七代目蔵元日記

赤城山の自然や和太鼓のことそして日本酒のことを綴っています🏔🍶♬

赤城山観光道路

2024年03月08日 02時21分39秒 | 赤城山

赤城山山頂の新坂平駐車場に「赤城山観光道路開鑿記念碑」があります。

前橋市街地から赤城山山頂に至る県道4号線は大正9年(1920年)4月1日「前橋黒保根線」として群馬県道指定されたが指定経路自体は、勢多郡黒保根村水沼(現・桐生市黒保根町)から赤城山上に登り、勢多郡富士見村(現・前橋市富士見町)側へ下って前橋市街地に至るものでしたが、黒保根側中途から赤城山上までの区間は未開通でした。

昭和9年(1934年)昭和天皇の赤城山行幸の時は地蔵岳下の一杯清水から車を降りて徒歩で新坂平を越えて見晴山から大沼湖畔まで行かれました。これを契機に赤城山山頂域の御料地の払い下げを受け従来の県有地を併せて昭和10年(1935年)に群馬県立赤城公園が設置され赤城山の観光開発が進むことになりました。

自動車道路が開通したのが昭和30年(1955年)のことでした。その後県営の赤城山南面有料道路(愛称:赤城白樺ライン)として整備され、平成7年(1995年)無料化されました。

(表面)

赤城山 観光道路 開鑿記念碑 群馬縣知事 北野重雄書

(裏面)

昭和30年3月31日待望の赤城登山自動車道が新坂平まで開通しました これは北野知事が地蔵頂上の無電中継所建設を機會に各方面から寄附をつのって昭和29年9月1日に着工したものでこの仕事にたずさわったものはみんな奉仕的な努力をおしみませんでした この道路は関係者一同が心から協力し合って作りあげたところに大きな意味があると思いますのでここにそのことを記します

昭和30年4月15日

赤城登山自動車道路関係建設業者一同

一 建設協力者

群馬縣

前橋市

勢多郡富士見村

東武鉄道株式會社

東京電力株式會社

電源開発株式會社

ニ 企画設計工事監督者

群馬縣技師 佐藤久平

仝     飯塚利一

仝     星野春重

仝     石原定壽

仝     樋口保司

三 工事施工者

富士見土建工業株式會社

池下工業株式會社

荻野土木株式會社

橋元工業株式會社

稲村工業株式會社

塩原建設株式會社

大豊建設株式會社

阿部建設株式會社

前橋 大島石材店 刻


「前橋二尊」安井与左衛門政章

2024年03月06日 23時19分43秒 | 前橋

るなぱあく(前橋市中央児童遊園)の飛行塔の横に「安井与左衛門政章顕彰碑」があるのをご存じでしょうか?3年前に茅舎のある関根町から広瀬川をたどってウォーキングして訪れた際に初めて見つけその存在を知りました。

江戸幕府を開いた徳川家康が北関東の守りの要として厩橋(後の前橋)を重要視して譜代の重臣であった酒井重忠を「汝に関東の華を与える」といって厩橋城(後の前橋城)に移封させました。9代150年にわたり前橋の地を治めた酒井家は姫路に転封となり、松平家松平朝矩が藩主となります。しかし前橋城は酒井家時代から利根川の浸食で城域が崩され、松平家は川越に転封してしまい前橋の地は川越藩前橋陣屋支配となりました。

城郭は廃棄され家臣団も移り、約100年の間前橋のまちは寂れるばかりでした。しかし幕末の横浜開港を契機に生糸の輸出で力をつけた生糸商人たちが立ち上がり、後に下村善太郎をはじめとする「前橋25人衆」と呼ばれる民の力で前橋城を再建し藩主帰城が成し遂げられ、現在の前橋発展の礎となりました。

その時、官は何をしていたのか?前橋陣屋の安井与左衛門の功績を「安井与左衛門政章顕彰碑」を判読し読み解きました。以下にその白文と読み下し文そして口語訳を挙げましたのでご覧ください。

