聖母マリアの秘密 (聖グレニョン・ド・モンフォール著)

人類の救いの歴史におけるマリアの役割

聖マリアの秘密 《救いの歴史におけるマリアの役割》

2022-05-26 22:13:02 | 日記
聖マリアの秘密《救いの歴史におけるマリアの役割》

紹介のことば

すべての人のため、貧しい人と豊かな人のため、
健康な人と病人のため、若い人と、老人のため、善い人とそれほど善くない人
のために、聖マリアの秘密は、神の恵みの宝を開く鍵です。この小さな本を読んで
黙想し、実行に移してから、「聖マリアの秘密は、わたしの喜びです」と誰でも
確実に断言できるでしょう。

モンフォール師の予言的な言葉は、教会憲章の第8章と、ヨハネ・パウロ二世
の聖母に関する教えの中心的な真理を天的な光をもって照らします。すなわち、
マリアは、恵みの段階において、わたしたちの母でありますが、それは、十字
架上から「これは、あなたの母です」と、おおせられたイエズスの遺言により
ます。

聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォールは、この著書に、『聖マリア
の秘密』という題をつけました。それは、私たちがどんな障害にもまけないで、
マリアの奥義の富を、子供の心をもって、発見する忍耐づよい力を、わたした
ちに与えるためです。

『マリアは、人となられた神のまことのおん母です。
従って、すべての人の霊的母です。
マリアは、その終生処女性のため、
その神的母性のため、
その霊的母性のために、かがやいています。」

          (教皇聖ヨハネ・パウロ二世の紹介のことば)

モンフォール師は、この短い著書を、ひとりの信心深い人にあてています。
そのひととは、シスター・マトゥリナという人だと思われています。
モンフォール師は、1710年、ナント市の不治の病いを病む人のために病院の世話を
このシスターにまかせていました。モンフォール師は、この人を「イエズスの
御血によって、あがなわれた魂よ」と呼んでいますが、それは、イエズスに従いた
いと望むすべての人にもあてはまります。

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『聖マリアの秘密』紹介のことば
前おき小伝とその著書


1.「聖母マリアへのまことの信心」と「聖マリアの秘密」
2.生きたあかし
3.マリア信心の危機のさなかに
4.マリアを神との従属関係に
5.この本のわずかの影と絶えざる光
6.第二ヴァティカン公会議の教えに合うモンフォール師の教え
7. キリスト教的成熟の提案


序 一つの秘密を教えてあげたい(1~2)

第一部 聖母マリアを通じて聖徳をめざす義務について(3~23)

第一章 聖徳への召し出しは、みんなのため(3‐5)
第二章 救いの歴史におけるマリアの役わり(6‐22)
第三章 マリアを通じて(23)

第二部 聖マリアへのまことの完全な信心(24~65)

第一章 完全な奉献(28~34)
第二章 奉献のすぐれた点(35~42)
第三章 奉献生活の内的実行(43~52)
第四章 奉献の感嘆すべき成果(53~59)
第五章 自己奉献の外的わざ(60~65)

祈り

1.イエズスに対する祈り(66~67)
2.マリアに対する祈り(68~69)


むすび 命の木(70~78)

自己奉献文

イエズスのみ名の連願
イエズスのみ心の連願

聖霊の連願
聖母の連願
聖母マリアと共にささげる祈り7
愛と光の家の祈り

聖ルイ・マリア・グリニョン・ド・モンフォール

編集後記



前おき


聖グリニョン・ド・モンフォールの小伝とその著書

1『聖母マリアへのまことの信心』と『聖マリアの秘密』

「聖母マリアへのまことの信心」というこの本に似たようなすばらしい本を
みつけることは簡単ではありません。『聖マリアの秘密』というもっと小さい
本は、その完成となっていたのです。

この本の原稿は百年以上もの間、一つのひき出しの中に沈黙のうちにほうむ
られていました。その著者聖ルイ・マリア・グリニョン・ド。モンフォール神
父自身、この本の運命について、同書の第川条で、すでに予言していました。
ようやく一八四二年にこの原稿は発見され、本として日の目をみるようになり、
みごとな売行きとなり、およそ三十ヶ国語に翻訳されて、三百版をこえるよう
になりました。この本の第一部は失なわれてしまいましたが、実をいえば、フ
ランス革命のときに全部なくなる危険がありましたが、幸い誰かが田舎の小屋
にかくしたので、無事でした。しかしその第一の部は失なわれました。失なわ
れたのは、この著者の全体のほんの一部だけで、残った大部分は非常にすばら
しいものでした。

「聖母マリアへのまことの信心」という題で発行されるようになって、聖母信
心と霊的生活を取り扱うどの本にも、また、どの聖母大会にも、この本を引用
しています。神学的にも、司牧的にも、聖母マリアに対するキリスト者の関係
は、この古典的な傑作にもとづいています。
教皇聖ヨハネ・パウロ二世も若い時からいく度となくこれを愛読し、教皇になっ
てからもこれを引用し、その愛読をしきりにはげましています。

