「平成つれづれぐさ」

 昨今の世の中、どこも妙なことが多すぎます。年寄りだからと黙っていないで、もう一頑張り、世間にもの申してみましう。

アッキー物語 今昔

2008年06月13日 | 日記 随想
 アッキーの昨今の在り様を見ていて、長く生活を共にしてきているペットの在り様を記録に留めておきたいと思い「アッキー物語」を書き始めた。
 そして、アッキーの”若い頃の姿”を求めて、以前書きおいていた「北海道旅行記」を読み返してきたが、読み進むにつけ、アッキーも飼い主である妻や私も歳月を経たものだと痛感させられた。
 それは15年という歳月である。 それが長かったのか短かったのか、判断に苦しむ。 「旅行記」を読み返してみると、そこに出てくる出来事はつい数年前にあったことのように思い出される。 
 しかしまた、アッキーの今のありようや妻の姿を見てみれば、当時とは大きな変化を認めずにはいられない。 こうして書いている私自身にしても心身ともに大きく変わってしまっている。 取り巻く環境も社会も変わっている。
 要するに、全てが「齢をとった」のである。

 アッキー物語はアッキーの昔について、「死んだ子の齢を数える」ようなことを目的としていない。 最近の彼女を見ていて、若くて元気だった頃もあったのだということを思い出してみたかっただけである。
 しばらくの間「北海道旅行記」を読み返してみて、その中に在った彼女の”姿”や”動き”を見てきて、その目的は充分に達しえたように思う。 いつまでも、若かりし昔をしのんでいても始まらない。
 アッキーとの暮らしを書き残すのであれば、私は今に立ち返らなければならないように思った。 今のアッキーのありようこそが書き留められてしかるべきと思ったのである。

 従って、「北海道旅行記」とのかかわりは、このあたりで終わることにする。
彼女の若かりし日のありよう、そして「兄貴」とのかかわりよう、そんなことなどもしばらく「旅行記」をたどってきたことによって、改めて「新しい思い出」として”変身”することが出来た。 
「思い出」はここいらで終わりにしようと思う。
 今のアッキー、今日のアッキーのことを書きとどめておくことこそが必要なのだと思った。

 
 今日、10時前に妻は美容院へ行くのだといって、自転車で出かけていった。 昨日の夕食から「お粥」はやめるといって、「軟らかめのご飯」に変えていたから、「胃の具合」も多少は良くなってきているように思う。 それなのに、体重が減って寂しいと言っている。
 アッキーは食べるときと、ウンコやオシッコのときのほかはほとんど寝ている。300メートルほど先の倉庫の裏より遠くへは行きたがらない。 アッキーが衰えてきているように、飼い主たちも相応に「衰えて」きているようである。
 しかし、アッキーが”泣き言”を言わないように、我々飼い主も”苦情”は言わずに頑張らなければならないと思っている。 

アッキー物語 ( 6.08 )

2008年06月08日 | 日記 随想
 妻は、わざとアッキーにはソーセージをやらずダルだけにやっている。 アッキーは自分にもくれと、しばらく妻の手元で飛び跳ねていたが、やがて私が脇に置いたドッグフードの器に戻ってきた。
 海の彼方に目をやると、西の水平線に間もなく沈もうとしている太陽の明るさが彼方の雲を明るく輝かせている。
「西の空が晴れていたら夕日が綺麗だろうな」
呟きながら、何気なくアッキーの動きを見るともなくを見ていた。

 先ほどからアッキーは私が傍らに置いたドッグフードの器のそばに居た。 何気なく見ていたのだが、気が付くと、器からドッグフードを一粒ずつ咥えては1メートルほど離れていって何かしている。 何をしているのかとよく見てみると、アッキーはドッグフードを咥えて行き、それに鼻先で砂をかけているのだった。 私は自分が夕暮れの海を見ていた間、アッキーはドッグフードを食べているものと思っていた。
 「アッキーを見てごらん」
私は小声で妻に声をかけた。 はじめは私が言ったことの意味が判らないようにアッキーを見ていたが、すぐに
「だめでしょう。アッキーは」
と、声を上げた。 その声に驚いてアッキーは妻の顔を見上げた。 それは「どうしたの?」とでもいうような表情だった。 立ち上がった妻はアッキーを抱え上げ、二つ三つお尻をたたいた。
「食べないで隠すなんてことをしちゃあ駄目じゃない」
私が探ってみると、砂の中から五つ六つのドッグフードが出てきた。
「獣は食べ物を土の中に隠しておいて、あとで掘り出して食べるというから、そういった習性からやったのかもしれない」
と、私が言うと
「初めて来た場所でそんなことするはずがないわよ。ただ、食べたくないからしたのよ」
妻は怒ったように言った。
「アッキーには今夜はもう何もあげないから」
言いながら、アッキーを砂の上に放り出した。 アッキーは何事が起きたのかわからないというように逃げ出し、しばらく私たちから離れていたが、やがて恐る恐る近寄ってきて、妻の横に座っているダルの陰に隠れた。

 妻はソーセージを3,4本ダルにやり終えると、こんどはジャーキーを小さくちぎって食べさせはじめた。そして妻は私の顔を見ながら得意げにニヤニヤしている。私が不審な顔をしていると、私の前で片方の手のひらを開いて見せた。そこにはドッグフードがのっていた。 小さくちぎったジャーキーをやる合間にドッグフードを混ぜていたのだった。
 ダルは知ってか知らずか、おとなしく妻の手のひらにのっているものを食べていた。 そして気が付くと、妻がジャーキーをちぎって差し出す手は、いつの間にかダルの横にいるアッキーの口元にも伸びていた。

 犬たちを宿の前の車に入れ、玄関の戸をあけると
「ああ、外に行ってたんですか」
と、宿のおじさんが待っていたように言った。
「食事の支度が出来てますから、食堂へどうぞ」
とやや気忙しげに言われた。
 妻と私は部屋へは戻らず、そのまま食堂へ向かった。 食堂にはもう大勢の客が集まっていた。 この民宿にこんなに多くの客が居たのかと驚くほどの人数だった。 私たちが食堂に入った最後の客のようだった。

 今回の北海道旅行に出かけてきてからの初めての「宿の食事」だった。 テーブルにのっていたカニ、エビ、ホタテ、ウニ、白身の魚の刺身、焼き魚などの海の幸はどれも美味かった。 白身の刺身がソイという魚であることは、宿の主人の説明で知ったことだった。

 翌日は残念ながら雨になった。
6時半、起きて窓を開けてみると細かい雨が音もなく降っていた。 見下ろすと、宿の前に駐めてある車の助手席でダルが丸くなっているのが見える。まだ眠っているらしい。 いつも後部座席を占領しているアッキーの姿は見えない。  窓を閉めてまたしばらく床の上に横になった。 そして、昨日のうちに島の南を見ておいてよかったと思った。