さらに、手島仁さんの「前橋25人衆」と「前橋二尊」も掲載してありますので併せてご覧ください。

安井与左衛門

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E4%BA%95%E6%94%BF%E7%AB%A0

『安井與左衛門功績碑』(白文)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

安井與左衛門功績碑

識高一世而功著後代者眞爲偉丈夫安井君即其人歟君諱政章少稱珍平後更與左衛門川越藩主松平

侯臣渡邊玄郭之第三子天明七年十月某日生爲同藩安井久道所養冐其氏資性剛毅材兼文武最精寳

藏院流槍術爲其師範初爲組目附累進爲郡奉行遂擢寄合班兼郡奉行蓋出異數嘉永六年六月十九日

歿葬於川越榮林寺域川越城北川嶋四十三村之地河流繞三面築堤防水弘化二年會有洪水堤決闔郷

盧舍田疇悉沒水底惨害不可状郷民欲堅牢堤防以長除患害請之藩廳乃許令君當其事君先聴郷民所

欲衆密以爲求十得五則望足作計簿而進君見曰此工闔郷民命之所繫求之何其微也哉衆驚其言出意

表欣喜従命未十旬而工竣堅牢倍舊闔郷安堵後追慕其功徳建祠祀君先是寛延二年松平庚之移封前

橋也牙城近枕利根川頻年遭洪水城礎將危其害延及領内明和四年因従武州川越前橋城廢矣爾後殆

百年土荒民散君深慨之欲建議於藩廳以圖恢復藩議遲疑下決天保二年始有命宜察物情臨機處事君

臨發程告家人曰此行任重事大若不成則一死以有謝而己断勿歸葬到前橋之日遽會町村吏謀興復之

事衆疑其成否稍有難色君力説利弊衆遂服其理議乃決不仰藩帑頼民力以起工役興廢溝於漆原水道

於川井飯倉沼上三村以便灌漑又築堤於富田防荒口川之暴漲得田九十七町藩吏擧君於前橋取締掛

於是益傾心柘殖復良田七百五十町増民籍三百六十戸此間五閲年當時風呂川用水來於郭外而貫城

内再流於郭外而去水利所及廣且大上流岸壁爲利根川本流所衝突累次崩潰餘地僅二間危險不可言

君欲救之鑿新川於河中央長四百二十八間幅四十間深二間別築石堤百二十二間於大渡之南遮急流

而注新川於是川勢俄更方向岸壁崩潰頼以得免前後治水之功最著君又欲使郷民知利用厚生之道種

松於赤城山下不毛之原野以示範幾萬稚苗經年生育鬱乎成林後倣之種樹者漸多文久三年松平侯再

築城於前橋移而居焉自是戸口益増加現今爲群馬縣治所在市街致殷盛者蓋識由君治水之功矣大正

七年 主上閲武於關東之野追賞其遺功贈正五位眞可謂 聖恩及枯骨者吁戲偉也哉頃者前橋舊藩

領有志者相謀欲建碑傳其功徴余文乃據状誌梗概以貽

大正十一年十月一日    群馬縣知事從四位勲三等大芝惣吉撰

                              髙木繁書  針谷光年刻 

 

『安井與左衛門功績碑』(読み下し)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

安井與左衛門功績碑

識は一世に高くして功は後代に著わるる者を、真に偉丈夫となす。安井君は即ちその人か。君、諱は政章、少(わか)くして珍平と称し後に與左衛門と更う。

川越藩主松平侯の臣渡邊玄郭の第三子なり。天明七年十月某日に生れ、同藩の安井久道の養う所となり、その氏を冐す(おかす・名乗る)。資性剛毅にして、材は文武を兼ね、最も寳藏院流槍術に精(すぐ)れ、その師範たり。初め組目付となり、累進して郡奉行となり、遂に寄合班に擢(ぬき)んでられ、郡奉行を兼ぬ。蓋(けだ)し異数に出ず。嘉永六年六月十九日に歿し、川越榮林寺に葬る。

川越城の北、川嶋四十三村の地は河流三面に繞(めぐ)り、堤を築いて水を防ぎたり。弘化二年会々(たまたま)洪水あり、堤決(ひら)き、闔郷(こうきょう・村中)盧舍(ろしゃ)田疇(でんちゅう)耕地悉(ことごと)く水底に没し、惨害状(じょう・表現)すべからず。郷民堤防を堅牢にして、以て長く患害を除かんと欲し、之を請う。藩庁乃(すなわ)ち許し、君をしてその事に当(あた)らしむ。君先ず郷民の欲する所を聴く。衆密(ひそか)に以爲(おもえ)らく、十を求めて五を得ば則ち望み足ると。計簿(帳簿)を作りて進む。君見て曰く。この工は闔郷(こうきょう・村中)民の命の繋がる所なり。これを求むる何ぞそれ微なるやと。衆その言の意表出ずるに驚き、欣喜して命に従う。未だ十旬ならずして工竣(おわ)る。堅牢旧に倍し、闔郷(こうきょう・村中)安堵す。後その功徳を追慕し、祠を建てて君を祀(まつ)れり。

是より先寛延二年、松平侯の封を前橋に移すや、牙城利根川に近ずき枕(のぞ)み、頻(しきり)に年ごとに洪水に遭い、城礎將に危く、その害延(ひ)いて領内に及ばんとす。明和四年、因って武州川越に従い、前橋城廃せらる。爾後殆(ほとん)ど百年、土荒れ民散る。君深くこれを慨(なげ)き藩庁に建議して以て恢復を図らんと欲せしも、藩議遲疑して決せず、天保二年、始めて命あり、宜しく物情を察し、機に臨みて事に処すべしと。

君程に発するに臨み、家人に告げて曰く、この行は任重く事大なり。若し成らずんば則ち一死を以って謝あるのみ、断じて帰葬するなかれと。

前橋の日遽(にわか)にして、町村吏に会い興復の事を謀るに、衆はその成否を疑いて稍(やや)難色あり、君利弊を力説して、衆遂にその理に服し、議乃ち決し、藩帑を仰がず民力に頼(よ)りて以って工役を起す。廃溝を漆原に、水道を川井・飯倉・沼上三村於いて興し、以って灌漑に便す。又、堤を富田に築き、荒口川の暴漲を防ぎ、田九十七町を得たり。藩吏君を前橋取締掛に挙(あ)ぐ。是に於て益々心を柘殖に傾け、良田七百五十町を復し、民籍三百六十戸を増したり。この間五たび年を閲(けみ)す。