2. 生きたあかし

「聖母マリアへのまことの信心」と「聖マリアの秘密」の本が、これほど特
別な売れゆきをみせたその理由は、どこにあるのでしょう?それは、まず第
一に、研究書ではなくて、生きたあかしにもとづいているからです。これらの
本は、ひとりの聖人の個人的な、宣教的で司牧的な経験をあらわしています。
そのため少しでもよいから、この聖人の生涯を述べることは、たいせつです。
フランスのブルターニュ地方のモンフォール町に、ルイ・マリア・グリニョン
は1673年1月31日に生まれました。今の中学校、高等学校にあたる勉強は、
レンヌ市のイエズス会経営の聖トマス学園で行い、神学の勉強は、
パリのサンスルピス会の神学校で行いました。1700年6月5日に司祭に叙階
されてから、歩く宣教師として、200以上の小教区をめぐり、キリスト者の
あいだにキリスト教の精神を復興させたり、キリストとそのおん母マリアを愛
させたりするために全力をつくしました。かれの生活は福音的で貧しく、すべ
てを神の摂理にまかせました。その生活ぶりをみた多くの人は、かれのことを
感心し、その反面他の多くの人は、かれの敵となりました。かれは、自分の使
命を果たす刺激を得るために十字架の神秘を黙想し、聖母マリアを通して、す
べてをキリストに奉献しました。

とくにある教区の司教代理は、かれの活動を非常に邪魔していたので、モンフォー
ルは外国布教地に行くように、神のみ摂理がかれを招くのではないかと考える
ようになりました。まちがうことがないように、かれは、教皇の指導を仰ぐた
めに1706年2月に歩いてローマに行きました。当時の教皇クレメンス十一
世は、かれを大いに歓迎して、信徒的宣教師に任命し、”聖座直属宣教師”と
いう肩書まで与えて、どこにでも説教する資格を与えるとともに、フランスに
戻って、そこでその使徒職をっ。つける命令を与えました。

モンフォール師は、また歩いてフランスに帰り、あと十年間、死ぬ時まで
その活動をつづけました。かれは貧しい人々の間にまずしい生活をして、とくに、
その当時いやしめられていた人々の世話をし、一般人民のみんなに分りやすい
説教をしていました。
かれは種々の小教区で十字架のみちゆきを設立したり、みんなに歌いやすい賛
美歌をつくり、また、行列を行い、様々の信心会を設立しました。そしてこれ
はすべて人々を改心にみちびき、福音の教えに白発的に従うようにみちびいて
いました。

この布教の仕方をミッション(布教)と呼んでいましたが、それは今でも行
われる信荷用の「黙想会」のようなものにあたります。しかし、かれの場合、
この黙想会は、四週間または五週間つづくものでした。ある町や村に行って、
まず毎日説教し、よく賛美歌をうたわせていました。信徒にとって歌いやすい
賛美歌を自分がつくり、その歌い方を教えていました。

黙想会の効果が長く残るように、まい度、種々の信心会を設立していました。
まず第一にロザリオの信心会、それから大人のために「白衣のつぐないの会」を
男女別々に創立していました。それから、若い女性のために「四十四名のおとめたちの会」、
そして、兵隊たちのために「聖ミカエルの騎士会」、そして他の人のために、
「十字架の友人たちの会」を設立していました。きまった日に、荘厳な行列も行いま
した。よく準備して、これに町中の人が、それぞれの会の服を着用して、十字
架を書いた多くの旗を持ちながら進み、その終わりにご聖体をもつ聖職者が進
んでいました。

また、あるグループは、手にたいまつを持っていて、これから
高く示すべき信仰を表わしていました。こういうような行列は、一回の黙想会
に一度だけでなく、行なわれていましたが、黙想会のクライマックスは、洗礼
の約束の更新の式でした。それは、神とむすぶ契約の形をとり、深く印象づけ
るために契約の文を荘厳によんで、これに宣教師モンフォール師自身は、神の
代理者としてサインをしました。

この契約の力によって、その小教区の信者はみな、これからまことのキリスト者
として生きることをちかっていました。これほどすばらしい活躍をしているにしても、
十二回以上、ある小司教区から追い出され、またある司教区に滞在さえも禁じられたのです。
かれは、不平をいわないで、けんそんにその命令に従いました。かれは、追い出された時に、
やむなく淋しい所にしりぞき、祈りと黙想に従事するとともに、たくさんの本
を書きましたが、これらの本は、かれの帰天後に、はじめて発行されました。
その書物は、長いものもありますが、大部分はみじかい論文のようなものです。
その目立ったものは、次の通りです。