 「お天気はどう」
妻が床の中から声をかけてきた。
「雨が降ってる。小雨だけどね」
「やっぱり。残念ね」
いいながら起き上がった。
「天気予報では曇りなんだがね」
私は、妻が寝ている間に見たテレビの天気予報のことを話した。
「天気予報は当てにならない。出たとこ勝負よ」
妻が言うように、ここのような北の果ての地方では、天気の予報も難しいらしく、これまでもラジオで聞いてきた天気予報は余り当たってはいなかった。
「そうだな。運がよければ止むかも知れない」
「ダルとアッキーが困るわね」

妻が言うように、犬連れ旅行では雨に降られるのが一番厄介である。 特にアッキーのような小型室内犬はヤッカイである。
 ダルのような犬は少々濡れても、ブルブルと身体を震わせればおおかたの水気は吹っ飛んでしまう。しかし、アッキーの場合はそんなわけにはいかない。同じように身体を震わせることはするのだが体毛はびっしょりと濡れたままである。タオルで拭き取ってやらなければ水気は取れない。 そういったことは充分承知の上で出かけてきているが、実際に降り込められるとうっとうしく思われるのだった。

 9時ちょっと前、私たちは宿を出た。 そして小雨の中をスコトン岬へと向かった。 浜中からしばらく海に沿って走るとスコトン岬の標識が見えた。
 海に向かって突き出した岬へと道が伸びている。 道の先が駐車場になっていて、そこから先は歩道である。
 
 妻は雨合羽を着て、私は傘を持ち車を下りた。 霧のような雨は降ったり止んだりしている。 駐車場なら脚も身体もそれほど汚れまいと思ってダルとアッキーを出してやったが、しばらくうろうろしてすぐに車に戻ってきた。 さすがのアッキーも雨の日には走り回るような元気はない。

 犬たちを車に戻しておいて妻と私は岬の先のほうへ向かった。 階段を下り岬の先端の展望所まで行くと、そこには「最北限の地スコトン岬」と書かれた高さ2メートルほどの木標が立っていた。 
 妻を木標の横に立たせて写真を撮ろうとすると、カメラに向かった妻の雨合羽の襟元からアッキーが顔を出していた。 先ほど駐車場でダルたちを出してやった後、車に戻したときにダルだけ戻してアッキーは合羽の下に抱いて連れてきていたのだった。 
 霧雨の向こうにはトド島が見える。 そして、霧雨の中を漁にでも行くのか漁船が一隻白い波を分けながら岩礁の間を走り抜けていった。

 妻は同じ道を引き返すということが嫌いである。 旅行に出たときに限らず、いつもそうである。
 スコトン岬から浜中まで戻るとき、またその性癖が出た。 別の道を通ろうというのである。
 助手席で道路地図を見ている妻の言い分に従って、分かれ道を右にとるとすぐに上り坂になった。 上り詰めた車窓に広がった景色は丘陵の原野と海である。 しばらく進むと斜面の原野が白っぽく見えてきた。
斜面はほぼ全面がハマボウフウの白い花に覆われていた。
「晴れていたらもっともっとすてきなのに」
妻はやや残念そうに言った。

 浜中で海と別れて内陸へ入った。 ゆるい上り坂を過ぎてしばらく行くと「レブンアツモリソウ群生地」という標識が見えた。
「ゆうべ民宿のオジサンがレブンアツモリソウは、今は柵に囲われて保護されているのだと言ってたが、ここのことかな」
言いながら車を降りた。 
こういうところではどうしてもダルとアッキーは車の中でしばらく留守番ということになる。
「ちょっと待っててね」
妻はダルとアッキーに声をかけてドアーを閉めた。

 階段を少し上ると、低い木立の下の野草の中にレブンアツモリソウは埋もれるように咲いていた。 花の盛りは過ぎたらしく、その薄い黄色はみずみずしさを失っていた。

 アツモリソウ群生地を過ぎて坂を下ると西上泊の集落である。その先には澄海岬の入江を見下ろすスポットがある。
 ぬかるみの階段を上ってみるとなるほど雨の日にもかかわらず青く透き通った入り江が見下ろせた。入り江の左右には岸壁が切り立っている。絵葉書かカレンダーの写真を見ているような感じだった。 しかし、風と雨は依然として続いている。 妻と私はソソクサと階段を下りて駐車場横の売店へ入った。 

 売店には私たちの後を追うようにして初老の夫婦と思われる二人が入ってきた。 その夫婦は、浜中から西上泊、澄海岬を経てスコトン岬までの4時間のウォーキングコースを歩くところだと言った。
「ここからスコトン岬までどれくらいかかるでしょう」
と聞かれたのだが、私たちは車での移動である。歩いての所要時間は見当が付かなかった。 ガイドブックによると澄海岬から鉄府を通って未だ3時間はかかりそうだというのである。
「私たちでもここまで3時間かかりましたから、失礼ですが3時間では無理だと思いますよ」
売店で濡れた髪をタオルで拭いていた若い女性の二人連れが私たちの会話を耳にして助言してくれた。 彼女たちはその初老の夫婦が行こうとしているコースをスコトン岬から逆に歩いて来たのだった。

「それじゃあ、鉄府まで車でおくりましょうか。私たちは車で来てますから。車でいけるところまでおくりますよ」
と、妻が言った。 二人は最初は辞退していたが
「鉄府の端っこまで車で行けばずいぶん違いますよ」
と若い女性たちが言ったので
「それじゃあ、お願いします」
ということになった。

 「犬がいますから、少々窮屈ですけど」
妻は言いながら、アッキーを抱き上げダルを運転席の後ろの隅に押しやった。
 夫婦は車の中にいたダルをみて一瞬驚いた様子だったが、妻が
「ダル隅へ行きなさい。お客さんが乗るんだから」
と言って押しやると、運転席の後ろで黙ってお座りの姿勢をとったので安心したようだった。 
 ダルの横にアッキーを抱いた妻が座り、その横に女性が、そして、男性は助手席に座った。 アッキーは妻の腕の中で小さくウーウーとうなっていた。

 鉄府の集落へ入り、海沿いに少し北へ走ると車道は途切れた。 そこから先は歩行者用の道がさらに北へ伸びている。 夫婦は丁重に礼を言って車を降りた。
 初老の夫婦と別れた後、浜中を経た私たちは香深港を目指して、昨日来た道を南に下った。 
          ・・・・・・・・・・・・・ ( 6.08 )

 アッキー のジオログです。 この前はリンクがはれなくて失敗でした。
今回は出来ると思います。
 アッキーの独り言

アッキー物語 ( 6.05 )

2008年06月05日 | 日記 随想
 礼文島

 東日本フェリーの稚内、香深間の所要時間は2時間弱で、わたしたちが乗った1時5分発のフェリーは2時50分に礼文島に着くことになっている。2時間のフェリーは長いようだが、敦賀から小樽まで2晩を越える船旅を経験してきたわたしたちには一向に長いとは思えなかった。

 風は少々強くなっているが海は穏やかだった。 乗客は多くもなく少なくもないといった感じである。 船中で知り合った樺太生まれで今は礼文島に住んでいるというおばあさんと話をした。 島の暮らしのこと、近年の漁のこと、若者は島に居つかないこと、などなど話している間に船は礼文島に着いた。