当時風呂川用水は郭外より来りて城内を貫き、再び郭外に流れて去る。水利の及ぶ所広く且つ大なるも、上流の岸壁利根川本流のために衝突せられ、累次崩壊して余地僅に二間のみとなり、危險言うべからず。君これを救わんと欲し、新川を河の中央に鑿(うが)つこと長さ四百二十八間、幅四十間、深さ二間なり。別に石堤を築くこと百二十二間、大渡の南に於いて急流を遮りて新川に注ぐ。是に於て川勢は俄に方向を更え、岸壁の崩潰頼りて以て免るるを得。前後治水の功最も著わる。

君又郷民をして利用厚生の道を知らしめんと欲し、松を赤城山下の不毛の原野に種(う)えて以て範を示す。幾萬の稚苗年を経て生育し、鬱乎として林を成す。後之に倣いて樹を種うる者漸く多し。

文久三年、松平侯再び城を前橋に築き移りて焉(ここ)に居る。是より戸口益々増加し、現今群馬県治の所在となり、市街殷盛を致すは、蓋(けだ)し識として君が治水の功に由る。

大正七年、主上武を関東の野に閲(けみ)せしとき、その遺功を追賞して、正五位を贈らる。真に聖恩枯骨に及ぶ者と謂うべし。吁戲(ああ)偉なる哉。

頃者(このごろ)前橋旧藩領の有志の者相謀りて、碑を建てその功を伝えんと欲し、余に文を徴す。乃ち状に拠りて梗概を誌し以て貽る。

大正十一年十月一日    群馬縣知事從四位勲三等大芝惣吉撰

                      髙木繁書  針谷光年刻 

 

『安井與左衛門功績碑』 (口語訳)

安井與左衛門政章功績之碑     正四位勲四等伯爵松平直之篆額

物事の道理を知る見識は高く仕事をやり遂げ、その功績は後世において評価されるものを偉丈夫(いじょうふ・人格の高い人)というが安井君はまさにその通りである。君の諱は政章、幼い頃は珍平、後に與左衛門と称した。

川越藩主松平侯の家臣渡邊玄郭の第三子として天明七年(1787年)十月某日に生れ、同藩の安井久道の養子となりその姓氏を継いだ。生まれつき意志が固くて強い性格であり文武両道を兼ね備えていた。特に寳藏院流槍術を極め師範を務めていた。組目付から累進して郡奉行となり、遂に寄合班に抜擢され、郡奉行も兼任したことは異例のことであった。嘉永六年(1853年)六月十九日に歿し、川越榮林寺に葬られる。

川越城の北、川嶋(現川島町)の四十三村の土地は三面を河川に囲まれ、堤を築いて水を防いでいた。弘化二年(1845年)に洪水があった時には堤防が決壊し、村中の家屋や田畑などの耕作地は全て水没し、その惨状は記録に残しきれない程であった。村人は堤防を堅牢にして永くその災害を防いでほしいと願った。川越藩はこれを許して君を担当者にした。君は先ず村人の希望を聞いた。村人は内心では十のことを望んで五が達成できれば十分であると考え計画を立てていた。ところが君はそれを見てこの工事は村中の人々の命が懸っていることなのになぜこれほど少ないのだと言った。村人はその言葉が意外であったことに驚き、非常に喜んでその命に従った。その結果3ヵ月余りでその工事を成し遂げた。堤防は今までの倍の堅牢となり村中の人々は安堵した。後にその功徳を追慕し祠を建てて君を祀った。

是より百年前の寛延二年(1749年)に姫路藩主松平朝矩侯は前橋に移封されたが、守備堅固な城に利根川が近づき毎年洪水に遭い、城の土台を侵食し本丸が傾くほどであった。そのため松平家は明和四年(1767年)、武州川越に居城を移し、明和六年(1769年)前橋城は廃城となった。前橋陣屋支配となった以後の百年間、土地は荒れ村人は離散する状況であった。君は深くこれを嘆き藩庁に建議して恢復を謀ろうとしたが決済がなかなか降りず、天保二年(1831年)、ようやく世間の様子をよく調べて対処するようにとの命が下った。

君は前橋に赴任する時家人に次のように話した。「この任務はとても重大である。もし達成できなければ死をもって藩に詫びなければならない。その時屍は前橋に埋葬し断じて川越に持ち帰ってはならない。」

前橋に赴任するとすぐに前橋陣屋の役人や町村名主たちに会い田畑を復興させる灌漑工事を提案した。役人や名主たちはその工事の成果を疑って難色をしめしたが、君は工事の効果とそれによって得られるものを力説し遂に皆の同意を得て、藩の資金に頼らず民力だけで工事を行うことになった。廃溝であった漆原(現吉岡町漆原)の天狗岩用水を復旧させ、川井・飯倉・沼上三村(現玉村町の東南部)の水路を改修して灌漑に利用した。また堤防を富田村(現前橋市富田町)に築き、荒口川(荒砥川)が溢れて暴れるのを防いで、水田九十七町(約97㏊)を得た。川越藩は君を前橋陣屋の前橋取締掛に任命した。この成功によってさらに治水灌漑工事に力を発揮し、良田七百五十町(約750㏊)を復活させ、農家三百六十戸を増やした。これらに五年の歳月がかかった。

