今考え中

よくある留学日記・・っていうのが以前の副題だったけど、留学終わっちゃったなぁ

自分を変える★大作戦 強化月間 その3 ピアノ夏期講習会

2008-08-27 | Weblog
マンチェスターでの1週間の夏期講習が終わり、帰ってきた。
いつもだったら、あれもう1週間経った?っていうほど時間が経つのが早いのに、1週間前がかなり昔のことのように感じられるのはそれなりに充実していた証拠か。主な出来事を箇条書きにすると、

①マンチェスターに向かう途中で車が故障
変な匂いがするので何かなーと思っていたら、いきなりボンネットから煙が出だし、エンジンの温度のメーターが最高値を振り切り、警告ランプがチカチカしだしたのでやばいと思い、道路脇に停止。RAC(日本のJAFのようなもの)を呼んで、近くのガレージまで運んでもらう。加入しておいて良かった。

②3回のレッスン
この講習会に参加した目的は、前の学校でお世話になった先生にまたレッスンしてもらうことだったので、これがメインと言ってもいい。1回目は、講習会中の演奏会で弾くベートーヴェンのソナタop.31-No.3(狩り)、2回目は新曲ショパンのバラード4番、3回目はこれまた新曲ベートーヴェンのソナタop.109をそれぞれ持っていった。レッスンは1回1時間だったので、もちろん時間内では全てをカバーすることはできなかったけど、これからの課題がいろいろと分かったので、これをきっかけにまた自分で曲を深めて、近々レッスンしてもらおうと思う。

③マスタークラスと演奏会
レッスンと並行してマスタークラスも催されていたので、私もJoseph Banowetzというピアニストのクラスを受講した。弾いた曲はバッハのパルティータ4番から序曲。演奏のプラクティカルな面よりも、アカデミックな面(例えばトリルとかモルデントをどう弾くかといったようなこと)に重点をおいていて、勉強になった。ボロボロと音をはずしてしまい、もっと上手く弾けたらよかったという後悔は残るものの・・・。演奏会(といってもカジュアルな小さいもの)では前述のベートーヴェンのソナタ(全楽章)。学校にいたとき勉強したものだったのだが、ちゃんと舞台に上げたことがなかったので、今回弾けてよかった。機会があれば大きい舞台(あるのか?)にもあげてみたい。

④講師陣のリサイタル
日中はレッスン(他の人のレッスンも聴講可だった)とマスタークラスが行われ、夜は講師陣と受講者の演奏会があった。可能な限り出席したうち、印象に残ったのは、フィリップ・フォーク(とってもユーモラスなハイドンに、キラキラ光るショパン)、前述のジョセフ・バノウェッツ(古き良き時代のピアニズムを受け継ぎ体現する演奏で、ピアノ演奏という枠を超えて芸術だった)。あとフィリップ・カサールのシューベルト(ちょっと調べたら今年の春に日本で演奏しているみたい)を聞き逃したのは残念。

⑤友人の家にお泊り
ほとんどの受講者が遠方から参加のため宿泊施設が用意されているが、もちろん余分なお金がかかるので、マンチェスターに住む友人みやこさんの家に泊まらせてもらった。彼女がまたパワフルな人で、仕事(音大で伴奏スタッフとして活躍中)が休みなのもあって、連日連夜出歩いて遊んでいて、私もコースが終わった後10時とか11時とかから、音大関係の別の友人の家にいるみやこさんを頼って遊びに行って、Wiiでテニスしたり、飲んだりした。バスは最終、時にはタクシーで帰宅、このところ田舎暮らしに慣れて夜遊びしてなかった私はへろへろになりながらも楽しかった!

⑥車を購入
故障した車を運んでもらったガレージに連絡すると、修理に結構お金がかかってしまうし古い車だしということで、廃車を勧められ、そうすることにする。家に帰ってしまうと公共の交通手段が無いに等しいエリアでの車探しは大変だと思い、マンチェスターを去る前に車探しを決意。日産マキシマの古いのを見つけたので、もうそれに即決。走ればいいんだ。異様に安い売値と、売り手の住所がモ○サイド(マンチェスターで一番柄が悪いエリア、まあその人の家の周りはそんなにひどくはなかったけど)というところが引っかかるけど、とりあえず運転した限り変なところはないし、ボンネットの中もきれいだし、ちゃんと家まで辿り着いたので、大丈夫と思いたい・・・。