 礼文島や利尻島を訪れる観光客で、わざわざ車をフェリーに乗せて移動するような人はほとんどいないと思う。
 フェリーで礼文島に渡るにしても身一つで渡ればよいのであるが、なにしろ、わたしたちにはダルとアッキーがいる。 天売島のときのように半日程度で戻ってくるような場合は良いが、今回は礼文島で一泊する。場合によっては、利尻島でも泊まることになるかもしれないのだった。
 だから、当然、わたしたち二人と二匹は行動をともにせざるを得ないというわけである。

 妻と私同様、ダルやアッキーも2時間ぐらいを車の中で過ごすことなどなんともないことだった。 下船に先立ち私が車に戻って運転席に座ってもダルはむろんアッキーも寝そべっていた顔をチョット上げただけだった。

 香深港で舟を下りると、私たちは休憩を取ることもなく先ず「桃岩」へ向かうことにした。 風は少し強いが天気は上々である。 この好天の下で礼文島を出来るだけ多く見ておきたい。妻も私も気持ちは同じだった。

 桃岩へは、島の南と北を繋ぐ海沿いの道路から別れて坂道を上る。舗装されてはいるが狭い道である。 幸い車に出会うこともなくトンネルを過ぎて桃岩展望台の駐車場に着いた。 考えてみれば、旅行者は車なんかで来るわけはないのだから、通る車が少ないのも駐車場の狭いのも当然といえば当然だった。
 我々のようにわざわざ車を持ってくるような観光客はめったにいないのである。 しかし、車があるおかげで妻は楽に礼文島観光が出来るというわけだった。 ダルとアッキーがいてくれたおかげということができた。

 駐車場から高台の頂上に向かって木の柵がついた歩経路が上がっている。 高さはビルの4,5階といったところうだろうか。 妻には少々きついかなと思いながら
「上がれそうか」
と妻の顔を見た。
「当然上がるわよ。船の中でしっかり休憩してきたから大丈夫」
と言いながら、アッキーに紐を付けた。 ダルはもう車の外に出ている。

 坂を上りきると、平らな展望台になっていた。 柵から見下ろすと眼下には深い入り江が切れ込んでいる。崖は柔らかい絨毯のような緑で覆われている。
 右には桃岩が大きな岩肌を見せていて、その頂上付近はやはり緑の絨毯をかぶっている。
 展望台から左の尾根伝いに道が延びていて道の先は見えない。
道が消えている向こうには紺碧の海が広がり、その中に利尻富士が悠然と浮かんでいる。 水平線の上に浮かんでいるのではなくて、見下ろす海面の中に利尻富士が浮いているのである。 利尻富士を眺めるにはこの場所が「最高」に違いないと思った。

「そろそろ下りない。他所も見たいから」
妻が後ろから声をかけてきた。 私が戻り始めると歩経路の先の方へ行っていたダルに続いてアッキーもこちらに向かって走ってきた。 彼らは放されていても、いつも我々主人の様子に気を配っている。特にダルは慎重である。そして、アッキーはダルにとって「金魚の糞」みたいなもので、いつも後ろにくっついている。

元地へ下りる道の岸壁の美しい節理を見ながら「地蔵岩」を見に下りた。 下りてきたものの、地蔵岩はなんとなく陰気な感じなので早めに引き上げることにして「礼文林道」へ行くことにした。
 妻が礼文林道へ行けるのも車で来たおかげである。 
「この林道は歩くべきね。小さな可愛い花たちは車からではなかなか見られないから」
「そのとうりだと思う。しかし、きみには無理だ」
 「判ってるけど、いってみただけよ」
妻は少し寂しそうだった。
 レブンウスユキソウの群生地では花はまだ咲いていなかった。 それでもエゾカンゾウやハマボウフウが緑の原野に綺麗な色を添えていた。

 ウスユキソウ群生地をはなれ、林道を下り、海沿いの道路に出ると時刻はもう5時を過ぎていた。
「南部は一応見終わったから、そろそろ北へ行こうか。船泊へ行って予約した宿も探さなければならないし」
 久種湖を過ぎると船泊の集落である。海に沿って続く小さな集落で、道は海岸沿いとその内側の2本だけである。 予約した民宿はその海沿いの道に面していて、道の前は広い砂浜になっていた。

 宿の部屋の窓からは海が見えた。彼方に見える雲は暑さを増してきているようだった。 窓の下には駐車してある私たちの車が見え、フロントガラスを通して助手席にいるダルの姿が見えた。 アッキーはやっぱり後部座席らしく、姿は見えない。
 久しぶりの宿泊りである。 妻も落ち着いたといったようすでバッグの中身を整理していたが
「一息入れたら前の浜へ出てみようか。夕食は7時ごろって言ってたよね」
と言った。
「そうだな、風呂は寝る前に入ることにして、ダルたちにもなにか食べさせてやらなきゃならないし」
「ドッグフードの外にダルのソーセージ、それにジャーキーもまだ残っていたと思う」
妻はドッグフードを入れた袋の中を覗いている。
「水は車の中のポットにまだ入っていたね」
「うん、入っていると思う」

 車からダルとアッキーを出してやり、宿の前の道を横切って浜へ出た。
砂浜は広く波打ち際までは大分ある。 海からの風で砂が草の株で止められるためか、砂の上にはわずかに起伏があり、砂の上には綺麗な風紋が出来ている。
 アッキーは砂浜に出ると、風紋などには全く無頓着に砂の上を駆け回り始めた。 ダルもときどきそんなアッキーに向かって走っていくが、すぐに馬鹿らしくなるのか、離れて戻ってくる。
 アッキーは砂浜とか芝地、或いは草地のような広いところが好きである。 広いところへ来ると、決まって狂ったように走り回る。跳ねたり転がったりしながらグルグルグルグル走りまわる。

 妻とわたしは適当な砂の膨らみを見つけて腰を下ろし、ダルとアッキーを呼び寄せた。 ひとしきり走り回って疲れたのか、アッキーは妻の前にへたり込んで舌を出し、荒い息をしている。
 妻がダルにソーセージをやり始めると、立ち上がって妻の手元に鼻面をもっていく。荒い息はもう収まっていた。
 わたしはいつもアッキーが使っている白い小さな器にドッグフードを45粒、数をしていれてやった。 それはアッキーが家でいつも食べている数だった。   アッキーは5,6粒わたしが見ている前で食べたが、また妻がソーセージを持っている手元へ戻ってしまった。
            ・・・・・・・・・・・・・ ( 6.05 )

 アッキーの ”ジオログ”です。 お暇ならどうぞ、、、。
   http://heartland.geocities.yahoo.co.jp/gl/dultanian100_1 

アッキー物語 ( 5.31 )