天保七年(一八三六年)当時、風呂川用水は旧前橋城の外より流れ来て城内を通って、再び城外に流れて去っていた。水利が及ぶ所は広くて広大であったが、上流の岸壁は利根川本流が衝突して、少しずつ崩壊して利根川との間は僅か二間のみとなり危険な状態であった。君はこれを救うため、長さ四百二十八間(770m)、幅四十間(72m)、深さ二間(3・6m)の新川を利根川の中央に掘った。これとは別に百二十二間(220m)の石の堤防も築き、大渡の南で急流を遮って新川に流した。その結果、川の勢いはにわかに方向を変え、岸壁の崩壊が免れることができた。これらの治水・灌漑の功績が最も顕著であった。

君はまた郷民に世の中を便利にし,人々の暮らしを豊かにすることを知らそうとして、赤城山麓の不毛の原野に松を植林した。幾万の稚苗は年月を経て生育し、鬱蒼とした松林になった。これにならって植樹をする者が多くなった。

文久三年(一八六三年)、川越藩主松平直克侯は幕府に願い出て前橋城の再築を開始した。慶応三年(一八六七年)に入城して前橋藩が再興した。それから前橋の人口が益々増加し、現在群馬県庁が置かれ、市街地が賑わっているのは君が高い見識を持って行った治水の功績・成果に由るものである。

大正七年(一九一八年)、陸軍特別大演習が関東の地(栃木)で行われ天皇陛下が統監したときに、君の遺した功績を追賞して、正五位が贈られた。天皇陛下のありがたい恩恵が今は亡き人に及んだということである。なんと立派なことであろうか。

この時に前橋旧藩領の有志が相談して、石碑を建立してその功績を伝えようとして、私に文章を起こすよう求めた。そのため以上の形を整え概略を誌した。

大正十一年十月一日    

群馬県知事從四位勲三等 大芝惣吉 撰

                    髙木繁書  針谷光年刻 

 

『連載企画 手島仁の前橋学講座~歴史×ビジネス×まちづくり~』

第5回前橋二尊④ 安井與左衛門政章

利根川との宿命

前橋の盛衰は利根川に左右されたと言っても過言ではない。 市内中央商店街は利根川の川底で、 「一里の渡し」と言われるくらい広々とした河原を利根川の本流が流れていた。

その本流が西遷し現在の流れになったのは 「享禄・天文年間の洪水」( 16世紀)と言われている。 その結果、かつての本流が広瀬川、 桃ノ木川として残るようになった。

広瀬川から端気川が分流し、 江戸時代には舟運として使われた。 しかし通船はうまく機能しなかった。両川は前橋城下の中心に直結するという特徴を持ったが、 農業用水としての側面が強く、 水運の利用が十分できなかったことは、 江戸時代前橋の発展にマイナスであった。

  明治時代以降になると、広瀬川の水流は製糸や撚糸の器械の動力として使われた。広瀬川と佐久間川に挟まれた一帯に製糸工場が密集するようになり、 地下水の豊富さと水質の良さにより、 日本を代表する製糸都市が形成された。

  前橋城が名城であったのは、 利根川を背後の防備に、 広瀬川を遠構えという地形を生かしたからであった。しかし、利根川の本流が本丸の後ろを迂回して流れていたのに、 たびたびの出水により本丸下の崖に打ち当たるようになり、 崖を崩し始め ( 「川欠け」 ) 、 本丸御殿が半壊されるようになり、 酒井氏は姫路に転封し、 替わって入封した松平氏の時代には本丸が崩され、松平氏も川越へ移ったのであるから、 利根川は前橋の発展にとって大きな障害であった。

 

安井與左衛門政章

しかし、利根川の治水に尽くし、藩主松平氏の帰城や新田開発など前橋復興=V字回復のもとを築いた人物 がいた。 安井與左衛門政章である。

  安井については、大正 11年(1922)に建碑された「安井與左衛門政章功績之碑」 が「るなぱあく」(前橋中央児童公園)内にある。それらによると次の通りであった。

 安井政章は天明7年 (1787) 10月、 川越藩士渡邉玄郭の第三子として生まれた。 藩儒・佐藤登に師事し俊秀と称され、安井久道の養子となった。宝蔵院流槍法を学び藩の師範となった。 安井は、藩主が去った後の前橋が「土荒れ民散れば、 君深くこれを 慨 なげ き藩庁に建議し以て恢復を図らん」とした。 ようやく天保2年(1831)に藩主・ 斉典の許可が下りた。安井は川越から前橋へ出発するにあたり、家族に覚悟を次のように言い渡した。 「この行は任重く事大にして、若し成らざれば即ち一死を以て謝すること有るのみ。 断じて帰葬する勿れと」 。 前橋復興を命がけで行う覚悟で前橋に到着した安井は、役人や有力者を集めて河川改修や新田開発のことなど、その計画を諮った。しかし、「衆その成否を疑ひ、稍(やや)難色有り。 君利弊を力説するに、衆遂にその理に服し、 議して乃(すなわ)ち藩帑を仰がず、民力に頼りて以て工役を起こさんことを決す」と、最初はその成否を疑っていた領民も、安井の説得により、藩の費用(藩帑)を当てにせず、民力で工事を行うことを決定した。