「永遠の知恵の愛」(1703〜1704年)
「書簡集」(1694〜1716年)
「賛美歌」(1700〜1716年)
「聖母マリアヘのまことの信心の本」(1712年)
「マリアの秘密」(1712年頃)
「聖ロザリオの感嘆すべき秘訣」(1712年頃)
「燃えさかる祈り」
「マリア会の宣教司祭会の規則」

「知恵の女子修道会会則」(1715年)など。

かれは、サン・ローラン村で、信徒の黙想会を指導していたそのとき、
1716年4月28日に帰天しました。
1888年4月16日に列福され、1947年7月26日教皇ピオ十二世に
よって列聖されました。

知恵の女子修道会、マリアの宣教司祭会、聖カブリェルの教師修道会は、聖
モンフォールを創立者として、霊性の教師として仰いでいます。また最近設立
されたマリアの宣教女の在俗会も、かれの精神にもとづいています。これらの
会はすべて、聖人の愛徳の活躍は、宣教の活躍、教育の活躍を教会において存
続させています。

「聖母マリアへのまことの信心」の本は、かれが書き残した著書の中で、ぃ
ちばん大切なものです。この中でかれは、「長年にわたって公に特に黙想会の
間で効果的に教えたことを書き残そうと計画したのです。そうしますと、学問
的な論文のことではなくて、唯きた布教の体験です。この本をしらべる人はみ
な、その魅力にひかれてしまいます。そのスタイル、熱烈さ、深い確信、しっ
かりした教義、心を奪う雄弁さ、威厳と聖なるいぶきがその中にあるからです。
この本はいく度読みかえしても、決して古くならないで、いつも新しい感じがし、
その充実した内容は、値打ちを失うのではなく、かえって、いつも新鮮な香りと
熱愛とが尽きません。以上は多くの人たちが感じたことです。

同時代の聖アルフォンソが書いた「マリアの栄光」という本は、全教会に人
きな影響をおよぼし、今でも愛読されています〔この本の日本語訳は中央出版
社から発行されています〕・モンフォール師の「聖母マリアヘのまことの信心」
の本も、これと並んで思いもよらないほどの影響を及ぼしています。


   聖アルフォンソ

心の女王マリアの信心会と、マリアの司祭たちの信心会があり、なん万人の
司祭と信徒がこれに入会しています。マリアの司祭の信心会の名簿の中には、
先頭に教皇ピオ十世がのっています。書いたの教皇は無原罪のおん宿りの教義が、
信仰箇条として発布されてから五十周年記念に、すばらしい回勅を出しました。
この回勅の準備として聖ピオ十世はまず「聖母マリアヘのまことの信心」を読
みかえし、この回勅の中に利用しています。

一九一六年にモンフォール師の帰天の二百周年記念にさいして、教皇ベネデ
クト十五世は、モンフォール師の設立したマリア会の総長に手紙をおくり、モ
ンフォール師があれほど広めた母に対する信心を、すべての信者の間に大い
に普及するようにはげましていました。フランスのひとりのカルディナルが、
教理ピオ十一世に、モンフォール師の、このマリア信心会をご存知ですかと聞
いたときに教皇は、「知っていますとも、子どもの時からそれを守っています」
と答えました。また言葉をついで「モンフォール師に、かれの取り次によって、
聖母に対する純粋な信心をいつも生き生きと守りなさい」とつけ加えました。


3. マリア信心の危機のさなかに

モンフォール師は、文章としても魅力ですが、それと同時に内容は教義的に
しっかりした土台の上に立っています。かれモンフォール師は、「おもに貧し
教皇ヨハネ・パウロ二世は、若い頃から、この本を愛読し、ご自分のモットー
としてTOTUS TUUS「全部あなたのもの」をこの本からくみとりました。
教皇は多くの場合、この本を直接にも間接にも引用しています、教皇はこういっ
ておられます、「あなたたちは、イエズスの御母を愛しています。この信心を
忠実に守るようにすすめます。この信心を正しく理解し、生活にうつすな
ら、たしかに、わたしたちの救い主キリストの奥義にますます深く入るように
導かれます」と。
今回発行するようになったモンフォール師のこの新しい翻訳に、いくつかの
箇所で、これと関係のある教皇聖ヨハネ・パウロ二世のことばを引用します。

「おもに貧しい人と単純な人のために書く」といい、むずかしい論証と学者ぶった態度をさけました。といっても、かれは偉大なすばらしい信心を照らすために、まずい
くつかの根本的な真理の上に、その断言のしっかりした土台を置くように心が
けました。

この聖なる宣教師が、フランスの東方の宣教に活動していたその時代は、聖
母信心に大きな危機がありましたが、これと同じような危機は現代の教会をも
なやましています。一六八○年頃からマリアに関する本はずいぶん少なくなり、
表現ももつとかたぐるしくなって、感情的な表現がさけられています。すなわ
ち、聖母がすべての人の霊的母であり、いつくしみ深いお方であるということ
にはあまりふれないで、かえって聖母の道徳的偉大さが強調されています。
今までの聖母の信心に反対して、それがいつわりの信心にならないようにと
多くの人が警戒しなければならないと説教したり、文章を書いたりしていまし
た。