とにかく、コースの間、楽譜で重いバッグを持ち歩き、バスに乗り、安い昼食を求めて街をさまよい、練習し、なんだか学生時代を思い出し(そんな大昔でもないけど)とっても懐かしい気持ちになった。でも、やっぱりここ1年間のほほんと平穏に過ごしてきたので、久しぶりに受ける刺激に、ハイになったりロウになったり、感情のローラーコースターに上手く付いて行けず無意味に落ち込んだりすることも正直あった。コース自体は誰でも参加できるもので、年齢層もレベルもいろいろで、様々なバックグラウンドを持つ人々がピアノを愛する気持ちを共有しながら過ごすというのがメインのテーマであるんだけど、それでも、若くて才能がある人を見ると焦ったり羨ましくなったりして、精神的に自分まだまだだな、と思うことが多々あった。自分が成長できて前進できたらそれでいいのに、それ以上のことを求めたり、気にしたりして、それが成長前進の妨げになっているという状況を突破しなければ。とりあえず、このコースのレッスンで学んだことを次に繋げられるように練習練習。


(これから実行したい)具体的な行動:他人と自分を比べない。

自分を変える★大作戦 強化月間 その2

2008-08-16 | Weblog
変える宣言にたくさんの応援コメントありがとうございます!


私の母は、若い頃には裁縫の専門学校に行ってから、その関係の仕事をしていたそうだが、農家に嫁いできてからは、みかん作りを手伝いながら専業主婦をずっとやってきた。時々パートに出ることはあっても、キャリアというほどのものではないし、まあその世代はそういうものなのかもしれないが父親は全く家事をしなかった。口では「お父さんは働いて家族を養っているんだから・・」と言い、「おかわり」と茶碗を差し出すだけの父にご飯をついであげたりする母親だったが、彼女自身そういう環境は必ずしも望んだものではないことは、幼い私でもなんとなく察することが出来た。
その証拠に、母はいつも「大学には行かせてあげるから、絶対に行きなさい」と4人の子供に性別関係なく言い続けた。実際、3人の子供は大学そして大学院に行かせてもらったし、もう一人は手に職をつけるために美容師の専門学校に通った。
で、私も、幸運なことに好きなことを勉強できる機会を与えてもらったし、いつかは仕事もちゃんともって自立した暮らしを送るのだろうと思って疑っていなかった。

ところが、である。まあ選択した分野が音楽ということもあるのかもしれないけれど、将来は教員にと思いつつ進学した教育学部を卒業して、1年講師として高校に勤めたはよいが、何を血迷ったのか(まあその当時は真剣に、だったが)、イギリスまで来てまた始めたピアノの勉強。学校に行って、その渦中にいるときはとっても面白くって、勉強に没頭したけども、卒業したら何をしたらよいかわからない。フルタイムの仕事は皆無に等しいし、ピアノを教えるといっても、すぐに生徒が集まるわけではない。それで、彼氏と一緒に住み始めたのをきっかけに、自分の仕事が増えて軌道に乗るまでの間は、(結婚もしていないのに)泣く泣く専業主婦のような立場に甘んじることになった。

幸い彼はしっかりした仕事もあり、私一人を養っていく経済力はある。それにフルタイムの仕事と博士課程の勉強、演奏活動の両立と多忙を極める彼にとっては、家事全般をしてくれる存在は都合がよかった。なので、特に私が負担になって困る、ということは言われなかった。

でも、私だってプライドというものがある。何に一番なりたくなかった専業主婦、それも子供なしの、だ。そういう気持ちが邪魔して、家事もなんとなく嫌々ながらやっていた。時間はたっぷりあるのに、うわべだけの男女平等に囚われて、忙しい彼に皿洗いを強要したりしていた。

しかし、ここで変わらなければならない。

家事だって、興味とやる気をもってやると、面白い(に違いない)。それに、家を居心地のよい場所にすることは、人生全般のやる気アップに繋がる(ような気がする)。

それに、「家事なんて・・」という仕事を軽視する考え方は、ほかの事をする時にも微妙に影響していると思う。例えば、前述のピアノを教える仕事についても、決して手を抜いて教えているわけではないけれども、現在立派に生計を立てられるほどの規模でやっていないから、どうしても「一応、教えています」といったような一見謙虚のようで見えて失礼な言い方をしてしまう。生徒にとって、他の生徒がいないにしても100人いたとしても、先生は先生だから、堂々と「ピアノを教えています」と言えばいいのだ。そして堂々と「家事を一生懸命やっています」と言えばいいのだ。