 その結果、「田を得ること九十七町」となった。そこで、安井は前橋取締役に任じられ、 さらに「良田を復すること七百五十町、民籍を増すこと三百六十戸」 と、安井の指導により前橋領は着実に復興していった。

 この5年間の実績を背景に、安井は利根川の改修に着手した。川筋をつくり流れを変え、 堤防(石堤)を築いたりした。その結果、前橋城再築の前提が整った。また、赤城山南麓の植林は船津伝次平のことと語り伝えられているが、それ以前に安井の手によって松樹の植林が行われた。 敷島公園の松林も安井の植林であった。

 安井は嘉永6年(1853)、前橋城再築を見ずして亡くなり、 栄林寺(川越市)に葬られた。大正7年(1918)に「正五位」が追賞されたのを機に、「安井與左衛門政章功績之碑」の建立が計画され、同11年に完成した。

前橋二十五人衆へ

藩主不在100年、城下町前橋は消滅した。しかし、前橋復興=V字回復のスタートは安井與左衛門政章と藩費(官)に頼らず安井に協力した領民の力であった。

 安政6年(1859)の横浜開港による生糸貿易が追い風となった。前橋復興の最終目標は前橋城の再築と藩主の帰城であった。前橋城は民力で再築され、藩主・直克は帰城した。 しかし、同年が大政奉還と王政復古の大号令で明治維新を迎え、明治4年(1871)に廃藩置県となり、前橋は城下町として発展することができなくなった。

 しかし、生糸業を経済力として高まった民力は、下村善太郎をはじめとする前橋二十五人衆らによって、「前橋復興」を県庁誘致運動に転換し、県都前橋を実現することで成し遂げた。

 自死に代えて前橋から姫路への転封に異を唱えた酒井家の川合勘解由左衛門定恒、死を覚悟で前橋復興を進た松平家の安井與左衛門政章は、「前橋二尊」と呼ぶにふさわしい前橋の恩人である。

 

 

 

 

 


四本楢はどこに?

2024年03月05日 11時52分31秒 | 赤城山

赤城山山頂の「四本楢」はどこにある?

戦前の観光絵ハガキがヤフオクに出ているのを知りすぐに入手してSCANしたのがこの画像です。赤城少年自然の家の周辺を歩いて探したり、FB上で情報も集めましたがわかりませんでした。

昨年12月20日の「あかぎ会議」に出席された塩原純子さんに尋ねると、さすがです、すぐに答えが返ってきました。

「四本楢は、(よんほんなら)でなく(しほんなら)と言ってもう枯れて倒れてしまったのよ。句碑の道の相葉有流の句碑の横にあり、【生きて芽吹きて 風倒の楢 霧まみれ】はこの四本楢を詠んだ句ですよ。」

先日スノーシューツアーガイドの下見で「句碑めぐり遊歩道」を歩き確認してきました。

新坂平から県道を下り沼尻の青木旅館方面への分岐から前橋市赤城少年自然の家の手前までのなだらかな平地をこのシンボルツリーにちなんで「四本楢平」(しほんならだいら)と呼んだそうです。

「四本楢」は残念ながら「風倒の楢」になっていました。

最後の1本がとうとう倒れてしまった後も春には新芽が芽吹いたそうです。

【生きて芽吹きて 風倒の楢 霧まみれ】(相葉有流)

この句はその様子を詠っていますが、前期高齢者の私には身に染みる句ですね。枯れて倒れてもなお芽吹こうとする生命力と霧に覆われてしまう不安を表しているのでしょうか。


昭和天皇行幸記念碑

2024年03月04日 16時22分54秒 | 赤城山

赤城山大沼湖畔に昭和天皇の行幸記念碑があります。これは昭和9年11月陸軍特別大演習が群馬県で開催された折に、当時自動車道は一杯清水までしか開通していませんでした。そこから徒歩で新坂平、見晴山を越え青木旅館でご休憩された後、岩澤正作の案内で大沼湖畔を散策されました。季節は11月でしたので晴天から急に雪が舞う天気にもなりましたが、元気に散策される様子が当時の新聞に報じられています。青木旅館の山駕籠も用意されたそうですが、青木旅館の女将さんによれば「自分は大丈夫だから、年配の侍従に山駕籠に乗るように勧めた。」という逸話もあるそうです。

行幸記念碑の文字は侍従長の鈴木貫太郎が揮毫しています。その横に行幸記念碑を設置した趣旨が刻まれていますので、苔むした文字を判読し読み下しました。また当時の新聞記事も読み下しましたのでご覧ください。