1673年発行されたウィデンフェル卜著「出すぎた信心家に対する聖母
の有益なアドバイス」という本は、そのタイプの本で、聖母ご白身のメッセー
ジをよそおって、聖母に対する信心を非難していました。この本は当時たくさ
ん売れて、悪い影響を及ぼすことになりました。当時の聖母信心の中で教養の
ないある信肴たちが、迷信的な、または極端な所を信じていたことは、事実で
す。かれらは、その合わない所を強く非難していますが、それと同時に正反対
の極端に流されて、人々を正しい信心から遠ざけていたのです。

当時いつばんの人々は、聖母についての、歴史的根拠のうすい伝説や架空の
言い伝えを余りにも大事にしていましたが、批判的な精神は、これらの伝説を
排斥しました。司祭用の聖務日課にも、教父たちの朗読の中に著者のうたがわ
しい文が入っていましたが、典礼の刷新の時に正しい文にとりかえて、聖書の
朗読も以前より使うようになりました。聖母の仲介を認めないプロテスタント
の影響をうけ、カトリック側は劣等感から聖母の仲介を、もう前のように強調
しなくなりました。その結果、キリストだけが唯一の仲介者であることに重き
をおきました。

それと同時に、当時教会内にはやっていたヤンセニストの異端説の影響で、
聖母に対する信心も最低限度にしました。そして民間の感情的なところをやめ
ねばならないと主張していました。
モンフォール師自身は、まだ神学生のときに聖母に対する信心をおおいには
げましていましたが、同級生の神学生たちでさえ、「あなたはマリアを女神に
しているじゃないか、あなたは、おん子キリストよりもマリアをもっと愛して
いるのじやないか」とはげしく非難したほどでした。
これらの非難をうけてもかれは、しりぞくことなく、かえって、聖母に対す
る自分の信心を神学的に深めると同時に、キリスト教生活全休に、これを浸透
させるようにつとめました。もちろん、キリスト教の信仰が教える正しい位置
づけを守りながらです。


4 マリアを神との従属関係に

これは、モンフォール師のマリアに対する信仰の中心的なポイントです。か
れは、神の御母マリアの奥義について深く感激し、尊敬し、マリアがキリ
スト荷に対して母であり、女王の使命をもっていることを認めています。
かれは、マリアの善徳にならい、孝心に燃える愛を示すだけでなく、全面的
に、自分をマリアに奉献しなければならないと考えています。そしてこの奉献
を自発的な”愛のどれい”という、現代人に認めにくい表現であらわしています。
そして、「聖母マリアヘのまことの信心」の本の中で(72~76条と244~245条)
自分の考えをくわしく説明しています。

しかしモンフォール師は、マリアを独立の存在として決して考えていません。
すなわちマリアは、霊的生活の絶頂にたどりつくために、信者の心を自分に集
中させるのではなく、すべての人の心を、イエズス・キリストに導き、イエズ
ス・キリストにだけ集中させておられます。モンフォール師は、教会の信仰と
完全に一致した態度をとっています。「マリアは完全に神と関連をもっていま
す。わたしはマリアを”神との関係”だと呼びたいほどです。それは、マリア
が神との関係なしに存在していないからです」(225条)とかれは断言していま
す。モンフォール師の考えでは、マリアは、キリスト教において、必然的に自
分みずから存在する絶対的なものではありません。

教会においてマリアがすぐれた立場におかれているのは、マリアをお選びに
なった神のおぼしめしによります。マリアが選ばれたのは、神のおんひとり子
が人間になり、キリストの神秘体が生まれ養成されるという神のご計画の実現
の道具となるためでした。(「聖母マリァヘのまことの信心」16~38条と218条参照)

5. この本のわずかの影と絶えざる光

モンフォール師のこの著書が、強い呼びかけと、はげましとなるということ
を認めても、これ以上ありえない絶対的に完全なものと考えないように注意し
なければなりません。人間がつくったすべてのもののように、これにも、発展
と再検討と刷新を必要としています。それは、おもに、その表現の分野におい
てです。当時モンフォール師が生きていた環境と文化の影響があって、現代に
あるものは、それほど簡単に認められていないのです。

かれには、すばらしい直観がありましたが、それを表わすために、当時の表
現と考え方を利用しています。その表現のあるものは、現代のわたしたちにとっ
て気に入らない印象を与えています。そうすると、この表現の外観の下にかく
れている価値を理解するようにしなければなりません。「マリアの秘密」の中
にも同じような当時の表現が出ています。この本のイタリア語訳の二十四番目
の版には、この問題の解決のためしとして、モンフォール師の種々の表現を文
字通りに翻訳しないで、現代人に、もっと受け入れやすい表現であらわされて
います。