それに気付いてからは、家を出来るだけ居心地の良い場所にするという目的を持って家事をしようと思えてきた。A型なのに大雑把な自分をできるだけ抑えて、なんでも丁寧にやろうと心がけるようになった。掃除機を前よりも1.5倍くらいの頻度でかけるようになり、洗い物は溜めずにすぐやる。洗濯物を干すときはパンパンとはたいてからきれいに並べて干し、取り込んでから、裏返しになっているものは表に返し、角を合わせてたたむ。こんなの普通かもしれないけど、私にとっては高精度の時計を作るくらいの緻密な作業に思える。でも敢えてそうすることによって、なんだか心を込めているようで、意外に気持ちが良い。まあいつまで続くか分からないけど、丁寧に物事をすることの気持ちよさが分かっただけでも、ひとつ学んだような気がする。

という訳で、調子に乗って作った(超簡単)バナナパウンドケーキ。
(実は自分の料理をこのブログに載せるのは初めて・・・だと思う。家事を軽視していたので・・・)




具体的な行動2:与えられた仕事を心を込めて誇りを持ってする。

追伸
明日から1週間、マンチェスターにピアノの夏期講習に行ってきます。しばらく留守にしますが、また変わってこようと思います。

自分を変える★大作戦 強化月間 その1

2008-08-14 | Weblog
暇なのも手伝ってなんか自分の人生停滞中だなと感じるようになって早数ヶ月。
悶々と悩む時期も過ぎ、このままではだめだ、自分を変えて前進しなければ、とやっと考えられるようになってきた。
本や友人の日記などでインスピレーションを得て、なんだか背中を押してもらっているような気がするので、ここで「自分を変える★大作戦 強化月間」と銘打って(自分だけの)キャンペーンを開始したいと思う。(星に意味はありません)
自分のブログといえども、こういう公共の場でこういうことをやるのは、このように敢えて発言することによって自分を盛り上げ鼓舞するという目的なので、くだらないと思う方はスルーすることをお勧めする。もちろん読者の方からの叱咤激励は大歓迎です。


あー自分だめだな、と思うことは今まで多々あったけど、自分に甘いからなのか、変えたい変わりたいとそこまで切実に思ったことはないような気がする。
それがなぜ今そう思うようになったかというのは、2週間ほど前の出来事がきっかけだ。

その日はお隣さんからバーベキューに誘われていた。アダムは論文の締め切り直前で、お隣といえども参加する余裕は全くなかったので、私一人でお邪魔した。
近所の人が集まって盛大にバーベキュー。それまで挨拶程度しか近所づきあいをしていなかった私は、ご近所さんと仲良くなるよいチャンスと思い意気揚々出掛けていった。
でも、結局そのチャンスを生かすことが出来なかった。というのは、自己紹介してちょっとお話をした後、全く話すことが思いつかなくなってしまったのだ。
もちろん言葉が完全ではない、とか共通の話題が見つからない、とか言い訳はいくらでも出来る。でも、言葉の問題に関していうと、もうだいたいはクリアしているはずなのだ。もちろんネイティブ並みとはいかないにしても、話していることは大体分かるし、分からないなら分からないで「え?今分かりませんでした。もう一回説明してください。」と言える度胸(これは簡単なようでいて結構勇気がいる)は身についた。そしてつっかえながらでもいくらかは話せる。
何が問題かというと、意見を言うべき瞬間を逃してしまうことだ。「あ、これ言いたい」とか「これ言える」とかいう気持ちがあっても、勇気がなくて、または自信がなくて、時間ばかりが経ってしまう。ひとつひとつの瞬間を逃し、それを繰り返して、次第に会話の輪から外れていってしまう。そして心を閉じてしまう。続いている会話の内容は理解できているのに、もう参加することはできない。
そういう状態が続いて、3時間経った時点で逃げるようにその場を去り、気まずい思いで帰宅した。

帰って考えたのだけど、結局、精神的心理的なものなんだと思う。
実際こっちに来たばかりの頃は、言葉も理解できなかったし、ただただ愛想笑いをして理解した振りをして時間だけが過ぎるを待っていた時もあった。
それが癖になって、出来るのに出来ないふりをする、出来ないと自分で思い込んで壁を作ってしまう、そういうことなんだと思う。

そう気付いてからは、日常生活で、「出来るのに出来ないと思ってやってないこと」というのは結構たくさんあることに気付いた。なんとなく言い訳を作ってやってないこと、すこし意識を変えれば出来ることなのに出来ないと思い込んでやってないこと。
そういえば、ピアノの先生にもレッスン中に何かを要求される度、「あなたは、出来るのに出来ないと思い込んでいる、だから出来ない、それが問題」と言われていたことも思い出した。そのときはピンとこなかったけど。

出来るのに出来ないと思い込んでこのまま人生を送ったとしたら、もしかして例えば100まで行ける可能性があるのに、60までしか辿り着けず人生おしまいってこともあり得る。
そんなのダメだ。自分が損するだけだ。