2008年05月31日 | 日記 随想
 稚内

 翌日は早朝は曇っていたが7時ごろから晴れ間が広がってきた。 昨日の夕方は散歩に行かなかったダルとアッキーをつれて少し歩いてみようと思った。
 バンガローが並ぶ右の端から沼に沿うように道がついていて、「中沼へ」という標識があったのでそちらへ向かってみることにした。 道は木立の間を縫うように続いていたが、しばらくすると右側の視界が開けた。 湿地か沼のようだった。 兜沼の端かもしれないと思いながら先へ進むと、ダルとアッキーは先になり後になりしながら、私の前を歩いていく。おおかたはダルが先でアッキーが後に続いている。

 明るい葦原の中の道を進んでいくとダルが突然進むのを止めた。 道の先のほうを見てみると20メートルほど先にキツネがいた。 昨日のキツネかもしれないと思い特別驚きもしなかった。 それより、キツネを目にしながらアッキーが吠えないのが不思議だった。 ダルの傍らでアッキーもジッーとキツネのほうを見ているが昨日のような勢いはない。 テリトリーの関係なのかと思いながらダルを促して先に進むとキツネはさっと林の中へ姿を消した。

 しばらく歩くと、ダルがこんどはしきりに後ろを気にしながら歩き始めた。不審に思い振り返ってみると、やはり20メートルほど離れたところにさっきのものらしきキツネがいた。 こんどはアッキーがワンワンと高い声で吠えた。
 また少し進んで後ろを見るとキツネはまだ後ろからついてきていた。 キツネとの距離はさっきと変わらない。 私たちは無視して先へ進んだ。

 しばらく歩いたが、一向に中沼と思われるようなものが見当たらないので引き返すことにした。 同じ道を戻りながら、時々後ろを振り返るとまたキツネがついて来ていた。 私たちが止まるとキツネも止まり、私たちが進むとキツネも進んでくる。 結局、キャンプ場の近くまでキツネはずっとついて来た。
帰り道ではなぜかいつもアッキーが先頭で、帰りを急いでいるようだった。

 テントに着いたときには空はすっかり晴れて、兜沼の対岸の低い丘の上に利尻富士がくっきりと姿を見せていた。 私たちが散歩に出ていた間に、妻はログハウスにあったコイン洗濯機で洗濯をしてきたと言った。
「洗濯機を回している間、管理棟のオジサンとしばらく話していたんだけど、利尻富士がこんなに綺麗に見えることはめったになくて、こんなときは明日は天気が悪くなるんだって」
と言う。
「本当にきれいだな。今日はサロベツ原野を廻る予定だが」
と私が言うと
「サロベツは昨日少し見たから、今日はこれから礼文島へ行ってみない」
妻が思いがけないことを言った。
「今日、礼文へ行くって。サロベツの原生花園や豊富はどうするの」
「そっちは後にしようよ。テントはこのままにしておけばいいし、ここから稚内までは30分ぐらいで行けるってオジサンが言ってた。ねえ、行こうよ」
 妻の言葉からは、天気に恵まれた条件で礼文島を訪れたいという妻の気持ちが伝わってきた。

「よし、行こう。稚内まで30分なら、昼過ぎには礼文に着けるかもしれない」
私は、妻の意見に賛成した。
「じゃあ、急いでこれを干すから。干したままにしておいてもいいよね」
「キツネも洗濯物を取らないだろう」
 洗濯物をロープにつるし、テントの内外を片付け、ダルとアッキーを車に乗せて兜沼を出たとき時刻は10時を15分過ぎていた。 急いだはずだったが出発までに時間がかかった。 私たちの旅は、いつも時間だけには余裕を持たせているという気持ちがあるので、行動は遅れがちになる。 しかし、その程度が妻にはちょうど良いペースなのだった。

 稚内港へ着き、フェリーターミナルに来て、私たちはフェリーの出港時刻を確認していなかったことに気がついた。
「おしかった。さっき出たところで、次は1時5分だよ」
車で待っていた妻に言った。
「惜しかったわね。どうしようか」
妻も残念そうに言った。
「しょうがないから、2時間ほど稚内のあたりを見て廻ろうか」
「そうする」
「その前に向こうへ着いてからの宿の手配をしておこう。1時のフェリーだと着いてからでは遅くなるから」

 フェリーターミナルの案内所でもらった礼文島の民宿のリストから香深港に近そうな1軒を選んで電話した。 「お待ちしてます」という返事だったので
料金を確認して受話器をおいた。
 13時5分発香深行きの乗船券を買っておいて、私たちはまず稚内公園へと向かった。

 国道から稚内公園の標識に従って曲がりくねった坂道を登ると、急に車窓の展望が開け限りなく青い海が広がった。 宗谷海峡である。
 海に向かった高台には有名な「氷雪の門」が建っている。 右には宗谷湾が見下ろされ、宗谷岬へと続く長い海岸線が弧を描いている。
 駐車場には観光バスが3台、乗用車は少なくあちこちに思い思いに駐車している。 やはり、夏の観光シーズンには未だ少々早いようだった。
 妻はさっきから「きれい」だとか「すてき」だとか言いながら海の彼方に見入っている。

 アッキーはと思って広い駐車場を見回すと、観光バスの傍らで3,4人の女性客と遊んでいる。ダルも一緒で、どうやらダルのほうが人気を得ているようだった。女性たちはしきりに何か話しかけている。
 ダルやアッキーには空や海の景色などよりも、遊んでくれる人間のほうにずっと魅力があるに違いない。
「ダル、アッキー」
妻が呼ぶと二匹はこちらを向いたが戻ってくる様子がない。
「だる、来なさい」
妻がもう一度強い口調で呼ぶと、ダルはのそのそとこちらに向かって歩き出した。アッキーもそれについてくる。 女性たちはバスに乗り込んでいった。

 公園には長居せず、また坂道を下った。 ノシャップ岬と稚内西海岸へ行くことにした。
 ノシャップ岬は平地だった。 ただの平地に赤と白の縞模様の灯台が立っているだけの、寒々として荒涼とした岬である。 所在なさそうにうろついているダルとアッキーを車に呼び戻して、早々に稚内西海岸へと向かった。

 道路と日本海の間にはまばらに建物があったが、見え隠れする水平線の向こうには利尻富士の姿があった。
「南稚内へ抜ける道道はあれだと思う」
その道道909号線は、サロベツ原野の西を日本海に沿って北上してきて、ここヌ留内から半島を横切って南稚内へ抜けている。
 丘の斜面にへばりつくように道路はかなりの勾配で上っていった。 しばらくすると、助手席の妻が突然声を上げた。
「見て、見て、きれいなんだから」
妻の声で左の海に目をやると、青空の下紺碧の海の上に利尻富士がくっきりとその全容を浮かべていた。 水平線の上に、白く輝く残雪をのせたその姿は見事としかいいようがなかった。 
 坂を上りきる少し手前に何台かの車をとめられそうなスペースがあった。そこでしばらくの間、利尻富士の勇姿を眺め写真を撮った後峠を越えた。 坂を下りるとそこはもう南稚内の町並みである。 港はもうすぐそこだった。
         ・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ( 5.31 )

”I.T.技術の進歩” と ”地球温暖化”

