NOTE FROM DORONOKI

英文でブログを書いてみました.毎日畑や庭の草に追われています。今夏野菜がフルスイング。

スタンデイングのスピーチです

2019-04-27 14:41:38 | 日記

    パソコンの調子がおかしくて、自分ではどうすることもできない私はしばらくここに近づかなかった。久しぶり。明日は沖縄デーなので今日のスタンデイングは沖縄に特化。何かしゃべれるようにしておけとのことで書いてみた原稿をアップしておく。

本土を守るためにアメリカ軍を食い止めろと命じて、そのため住民の4分の1が殺されるほどの犠牲を強いた沖縄を、今度は占領した軍隊に売り渡して本土だけが独立したのが67年前の4月28日。明日です。昭和天皇は「沖縄は100年も好きに使ってくれていい」とマッカーサーに言いました。沖縄は人身御供で捨て子だったのです。
  日本に戻りたいと願った沖縄が、ようやく帰ってみたら、それは願っていたこととは違いました。日本にあるアメリカ軍基地の74%があの小さな島に押しつけられている、土地だけでなく空も海もアメリカ軍のもの、入れない、人殺しの訓練を受けた外国の軍隊が、町の中にいる、そのせいで事件も事故も、たくさんおきる、しかし警察は捜査ができない、日本政府は何も言わない、そういうことが沖縄では70年以上続いているのです。
  戦争が終わって収容所から帰ってきたら、住んでいたところがアメリカ軍の基地にされていた、お墓も畑も基地の中、仕方ないから基地の金網の外に住みついた、それが普天間飛行場です。これを返還する約束をアメリカがした、そのきっかけは3人のアメリカ兵が小学生の少女を拉致してレイプした事件です。沖縄の怒りの激しさにアメリカも飴を差し出さざるを得なかったのです。けれどその代わりの基地を造ってよこせという、もちろん日本のお金で、です。こうして辺野古新基地建設が計画されたのでした。そもそも、が忘れられている。ノートを買って帰る小学生を3人の米兵がレイプしたのです。それがいつの間にか200年も使える巨大軍事基地を同じ沖縄に造ってアメリカにプレゼントすることになった。そんなばかな、です。いったんは沖縄の抗議で棚上げされていたものを、安倍政権は一切の民主主義を踏み潰して、暴力的に基地を造り続けているのです。知事選、県民投票、そして先日の国会議員の補欠選挙でも、沖縄は本当に何回も新基地建設にNO!と言っています。しかし安倍政権は毎日毎日土砂をあの美しい辺野古の海に投げ入れているのです。どうしてこんなことがまかり通るのでしょうか?
  いじめの横行する集団は大抵同じです。小さな弱い子がターゲットになる、いじめる側は権力を持っているけれど、いじめを続けられるのは、それを支持する子たちがいるからです。積極的参加でなくても、ボスにへつらってはやしたてる子、自分がいじめに遭わないように何も言わない子、他の人の苦しみに無関心な子、痛いのは自分じゃないから関係ないと考える子、こういう子たちがいじめを支えているのです。ボスは、いじめをしても俺の地位は安泰だと思えるから続けるのです。しかしいじめのターゲットはボスの気分次第、明日はこちらに向かうかもしれない、だから実はこういう子たちも安心ではない、幸せではないのです。
  ボス安倍政権のいじめを容認し、支えているのは私たち本土です。安倍政権は私たちの無関心や冷淡さ、世論の動向から、沖縄を踏みにじっても国民が騒ぐことはない、政権が危うくなることはない、と計算してやっているのです。政権に逆らっても無駄だと思い知らせてやろう、徹底的に弾圧して見せしめにしてやろうと、考えているのでしょう。
  私たちは、おどおどとボスの顔色をうかがい、苦しむ友人を見捨てて平気な、情けない級友でいいのでしょうか。その友達の苦しみの上にあぐらをかいていていいのでしょうか。ボスに逆らったらいじめられる、それをよーく学んだから、これからもボスには絶対服従、それでいいのでしょうか?いじめは、その他大勢、つまり私たちが、力を合わせて毅然として立ち向かわなければ、解決しません。ボスの横暴は続くのです。ボスの命令にイヤだと言ったら同じ目に遭うのです。
  沖縄のことは沖縄だけのことではありません。民主主義の問題です。平和に生きるのか戦争に突き進むのか、の問題です。そして、もう一つ、苦しむ友人に、いや、苦しめた友人にどう向き合うのか、どうやって一緒に生きるのか、人間として友情や連帯の問題でもあると思うのです。全国の県知事が日米地位協定の抜本的見直しを求める意見書を提出しました。これは沖縄だけのことではない、わがことだと党派を超えて一致したすばらしい連帯の行動ですね。市民も動きましょう。オスプレイが飛ぶ長野県のことです。自衛隊に子どもの名簿を出す、佐久市のことです。  
     