だから、今ここで自分を変えたい。

まず、どう変えたいか。
ポジティブになりたい。「ない」ものより「ある」ものに目を向けられるようになりたい。「出来ないこと」よりも「出来ること」に目を向けられるようになりたい。「出来る」自分を信じられる強さを持ちたい。機会を求めてそれを生かせるようになりたい。

そして、ここが重要、どうすれば自分を変えられるのか。
前にもちょっと触れた本「夢をかなえるゾウ」では、変わりたいと思うとき、意識を変えようとしたらダメだ、具体的な行動を変えていかないと自分は変われない、とあった。なるほど。だから、この強化月間中、具体的に行動を変えてそれを逐一ここで報告したい。

なんだか自分がこういうこと書くとは思わなかったと言うか、宗教みたいというか自己啓発本(読んだことないけど)みたいでなんだか恥ずかしいけど、いや、もう変わるのに見栄も恥も外聞も捨てて、必死なくらいの気合でいきたい。引き返せないように、ここで宣言する。私は変わります、と。

具体的な行動1
ブログを充実させて、自分を盛り上げるために、ブログのリンクを募集します。(他力本願?)リンクを希望する方は、お名前とご自分のブログアドレスを記入した上にをコメント欄に投稿をお願いします。また相互リンクをしていただければ幸いです。



夏の一日

2008-08-11 | Weblog
アダムの論文が終わったからと言って、すぐにエキサイティングな夏の日々が始まるという訳でもなく、やっぱりインドア派からすぐにアウトドア派に転向とはいかないようです。あ、でも一昨日バドミントンしたな。自己流のルールでやった試合、1対1で引き分けでした。私と互角に真剣勝負できる(ひ弱な)彼氏を持ってて良かった。だって負けたら悔しいもん。

来週から始まるマンチェスターでのピアノ講習会の参加のために練習したり、生徒に教えたり、アダムのギグについて行ったり(というか連れて行ったり)、そんな毎日です。私的には、ちょっと前に衝動買いしたテントを持ってキャンプに行きたいところなのですが、賛同を得られません。。

とりあえず私の住む村の景色などを写真でお楽しみください。



村の中心を流れる運河。ボートで旅をしている人たち(主にミドルクラスの中年夫婦)が立ち寄ります。



また一隻やってきました。



運河に住む白鳥の一家。赤ちゃんも大きくなってきました。鴨の一家もいます。



反対側にはフィールドが広がります。



もちろん馬もいます。

お次はうちの庭。



壁につけた籠の中の花。ロベリアと・・・例によって名前は定かではありません。近くのホームセンターに行ってアダムの両親と一緒に選んだ花。



同じ花を使って作ったハンギングバスケット。



ラベンダーの花も咲きました。



朝顔はもう少しかな?ハート形の葉っぱがかわいい。



こちらも元気にしております。ミャーオ。



下にいくつか記事を更新しておりますので、興味のある方はどうぞ。



再会

2008-08-07 | Weblog
玄関のドアのガラスが割れてしまったので、業者の人に修理に来てもらった今日の朝。支払いの小切手にサインをしてもらおうと、寝ているアダムを起こして、
「ちょっとここにサインして!」
と言ったら、寝ぼけた彼は

「・・・え??どのカテゴリー?」

は?署名にカテゴリーとかないから。普通にサインして普通に、と言うと

「・・・全部大文字じゃないといけない?」

は?いつもやってるようにサインしたらいいんです。
・・結局現金で払った。


ところで、ここ数ヶ月なぜか再会が続いていて、それこそ卒業以来会っていない高校の友達とネット上で、とか、ドラマを見ていると友人に似ている女優さんがいて、どうしてもその友人と話したくなり、彼女がお嫁に行った京都の老舗のお茶屋さんの電話番号を調べあて、お店に電話、とか、友達から紹介された人が実は3年位前に一度会ってた人だったというマンガみたいな再会があったりとかしていたんだけど、今月に入ってからまた嬉しい再会があった。

というのは、大学時代(教育学部の音楽科だった)の同窓会が、私たちの学年の担当だった先生の住む名古屋で先週末あったんだけど(私は残念ながら欠席)、出席した友人からの報告を通じて、同級生の近況を耳にしたり、欠席した人同士で連絡取り合ったりして、一気にいろんな人と再会した。