『行幸記念ノ碑』

昭和九年秋 陸軍特別大演習が挙行せらるや 畏(おそれおお)くも天皇陛下には 大纛(たいとう)を本縣に進めて 六軍(りくぐん)を宸裁(しんさい)し給ふ 又更に縣下各所に行幸あらせられ無彊(むきょう)の鴻恩を垂れさせ給ふ 十一月十五日には群馬縣種畜場より新坂を經て赤城山に行幸あらせらる 洵(まこと)に未曽有の盛事にして縣民の齊(ひと)しく恐懼感激に堪えざる所なりと雖も 持に勢多郡に於ける無上の光譽(こうよ)にして感戴欣躍(かんたいきんやく)措く所を知らず 茲(ここ)に郡民至情(しじょう)の迸(ほとばしる)る所に従い 偕(とも)に胥(しょ)謀(はか)り祗(つつし)みて行幸記念碑を御駐蹕(ごちゅうひつ)址(あと)へ建て 以て聖蹟を萬世(ばんせい)に顯彰(けんしょう)し天恩を無窮に欽仰(きんぎょう)し奉らんことを期す

群馬縣町村長會勢多郡支部 勢多郡教育會 勢多郡小学校長會 帝国在郷軍人會勢多郡聯合分會 勢多郡聯合青年團 同處女會

昭和十一年十一月十三日建之 勲八等 原田龍雄 書 上田泰造 刻

大纛(たいとう:軍旗)

六軍(りくぐん:天子の統率した六個の軍)

宸裁(しんさい:天子が統率すること)

無彊(むきょう:限りがないこと)

鴻恩(こうおん:大きな恩恵)

洵(まことに:おそれつつしむ)

恐懼(きょうく:恐れおののく)

感戴(かんたい:ありがたく捧げ持つ)

欣躍(きんやく:躍り上がって喜ぶ)

迸(ほとばしる:溢れる)

偕(ともに:人々みなともに)

胥(しょ:お互いに)

祗(つつしむ:敬う)

駐蹕(ちゅうひつ:天子が行幸の途中、ある土地に滞留すること)

天恩(てんおん:天恩日;てんおんにち、天の恩恵をすべての人が受ける日)

無窮(むきゅう:果てしないこと)

欽仰(きんぎょう:敬い仰ぐ)

『赤城山行幸(昭和9年11月15日) 朝日新聞』

吹雪の赤城御登山 聖上常に御先頭 御健脚に側近は感激

【前橋電話】

地方御巡幸第1日の15日天皇陛下には吹雪く赤城山に御覚高遊ばされたが当時宸襟を漏れ承ればその御果敢な御気性、その御健脚拝するだに畏き極み、側近者一同感激した、

茶色の御背広、中折帽、ゴルフパンツの御軽装に御召替遊ばされた陛下には、種畜場から御料車にて山麓に御進み遊ばされた頃快晴の秋空急変してにわかに寒風吹きすさび始め富士見村箕輪付近にさしかかれる頃には粉雪ちらつき気温は急降した、

中腹の地蔵橋に着御遊ばされると、すさまじい吹雪となった、陛下にはこの荒天を少しも御厭ひあらせられずここから徒歩にて九十九折の急坂を御登山約十町、見晴山に達せられた頃吹雪はいよいよ猛烈、視界全くさへぎられた程であったが陛下には側近者をはげまされつつ御先頭に立たせられて三十余町、同二時十四分頂上の大沼湖畔青木旅館前の御休所に着御遊ばされた

赤城の連峰既に白一色、雪はなほ降りしきっていた、陛下にはその粉雪の中を付近の山林に分けいれらされ高山植物をいと御熱心に御覧遊ばされ同二時四十分御下山の途につかされた、

其時湯浅宮相を顧みさせられ山駕籠にて駕従を許させ給ひ御自らは侍従達の切なる御勧めを斥けられ山駕籠にも召されず、御靴は泥に塗れ御服は雪に濡れるも御厭ひなく御元気にて同三時二十八分地蔵橋に着御、ここから御料車にて種畜場に向はせられ御少憩の上同四時三十七分行在所に遷帰遊ばされた

なほこの夜前橋市主催の市内各學校、青年訓練所生等六千余の奉祝提灯行列が午後七時二十分行在所前に整列一同最敬礼を行ふや畏くも陛下には三階バルコニーに出御遊ばされ御会釈を賜はつたので一同恐懼感激した

【御写真は聖上陛下吹雪の大沼湖畔を御跋渉】(宮内省御貸下げ) 

 


赤城山回遊案内

2024年02月29日 18時46分24秒 | 赤城山

昭和9年発行の岩澤正作著「赤城山廻遊案内」は当時の赤城山のガイドブックです。

原文を現代語訳して(※)で注釈をつけ、文中の漢字は当用漢字に改めました。

岩澤正作

https://ja.wikipedia.org/.../%E5%B2%A9%E6%B2%A2%E6%AD%A3...