しかしこのやり方にみながみな賛成していません。著書の原稿の表現
を忠実にあらわし、現代人にもわかりやすくするように、必要なとき、適当な
説明をなんらかの方法で、たとえば序文または注で加えればよいとされていま
す。それで「聖母マリアヘのまことの信心」というこの本の日本語のこの翻訳
では、現代語の他の翻訳と同じように著者の表現をそのまま翻訳しても、場合
によって適当な注釈を入れ、その深い意味を説明しています。著者の表現の中
で現代人にいちばん気に入らない、あるいは、いちばん受け入れにくい表現は、
「マリアのどれい」、あるいは「愛のどれい制度」という意味です。とくに64条
ないし77条、244・246条に出るこの表現は、どれい制度は人権とキリスト教的
自由に反する状態を考えさせます。

イエズス。キリストご自身「どれいの姿をとり」(フィリッピ2.7)、聖
母ご自身は、ご自分が「主のはしため」、つまり「主の女どれい」(ルカ1-38)
といい、使徒聖パウロも、自分のことを「イエズスのどれい」であるとくりか
えしています。(ローマ、ガラツィア、フィリッピ人への手紙のはじめ)もち
ろん、モンフォール師は、このことを強調していますが、それと共にイエズス、
キリストが、わたしたちを神の子らの自由にお召しになったこと、そして、わ
たしたちを神のどれい、または神のしもべとしてではなく、友人として考えて
おられることをモンフォール師は、はっきりと説明しています。

「マリアのどれい」または「愛のどれい」という衣現で、モンフォール師は、
次のことを強洲したいのです。すなわち、マリアが「主のはしためとして」す
べてにおいて完全な服従と愛をもって、神のみ旨を果したように、わたしたち
もこの手本に従わなければなりません。

モンフォール師は、人間が堕落しているのでこの世間をさけねばならないと
強く述べると同時に、「この世はすべて悪魔の支配下にある」という聖書のこ
とばと、また、「この世のために祈らない」というキリストの言葉を忘れては
ならないと言っているのです。キリストは、悪魔的なこの世のことを考えてお
られますが、それと同時に、キリストが、この世を救うために、また、神がこ
の世を愛するあまりに、おんひとり子を救い主として送られたことを同時に考
えあわせなければなりません。

また今までの霊的書物の中に世間をさけるとか、世間を軽蔑するかという表
現がよく出ています。もとの言葉では世間と世とは同じ単語であらわしていま
す。聖書に出るこの単語は、場合によって悪魔的なこの世を意味し、また、場
合によって神がおつくりになった、そして神が救おうと望んでおられるこの世
を表わしています。教会は世を救うために世に入りますが、神にそむくこの世
の精神にだまされないように警戒しなければなりません。つまり、教会は、罪
と罪にみちびくことをどうしてもさけなければなりませんが、この世を救うた
めに、キリスト者は社会をさけてはなりません。かえって、社会の悪いことに
迷わされないように警戒して、キリスト教的あかしをもって、この世の人々に
救いをもたらすようにしなければなりません。モンフォール師自身その使徒的
な活躍をもって、この世に交わり、どれほどたくさんの人々を神の愛に導いた
ことでしょう。

また、モンフォール師は、唯一の仲介者であるキリストに近づくために、も
うひとりの仲介者マリアによりたのむようにと、しきりにいっています。マリ
アを仲介者として認めたくないプロテスタントに対する劣等感を感じる人々は、
仲介者マリアのことを認めないのです。あるいはエキュメニカルな理由、すな
わち、プロテスタントの反感をかわないために、マリアの仲介を強調してはい
けないといっています。

第二ヴァチカン公会議においても、この思想に反対する傾向があらわれました。
公会議は教会憲章の中でマリアの仲介は、どういう意味をもつべきかを権威を
もって述べています。こうしてモンフォール師の教えは公会議によって確認
されるようになりました。


6.第二ヴァティカン公会議の教えに合うモンフォール師の教え

以上述べたことによって、救いの歴史におけるマリアの使命と、これに対す
るキリスト者の答えに関するモンフォール師の深い直観と霊性のすばらしい貢
献を小さくするようなものは全然ありません。教会において、主のおん母に対
するキリスト者の純粋な関係をよく理解し、わかりやすく説明した聖人たちの
中でモンフォール師は、特別にすぐれています。最近、テアス司教が次のよう
に断言しました。すなわち、「第二ヴァティカン公会議の教会憲章のマリアに
関する第八章では、いちばんすばらしい解釈は聖ルィ・マリア・グリニョン・
ド・モンフォールの教えにある」と。

公会議の文献とモンフォール師の本とは、思想のうえでみごとに一致してい
ます。次の所にそれが目立っています。(a)救いに関する神のご計画(教会憲章
52・ 56・58・61条と本書14~35条)、(b)イエズスとマリアとの親密な一致
(教会憲章56~58条と本書63・ 74・ 120 ・65・ 242条)、
(c)キリストの唯一の仲介の断言(教会憲章60条と本書61条)
(d)マリアの母としての模範的な役割、(教会憲章61~65と本書29~36 ・260条)、