2008年05月29日 | 日記 随想

 近頃つくづく思うことがある。 また、”ペシミスティックな考え”で申し訳ないが、日々目にする新聞やテレビの番組さらに経験する日常的出来事から、どうしても「そんな思い」を消し得ないのである。

 それは「I.T.技術の発達」ということと、「地球環境の温暖化」ということがいかにも良く似ているということである。 我々人間は、それらの弊害に気付き、それを認知していても、その弊害を正すことが出来ないという点でこの二つはいかにも酷似している。

  I.T.はパソコンやインターネットというものを世界中に普及させ、人間の生活にかかわるいろいろな「もの」や「こと」をグローバルにしスピードアップしてきた。 言い換えれば”便利”にしてきた。 
 人間はI.T.
によって、それらが出現する前に比べ多くのメリットを手にしたが、しかし同時に予想外のデメリットも手にせざるを得なくなった。 教育、家庭、職場、医療、行政、そして経済など、あらゆる分野にI.T.が浸透するにつれて、我々は想像もしなかったような事柄に行き当たっている。 

 携帯電話の普及は予想外の「少年非行」や「風俗犯罪」や「新手の犯罪」を生み出している。 インターネットは子供から大人にいたるまでの「社会の在り様」を変えてしまった。 人と人のふれあいの形が変わり、性風俗が極端に変わってしまった。 性風俗の変化は人間の根源的な本能にも拘わる問題であるだけに、その影響は大きい。 変化が急すぎるし無分別すぎる。 家庭にI.T.が侵入した結果である。

 医療や行政の分野ではいかがなものだろうか。 経験的に判断すると、I.T.の普及によって医者や役人が患者や住人を見なくなった。
 規模の大きな病院になるほど、医者はパソコンを打つことに夢中になり、患者の顔を見ていない。 問診、視診、触診などということは今の病院には存在しないと言ってよい。
 診断はパソコン上にある検査データに基づいてなされ、 薬の処方もパソコンに向かってなされる。 これでは血の通った温かみのある医療など望みようがない。 そして、医師もパソコンに振り回されている。
 面識のある”まともな精神科医”は、「パソコンを導入すると患者さんの顔が見えなくなる」といってパソコンは未だに使っていない。 私は「良い医師にめぐり合った」と思っている。

 社会保険庁の年金記録の入力間違いも、相手が機械であるだけに、そして便利な機械であるだけに、間違いが大きくなりやすかった。 生活保護の打ち切りや健康保険証の取り上げも、機械を介して行えば「する方」には痛みを感じずにすむ。「される方」も最初は痛みに気付かない。昔は一言一句人の手が感情をこめて書いていた書類を、今はパソコンの画面に向かってカチカチとキーをたたくだけで済んでしまう。 「痛み」も「ありがたみ」もなくなってしまった。そして、切羽詰ってから問題や痛みを実感することになるなである。

 経済の問題にしても、ワンクリックで何億ドル何十億ドルの金や価値が行き来するというのである。 人間は果たしてそれほど「賢明」になっているのだろうか。 もし、人間が
その「賢さ」を持っているならば、現在世界で起きているきちがいじみた原油価格の暴騰や穀物価格の暴騰は起きなかったはずである。 

 これほどまでの弊害があることに気付きながら、我々はI.T.技術を手放せない。 携帯電話やパソコンのない生活は考えられない。 そして、同時に政治や社会は子供たちの携帯電話やインターネットの規制も出来ないのが実情である。

 地球の環境問題、とくに「温暖化」に目を転じてみよう。 メディアはこぞって地球の温暖化とそれによってもたらされるであろう弊害について報じている。 国際的な政治の分野でもこの問題が「看過できない問題」として認識されようとしている。
 インド洋のサイクロン、アメリカでのハリケーン、東アジアの台風、いずれもその規模が大きくなってきている。 アメリカやオーストラリアの干ばつや世界各地の水飢饉も温暖化に起因しているという。

 人間は地球の温暖化が何によって起きているのか解っている。 どうしなければならないかもよく解っている。 その弊害に対しては「手を打つ」必要があることを知っている。 しかし、現実に「対策の実行」となると具体化しようとしない。 それは産業革命以来、人間が獲得し積み上げてきた「利便性」を放棄できないからである。

 I.T.技術の発達に弊害があると判っていながらそれを手放せない。 科学技術や産業の発達が地球を温暖化させていると判っていてもそれを止められない。 現代人という人間が背負わされた「業」である。 現代人の「悲劇」である。

 以前にもここのブログに書いたが、今我々に必要なことは
「革命的な思想の変革」である。
 今取りざたされている教育改革とかインターネットの規制とか、はたまたCO2の排出量の規制だのその取引だのというような、「従前の思考」の延長線上には解決策は無いと思う。  それでは誰がどう考えたら良いのか。皆目見当がつかない。 どうしようもないことなのか、或いはみんなで考えれば「道」が見つかるのか。
 

 我々の”今の生活”を根底から改革するような新しい「思想」が生まれなければ、人間の未来に「明るさ」はないように思うのだが。

 中国四川省の大地震やビルマのサイクロンは、人間に襲い掛かった大きな災難である。 しかし、これらは中国とビルマの人々の災難である。
 「I.T.の弊害」や「地球の温暖化」は”人類全て”にかかわる災難である。
 

 


アッキー物語 ( 5.26 )

2008年05月26日 | 日記 随想
 兜沼キャンプ場
 
 国道40号線から「兜沼公園」の標識に従って勇知、抜海方面へ抜ける県道へ入った。
兜沼キャンプ場は兜沼公園内にある。 珍しくカーブの多い道を通って3時半過ぎに私たちは兜沼公園に着いた。
 キャンプ場は公園全体の多くの面積を占めているようだった。 木造の六角形の建物があり、その隣にもログハウスがある。
 車を六角形の建物の前にとめ、ダルとアッキーを車に残して受付へ行った。

 テントサイトは自由に好きなところが利用でき、六角形の建物が管理棟でその前のログハウスが風呂場だと説明を受けた。テントサイトの利用料金は無料ということだった。 そして、キツネが出るので生ゴミの管理はきちんとすること、そして風呂は8時までに済ませるように言われた。
 昨日の豊岬もテントサイトの利用料はタダだった。 本州の岐阜県や長野県では到底考えられない。 無料だから設備や管理状態が悪いかというとそのようなこともない。 どこも良いロケーションだし、設備や管理もきっちりしている。

 管理棟の裏手、沼に続く緩やかな斜面一帯がキャンプ場である。 木立の間から兜沼の湖面の輝きが見て取れた。 沼とは反対の方にバンガローがあった。高床式のログハウスで10棟ほどが不規則に並んでいた。
 私たちはキャンプサイトのほぼ中央にテントを張った。 ここには2泊以上いることになるので、テントだけでなくタープも張ることにした。 

 車から必要なものを出し終えて椅子に腰を下ろしたときには4時半を少し過ぎていた。
「久しぶりの青空ね」
妻が大きく空を仰いだ。 木々の梢の間に青い空が広がっている。
「北海道へ着いてから本当の青空は初めてか」
「天売島も明るかったけど青空じゃあなかったわね」
展葉したばかりの、まだみずみずしさを失っていない樹々の葉は、青い空を背景に鮮やかな緑に輝いていた。