赤城山廻遊案内

四拙 岩澤正作 著

赤城山概説

赤城山は榛名山・妙義山と共に上毛三名山の一つで、関東平野の西北縁・群馬県勢多郡と利根郡との境に聳え立っており、その裾野の三面は渡良瀬川・根利川・片品川・利根川等の諸川を以て区切られ、唯一南面のみが開けて上州平野に臨んでいる。

この山は先端が尖り円錐形をしている。山頂はいくつかの嶺に分れ、広々した平野に向かって長い裾野を曳き、見渡す限り遮るものがなく、威風悠然として関八洲の山野を圧倒している。これは赤城山が広く知れ渡った理由であろう。

赤城山は実に二重式複火山で、山頂に環立する諸峰の中で 黒檜山・薬師岳・出張山・鍬柄山・姥子山・前浅間山・牛石嶺・茶の木畑山・駒ヶ岳等を列ねた楕円形が、いわゆる旧火口壁で現在の外輪山である。これらの外輪山に囲まれた大きな谷が即ち最初の噴火口で、そのやや西南方向に中央火口丘の神庫山(俗称地藏嶽※ほくらやま・地蔵岳))が聳え立っており、火口丘の神庫山と外輪山との間には、火口原の覚満平・番小屋平・四本楢平(※しほんならだいら)・沼尻平・新坂平・小沼平等の原野が時々途切れながら続いている。赤城湖(俗称大沼)は火口原の低所に水を湛えた火口原湖である。

以上外輪山・中央火口丘・火口原・火口原湖等、二重式複火山の要素を備えた上に、尚山腹の弱いところを突き破って噴火した寄生火山(側火山ともいう)がある。その噴火口は今の小沼で、その噴出物は火口の周囲に堆積して火口壁をなしている。

長七郎山・虚空藏山(※小地蔵岳)・北山・朝香山(※浅香嶺)の諸峰となって、小沼周囲に聳え立っている。つまり小沼は寄生火山の火口内に雨水を湛えたいわゆる火口湖である。山中にはさらに地獄谷の爆発孔痕があり、また火山活動の余勢と見るべき硫気孔・蒸気孔・温泉等の残址(※し;跡と同じ)がある。地獄谷は爆発後一時期硫気を噴出した硫気孔址(※あと;跡と同じ)で、小沼川の沿岸には熱蒸気を噴出した蒸気孔跡があり、湯之澤その他に温泉の名残が存在する。

赤城山中には火口内の水を火口の外に流出する、所謂火口瀬が三本ある。即ち赤城湖(※大沼)を源とする沼尾川、小沼を源とする粕川、地獄谷及び神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)西南部の溪流を集めて流出する白川(※赤城白川)等で、さらに幾多の副射谷もある。次に赤城火山を地形的に表記してみよう。

外輪山=旧火口壁

 黒檜山・藥師岳・出張山・鍬柄山・姥子山・前浅間山・牛石嶺・茶の木畑山・駒ヶ岳等

中央火口丘

 神庫山(俗に地藏嶽と云ふ※ほくらやま・地蔵岳)

火口原=旧噴火口底

 覚満平・番小屋平・四本楢平(※しほんならだいら)・沼尻平・新坂平・小沼平・茶之畑平等

寄生火山  噴火口・小沼 火口壁・長七郎山・虚空地藏山(※小地蔵山)・北山・朝香山(※朝香嶺)等

爆発孔址、地獄谷、

硫気孔址、地獄谷、

蒸気孔址、小沼の両岸

温泉、湯之澤温泉

火口瀬、沼尾川、白川(※赤城白川)、粕川等。

山中の名勝

○赤城湖(※大沼) 一般的には大沼と呼び、万葉集に葛葉潟(※くずはがた)と詠まれたもので、神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の北にある火口原湖で周囲4キロ余り、勾玉の形をしていて、湖畔には雑木が茂生してとてもひっそりとして静まり返っている。

○大洞 赤城湖(※大沼)周囲の平地を大洞と呼び、その東端に大洞赤城神社が鎮座し、附近に社内屋・赤城旅館(※猪谷旅館)・講堂や図書館等があり、西岸を沼尻と呼び青木旅館・鱒の孵化試験場等がある。

○小鳥ヶ島 赤城湖の東岸近くあり、島内は樅栂(※もみ・つが)等の老樹の間に雑木が茂生している。

○紅葉ヶ淵 山中どこでも紅葉は好いが、沼尻の北岸に特に楓類の老木多く、それが湖水に映って美しい所からそのように言われている。

○覚満淵 覚満平の中央部に湛えた池で、その周囲は蘚苔類の茂生している湿地で、モウセンゴケその他の湿地植物に富み、初冬にはスケート場として知られている。

○小沼 神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の東方約200mの所にある火口湖で、周囲約982m、深さ17mであり、周囲に長七郎山・虚空藏山(※小地蔵山)・朝香山(※朝香嶺)等が迫り、物寂しい雰囲気がある。

○朝香山(※朝香嶺) 小沼の西岸に聳え立ち、古くは中山と呼んだが、昭和3年9月2日 朝香宮鳩彦王殿下(※あさかみややすひこおうでんか;旧皇族、1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。朝香宮の宮号は、朝彦王が伊勢神宮の祭主をつとめた縁で、伊勢にある朝香山にちなんで名づけられたという。1910年(明治43年)に明治天皇皇女允子内親王と結婚した。)が騎馬でご登攀あらせられた記念として改名した、山頂は躑躅・紅葉等の眺めがよい。

○見晴山 神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の西・新坂平から大洞に下る途中に在り、躑躑躅の眺めがよい。

○躑躅の景勝地としては新坂平・沼尻平・番小屋平・覚満平・小沼平等がある。さらにオトギノ森・朝日瀧・銚子の伽藍等の景勝地があるが、詳細は拙著「赤城山大観」(送料共金五拾四銭)を参照されたい。