(e)神を礼拝するようにすすめる聖母崇敬(教会憲章66条と本書164~168)、
(f)そして、キリスト教生活の道である聖母信心
(教会憲章67条と本書49 ・67 ・120条)。モンフォール師がマリアを通じて、キリ
ストにわが身を奉献することをよく強調していますが、公会議はそれについて、
明白な表現で何もいっていません。

しかし、「教会が今まで認可した神のおん母に対する信心のさまざまな形式を正しい」
と断言しているだけです(教会憲章66条)。これらの信心の中に、モンフォール師の
すすめる奉献も入れなければなりません。モンフォール師の列福調査のとき(1888年)、
この奉献のことは、きびしくしらべられ、そこになんのまちがいも含まれていないという
ことが公式に断言されました。

公会議にはロザリオの信心についても、はっきり書いていませんが、これも
教会が今まで認可し、はげましてきた聖母信心の一つであるからこそ、公会議
によっても認めつづけられています。そうすると、”公会議の精神”を口実に
して、聖母信心、とくにロザリオに反対する人たちは、どれほど根本的にまち
がっているといわねばなりません。聖ピオ十世は、モンフォール師の「聖母マリア
へのまことの信心」の本が見事にできた本であるから、これを愛読するように
すめています(1908年)。教皇ベネディクト十五世は、この本について、
甘美な愛にみちた重大な本だといっていました(1916年)。

ピオ十二世は、モンフォール師の列聖式のためにローマに来た巡礼者に向かっ
て、「聖母信心をこのようにりっぱに広めたこの聖人の本と手本の宝をゆたか
にくみとるように」と招いていました(1947年)。
教皇パウロ六世は、モンフォール師の霊的体験の秘密をもっと深くさぐるようにと
はげましました。その秘密はすなわち、永遠の知恵であるイエズス・
キリストのうちに生きて、その知恵を人々に告げ知らせること、また確実に
イエズスに導くマリアを知らせて、マリアを愛させること(1973年)です。
「偉大なしるし」という言葉ではじまる回勅(1967年5月13日)の中
で同教皇は、教会のすべての子らが教会のおん母の汚れないみ心に個人的に、
自分を奉献するように招きました。これもモンフォール師の教えに従っておおせ
になったことです。


7キリスト教的成熟の提案

「聖母マリアへのまことの信心」というこの本を愛読する人は、大きな価値
のある小さな本を見つけたということを知るようになります。
この本は、教会の神学者と牧者たちの注意をひき、多くの信者の心の中に、
神のおん母聖マリアに対する純粋な愛を養い、ある人を聖徳と、キリストに対
する最高のあかしの絶頂にまで導きました。

その中で、すぐれた一例は、聖マキシミリアノ・コルベであります。モンフォール師の
提案をうけ入れ、これを現代教会のわく内に実行し、個人的だけではなく、共同体的にも
完成することがたいせつです。また、マリアの汚れないみ心の典礼上の祝日と、マリアご自
身がお願いになった初土曜日の信心を守りながら、これを成熟させることは、
自分の生活のうちに、救いをもたらすマリアの現存に心を開くことになります。

こうして、洗礼のときの約束とその時に得た恵みとをその完成に導くことに
なります。つまり、イエズスのおん母であり忠実な弟子であるマリアの手本に
従って、すべてにこえて、イエズス・キリストを選ぶことになります。現代の
キリスト者は、モンフォール師のこの提案をうけ入れ、これを実生活に生かす
ことは、どれほど必要なことでしょう。

この本の終わりごろに、モンフォール帥は、わが身をマリアの汚れないみ心に捧げるように、
いろいろの信心業をすすめています。この奉献の準備として黙想会をし、毎日ロザリオの
祈りをとなえ、聖母の賛美歌をうたい、聖母の連願、聖霊の連願、イエズスの
み名の連願をとなえるように、しきりにすすめています。これらの連願は、まえに信者用
の祈りの本にあったので、モンフォール師は、この本の終わりに、それらの連願を加えませんでした。
今は、聖母の伝統的な述願が祈りの本にありますが、聖霊の連願とイエズスのみ名の連願がないので、
この本の終わりにこれと、他の祈りを加えることにしました。モンフォール師は他また、
伝統なロザリオのほかに「おとめ聖マリアの小さなロザリオ」という信心もすすめています
(「まことの信心」
234~235「マリアの秘密」64条参照)。

それから、”マリアのどれい”であることを・示すために祝福された小さな
”くさり”を身につけることもすすめています。悪魔のどれい制度のはずかしい
くさりから解き離された人は、マリアの愛のくさりを身につけることを恥かし
ぐ思ってはなりません(236~242条参照)。
モンフォール師は、聖母信心をりっぱに果たせるように、聖体拝領前と拝領
後のりっぱな祈りをすすめています。

