誰かを選ぶってことは、無作為にどんなひどい人間でもいいってことではなくて、信頼できる人間を選ぶということであり、責任が伴うものだと思う。
無作為ってのは、どんな人間でもいいってことで危険だと思う。
政治家を選挙で選ぶってことは、それだけ大事なことだと思う。
それが選ぶ、選ばれるという意味だと思う。
誰かを選ぶってことは、無作為にどんなひどい人間でもいいってことではなくて、信頼できる人間を選ぶということであり、責任が伴うものだと思う。
無作為ってのは、どんな人間でもいいってことで危険だと思う。
政治家を選挙で選ぶってことは、それだけ大事なことだと思う。
それが選ぶ、選ばれるという意味だと思う。
別に創価学会提供の番組でも参考になることはある。
宗教を変えることの難しさである。
番組の中国の四川の峨眉山にある仏教の寺の映像を見て思った。
イスラムであって自分のイスラムから改宗するなんて、構成員が減ったり、秘密がばれたり、組織にほころびが出たりするだけで、恐ろしいことであろうに、改宗という行為が怖いことが当たり前なのは当然である。
出家して仏教徒になろうが、個人の信教の自由であろうが、宗教を信じる側にとっては壊されることはそれだけ怖いと思う。
神を信じるものが、私は神を信じません、無神論者ですという人間がもっとも恐ろしくて、本人が思うより重大なことであるのは当たり前のことだと思う。
平等な人間という観点に基づき、資本家と労働者という階級闘争の社会から、共産党主導、指導による、民衆の徹底的な平等化という理念の下、党の一元的な指導による平等社会と貧困のない、すべての民衆が裕福になれる社会の達成のために努力し、そのためには共産党の強力なリーダーシップが必要なのです。
またそのために、指導と実際の労働という労働における徹底的な分業化と機械化による効率化、分業化された部門別のそれぞれが専門的に職務をこなすというよく議論された組織論と統合的に指導する組織としての共産党が必要なのです。
また東アジアにおける、汎アジア的発想によるアジア重視の、アジアの連合による共同的安全保障を推し進めます。
加えてインターナショナル的発想により、世界の連帯を進め、積極的に国家間の壁を取り払うべく、世界同時改革を進めると同時に、国内の地域内の連帯を強め、地域ごとの共同体を世界の中の一単位と捉え、地域それぞれの努力で、貧困の撲滅を目指し、収入、地位、家柄、国籍に関係なく一人ひとりが平等に尊重される社会を目指します。
また疾病、障害に関係なく、あらゆるひとびとが平等に社会に参画し、人間として、一社会の中でそれぞれの役割を、男女関係なく果たせるよう、積極的に政策に反映することを皆様に約束します。
遊牧民的共同体であろうが、農村的共同体であろうが、世界には古くから共同体というものがあります。
人間が集団で生活するために共同体というものが作られました。
キブツが古典的な社会主義だといわれようとも、ともに生き残るためには何らかの連帯が必要でした。
それが古典的なものであるか、すでにもう社会主義であるかはあまり問題ではない。
日本の向こう三軒両隣だって、隣組だって、町内会だって集団生活のための一種の連帯組織だと思う。
恋愛して結婚して共同生活送る時点でもう連帯生活であり、異性に妻とか夫か言う言葉を使わずにパートナーとか配偶者という言葉を使いたがる時点でもう連帯だと思う。
ハイチで地震が起こりました。人々は救援物資を求めて激しく争っていました。
食べ物がなくなれば、決められた量の少ない食べ物を求めて人間は激しく争います。
あれはハイチだけのことでしょうか?
近所トラブルなど人間社会は争いが絶えません。
争いがなくなればいい。自分さえおとなしくすれば争いはなくなる。
近所関係からしてそうはいきません。
争いがなくなれば、強くないと生きていけない、その相克の中で人間は生きているのです。