 突然、アッキーが猛烈な勢いで吠え始めた。 いつもの吠え方とは様子が違う。見ると、何かに注目しながら必死に吠えたてている。 ダルもアッキーと同じ方向を向いて、両方の耳をピンと立ててじっと身構えている。
「キツネだわ。あそこにキツネがいる」
妻が指し示す方向を見ると確かにキツネである。30メートルほど離れた木立の間からじっとこちらをうかがっている。
「アッキー、もう黙りなさい。キツネさんだから、怖くはないから」
と、妻はアッキーに声をかけた。 アッキーは初めのような必死の勢いはなくなったものの、まだ身体を震わせながら吠えている。 進んだり退いたりしているが一定の距離から先へは近寄らない。 やはり怖いのだろう。
 キツネは吠え立てているアッキーではなく、ダルのほうに注目していた。
妻がまた
「アッキーもう止めなさい」
と、強く言ったとき、ダルはキツネに向かって突進し始めた。 途端にキツネは身を翻し木立の間を飛ぶようにして姿を消した。 走り去るとき一声大きくケーンと鳴声を残していった。
 アッキーはダルが走り出したとき、同時に後を追ったが地面の起伏や樹木の切り株などに足をとられて、2,3回転げまわりながら走っていった。 その姿はアッキーが必死だっただけに見ていてかえって滑稽なものだった。
普段、目にすることのない光景を目前にして、妻はビックリしたように私の顔を見ていた。  
   
 陽が沈むと急に寒くなった。 寒かったのでウイスキーのお湯割りと鍋料理にした。 遠別のAコープで買ってきた食材は30分ほどで二人と二匹の胃袋に消えた。
 食事を終え、キツネに対する備えをしてから、ダルとアッキーをテントに入れて妻とともに風呂へ行った。 風呂の利用料は一人200円。 ここの公園には宿泊施設はないから、浴場はキャンパーとバンガローの利用者向けと思って間違いないと思った。 ・・・・・・・・・・・・・ ( 5.26 )

アッキー物語 ( 5.23 )

2008年05月23日 | 日記 随想
サロベツ南部

 道路地図を見ると道道909号線の天塩と稚咲内の中ほどから、パンケ沼の西を通って南下沼へ抜ける町道がある。 このルートを通ればサロベツ原野の西の端を日本海に沿って走ってみたいという気持ちと、パンケ沼と名山展望台へ寄ってみたいという気持ちを共に叶えられると思った。

 道道909号線の左に日本海を隔てて延々と続く原野はエゾカンゾウの花で黄色く色付き、青い日本海には雲に頭を隠した利尻富士の裾野がくっきりと見えていた。 金浦原生花園をはるかにしのぐ広さのエゾカンゾウの群落を車窓に見て、町道をパンケ沼へと向かった。

 パンケ沼は静かで平らな湖である。 沼や湖が平らなのは当然だが、この沼はいかにも平らそのものである。 沼の左右も、水面のはるか向こうもただただ平らである。 目に入るものは総て平らであった。 パンケ沼はサロベツ原野の南の端に位置しているのだった。

 パンケ沼を過ぎてさらに進むとやがて町道は宗谷本線の踏切を越えて国道40号線に合流する。
名山展望台は国道の右側にあった。 つまり、サロベツ原野の東に南北に連なる丘陵の南の一角に位置している。
 
 乗用車なら30台は駐車できそうな広さの駐車場があり、その奥には売店があった。 売店の右横には階段が上へと延びている。 展望台はその上らしい。
「階段だ」
言いながら妻を見ると、腰に手を当てて階段を見上げ、フーとため息をついている。
「どれぐらいの高さか、ちょっと先に行って見てみよう」
私は階段を駆け上がった。 私が階段を上がるのを察したダルは私の先になって駆け上っていく。 少し上がって振り返ると視界が開け、原野とパンケ沼と思われる湖が見えた。階段は左に曲がってもう少し続いている。 
 見上げると、上には家族連れらしい人たちがいた。 突然現れた大小2匹の犬に驚いたようだったが、続いて姿を見せた私を見て納得したようだった。

 「そんなに高くない。上がれるところまで上がってみるか。ゆっくりでいいから」
妻に声をかけると、ダルは妻のほうへと降りていった。
私は家族連れらしい人たちと入れ代わるように階段の上の石に腰を下ろした。
正面を見ると原野の向こうにパンケ沼が銀色に光っている。サイロや牛舎と思われる建物も見える。はるか彼方の低い丘の連なりは日本海に沿って伸びる砂丘林なのだろう。

 妻が喘ぎながら上ってきた。
「ダルなんてちょっとも引っ張ってくれないんだから」
ダルに紐をつけて前を上らせている。 妻は普段、散歩のときなどよくそうして引っ張ってもらっていた。 しかし、ここは初めての土地である。 ダルも普段どうりというわけにはいかないに違いない。
 妻も私の傍らの石に腰を下ろし、しばらくパンケ沼のほうに目をやっていた。
気が付くとアッキーも妻の膝の上にのってやはりパンケ沼の方を見ていた。

 しばらく休んでから階段を下りた。
後から下りてきた妻が
「ソフトクリームを食べない」
と言う。 
「ソフトクリームなんかあるかな」
「あそこに大きなのが見えてる」
妻の視線を追うと、売店の前に大きなソフトクリームの作りものが見えた。
「よし、買ってきてやろう」
私が売店に向かって歩きかけると、どうしたのかアッキーが先に走り出した。
「アッキー待て」と声をかけるが止まらない。 戸が開いていたところから売店の中へ入ってしまった。

 あわてて追いかけるように売店に入ってみると、アッキーは入り口から2,3メートルのところでじっと動かないでいる。 何かに注目している様子なのであらためて店内を見てみるとアッキーの5,6メートル先にヒグマの剥製が置かれていた。 ヒグマはアッキーのほうを向いて牙をむいている。
アッキーもヒグマには敵わない。そこから先には近寄れなかったらしい。
 アッキーを抱き上げて妻のところへ戻り、妻に手渡してからもう一度ソフトクリームを買いに売店へ向かった。

 妻と私、ダルとアッキーで二つのソフトクリームを分けあって食べ、名山台を後にした時、時刻はもう3時を過ぎていた。
「少し急ごうか」
 豊富の町を過ぎ、途中、宮の台展望台の標識を目にしたが、明日また出かけて来ることにして国道40号線を稚内方面へと向かった。
              ・・・・・・・・・ ( 5.23 ) 
 

アッキー物語 ( 5.19 )

2008年05月19日 | 日記 随想
 初山別村豊岬から遠別町を経て天塩町天塩への40キロ余りはオロロンライン最後の行程である。 それから先はサロベツ原野である。
 兜沼キャンプ場はサロベツ原野の北の端っこに位置している。天塩から先は二通りの行き方があるが、それについてはもう少し先へ行ってからどちらにするか決めることにして豊岬を後にした。

