日々発見 ~ごく当たり前の日常のなかにこそ発見がてんこ盛り!~

生きていくことは驚きの連続!日々出会うあれこれを当たり前だと見過ごさないで、いっぱいビックリしたいです。

終戦の日

2009-08-16 09:39:21 | わたしのこと
テレビや新聞ではいろいろな形で「戦争」のことを伝えようとしているようだ。
戦争の記憶が体に染み付いている人も、どんどん少なくなっている今。
この日ぐらいは、息子たちとそんな話をしたいと思っても
テレビも見ず、新聞も読まない彼らは
2人とも遊びに行ってしまい留守。

小学校の修学旅行では広島。
中学校では沖縄。
私が聞いたこともない、実体験を聞く機会を2人とも持ったはずなのに
彼らが今どんなふうに感じているのか・・・
興味を持っているようには思えない。
遠い昔の、歴史上の話のように感じているんじゃないかな?

8月6日、次男と一緒に広島の平和祈念式
(正式名称は「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」)の中継を見ていたのだが
そのとき次男が「これっていつまでやるのかな?」と聞いてきたことで
今まで考えたこともなかったことを考えた。
「いつまで?」
そうであってほしいという気持ちを込めて
「日本という国がある限り、きっと続くと思うよ。」と答えた。

広島県の江田島出身の私の父は、原爆が投下されたそのとき
呉市内の中学校へ向かうため、船の上にいたそうだ。
爆発の瞬間、船が大きくぐらぐらと揺れた。
そんな話を、私は父からじかに聞いたことはない。
母が若いときに父から聞いた話を、あるとき私にしてくれなかったら
知らないままだっただろう。
広島市内に住んでいた親戚を探しに行き
ついに誰とも会えなかったという話も、直接してくれたことがない父。

私が10才まで住んでいた町には
今は「東京大空襲・戦災資料センター」がある。
私たち家族がその町に住み始めたのは昭和40年ごろ。
その20年前には一面焼け野原だった場所だ。
住んでいたときには、誰もそんな話を子どもにはしてくれなかった。
通っていた小学校でも、聞いたことがなかった。
大人になってから、東京大空襲のことを知り
きっと自分が住んでいたあたりも大きな被害があったはずだと
ふと気づいて、自分で調べて資料センターの存在を知った。

駅前で時々見かけていたその人たちが「傷痍軍人」と呼ばれる元日本兵だったという
その意味がわかったのも、大人になってから。

自分の体験を振り返ってみても「語り継ぐ」ということは、かくも難しい。
難しいけれど、やはりあきらめてはいけない。
当事者が自分の体験を身近な人に語ることもできないほどの大きな傷。
直接話してもらうことはできなくても
いろいろな情報を発信してくれるところが存在し続けてほしい。
事実を知り、なぜそのようなことが起こったのかを考え続け、話し続けることが
未来のために必要なことなのだと思っている。