七代目蔵元日記

赤城山の自然や和太鼓のことそして日本酒のことを綴っています🏔🍶♬

泉岳寺の今井そわ女の句碑はどこへ?

2024年04月23日 22時51分37秒 | 赤城山
 私が幼少の時から敬愛してやまない「本家のおじさん」故今井善一郎翁(今井本家29代善一郎兼親、柳田国男に師事した民俗学者、「赤城の神」「習俗歳時記」などの著作あり)が著した『炉辺郷談』(ゐろりべのよもやまばなし)の中に【十八 そわ女三吟]があります。

 幼少の頃父に連れられて高輪の泉岳寺に詣でたときに眼下に広がる品川の海を眺めて詠んだ句が 「春風や空に消えゆく船のみち」でした。

 かつてはこの句碑が泉岳寺の楼門横に設置されていたようですが、今この場所にありません。この句碑について次の四つの小稿を紹介します。

 いずれ私も長女の嫁ぎ先の東五反田の本立寺に近い泉岳寺を訪ねてみたいと思います。

 (1)『炉辺郷談』今井善一郎
 (2)『今井そわ女の句碑を尋ねる」 丸山知良
 (3)『泉岳寺 そわ女 句碑』 今井権三郎
 (4)『泉岳寺と上州 今井そわ女句碑/鵬斎・鶴梁の義士碑』 群馬風土記





(1)『炉辺郷談』今井善一郎

昭和50(1975)年3月20日
【爐辺郷談】 「十八 そわ女三句」 今井善一郎

~ゐろりべのよもやまばなし~

十八 そわ女三吟

 そわ女は下箱田村の今井善兵衛兼明の妻なり。(即ち予が曽祖母)幼より父左部三岳に学びて俳諧をよくす。三岳は利根郡奈良村の人、通称善兵衛寛信といひし人なり。
 そわ女幼き時父三岳に従ひて江戸に遊び、高輪の泉岳寺に詣で、品川の海を見る。もと山間の少女、海の広きに感じて詠ず。
 春風や空に消えゆく船のみち
 此の句碑今泉岳寺に残れり。
 年十五にして今井善兵衛に嫁し、男善六郎及び七次郎を生む。両児共に渋川の堀口藍園翁に就学せり。次子七次郎は進んで東都に遊学せんとの意ありしも父之を許さず、ひそかに兄善六郎の助けをかりて家を出奔し中村正直及び福沢諭吉の門に投ず。そわ女夫と子の間を斡旋して苦しめり、時に句あり。
 飛ぶ蛍 押さえてやみのまさりけり。
七次郎この句を短冊に書きて終生秘蔵せりといふ。
そわ女老いて病み東京岩佐病院に医治す。七次郎勉学の間孝養之につとめたれど薬石遂に効なく没せり。その数日前枕頭の碧花数株あり、花開花落朝暮常なきをみて、
 朝顔や浮世の夢も花こゝろ
すなわち辞世となる。
 附記
予後曾祖父兼明の手帳を検するに、七次郎金子幾許をもちて出奔、凡そ何日位用を弁ずべし。何月何日頃送金を要すると記しあるを見たり、父には父の考へありしを知る。

【爐辺郷談】 「十八 そわ女三句」 今井善一郎 現代語訳:今井健介(※注釈)

~いろりべのよもやまばなし~

十八 そわ女三吟

 そわは下箱田村(※渋川市北橘町下箱田)の今井善兵衛兼明の妻である。(即ち私の曽祖母になる)幼い頃から父親の左部三岳に学んで俳諧を上達していた。三岳は利根郡奈良村(※沼田市奈良町)の人で、通称善兵衛寛信という人である。
 そわは幼い頃、父の三岳に連れられて江戸に遊びに行き、高輪の泉岳寺に詣でて、品川の海を見た。もともと山間の地に生まれた少女であったが、初めて見る海の広さに感動して句を作った。
 春風や空に消えゆく船のみち
 この句碑は今も泉岳寺に残っている。
 そわは十五歳で今井善兵衛(※26代善兵衛兼明、寺子屋を開いて近隣の子弟に教える。)に嫁いで、善六郎(※26代善兵衛兼直、北橘村長を務める。)と七次郎(※神明町初代善治郎兼保、木曾三社神社社司、縣社昇格に努力する。)の男の子を生んだ。二人の男児は共に渋川の堀口藍園翁の寺子屋で学んだ。次男の七次郎は東京に上京して勉学したいと希望したが父親の善兵衛はそれを許さなかった。秘かに兄の善六郎の助けを借りて家出をするように上京した。中村正直(同人社)や福沢諭吉(慶應義塾)に学んだ。そわは夫と息子の間に挟まれて苦悩した。その時に詠んだ句がある。
 飛ぶ蛍 押さえてやみのまさりけり。
七次郎はこの句を短冊に書いて終生秘蔵したという。
そわは年老いてから病気になり、東京の岩佐病院で治療を受けた。七次郎は勉学の間に母の看病に努めた。しかしいろいろな種類の薬や治療法をうけたがついに亡くなってしまった。(※明治24年7月4日没)亡くなる数日前、病室に数株の青い花が飾られており、朝に夕に花が開いたり花が落ちたりする様子をみて、
 朝顔や浮世の夢も花こゝろ
これが辞世となった。