 左に見える日本海、海岸線に沿って長く低く連なる丘陵、そして真っ直ぐに伸びる道路。 これまでずっと見続けてきた風景が延々と続く。 すれ違う車の数はさらに少なくなり、車窓に建造物を見ることはますます少なくなる。
 天気は回復に向かっていた。 今朝、豊岬の空で押し合い重なり合っていた雲は、いつのまにかまばらになり、広い空のあちこちには青い空も見えてきていた。

 やがて、車の左前方、日本海の彼方に利尻富士の姿が望めるようになった。
「金浦原生花園」のエゾカンゾウの大群落を見てから、またしばらく進むと「富士見が丘公園」という看板が見えた。 この辺りはもう遠別町のはずである。

 「富士見が丘公園」はまったく唐突に、北の果ての大地に現れた今風の“白い西洋のお城”だった。公園がお城というのはおかしい。白いお城が「富士見が丘公園」を象徴していると言うべきなのだろう。
 それが東京や大阪や名古屋など、或いはその他の中小都市でもいい、本州のどこかの都市か町にでも在ったのならばごく普通のことだったと思う。 ところが、北海道も北の果てに近い遠別町に現れたので“驚いた”のだった。 「遊々遠別」の“キャッチフレーズ”とともに遠別町が進めている観光開発の一端なのだろうと思った。

 その白いお城はレストランのようだった。 私たちはなんだか場違いな感じを覚えたのだが、そのレストランで昼食をとることにした。 
 お城のレストランは国道脇の広い駐車場のさらに一段高いところにあった。駐車場からはお城に向かって真っ直ぐな広い階段があり、階段の中央には水が滝のように流れ落ちていた。 
 駐車場に車を駐めて、階段を上がるのは妻にはちょっときつすぎるようだった。それにダルやアッキーを車においておかねばならないので、出来れば車を駐めるのは遠くでないほうがいいと思った。
 そう思ってお城のレストランを見上げるとレストランの横に車が見えた。駐車場の端の方から道路が通じているようだった。

 妻と私はそのお城のレストランで「幕の内弁当」を食べた。 北海道の北の果てまでやってきて、“真っ白な西洋のお城”のような“レストラン”で“幕の内弁当”を食べたのだった。
 しかし、遠別町の名誉のために記しておくが、その幕の内弁当は美味しかった。

 「遊々遠別」と印刷されたパンフレットを眺めながら、妻と私は食事を終えて車に戻った。 さっそく、ダルとアッキーを車から出してやる。

 妻は私たちの幕の内弁当から取り分けて持って来た卵焼きなどをダルとアッキーに食べさせている。 私はダルたちに飲ませる水をもらうために、赤いボールを持ってレストランへ戻った。 トイレで水を汲ませてもらい、外に出ると、車の前で妻は中学生くらいの女の子3人と何か話しをしていた。
 足元にはダルが座っている。女の子たちはどうやらダルとアッキーに興味があるらしい。
「アッキーは」
妻に尋ねると
「車の下に隠れている」
と言う。 女の子の一人がしゃがみ込んでおいでおいでと呼んでいる。
車の下を覗いてみると、アッキーはその子に注目しながらも動こうとはしない。
「そのこは触られるのが好きじゃあないの」
妻が説明している。
 ボールに入れてきた水をダルの横に置くとダルは立ち上がって飲み始めた。
「大きい方は噛みませんか」
女の子の一人が恐る恐るダルの背中に触ろうとしている。
「噛まないから大丈夫、でも、尻尾を触ると嫌がるからね」
妻が言うと
「判りました」
と言いながら、ダルの背中を撫でた。

「あなたたちはこの辺りの子なの」
いつの間にか車の下から出てきていたアッキーを抱き上げながら妻が聞いた。
「そうです。おばさんたちはどこから来たのですか」
「愛知県よ」
「わあ、遠くだ。犬も一緒にですか」
「そう、一緒に来たの」
「へえー」
3人は一様に驚いた。

「この辺りに買い物をするお店はあるかしら」
妻が話題を変えて3人に尋ねると
「どんな買い物ですか」
と言う。
「スーパーマーケットのようなお店はないかなあ」
妻の問いに3人は困ったような顔で互いに見つめ合ってもじもじしている。
私が補うように付け加えた。
「例えばAコープの店なんかないかな」
Aコープと聞いて3人は元気付いたように言った。
「Aコープならあります」
「これから北へ行くんだけど、買い物するにはそこがいいかしら」
妻が重ねて尋ねると
「天塩よりはいいと思う。百貨店はないけど」
と、女の子の一人がこたえた。
「それじゃあAコープを教えてもらおうか」
「遠別の町です」
「国道沿いにあるの」
「はい道の左側です」
「そう、有難う。行ってみるよ」
私が礼を言うと、彼女たちは互いに何か話しながら嬉しそうに白いレストランへ入っていった。
 Aコープで今夜のキャンプの食料を買い込み、女の子が言った「百貨店はないけど」という言葉が含む意味について語り合いながら、私達は天塩に向かってさらに北へと車を走らせた。
           ・・・・・・・・・・・・・・・ ( 5.19 )

アッキー物語 (5.14)

2008年05月14日 | 日記 随想
 オロロンライン ・・・ その2

 羽幌港の駐車場を出て、港の入り口の空き地でダルとアッキーにオシッコをさせ水を飲ませ、しばらく遊ばせた後、私たちは車に納まった。
時刻は三時半だった。
 北海道上陸以来二日目である。まだ、二日目だからと妻が言うので、調べておいた初山別村の豊岬のキャンプ場へ行ってみることにした。
 車をスタートさせ国道に向かう。 国道232号線、オロロンライン北部である。 空は昨日よりも明るく、海は昨日よりも青い。

 築別を過ぎ初山別村に入ると国道はまた海沿いになる。西に傾きかけた陽光が雲間から差し込んで海面はきらきらと輝いている。 左は日本海、右は原野か丘陵という景色が延々と続く。車の通行は少なく、いやおう無しに道北を感じさせられる。 初山別の街を過ぎると間もなく豊岬のはずである。
 やがて、「みさき台公園」という地味な看板が見えた。 キャンプ場、岬センターなどの文字も見えた。

 キャンプ場は岬の灯台の根元にあった。海側の一段低いところにはバンガローが並んでいる。 妻とダル、アッキーをキャンプ場に残しておいて、私はキャンプ場の利用を申し込もうと「岬センター」の建物に向かった。
 センターの受付で尋ねると、特に申し込む必要はなく、テントサイトは自由に使ってよいとのことだった。 そして、料金は無料、浴場は岬センターのものを一人350円で利用できるということだった。
 その旨をキャンプ場へ戻って妻に伝えると
「こんな良いところがタダなの。水場も綺麗だし、トイレも綺麗よ、トイレットペーパーも付いていた。」
と言う。 私がセンターへ行っている間に、ダルとアッキーを従えて点検してきたらしい。