浅川巧はなぜ朝鮮服を着たのだろう

2019-04-13 14:40:55 | 日記
   上野千寿子さんが東大の入学式で話したことが話題になっているらしい。朝日新聞の記事で知る範囲だが、上野さんらしい、鋭く正義感に満ちていて、しかしエリートとなった若者への警告と愛情がある、こんなことを率直に言うのはやはりすごいなあと思っていた。東大生たちが彼女の考えをくみ取る力を持っていてほしいと思う。
   先日、山梨北杜市の浅川巧兄弟の資料館を訪れた。あまり有名でないだろうが、彼らは朝鮮の陶磁器の美しさを見いだし、殊に弟の巧は、朝鮮の山に植林をし、人々に慕われ、朝鮮に葬られたのだそうだ。日本が朝鮮を植民地にして支配し、人々を目下に見て言葉をはじめとして文化を認めなかった時代である。その時に、朝鮮服を着て、朝鮮の民具の美しさを認め、日本人の振る舞いを「申し訳ない」と思った浅川巧の「公正さ」はどこから来たのだろう。私の父母も朝鮮にいたのだが、残念ながら、彼らにはそんな感覚はなかったようだ。「朝鮮語など覚える必要はなかった。みんな日本語を使った。」と言ったが、「日本が負けた翌日から人々は朝鮮語で話した。」とも言った。それがどんなことを意味するのか彼らはわかっていたのかなあ。たくさん学ばせてもらったお隣の国を踏みにじって多くの犠牲を強いたのに、「一度謝ったんだからいいじゃん。いつまでも被害者面するなよ。」とかえって憎しみを募らせる人たちが今もいることを本当に恥ずかしく申し訳なく思う。

味噌玉作りの日

2019-04-12 22:25:19 | 日記

   女しょうの会の味噌造り初日。軟らかく煮た大豆を機械で潰して味噌玉を作る。20人ほどで大釜5つ分を2時間ほどでやってしまった。何しろ働き者で、味噌作りのベテランたちなので、仕事の手際も連携もすばらしい。後片付けまでさささっ。もちろんその前に豆を洗い火を焚き道具をそろえ、と準備をしてくれる人たちの仕事もあってのことだが。次回には麹と塩を混ぜ込み、樽に詰めるのだ。そうして1年おくと山吹色のおいしい味噌になる。この味噌はなかなか評判が良くていつも売り切れる。退職後この仲間に入ってから、私も自家用味噌を自分で仕込むようになった。良い材料で本物の食べ物を作る人になった気分でうれしい。    
      女しょうの会のメンバーはみんな口も働くが、手も働く。野菜を育てたり、食べ物を作ったりすることの知恵がすごい。私は「ハーア」と言って聞いているだけだ。集まるときには必ずおいしいものを作ってきてくれる。長野弁で言うその「ずく」と腕に感服する。
   しかし最近私はその「ひたすら感心の時代」を過ぎて、少し違った見方もする。結局こういう能力を昔から女性たちは求められてきたので、家族の健康を支える大事ではあるが、女性は家庭の中に閉じ込められたのだ。(メンバーの中には家庭の外で働いてきた人もいるけれど、その上にさらに家事の能力も上げてきたわけだからたいしたものだ。)そして彼らは今でも、いつまでも、「料理は女しょう」を引き受けているのだ。