 附記
私(※善一郎)が後に曾祖父兼明の手帳を調べると、七次郎は幾許かの金銭を以て家出したが、大体そのお金で何日位暮らせるのであろうか。何月何日頃送金しなければならないと記してあるのを見た。父には父の考えがあったことを知った。



(2)『今井そわ女の句碑を尋ねる」 丸山知良

平成2(1990)年9月
【群馬歴史散歩】 「今井そわ女句碑を尋ねる」 丸山知良  今井健介(※注釈)

 勢多郡北橘村下箱田(※渋川市北橘町下箱田)の故今井善一郎(※29代善一郎兼親)さんからその昔『炉辺郷談』という著書をいただいている。橘郷土叢書外篇一とあるのは外篇なのであって、発行者が北橘郷土研究会とあるが今井さんのポケットマネーで印刷した私家版であり、無償で配布したものではなかろうか。私なども有難く頂戴したものなのである。
  いろいろすざく会の御本いただき乍ら、何もお返し出来ず、苦しかったので、アンナ貴地にはホトンド無関係の本御送りしました。
との添え書きがあった。
  文書古くて方々から冷かされました。
などともある。昭和三十六年八月のことであった。
 私はこの本を読んでは忘れ、忘れては読んだ。地域の歴史というのは特別のことではなく、「ゐろりべの、よもやまばなし」という、この本に出てくるようなことがらが、積み重ねられて、何に役立つわけもなく、地域を褒めるわけもなく、囲炉裏の燃える火の如く、しみじみと心の中まで温まって離れがたいものかと思っている。
 さて、同書の十八、そわ女三吟がいつも気になっていた。それは今井善一郎さんの曽祖母にあたるそわ女(楚和子)の句碑が泉岳寺にあるという。泉岳寺は港区高輪二丁目にある。鉄道唱歌の「汽笛一声新橋を、はや我が汽車は離れたり、愛宕の山に入りのこる、月を旅路の友として」と唄いはじめる第二番に「右は高輪泉岳寺、四十七士の墓どころ」とある。『炉辺郷談』は行ってくるようにと言っているような気がしていたのである。
 何にしても有名なあの高輪の泉岳寺に建っている句碑を見てこなくてはならないと思ったのである。実は嘗て泉岳寺に詣でた記憶がある。しかし墓に詣で、亀田鵬斎の碑を見ただけであった。
 思い切って、今度は句碑をみるために泉岳寺を訪ねた。碑は泉岳寺楼門の右手に堂々としていた。びくともしない素晴らしい迫力である。
題額は「風樹碑」とあり、徳大寺実則内大臣の書という。その下のわく内に
春風や空に消えゆく船のみち
とある。「遊母幼時之唫」とあり、「善治郎兼保謹書」とある。石屋の名は「辻千秋刻」とわく外に刻まれている。
 実は私も読めない字があり、下箱田の今井さんにお尋ねした。
 今井家は善兵衛を襲名している。善一郎さん(先生と呼ばれるのを嫌ったので、さんと呼ばせてもらう)も、先代没後、善兵衛とも善一郎ともどちらを呼んでもよいと言っていた。その善一郎さんの曾祖父善兵衛兼明の妻そわは利根郡奈良村(沼田市)の左部善兵衛寛信、号三岳の娘である。善兵衛寛信はそわ女を連れて泉岳寺に詣で、品川の海を見たことがあった。その有様を俳句にした。この句は非常にすぐれていると評判になったようである。
 晩年病気になって東京岩佐病院の岩佐純医師にみとられて没した。そこで今井家では句碑を建ててその霊をなぐさめたという。何にしても赤穂浪士であまりにも有名な泉岳寺に句碑が建てられ、周囲にふさわしい、しかも堂々とした碑ができていることは趣味の深さを示している。
 そわ女に二男二女あり、長男兼直、次男兼保、長女泰子、次女岸子。次男兼保は家出のようにして慶應大学に学んだ。母は特に気を使い費用を送金した。しかし、父も秘かにその挙を支援していたとか。   
 碑陰の文字を写した。漢文のまま示すことにしよう。下手に読み下し文に直して間違えるといけないからである。