師は、わが身をマリアの汚れないみ心に捧げるように、いろいろの信心業をす
すめています。この奉献の準備として黙想会をし、毎日ロザリオの祈りをとな
え、聖母の賛美歌をうたい、聖母の連願、聖霊の連願、イエズスのみ名の連願
をとなえるように、しきりにすすめています。これらの連願は、まえに信者用
の祈りの本にあったので、モンフォール師は、この本の終わりに、それらの連
願を加えませんでした。今は、聖母の伝統的な連願が祈りの本にありますが、
聖霊の連願とイエズスのみ名の連願がないので、この本の終わりにこれと、他
自分の生活のうちに、救いをもたらすマリアの現存に心を開くことになります。

こうして、洗礼のときの約束とその時に得た恵みとをその完成に導くことに
なります。つまり、イエズスのおん母であり忠実な弟子であるマリアの手本に
従って、すべてにこえて、イエズス・キリストを選ぶことになります。現代の
キリスト者は、モンフォール師のこの提案をうけ入れ、これを実生活に生かす
ことは、どれほど必要なことでしょう。この本の終わりごろに、モンフォール
の祈りを加えることにしました。

モンフォール帥はまた、伝統的なロザリオのほかに「おとめ聖マリアの小さ
なロザリオ」という信心もすすめています(「聖母マリアへのまことの信心」234~235。
「聖マリアの秘密」刷条参照)。
それから、”マリアのどれい”であることを・ぶすために祝柵された小さな”
くさりを身につけることもすすめています。悪魔のどれい制度のはずかしい
くさりから解き離された人は、マリアの愛のくさりを身につけることを恥かし
ぐ思ってはなりません(64条参照)。

モンフォール師は、聖母信心をりっぱに果たせるように、聖体拝領前と拝領
後のりっぱな祈りをすすめています。(「聖母マリアへのまことの信心」川‐洲条参照)。
聖母を通じて人間となられた知恵であるイエズス・キリストに、わが身を奉
献することをモンフォール師は、しきりにはげましています。かれがした多くの
黙想会のときに結論としてこの奉献をさせていたのです。あるばあいに、
奉献を手できれいに書いて、これをひとりの人がみんなの代表者
として大きな声で読んで、みんなはこれに心を合わせていました。

そしてその次に、モンフォール師自身その奉献文にサインをして、神との契約
の意味を深めました。他のばあい、この奉献文をふやして、みんなに配り、
黙想会の終わりだけでなく、そのあとでも、となえるようにはげましていたのです。

そのために、この奉献文は、この本にではなく、モンフォール師のもう一つの小さな
本「永遠の知恵であるイエズスの愛」に好いてありますが、現代の読者の便利
を考えて、「聖母マリアヘのまことの信心」の終わりにこの奉献文も加えるこ
とにしました。モンフォール師の教えを要約すれば、次の通りになります。こ
の言葉をこの序文の結論とします。


すべてをマリアを通じて、マリアと共に、マリアのうちに、マリアのために
するなら、すべてをイエズス・キリストを通じて、イエズス・キリストと共に
イエズス・キリストのうちに、イエズス・キリストのためにすることになりま
す(「聖母マリアへのまことの信心」257~265条参照)。


序 一つの秘密を教えてあげたい

1.イエズスのおん血によって、あがなわれた魂よ、聖霊が、わたしに示し
てくださった一つの秘密を教えてあげたいと思っています。わたしは、
どんな本にも、占いものにも新しいものにも、それをみつけませんでした。
聖霊の恵みによって、この秘帝を、あなたに教えてあげます。でも、それに
は、次の条件があります。

①あなたは、これを次の人にだけ教えてあげなさい、それは、祈りと犠姓心
と忍耐強さと、そして、献身的に人の救いのために働き、この世のものから離
脱している人々です。なぜなら、この人たちは、これを正しく利用することが
できるからです。

②まず、あなた自身が、聖人となるために、これを利用するようにしてくだ
さい。この秘密を、どのように利用するか、ということによって、人きな効果
があるからです。腕をこまねいて、どんな努力もしなくてよいとは考えないで下さい。
もし、そう考えるなら、わたしのこの秘密は”呵責”のもととなり、神の前に、
きびしい裁きを招くことになるからです。

③あなたに、この秘密を知る値打ちがないにしても、教えていただいた恵み
のために、一生涯、毎日神に感謝しなければなりません。生活のふだんの行為
において、この秘密を実行すれば、するほど、その美と重大さとが分かるよ
うになるでしょう。それにしても、妨げとなる沢山の罪と欠点のために、最初
は、この秘密を不完全な方法だけで悟るでしょう。

2.今しばらくの間、わたしが示そうとしている秘密をすぐ知りたいという
望みをおさえてください。これは、自然の水準に属するものではないか
らです。それで、まず第一に、信心ぶかく、ひざまずいて、アヴェマリス・ス
テッラと、ヴェニクレアトルを唱えてのち、この神的奥義を理解し、味わう
恵みを神に願い求めてください。

