
かんぞう
)
2009-04-25 15:28:50
そうですね、難しくて決して答えなんか無い事だと思います。
ですから政治家が国会の場で、いわゆる有識者と呼ばれる人達の話しを聞いて、答えの無い問題を話し合っている事に、若干の違和感を感じます。
他に、良い方法は無いんでしょうけどね。
「移植」って、本人だけでは完結出来ない問題だけに「もしも?」と考えることは自分だけではなく家族や周囲にとっても大事な事だと思います。
今が、そのいいきっかけになるといいですよね。
エライ人
(
ひさ
)
2009-04-25 21:49:41
かんぞうさん、こんばんは。
移植だけではなく、病気というものは、なかなか当事者ににならないと、自分とは関係ないこととなってしまうものらしいです。
医療行政などは、その決定権を持っているエライ人自身やその肉親が病気になってみないと、お金が流れてくるわけではないので、往々にして進まない事が多いと思います。
後は、日本人の生死観に対する教育が暗くて怖いもので、非日常的なもので、命が危険にさらされたときに、初めて考え始めなければならないところも、根本にあるのだと思います。
いろいろな考え方・価値観があるので、難しい問題ではあると思いますが、現代医学では移植しか、状況を打開できない患者さんは沢山いらっしゃいます。
また、世の中で移植が受けられる環境があるのに、日本という豊かな国にいるために、受けることが出来ないというのも、待っている患者さんの、いてもたってもいられない気持ちの根元なのではないでしょうか?
現実には、今後、海外での移植が受けられない以上、家族の了解が得られれば、認める流れにしていかないと、国内での闇移植が出てくるのではないかと思います。
何にしろ、待っている患者さんに、朗報となることを、移植を受けたものの一人として、期待します。
生命線
(
かんぞう
)
2009-04-26 21:29:32
ひささん、こんばんは。
当事者にならないと実感できないし、したくない、向き合いたくない、と思うのは当然といえば当然なんですよね。
わたしもまさにそうでした。
絶対病気にならないと思ってましたもん。
実は生命線、長いんですよ。(笑)
でも良く見ると、60%進んだ辺りに真横にラインが走っているんです。
今考えると、それがこの病気を予感していたのかなって。
病気になる人、移植に至る人、移植が叶わない人、生きられる人、亡くなる人、何でもかんでも運命に左右されるわけではないでしょうが、人の生き死にが政治家や法律に左右される事だけは許されないし、誰にも決められない事ではあると思います。
その人の気持ち・意思
(
こころ
)
2009-04-27 00:12:27
生体肝移植ドナー経験をもつ私にとって、関心をもっている話題です。
パッと考えるといろいろ浮かんでくるのですが、自分の発言に責任を持とうとすると、表現することをためらっています。
でも、何か発言したい、当事者として、感じたことを発信してみたい気持ちもあります。
難しい議論の部分について、「こうあるべきだ」ということはよくわからなくて、自分の意見が言えません。
でも、これだけは思うことは、脳死の状態になってしまった本人やその家族が、「せめて臓器だけでも命をつないでいってほしい」「臓器で人の命が救われるのなら自分の臓器を生かしてほしい」という思い・願いを持っていた・持った時に、それが法律によって阻まれることのないような法律になってほしいということです。そういう意思をもっていたということを家族が知っていたら、本人がドナーカードをもっていなくても認めてほしいし、家族だけの判断でも、本人が提供を拒否する意思表示をしていたのでなかったら、慎重な検討のうえでそれが認められるようになってほしいです。
慎重な脳死判定はもちろん大切なことだし、臓器提供に至る過程に世の中の人が不信感を持つことのないように、評価のようなものをする機関の存在も必要かもしれません。
それらの条件を整えたうえで、「脳死を人の死とは認めたくない」「臓器提供はしたくない」という人の思いを大切にしながら、一方で、「臓器提供をしたい」「臓器提供のために脳死を人の死と認めていい」という人の思いも認められるようになってほしいと思います。
私個人の考えでは、臓器移植とは関係なく「脳死を人の死」とするというのは、今の日本では受け入れにくいように思います。
もし、私の大切な人が脳死状態になって、その人は亡くなりましたと言われても、私にはそれを受け入れることができそうにありません。
まとまらなくてごめんなさい。
貴重な意見
(
かんぞう
)
2009-04-27 11:51:04
こころさん、こんにちは。
こころさんやNOKINさん達のご意見は本当に貴重だと思います。
時として、レシピエントとしては、移植を「された側」の立場としては言葉をためらう事がよくあります。
頭で色々考えることがあっても、ある犠牲の上に命を救われた事には違いがないので、いつも複雑な思いは抱き続けています。
退院後は、助かった喜びと同時に、その複雑な気持ちがピークに重なっていたので、こころさんやNOKINさんの、ドナーとしての率直な気持ちを知る事が出来て凄く救われました。
臓器提供についての法律って、いったい何の為のものだろうと思う事があります。
立法の本来の目的が、一番大事な事がズレてきているような気がしてなりません。
こころさんの最後の「まとまらなくて」・・・
これがこの問題の核心のような気がします。
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僕も全部見ていないのですが、
昨晩のニュースでその様子を見ました。
「ドクターK」という医学漫画があり、その中で貧しい東南アジア人の内臓を売買する話がありました。
僕の母親も移植体験者ですが、
それはペースメーカーという機械で
生きた部分ではない。
生きた部分となるとさまざまなハードルがあるものなんですよね。
だから海外に活路を見出す人がいるし、
お金のために臓器を売る人もいる。
日本で移植が受けやすくなれば、
募金をして莫大な費用を準備する事も減るし、