 左部氏名楚和子上野利根郡奈良村人左部善兵衛女也善兵衛寛信号三岳 以俳歌名家世素封楚和子幼好文詞日夕親炙頗悟其要旨曾随父游江戸詣泉 岳寺有観海咏都下喧伝称妙碑面所勒是也年甫十六出嫁于勢多郡箱田村郷 士今井善兵衛善兵衛名兼明兼平二十五世孫也楚和子容貌端麗性度温良善 事姑愛婢僕又好賙貧困一家敦睦伉儷甚篤生二男二女長日兼直以信義為郷 曲所敬次日兼保以孝為官所賞長女泰子適勝山氏次女岸子適石坂氏亦以孝 貞聞此皆由庭訓所致云楚和子常語品海勝日波光帆影猶在目啑得再游嚠覧 則吾願足矣而未果使兼保游学於福沢諭吉氏之門明治二十二年三月兼保聞 母氏病促装帰省看視不懈而病勢日加乃護病上都就余請治余竭力施療殆将 癒而天命有数遂不起実本年七月三日也距其生天保元年ニ月享年六十有二 翌日兼保荷柩環郷法諡曰桂香院養楚和順大姉葬桂昌寺先塋之側遠近知与 不知争来会葬蓋感其懿徳也兼保之侍病意所謂待母氏復常ト地高輪奉雙親於 一幽荘而養之而天奪其志悲哉楚和子在病蓐未嘗廃吟咏一日有容素句時牀 下置碧花蔽盆即命題曰朝顔也浮世乃薧(※夢の間違い)毛花意後三日蓋然逝矣遂為絶筆兼 保蓼莪之思無巳欲刻観海句於石建諸泉岳寺以慰其霊内大臣徳大寺公賜題 日風樹碑兼保請余文其由于碑陰如此
明治二十四年冬十月
侍医 従四位勲三等 岩佐 純 撰
文事秘書官 従四位勲四等 股野 琢 書

さて『炉辺郷談』の「そわ女三吟」というのは、句碑になった幼少時代の句。
春風や空に消えゆく船のみち

次男善治郎兼保、幼名七次郎に与えた俳句。
飛ぶ蛍 押さえてやみのまさりけり

明治初年における東京游学への希望は、兄(長男)兼直、幼名善六郎も、母そわも、父善兵衛兼明も心の中では秘かに賛意を持ちながら押さえようとする気持ちをどうすることもできなかったのであろう。

後の一句は辞世の句である。
朝顔や浮世の夢も花こころ
枕頭の碧花数株あり、花開花落朝暮常なしと今井善一郎さんの説明である。

 泉岳寺の句碑の周辺を二度‣三度めぐり、春風のごとくさわやかな一日になった。旧家とはかかる風雅のみちをなにげなくももっているものなのであろうか。                 


(3)『泉岳寺 そわ女 句碑』 今井権三郎

平成3年(1991)年2月17日
「泉岳寺そわ女句碑」 今井権三郎   今井健介:(※注記)

(※今井権三郎は28代善兵衛兼弘の次男、善一郎の弟)
 
一九九〇年九月『群馬歴史散歩』に丸山友良氏が掲載された「東京港区の高輪泉岳寺に今井そわ女句碑を尋ねる」と題する御一文のコピーを箱田の今井善之輔さんからいただいた。

句碑の題額は「風樹碑」とあり、徳大寺実則内大臣の書という。その下のわく内に
 春風や空に消えゆく船のみち
とある。「游母幼時之唫 善治郎兼保謹書」とある。石屋の名は「辻千秋刻」とわく外に刻まれている。碑陰の文字も丸山氏は全部写されたが、「下手に読み下し文に直して間違えるといけないと思うから」と漢文のまましめされている。それによると