 岬センターで夕食が出来ないかと聞きにに行ってみたが、団体の予約があるのでだめだと断られた。 併設のレストランはまだオープンしていなかった。
 止むをえず、カレーライスとサラダ、それとビールで夕食を済ませた。アッキーはドッグフード、ダルはソーセージとカレーライスの残りをたいらげた。
 ダルがカレーライスの皿を舐めているのを見下ろしながら、妻は
「今日も夕食を一緒に出来て良かったね」
と声をかけていた。

 食事の後片づけをしてから、妻と私はダルとアッキーをつれて灯台と岬センターの間にあるミニゴルフ場へ夕日を見に行くことにした。 
 私たちはゴルフ場の芝地の上に海に向かってならんで腰を下ろした。ダルとアッキーは「いったいこれからどうするの」とでもいうように、私たちに向かって二匹並んでお座りした。
 「こっち向きじゃあなくて、反対でしょう。お日様は向こうなの」
と妻がダルに言い聞かせるように言う。
「ダルたちには夕日なんて意味ないし、それに向こう向きには斜面だから座れないさ」
わたしは言いながら空を仰いで仰向けに寝転がった。
見上げる空は灰色から黒に変わろうとしていた。月はなく、星も見えない。 しばらくして身体を起こした。ダルとアッキーは芝地の向こうの方を、薄暮の中の白い影のようにうろうろと動き回っている。
 水平線の上の雲は入日を遮りながら朱に染まって輝き、その輝きは帯となって私たちの頭上へとつながっていた。

 翌朝、強い風の音で目が覚めた。
時刻はと見ると6時である。テントの中はもうすっかり明るくなっている。しばらく横になったまま、淡い緑色のテントの天井をながめながら風の音に聞き入っていると、私が目覚めたのを察してダルが起き上がり身体を震わせた。それに続くようにどこに寝ていたのか、アッキーも起き上がってテントの中をうろつき始めた。
 テントの入り口のファースナーを少し開けて外を覗いてみていると、私のからだの横の隙間からアッキーが外へ出ていった。
アッキーの白く柔らかい体毛と、毛の長い耳は、強い風に吹かれて一方へとなびいている。 外へ飛び出したものの強い風に驚いて身動きできずじっと立ち止まったままである。
 私は身体を引き、ファースナーを開けてダルを外に出した。 ダルが出てきたのに気付いて、ようやくアッキーも風に逆らうようにして動き出した。
 しばらくして、私もテントを出た。 ダルとアッキーはテントサイトの向こうの隅を並んで歩いていた。

 
 湯を沸かし、インスタントのコーヒーを飲んでいると、妻が起きてテントから顔を出した。 体調はどうかと尋ねると
「起きてみたら元気が出てきたみたい。今日はこれからどうするの」
と言う。さらに、
「ここは風が強いから、早く片付けて北へ行かない」
と言った。

 次の予定地は豊富町の兜沼キャンプ場である。 ここからは100キロ余りの行程である。 北海道のこのあたりで100キロぐらいは、真っ直ぐに行けば1時間半もかからない。 しかし、途中あちこちより道もしたいだろうし、ダルとアッキーのための休憩も勘定に入れなければならない。
 妻の体調の事もあり、私たちは常に予定には充分に余裕をもって行動していた。 ゆっくり、時間をかけてテントを撤収し、私たちはまた北へと向かった。
           ・・・・・・・・・・・・・ ( 5.14 )


「今を生きる人々」は可哀想です。

2008年05月13日 | 日記 随想

 先日の新聞に、徳山ダムの放水が原因で揖斐川での稚鮎の放流が一ヶ月延期になるという記事を目にしました。
 一村を湖底に沈め、多くの人々の故郷を奪い、多くの自然環境を破壊し、莫大な技術、労力、そして費用をかけて完成させた結果が、今では「厄介もの」扱いです。 治水にも利水にも、今では「大きな効果はない」と言われています。哀しいかぎりです。

 私が小学生の頃、「佐久間ダム」という映画がありました。 学校から団体で観に行き、その映画を観てなんともいえない感慨で胸躍らせたことを憶えています。 
 
そして、10年ほど前までだったでしょうか、N.H.K.に「プロジェクトX」という番組がありました。 戦後の日本人の生活を改善、向上させるために努力してきた人々の活躍を紹介する番組でした。 そこに現れてくる人や組織はどれもみな夢と希望と使命感に満ちていました。
 同時代の人々は程度の差こそあれ、誰も皆”夢と希望の実現”と”生活の向上”のために努力していました。
 換言すれば、その時代の人々は「生活に夢や希望を持つこと」が出来、そしてまた「日々の暮らしに目標を持つこと」ができたということです。 
 人々の”暮らし”や”活動”が、人々に有益な「もの」や「こと」を作り出すことに結びついたのです。

 現代はどうでしょうか。 技術の発達や経済のグローバル化、その結果として出現した生活や社会構造の変化或いは雇用形態や経済形態の混乱などで、人は「人の役にたつこと」が出来なくなってしまったのではないでしょうか。 

 前記した徳山ダムに代表されるいくつかのダム、最近問題になり断罪され始めた全国各地の道路、 本四架橋に代表される橋梁、などなど。 これらはどれも世界に誇りうる優秀な技術に基づき、莫大な費用をかけて完成させた建造物です。 昔なら、早速 ”プロジェクトX” でとりあげられ、人々の賞賛の対象になるものだったはずです。 その建造にかかわった人々は、自分もその建造にかかわった一人なのだと誇りを持って話せるものだったはずです。
 それが、いまでは「厄介者」になり「無駄飯食い」扱いになっているのです。これでは建造に携わった人々が「哀れ」過ぎます。

 I.T.技術の発達は携帯電話やパソコンやインターネットの進歩を促しました。 これらは本来なら人々の生活を便利で豊かなものにするはずでした。 しかし、現実は「新たな犯罪の源」や「青少年の非行の源」になり、さらには「過剰で過酷な労働」の根源になっています。
 医療についての学問と技術の進歩発達も、人々を「老」「病」「死」の苦痛から救うはずのものでした。 ところが現実は、「人口の高齢化」をまねき、「医療費の増加」というマイナス面ばかりが表面化しています。 多くの医師たちは非常な努力をしているにも拘わらず、「医療の現場と制度の崩壊」をもたらす結果になっています。

 「現代を生きる人々」にとっては、”勉強”も”研究”も”努力”も結果的には「悪いもの」となってしまうようです。 やることなすこと全て「うらめ」に出てしまうのです。 
 今の人々はいったいなにを創り、なにをしたら良いのでしょうか。 喜びをもって「作る」ものもなく、喜びをもって「する」こともないのでしょうか。 それでは余りにも「可哀想」です。

 「今」と「これから」を生きる人びとにも、作るべきものやするべきことはあるはずです。 しかし、それらは「今まで」と「今」の延長線上にはないように思えます。
 答えは、容易に見つかるように思えるのですがなかなか具体的な形になってきません。 それは凡人には考えの及ばないところに在るのでしょうか。