貧しいとは言え臓器を売る人も減りますしね。
良い意味での連鎖反応が起きてくれたらと思います。
移植医療が問題になって、世間の耳目が集まると、何故か自分の事を考えてしまうのです。
だからあまり意見みたいな、強い意思表示が出来ないというか、する資格が無いと思ってしまいます。
良きにつけ悪しきにつけ移植で救われた事を思うと、もし移植という概念さえ無かったとしたら死を待つばかりだったわけで、なんだか複雑な気持ちです。
junseokさんのお母さんも形は違えど移植者なんですもんね。
骨髄も血液もみな移植ですから、ある意味、多くの人に関係のある事象なのかもしれませんね。
メリットだけに目を向けるのもどうかとは思いますが、現行法が現実と大きく乖離し、大きな問題点を抱えている事だけは確かです。
移植経験者の家族として、いろいろな想いが駆け巡ります。
目の前に突然突きつけられた「移植」という言葉。
深く考えたり、いろいろ調べる間もなく海外移植を選ばざるをえなかったこと。
それがどういう意味を持つのか。
そして残念な結果。
後悔はありませんが、自分の身に起こったとしたら・・・
それは一人一人が置かれた立場によっても変わりますね。
これを機会に、できるだけ多くの人に「自分だったら?」と考えて欲しいと思います。
ですから政治家が国会の場で、いわゆる有識者と呼ばれる人達の話しを聞いて、答えの無い問題を話し合っている事に、若干の違和感を感じます。
他に、良い方法は無いんでしょうけどね。
「移植」って、本人だけでは完結出来ない問題だけに「もしも?」と考えることは自分だけではなく家族や周囲にとっても大事な事だと思います。
今が、そのいいきっかけになるといいですよね。
移植だけではなく、病気というものは、なかなか当事者ににならないと、自分とは関係ないこととなってしまうものらしいです。
医療行政などは、その決定権を持っているエライ人自身やその肉親が病気になってみないと、お金が流れてくるわけではないので、往々にして進まない事が多いと思います。
後は、日本人の生死観に対する教育が暗くて怖いもので、非日常的なもので、命が危険にさらされたときに、初めて考え始めなければならないところも、根本にあるのだと思います。
いろいろな考え方・価値観があるので、難しい問題ではあると思いますが、現代医学では移植しか、状況を打開できない患者さんは沢山いらっしゃいます。
また、世の中で移植が受けられる環境があるのに、日本という豊かな国にいるために、受けることが出来ないというのも、待っている患者さんの、いてもたってもいられない気持ちの根元なのではないでしょうか?
現実には、今後、海外での移植が受けられない以上、家族の了解が得られれば、認める流れにしていかないと、国内での闇移植が出てくるのではないかと思います。
何にしろ、待っている患者さんに、朗報となることを、移植を受けたものの一人として、期待します。
当事者にならないと実感できないし、したくない、向き合いたくない、と思うのは当然といえば当然なんですよね。
わたしもまさにそうでした。
絶対病気にならないと思ってましたもん。
実は生命線、長いんですよ。(笑)
でも良く見ると、60%進んだ辺りに真横にラインが走っているんです。
今考えると、それがこの病気を予感していたのかなって。
病気になる人、移植に至る人、移植が叶わない人、生きられる人、亡くなる人、何でもかんでも運命に左右されるわけではないでしょうが、人の生き死にが政治家や法律に左右される事だけは許されないし、誰にも決められない事ではあると思います。
パッと考えるといろいろ浮かんでくるのですが、自分の発言に責任を持とうとすると、表現することをためらっています。
でも、何か発言したい、当事者として、感じたことを発信してみたい気持ちもあります。
難しい議論の部分について、「こうあるべきだ」ということはよくわからなくて、自分の意見が言えません。
でも、これだけは思うことは、脳死の状態になってしまった本人やその家族が、「せめて臓器だけでも命をつないでいってほしい」「臓器で人の命が救われるのなら自分の臓器を生かしてほしい」という思い・願いを持っていた・持った時に、それが法律によって阻まれることのないような法律になってほしいということです。そういう意思をもっていたということを家族が知っていたら、本人がドナーカードをもっていなくても認めてほしいし、家族だけの判断でも、本人が提供を拒否する意思表示をしていたのでなかったら、慎重な検討のうえでそれが認められるようになってほしいです。
慎重な脳死判定はもちろん大切なことだし、臓器提供に至る過程に世の中の人が不信感を持つことのないように、評価のようなものをする機関の存在も必要かもしれません。
それらの条件を整えたうえで、「脳死を人の死とは認めたくない」「臓器提供はしたくない」という人の思いを大切にしながら、一方で、「臓器提供をしたい」「臓器提供のために脳死を人の死と認めていい」という人の思いも認められるようになってほしいと思います。
私個人の考えでは、臓器移植とは関係なく「脳死を人の死」とするというのは、今の日本では受け入れにくいように思います。
もし、私の大切な人が脳死状態になって、その人は亡くなりましたと言われても、私にはそれを受け入れることができそうにありません。
まとまらなくてごめんなさい。
こころさんやNOKINさん達のご意見は本当に貴重だと思います。
時として、レシピエントとしては、移植を「された側」の立場としては言葉をためらう事がよくあります。
頭で色々考えることがあっても、ある犠牲の上に命を救われた事には違いがないので、いつも複雑な思いは抱き続けています。
退院後は、助かった喜びと同時に、その複雑な気持ちがピークに重なっていたので、こころさんやNOKINさんの、ドナーとしての率直な気持ちを知る事が出来て凄く救われました。
臓器提供についての法律って、いったい何の為のものだろうと思う事があります。
立法の本来の目的が、一番大事な事がズレてきているような気がしてなりません。
こころさんの最後の「まとまらなくて」・・・
これがこの問題の核心のような気がします。