(碑陰)
左部氏名楚和子上野利根郡奈良村人左部善兵衛女也善兵衛寛信号三岳 以俳歌名家世素封楚和子幼好文詞日夕親炙頗悟其要旨曾随父游江戸詣泉 岳寺有観海咏都下喧伝称妙碑面所勒是也年甫十六出嫁于勢多郡箱田村郷 士今井善兵衛善兵衛名兼明兼平二十五世孫也楚和子容貌端麗性度温良善 事姑愛婢僕又好賙貧困一家敦睦伉儷甚篤生二男二女長日兼直以信義為郷 曲所敬次日兼保以孝為官所賞長女泰子適勝山氏次女岸子適石坂氏亦以孝 貞聞此皆由庭訓所致云楚和子常語品海勝日波光帆影猶在目啑得再游嚠覧 則吾願足矣而未果使兼保游学於福沢諭吉氏之門明治二十二年三月兼保聞 母氏病促装帰省看視不懈而病勢日加乃護病上都就余請治余竭力施療殆将 癒而天命有数遂不起実本年七月三日也距其生天保元年ニ月享年六十有二 翌日兼保荷柩環郷法諡曰桂香院養楚和順大姉葬桂昌寺先塋之側遠近知与 不知争来会葬蓋感其懿徳也兼保之侍病意所謂待母氏復常ト地高輪奉雙親於 一幽荘而養之而天奪其志悲哉楚和子在病蓐未嘗廃吟咏一日有容素句時牀 下置碧花蔽盆即命題曰朝顔也浮世乃薧(※夢の間違い)毛花意後三日蓋然逝矣遂為絶筆兼 保蓼莪之思無巳欲刻観海句於石建諸泉岳寺以慰其霊内大臣徳大寺公賜題 日風樹碑兼保請余文其由于碑陰如此
明治二十四年冬十月
侍医 従四位勲三等 岩佐 純 撰
文事秘書官 従四位勲四等 股野 琢 書

以上が碑陰の全文であるが漢文のままではよく内容を理解するのがむずかしいので面倒だが書下ろし文に直してみようと思う。然し簡単には読み切れそうにもないので、我流で心配なのだが、一応書き下ろしてみよう[( )内に意訳及び註を付すことにする」

左部氏、名は楚和子、上野利根郡奈良村の人、左部善兵衛の女(むすめ)なり。善兵衛名は寛信、三岳と号す。俳歌を以て名あり。家は世の素封なり、楚和子幼くして文詞を好む、日夕親炙(しんしゃ)して(文詩に感化を受け)頗(すこぶ)る其の要旨を悟る。曾(かつ)て父に随いて江戸に游(あそ)び泉岳寺に詣でて観海の咏(春風や空に消えゆく船のみち)有り、都下に喧伝し(世間に言いはやされ伝えられること)妙を称す。碑面に勒(ろく)する所是なり。年甫(ねんぽ)(年の初めまたは年若くして)十六、出でて勢多郡箱田村郷士今井善兵衛に嫁す。善兵衛名は兼明、兼平二十五世の孫なり。楚和子容貌端麗、性度温良なり。善く姑に事(つか)え、婢僕を愛し又貧困に賙し(財物を与えること)一家敦睦(とんぼく)(人情が厚く仲が良い)伉儷(こうれい)甚だ篤し、二男二女を生む。長を兼直という。信義を以て郷曲(きょうきょく)(村里)を為(おさ)め敬する所なり。次を兼保と曰う。孝を以て官に為(つく)し賞する所なり。長女は泰子勝山氏に適(ゆ)き(嫁ぐ)次女岸子石坂氏に適(ゆ)く(嫁ぐ)また孝貞を以て聞こゆ。此れ庭訓に由(よ)りて致す所と云う。楚和子常に品海(品川の海)の勝を語る。日波光帆の影猶目啑に在り。再游(再び遊ぶ)嚠覧(一目見る)を得れば則(すなわ)ち吾願い足るらん。而して未だ果さず。兼保福沢諭吉氏の門に游学す。明治二十二年三月兼保母の病を聞き、装を促し(急いで衣服を整え)帰省し看視すること懈(おこた)ず。而(しか)るに病勢日に加わる。乃(すなわ)ち病を護り都に上り余に就きて治を請う。(余は東京の岩佐病院の岩佐医師又本文の撰者でもある)余、力を竭(つく)して施療す、殆(ほと)んど将に癒(いえ)んとして天命数有り。遂に起こず。実に本年(明治二十四年)七月三日也(正諫一心には七月四日とあり)其の生まるる天保元年ニ月より距(へだたる)ること享年六十有二なり。 翌日兼保柩を荷(にない)いて郷に環(かえ)る。法諡(おくりな、また法名)に曰く桂香院養楚和順大姉、桂昌寺は先塋(せんえい)(先祖の墓)の側に葬る。遠近与(とも)に知り争いて来たり葬に会するを知らず。蓋(けだ)し其の懿徳(いとく)(美しく秀でた徳)に感ぜしむなり。兼保の病に侍するの意は母氏の常に復するを待つと謂うなり。地を高輪に卜(ぼく)して一幽荘(一つの奥ゆかしい住居とでも訳すか?)を雙親(そうしん)(両親)に奉らんとしてこれを養わんとしたるも、天その志を奪う、其の志悲しい哉(かな)、楚和子病蓐(びょうじょく)に在りて未だ嘗つて吟咏を廃さず、一日容(かたち)在り句を素まし時牀下(しょうか)(寝床の下)の碧花の盆を蔽(おお)いたるところを置く。即ち命題に曰く、朝顔や浮世の夢(薧とあるは間違い)も花(はな)意(ごころ)、後三日蓋然として逝く、遂に絶筆と為る。兼保蓼莪(りょうか)(蓼莪(りょうか)の詩、親を養おうとして養おう事のできなかった孝子の悲しみを述べた詩が詩経の小雅編にある)の思い巳む無し、句を石に刻み諸(これ)を泉岳寺に建て以って其の霊を慰めんとするものなり、内大臣徳大寺公題を賜わり風樹碑と曰(い)う。兼保余に文を請う其れを碑陰に由(とめ)せ此の如し
明治二十四年冬十月
侍     医 従四位勲三等 岩佐 純 撰
文事秘書官 従四位勲四等 股野 琢 書