こうして懐かしい人たちと再会(いや、実際には会ってないんだけど)すると否応なしに考えるのが、「私は今まで何をしていたのだろうか」ということだ。懐かしい同級生、卒業以来の再会、彼彼女は社会人として立派に活躍している、または結婚して母になって云々・・それに比べて私は・・みたいな思考回路がその都度繰り返される。別になんにも恥に思うようなことはしていないつもりなんだけど、やっぱり目に見えないものを追ってきたここ数年、ふと現実を見つめると、なんだか手ごたえのない日常のみが残されたようで焦ってくる。
特に去年学校を卒業してからは、心の準備なくポンと現実社会に放り出されたような気がして、何をしていいのか分からず、途方に暮れたまま時間が過ぎていったような気がする。

そこにきて友人との再会だ。嬉しい反面、焦る。要はコンプレックスなのだ、社会に出ていないということが。そして自信が持てない。

コップ半分の水を、「あと半分も残っている」と解釈するか「あと半分しか残っていない」と解釈するか、私は確実に後者のほうだと思う。というか、「締め切りまであと1週間しかない」か「まだ1週間もある」というのだったら「まだ1週間もある」派で、例えば山を登っててゴールまでの道程でちょうど半分来たなら、「半分も来た、よし、あと半分頑張ろう」じゃなくて、「半分しか来てない。今まで何やってたんだろう?」派だ。分かりにくいかもしれないけど、楽天的な悲観主義者だ。将来展望に楽天的で何にも考えずに「何とかなるだろう」とか思ってるくせに、自分に自信が持てなかったり、自分自身を信じられなかったりして、先に進めなかったりする。タチが悪い。

具体的な例を挙げると、イギリスに来たのも「まあ何とかなるだろう」と何の計画もなく来て、先のないかもしれない音楽の勉強なんかを始めて、ふと我に返ると、他人と比べたりして自信をなくしたりする。それぞれの過程に小さな成果はあるのに、それを見落として、自分よりずーっとでっかいもの先に進んでいるものと比べて落ち込む。そして「どうせ私なんて」と思って、何もしない。

それが、これではいかん、とやっとここ数ヶ月で思えるようになってきた。

そう思っていると不思議なことに、背中を後押ししてくれるような出来事が続く。
ひとつは友人から借りた本、「夢をかなえるゾウ」。帯に何十万部突破とか書いてあるので、ああー流行の本なのかと懐疑的だったのだけど、読んでみるといいことがいっぱい書いてある。
もうひとつはその同窓会をきっかけとして連絡を取り合うようになった友人。教えてもらった彼女のブログを読んでみると、何気ない日常生活とピアノの勉強のことに触れていながら、私にとって前進するためのヒントになるようなことがたくさん書いてある。
これら二つのものに共通して書かれていることは、「感謝する」ということがどんなに重要なことかということだ。「夢をかなえるゾウ」には最後の教訓(?)として「感謝すること」が書かれ、また友人のブログには、元気に暮らせること、勉強を続けられること、機会を与えてもらうことに関しての感謝の言葉がこれでもかというくらい並べられている。

ここ1年くらい私は、自分の生活に「何があるか」というよりも「何がないか」ということを数えながら暮らしてきたような気がする。極端な話、なんで私は小さい頃から英才教育をうけられるような音楽一家または金持ちの家に生まれなかったんだろう、とか真剣に考えてた。違う人に生まれてきたらよかったって・・・アホやろ。
それが、ちょっと視点を変えると、自分がどんなにラッキーで幸せなのか、すぐわかる。1日500円程度しか使えなかった学生時代に比べて最近は金銭的にもちょっとは余裕ができたし(アダムのおかげでもある)、素敵な家も借りられるし、肉や魚も買えるし、車も持ってるし、好きな人と一緒に暮らせるし、かわいい猫もいるし、私のところにピアノを習いに通ってくれる生徒もいる、そして何より健康だし、家族も元気だ。ここ数年だっていろいろやった。英語も話せるようになったし、学位も2つ取ったし、自分の名前でリサイタルも数回させてもらった。そういう環境に身を置けたこと、周りのサポートがあったことなど、感謝すべきことはたくさんある。
そして、そう思えるようになって初めて、じゃあ次はこうしよう、これを頑張ろうって思えるようになる。

これは前にも書いたかもしれないけど、英語で「感謝する」という意味の言葉に「appreciate」というのがある。この言葉には「認識する、理解する」という意味もあって、私の勝手な解釈では、認識して理解することによって初めて感謝できる、つまり認識理解なしでは感謝することはできないということなのかな、と思っている。

自分の置かれている状況を認識して理解する、そして感謝する。そうやって少しずつ前進、成長していきたい。よし、なんかやる気出てきた。


(最後まで読んでくださってありがとうございます。あとちかちゃん、ブログ、こういう意味で私の状況にドンピシャだった。本当にありがとう。お互い頑張ろう。)