4月10日 終日雪 鳥がおなかをすかせている

2019-04-10 16:47:39 | 日記

    4月10日というのに終日雪である。鳥たちが餌を見つけられないのかたくさん庭に来る。読んでいた本も終わってしまったし、やることがないので、縫い物などをした。パッチワーク同好会に入っているので。他のメンバーは緻密な美しい作品を作っているが、私は杜撰でそういうのはダメなので、ブランケットを作り始めたら、これはまた縫うところが多い。いずれにしても私向きの仕事ではないなあ。布は大好きなのだけれど。
  小学校の頃は縫い物に苦手意識はなかった。布で小さな人形(おぼこさんと呼んでいた。)を作って着せるものも作ったり、好きな遊びだった。ところが中学になったら家庭科で作ろうとしたブラウスの前身頃と後ろ身頃のサイズが合わない。浴衣の襟を二つに切ってしまって先生に「あーあ、やっちゃった。」と言われた。毛糸の靴下は左右の大きさが盛大に違って、優しい先生は「スキー靴履けばわからないものね。」と言ってくれた。高校で襟付きのブラウスを作るとなってもうお手上げ。隣の席のタミちゃんが全部やってくれた。大学の家政学部を薦めてくれた先生がいたが、家庭科と同義語だと思っていたので、ハナから避けた。
    長い間この家庭科というのは女子だけが学ぶものだった。それになんとなく反発する気持ちがあって、縫い物なんてできなくたっていいや、と 開き直ってもいた。男子高校にはないこういう科目が私のいた女子校では必修だった。学問をする時間が男子より少ないと悔しかった。
  近所のカズコちゃんのお父さんは腕のいい和裁の職人だと評判だった。私の父は「裁縫だって料理だって一流なのは男だ。」と娘に向かって言っていた。かくて私は男性の方が優れていて女性は能力がないのだとすり込まれた。いや父のせいだけではない。世の中がそう考えていたと思う。「女が大学なんて行ってどうするんだ。」「女に中学生なんて扱えるわけがない。」などとと言われるのに反発して肩肘張って生きてきたが、実は私の中に古い刷り込みは染みついているなあと感じることがある。新しい世代はもっと自由に生きればいい。美しい布は男性も女性も好きでいい。


4年後にも生きてなければ!

2019-04-09 21:21:08 | 日記
  夫に勧められて英語でブログを書いていた。多少ノーミソの老化防止にはなるかもしれないが、大して意味はないなあとこの頃思うようになった。だから日本語で書くことにしてみる。
  一斉地方選挙の前半が終わった。あまりうれしい知らせはない。北海道で野党共闘候補が負け、大阪で維新が両方とも勝った。そしてこの地域では藤岡さんが落選した。信じられない気持ちだ。あんなに生きが良くてあんなに献身的であんなに行動的であんなに実績を上げていてあんなに正義漢が強い人を選ばないなんてあり得ない。これでこの地域からは原発反対を言う人はいなくなった。憲法を守れを言う人がいなくなった。権力に堂々と立ち向かう人がいなくなった。投票に行く人は半数に満たない。行った人の多数が、権力に近い候補者を選ぶ。この社会はどうなっていくのだろう。この国はどうなってしまうのだろう。無責任な評論家のような言い方だが、自分自身の至らなさを申し訳なく思いながら、ため息をついている。 
    藤岡さんは、開票の翌朝早くには街頭に立っていたそうだ。「藤岡ガンバレ!」という車からの声援に泣きながら立ち続けたという。「よし、4年後には」と今日も言い合ったのだが、4年後にも生きてなければね。
 
  リンゴの苗木を植えた。よその国で見たような、見栄えはしなくても消毒せずに野原に立っているようなリンゴがほしい。果たしてなってくれるかな?これも、4年後にも生きていなければ、である。