 丸山先生のおかげで風樹碑の碑陰の内容を知ることが出来た。数十年前この碑の拓本を撮ったことがあるが裏面に文字のあることを気付きもしなかったのであった。

 丸山知良先生は勢多郡赤城村(※渋川市赤城町)ご出身、県議会事務局図書室長などを歴任、新島学園女子短大講師、日本歴史学会会員をなされ現在東京に住まわれている。
 昭和三十六年八月に今井善一郎から『炉辺郷談』をおくられ、その中にある「そわ女三吟」が今に頭に残り気になっていたので泉岳寺にその碑を見に出かけたと言われたいる。この碑の文字は兼保が書いたもので非常に達筆なので読みにくい字である。読めない字を善一郎に尋ねたことがある由である。
 先生は終わりのところに、
 さて『炉辺郷談』の「そわ女三吟」というのは、句碑になった幼少時代の句
  春風や空に消えゆく船のみち
 次は善治郎兼保幼名七次郎に母が与えた俳句
  飛ぶ蛍 押へてやみのまさりけり
 この解説は善一郎の文よりひく
  年十五にして今井善兵衛に嫁し男善六郎及び七次郎を生む、両児共渋川の堀口藍園翁に就学せり、次子七次郎は進んで東都に遊学せんとの意ありしも父之を許さず、ひそかに兄善六郎の助けをかりて家を出奔し中村正直及び福沢諭吉の門に投ず。そわ女夫と子の間を斡旋して苦しめり、その時の句である。
 七次郎はこの句を短冊に書きて終生秘蔵セリという、善一郎の附記に、予後曾祖父兼明の手帳を検するに、七次郎金子幾許をもちて出奔、凡そ何日位用を弁ずべし、何月何日頃送金を要すると記しあるを見た。曽祖母に言いつけてそっと送金していたとのことである。
 あとの一句は辞世の句である。
 朝顔や浮世の夢も花こころ
枕頭の碧花数株あり、花開花落朝暮常なしと今井善一郎さんの説明である
 泉岳寺の句碑の周囲を二度三度めぐり春風のごとくさわやかな一日になった。旧家とはかかる風雅のみちをなにげなくもっているものなのであろうか、と丸山先生は結んでいる。
 さて最後に風樹碑の風樹とは既に死んだ親を思う意であって風樹の嘆という言葉で知られていることを書き加えておく。







