ある牧師は、現世での御利益を説く宗教を軽蔑した説教をしますが、現世での幸福を求めるのは当然です。
信徒をコントロールするオペレーターとしては、信徒の自然で普通な欲求を非として、経済的余力を贖い預金として献金させるには良いかも知れません。
地上での幸福を俗的と言い、それらを求める事を「朽ちる冠を求める虚しい事」とし、自分達は全ての上に位する神やイエスを信仰していると言う。
大きな矛盾を感じますが、全てに勝る主なる神が御子が信じる者、信仰する者に地上での幸福を与える能わざるとは合点が行きません。
良心やモラルや道徳を守り家族や友人を思いやるノンクリや、他宗教信者の信仰対象を虚構だの偶像だの言いながら、地上で幸福を得るにはどうしたたいいのかと云う事すら説けないとは、彼等の信仰する神は何者なんでしょう?。
地上の生涯が苦痛と悲痛と悩みに満ちた生活であっても、信じる者には天国が約束されている。だから安心しなさい。モル内で不祥事が頻発し名簿上の人数が急増した時代に、同じ様な事を言う地方幹部や役員がおりましたが、そんな事を言いつつ現世御利益を説いてました。生き方が不器用で絶望的になった人に対してのみ、慰めの言葉として用いた程度です。
辞めたモルを支持や賞賛する訳ではありませんが、あまりにも霊的、天的な事に拘り日常生活を厭わさせ実用性を失い「世はキリスト教を必要としなくなり、嫌悪するに至った」と感じてなりません。
悩みも煩い事を解く事も出来ず信じる者は永遠の命を得るから「安心しなさい、疑うな、信じて耐えなさい、祈りなさい」これではパリサイ派やサドカイ派と同じです。
和モノ文学なんてクリ作家以外は論外で、欧米モノは崇拝される様です。和モノクリ作家の作品は聖書やキリスト教ありきなので聖なる書物に準じるくらいの扱いでクリ作家、キリスト教文化は素晴らしいと互いに褒め称える様は、教祖や開祖を褒め称えるカルトのようです。
モルや顕正会のように教区長や理事(幹部)を大統領の様に迎えはしませんが、クリ作家や作品を皆一様に褒め称え合い、他はキリスト教とは無関係だからと斬って捨てるのも、嘗てのモルやカルトと同等です。
節分も七夕もキリスト教行事ではないからと軽蔑したり悪魔とも言う人も多数おりますが、聖書にはクリスマス、復活祭、精霊降誕祭をせよとは書かれてません。
クリの多くが主の言われた信仰ではなく、ヨーロッパで派生的に生じた慣例を教団経由でキリスト教そのものとして刷り込まれ、コミュニケーションに問題を持つ人々への勧誘が重点的に行われた事と、閉鎖性を好む気風が重なり原理主義化が止まりません。
生き方の不器用な者が入信したら何故改善すべきと気付かせないのか?信徒や聖職者の説教は予言でも異言でもない、原理主義者に耳当りの良い話だからです。
未信者や新入りが「自分は考え違いをしている、変えなければ(変わりたい)」と思う様な集まりや組織が本来の教会と思われます(1コリント14:23~14:25)。
理性で全く実を結ばない空虚な伽話が諸教会と信徒を支配してますが、1コリント14章に書かれている事は殆ど手付かずです。看板だけのキリスト教会風集会所です。
世の人の多くが悩み苦悩して幸福や確固たる拠り所と愛あるコミュニティーを求めてますが、理性で実を結べない宗教など不要です。世の人は苦悩と無縁社会の池である者は溺れかけ、ある者は濡れて震えてます。
正統派弱カルトや胡散臭い宗教やオカルト的団体に人(特に若年者~中年層)が走るのは、それらの団体が人々の心の要求をしっており、供する事が出来るからです。擬製家族と呼ばれてます。
主よ!主よ!って叫ぶだけが今の日本のキリスト教業界の主流ですが、主流派が見下している人々さえ知り得る事を知ろうともせず「朽ちる冠、地上の虚しい幸福を求める哀れな民だ」などと言えるでしょうか。
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