わたしには、書くための時間があまりないし、あなたも、読む時間がないの
で、すべてを短かく述べることにします。




第一部 聖母マリアを通じて、聖徳をめざす義務について

第一章 聖徳への召し出しは、みなのため

3.あなたの魂は、神にかたどって造られ、イエズス・キリストの尊いおん
血によって、あがなわれたものです、神は、あなたが、地上においては
神の聖徳にならい、天国においては神の光栄にあずかるように望んでおられま
す。

聖徳は、あなたのための召し出しです。聖徳を得るために、あなたのすべて
の考え、言葉、行い、苦しみにおいて、つまり、一生涯のどんな平凡な時にも
聖徳をめざしてゆかねばなりません。

もし、あなたが、そうしないなら、神のみ旨を果たさないし、神があなたを
創り、今まで生かしてくださった大事な目的をないがしろにすることになります。
聖徳はなんとすばらしいことでしょう。これによって、暗闇は光に、泥は潔白に、
罪は恵みに変化されます。

聖徳によって人間は、創り主に似たものとなり、聖徳は神の命にあずからせ
ます。ほんとうに感喚すべきことでありますが、しかし、そのものとしては、
人間の力だけでは絶対に得られないものです。神の恵みなくては、誰も聖徳を
得ることができません。それは、神の異常なほどの豊かな恵みによるものです。
それは、天地万物を創るより偉大な傑作です。

4.あなたは、どのようにして、この聖徳を得ることができるでしょうか?
あなたは、この聖徳を得るために、どんな手段に訴えられたらよいかと
思っていますか?
救いと聖徳を得るための必要な手段を、わたしたちは、みんな知っています。
その手段は、福音書の中に書かれ、霊的生活の指導者たちから説明され、聖人
たちが実行にうつしたものです。

その手段とは、心のけんそん、たえざる祈り、すべてにおいて、特権をささ
げ、神のみ摂理にわが身をゆだね、神のみ旨に一致することです。

5.これらの手段を実行するためには、疑いもなく、神の恵みが絶対に必要
です。この恵みは、その程度の差こそあれ、すべての人に与えられます。
程度の差があると、わたしはいいましたが、その理由は、次の通りです。すな
わち、神は、かぎりなく善い方であります。そして、すべての人に十分な程度
の恵みをお与えになるにしても、みんなにⅨ別なしに、同じ程度の忠みをお与
えにはなりません。大きな恵みをうけた人は、すぐれた行為をすることができ
ますが、それに、ひきかえ少い恵みをうけた人は、限られた程度の行いしかす
ることができません。

わたしたちの行いに、値打ちを与えるのは、神から与えられた恵みでありま
す。これに人間が協力しなければならないのです。これこそ誰も反対できない
原則なのです。


第二章 救いの歴史におけるマリアの役割

6.従って、聖人となるための必要な恵みを神から頂くために、やさしい方
法をみつけることはたいせつです。そのやさしい方法こそ、わたしは教
えてあげたいのです。まず、神の恵みをみつけるためには、マリアをみつけな
ければなりません。じじつ、

7.
①マリアだけが、ご自分のためと、人間のすべての人のために、神の
み前に恵みを得ました。それは、太祖たちも、預言者たちも、旧約時代
のどんな聖人もみつけ得なかった恵みです。

8.
②マリアは、すべての忠みの与え主である、あがない主に、肉体と命
を与えられたのです。そのためにこそ、わたしたちは、聖マリアのこと
を恵みの御母と呼びます。

9.
③父である神は、すべての完全なおくりものと、恵みの根本的な泉で
あります。神はマリアに、おん手を与えることをもってすべての恵みも
お与えになりました。聖ベルナルドが、いっているように、マリアは、イエズ
スにおいて、そして、イエズスと共に、神のみ旨さえもまかせられたのです。

10.
④神は、マリアをその恵みの宝倉の責任者、すなわち、すべての恵み
を管理し、分配するものとして選んでくださいました。そのために、す
べての、これらの、たまものは、マリアのみ手を通して与えられます。
聖べルナルディーノによると、マリアは、天のおん父の恵みと、イエズス・
キリストの功徳と聖霊のたまものを、ご自分が望む人に、お望みのままに、お
望みの時に、お望みになるはかりに従って分配することができます。

11.
⑤自然の段階では、子どもに父と母が必要でありますが、同様に、超
自然界の段階においても、教会のまことの子どもにそれが必要です。す
なわち、神を父に、マリアを母に持たねばならないのです。




✰おしらせ
聖母信心書の決定版である「聖母マリアへのまことの信心」をご紹介します。➡ 
https://ameblo.jp/cha6ku6/entry-12533328485.html
歴代の教皇からの推薦もあります。全11巻となっていますので、第一巻からお読みください。>

ー以上ー



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