(4)『泉岳寺と上州 今井そわ女句碑/鵬斎・鶴梁の義士碑』 群馬風土記

平成23(2011)年7月15日発行
「季刊 群馬風土記」 【赤穂義士の墓所 泉岳寺と上州 今井そわ女句碑/鵬斎・鶴梁の義士碑】 編集部

 編集室のあるビルの隣は「こんぴら様」で知られる讃岐国琴平山の金比羅宮東京分社。特に信心しているわけではないが、ビルに入る路地の正面が神社の鳥居なので、毎朝頭を下げている。節分の豆撒きには佐渡ヶ嶽部屋の有名力士が来て、袋に入った福豆やミカンなどを散布するのが習わしで、上州の琴錦や琴稲妻が健在の頃は町内会の人々に交じって、鬼になったつもりで、豆をぶつけてもらったりした。
 ある朝、下げた頭を挙げて鳥居の上を見たら桜がもう満開、予審ならぬ春風に花びらが散り始めていた。ふと東北地方を旅した若い日々のことが脳裏に浮かんだ。関東一円では葉桜になってしまった桜の花が福島から仙台へ入る頃になると真っ盛り、車窓から飽かず眺めたものである。今年の東北地方は、「春は名のみ」で、過酷な災害生活を余儀なくされ、日々のニュースには言葉を失うが、桜の花から「春風」が連想され、ある明治の群馬の女性の俳句が思い浮かんだ。
  春風や空に消えゆく船のみち
高輪泉岳寺句碑
 先年、旧知のM君から高輪の泉岳寺に上州人の句碑があることを知らされ、故丸山知良氏の「高輪泉岳寺に今井そわ女の句碑を尋ねる」なる雑誌記事(『群馬歴史散歩』102号)のコピーをいただいた。丸山先生は弊誌にも「東京の中の上州人」という連載をお願いして何編か原稿を頂戴し、東京富ヶ谷(晩年は東京住まい)でお会いしたこともあったが、「今井そわ女」のことは聞くことはなかった。その雑誌記事は丸山先生が、歴史・民俗学者であった故今井善一郎氏(昭和51年死去)から『炉辺郷談』なる著書の贈呈を受け、その中の記述から善一郎氏の曽祖母「そわ子」のことを知り、句碑を再訪した際のものであった。
 泉岳寺に群馬県人の句碑?その意外性に驚き、編集子の詮索ぐせも手伝って、丸山先生の記事をたよりに、まさに春風に誘われるように泉岳寺を訪ねてみた。
 記事には、句碑は「泉岳寺楼門の右手に堂々と」建っているとあり、写真も添えらえてある。
 泉岳寺は、赤穂四十七士の墓のあることで有名で、例の「鉄道唱歌」(大和田建樹作詞)には、
 二、右は高輪泉岳寺 四十七士の墓どころ 雪は消えても消え残る 名は千載の後までも
とある。
 歌舞伎や芝居・映画、テレビドラマに今でもなるほどだから、歌の文句のように義士は名を千載に残している。
 泉岳寺は東京都港区高輪二丁目にあり、慶長十七年、徳川家康の命で今川義元の孫門庵宗関を開山として創建されたと歴史書などにあり、古刹である。曹洞宗で、山号は万松山。やや高台にあり、江戸時代はすぐ前が江戸湾、袖ケ浦という品川の海であったという。明治以降、都市の近代化が進み、品川の海は埋め立てられ、そこに鉄道が敷かれ(当時の写真を見ると、海の中に堤防が築かれ、それにレールが敷かれている)、今では山手線・京浜千・東海道線・新幹線地下鉄(都営浅草線「泉岳寺」駅あり)、国道15号線、国道1号線が走るという、まさに首都圏の動脈となっている。山手線の田町と品川のちょうど中間の山手に泉岳寺はあるが、戦後、芝浦埠頭などと呼ばれた地名も消えて、鉄道・国道を越えた海の手の埋立地には高層ビルが天を摩して林立し、海はもちろん見えない。
 地下鉄「泉岳寺」を降りて、かつての参道を進むとすぐに泉岳寺である。中門をくぐると壮大な山門があり、義士の墓所として観光客も多いらしく、門前には土産物店などが並んでいる。山門奥の本堂、その前の境内も広々と整備され、庫裡もなかなか立派であった。義士討ち入り(元禄十五年十二月十四日[新暦一七〇三・一・三〇])や大石倉之助の切腹(元禄十六年二月四日[一七〇三・三・二〇])の物日などには、歌舞伎や芝居関係者、観光客で今でも賑わうという。
 さて、楼門の右手に「堂々と」あるという「そわ女の句碑」、期待をこめて探したが、いくら周りを歩いてみても、ない。堂々と建っているのは、近年、台座などが整備されたらしい巨大な「大石内蔵助良雄」の像であった。案内書によると、この像は明治・大正時代に一世を風靡した明浪曲師・桃中軒雲右衛門の寄進によるものという。そういえば雲右衛門は武士道鼓吹を唱えた啓蒙家であり、その心情から好んで赤穂義士伝を演じているから、大石の銅像建立を発願したのも理解できる。
 なお余談になるが、桃中軒雲右衛門は、幼い頃、祭文語りの父と一緒に旅回りし、一時期、前橋市上増田の木村家に世話になっている。雲右衛門の四歳から十六歳の間というから十二、三年、桃木川で語りの稽古をしたことになる。昭和五十四年、雲右衛門の偉業を讃える大きな「桃中軒雲右衛門顕彰碑」がゆかりの上増田の浅間神社に建てられ、添え碑に由来が書きされている。
 話しを元に戻して、句碑を探しあぐねて楼門前にある「案内所」の方に尋ねてみた。案内人は、なかなかの学究肌の老人で、泉岳寺のことは何でも知っているいう風情であった(後日再訪して知ったのだが、老人は鎌田豊治氏で、義士関係諸団体から「忠臣蔵博士」の認定も受けている御仁であった)。くくっていた資料から目を離して、「そわ女句碑ねえ?」「ええ、確かに楼門手前右手の塀ぎわに三つばかり碑があったが、そのうちの一つだったのかなあ」とはっきりしなかった。丸山先生の記事や掲載の写真を見ながら、「確かにあったのですね」と、メモしたりした。そんな時にアメリカ人が来て、パンフレットなどを求めたので、話は中断してしまったが、句碑自体は直接に赤穂義士に関係ないし、寺も処分したのかな、などと筆者も思い、案内所の老人も、ここから「船のみち」が見えたんですよねえ、と感慨深そうに俳句を書き取ったりした。
 あまり話し込むのも悪いと思い、来たついでに見たいと思った「亀田鵬翁撰・書」の「赤穂四十七士義士碑」のことを尋ねると、「鵬翁先生は有名だから私も知っていますよ、左手の義士の墓域に入る門の脇に建っているのがそれですよ」と教えてくれた(後述)
 こうして「今井そわ女句碑」は見当たらなかったが、丸山先生の記事を参考に簡単に紹介しておこう。
 句碑「風樹碑」の表面は、イラストで示したように、
  春風や空に
  きえ行く
  舟のみち
  游母幼児之唫
   善治郎兼保謹書
 そして、碑陰には次のような句碑建立由緒が漢文で記されていたという。丸山先生は読み下していないが、読者の便を考えて、参考までにその一部を読み下して紹介しておく。

左部(さとり)氏、名は楚(そ)和(わ)子、上野利根郡奈良村(現沼田市奈良町)ノ人、左部善兵衛ノ女(むすめ)ナリ。善兵衛、名は寛信、俳歌名ヲ三岳ヲ号ス。・・・楚和子、幼ニシテ文詞ヲ好ミ、日夕親炙(しんしゃ)(親しむ)其ノ要旨ヲ悟ルコト頗(すこぶ)ル多シ。曾(かつ)テ父ニ随イ江戸ニ游(あそ)ビ、泉岳寺ニ詣デ、観海ノ咏有ツテ、都下ニ喧伝妙ト称エラレル。碑面ニ勒(きざ)ム所是ナリ。年甫(ねんぽ)(年齢)十六、出デテ勢多郡箱田村(渋川市北橘町)郷士今井善兵衛ニ嫁ス。善兵衛、名ハ兼明、兼平(木曾義仲の臣・今井四郎兼平)二十五世ノ孫ナリ。楚和子、容貌端麗、性度(せいど)(生まれつき)温良、善ク姑ニ事(つか)エ、婢僕(使用人)ヲ愛シ、又好ウデ貧困ヲ賙(たす)ク。一家敦睦(とんぼく)、伉儷(こうれい)甚ダ篤ク、二男二女ヲ生ム。・・・楚和子、常ニ品海(品川の海)ノ勝ヲ語リ、日波光帆ノ影、猶ヲ目啑ニ在ル如シ。再游シテ嚠覧(眺望する)ヲ得バ、則(すなわ)チ吾ガ願イ足ルト。而シテ未ダ果サズ。兼保(善治郎兼保・そわの次男)ヲ福沢諭吉氏ノ門ニ游学セシム。明治二十二年三月、兼保、母氏ノ病ヲ聞キ、促装 (旅支度)シテ帰省、看視(看病) 懈(おこた)ラザルモ病勢日ニ加ワル。乃(よ)ツテ病ヲ護(かば)イ上都(上京、)余(医師・岩佐純)ニ治ヲ請フ。余、力ヲ竭(つく)シ施療、将ニ殆(ほとん)ド癒(い)エントシテ、天命数有リ。遂ニ起タズ。実ニ本年七月三日ナリ。其ノ生マルルヤ距(さかのぼる)ル天保元年ニ月、享年六十有二。 翌日、兼保、柩ヲ荷(にな)イ郷ニ環(かえ)ル。法諡(ほうし)ニ曰ク桂香院養楚和順大姉。桂昌寺(渋川市北橘町真壁)ノ先塋(せんえい)ノ側ニ葬ル。・・・楚和子病蓐(びょうじょく)ニ在リテモ未ダ嘗ツテ吟咏ヲ廃サズ、一日、容(かたち)有ッテ(挙措整え)句ヲ策ム。時ニ牀下(しょうか)ニ盆ヲ蔽(おお)フ碧花置(あ)リ。即チ命題シテ曰ク、朝顔也浮世乃夢毛花意(朝顔や浮世の夢も花ごころ)。後三日、蓋然トシテ逝ク、遂ニ絶筆ト為レリ。兼保、蓼莪(りょうか)ノ思イ(親孝行できなかったことを悔やんだ蓼莪(りょうか)の詩、の故事)巳(や)ム無ク、観海ノ句ヲ石ニ刻ミ、諸(これ)ヲ泉岳寺ニ建テ、以テ其ノ霊ヲ慰メント欲ス、内大臣徳大寺公(徳大寺実則)ニ題ヲ賜リ「風樹碑」ト曰(い)フ。兼保、余ニ文ヲ請フ、其ノ由(ゆかり)、碑陰ニ于フ此ノ如シ
明治二十四年冬十月
侍     医 従四位勲三等 岩佐 純 撰
文事秘書官 従四位勲四等 股野 琢 書

以上が、今や幻となった「そわ女句碑」の碑陰に書かれた撰文である。
撰文した岩佐純は、そわ女の侍医であるが、簡単に略歴を紹介しておくと、天保七年、越前福井出身、下総の佐倉で蘭学、西洋医学を学び明治十六年には皇室の一等侍医、宮中顧問官などを歴任、四十年には男爵に叙されている。明治天皇の信任厚く、宮中杖を許されている。従三位勲一等。四十五年一月五日、宮中新年会に招かれて出席したが、豊明殿で倒れて死去。七十八歳と辞書にある。そわ女は、天皇の脈を診る名医に治療を受けていたのである。
碑文を染筆した股野琢(たく)は、天保九年、播州龍野出身。明治四年に教部省に入り、宮内省書記官、内大臣、宮中顧問官などを歴任、従三位勲一等に叙されている。詩文・書道で名声が高かったと辞書にある。大正十年十月没、八十四歳。
母を追悼して早くも死後三ケ月にして句碑を建立した今井善治郎兼保は、そわの次男、元治元年生まれ、長じて堀口藍園について漢学を修め、のち慶応大学に学んだが、前述のような錚々たる名家と交友があったようである。兼保は後に郷里に帰り、木曾三社神社社司、また皇室に利根川の鮎を十余年にわたり献上、主猟寮嘱託などを務め、大正三年に没している。
後日談。以上のような貴重な句碑が幻になったかと思うと残念に思った筆者は、再度泉岳寺を訪問、若い住職などに所在を尋ねると、句碑は義士三百年祭のための境内整備などで最初の設置場所から(大石良雄銅像の背後)撤去し、現在は一般檀家の墓地に移し、建立はされていないが保存はしてあるという話であった。今井家のご子孫が撮った写真を見て、倒れているから放ってあるように見えますが、決して無造作に放置してあるわけではなく、将来機会があれば・・・・などと語った。義士の寺といっても昔ほどの人気はなく、ご多分にもれずの内実であるらしい。しかし、住職の文化財ですから、勝手に処分など絶対しませんよの言葉に筆者は感銘した。

(以下の文は省略した)

以上、今井そわ女句碑の「春風」に誘われて、思わず筆が走ったが、今や泉岳寺付近の地上には交通の動脈が走り、空には羽田に離着陸する航空機がひっきりなしに飛翔、船の曳く澪はみるべくもない。高度工業化社会が岐路に立って、エコロジーが注目され、自然への回帰が叫ばれる今日、ならばこそ、なおさらに惜しまれる句碑である。
 春風や空に消えゆく船のみち
             今井そわ子