 赤城山に登って黒檜山に登らなければ、共に赤城山を語ったことにならないと言われているが、黒檜山は実に全山の代表的秀嶺である。詳細は拙著「赤城山大観」に譲り、登山路の大要を記すと、講堂の前を北に辿り覚満川を渡り、駒ヶ岳の南裾から駒ヶ岳の頂を経て、大ダルミに下り黒檜山の南腹を直登し、登りきると左折して進むと、三角点(※三等三角点)がある。尚北に進むと旧黒檜神社奉祀の跡に辿り着く。その間に西へ下る道がある。これを下ると猫岩の上を経て赤城湖(※大沼)畔に出られる。

赤城山と交通

赤城山は勢多郡の北に立ち、利根郡の南に広がり、両郡の境界上に聳え立っている。東に渡良瀬渓谷、北に片品渓谷、西北に利根渓谷を控え、南及び西は平野を臨めるので、山頂大洞の地は古来より交通の要衝にあたり、四方八方から交通の近道とされていた。つまり大洞は文字通り四方八方から実に十二條の通路がある。

以下その東部より列記すると、(1)鳥居峠(水沼・大間々口) (2)茶の木畑峠(梨木・神梅・大間々口) (3)躑躅ヶ峰通り(瀧澤口)、(4)牛石峠(湯之澤・瀧澤口)、(5)軽井沢峠(三夜沢・大胡口)、(6)テンヤ坂(箕輪・前橋口)、(7)新坂峠(箕輪・前橋口)、(8)姥子峠(柏木・溝呂木・敷島・渋川口)、(9)鍬柄峠(深山・敷島口)、(10)出張越(深山・敷島口)、(11)野坂峠(沼田口)、(12)五輪峠(利根郡東入口)等である。

以上は何れも山麓地方において数本に分れ、接続する町村はもちろんのこと接続する各大字のどこからでも登ることができ、登山路の主なものは各景觀上の特徴を備へ、すぐに登山路の甲乙はつけ難いが、本誌の目的は日帰り又は一泊の短時間における回遊にあるから、大間々口から水沼・二ノ鳥居・利平茶屋をへて鳥居峠を登り、山頂を廻遊して大洞から新坂平に出て、新坂を下り一杯清水から箕輪・小暮を経て前橋に出て、上毛電鉄で東に帰るか、あるいはこのコースを反対に、前橋口から小暮・箕輪を経て、一杯清水に至り、新坂を登り赤城湖畔に出て山頂を廻遊して、鳥居峠又は茶の木畑峠から大間々に下り、新大間々駅から上毛電鉄で西に帰るか、東武電車で帰京される方々の東道となるように執筆した。

このコースは略図に示すように新大間々駅から利平茶屋まで自動車があり、これより頂上赤城神社まで2.7キロ、また前橋口は一杯清水まで自動車があって、一杯清水から赤城神社まで約4キロ、但し東武線廻遊切符の方は箕輪を終点としている。時間等の詳細は広告欄参照してください。

上毛電気鉄道の車窓から赤城山の展望

○新大間々駅から中央前橋駅へ

本線の終点西桐生駅又は東武線電車で新大間々駅に近づくと、赤城山はドッシリと長い裾野を曳いて雄大な姿態を横たえている。

○新大間々駅の展望 

新大間々駅で左窓から展望すると、右方の目の前に鹿田山の丘嶺が連なり、真南には天正の頃太田金山の砦の在った広沢の茶臼山が聳え立って、その山並みがうねうねと南下して太田の金山に連なっている。

また右側の窓から北方を望むと、渡良瀬渓谷の右側(左岸)には、足尾山塊から連なり、その最北部に聳えている駱駝の背に似た双峯は、大袈裟・小袈裟の袈裟丸山で、足尾山塊はうねうねと南下して平野に没している。駅の目前右側に突出して渡良瀬川に臨み、頂上に常盤木の叢生しているのは、天正年中(※1573~1592年)に里見勝政・勝安兄弟の拠点とした高津戸城址の在る要害山で、その下が東毛の名勝高津戸峡の中枢部である。要害山の西北対岸に突出するものは、黒川峽の中、深澤城の信号所のあった手振山で、その背後に聳え立つものが、赤城山である。赤城山の頂は数峰に分れている。

 赤城山の東部最北に聳えている尖った峰は、山中の最高峰黒檜山で、その東腹は急斜面となり、高原状をなす所が花見ヶ原である。黒檜山の南は駒ヶ岳・籠山と連なり、その南の最も低い所が水沼口の登山道の鳥居峠で、その南に虚空藏山(一般的な名称は小地藏山)長七郎山と連なり、長七郎山の南側、即ち南面の東端に茶の木畑峠が在って、そこから西に躑躅ヶ嶺が堤防状に連なり、その中央部から枝分かれした尾根が瀧澤から登る躑躅ヶ嶺通りで躑躅ヶ嶺の西の窪んだ所が銚子の伽藍で、その下方が粕川谷である。

銚子の伽藍の西に牛石嶺が聳え立ちその西に湯之澤口の牛石峠と、三夜澤口の軽井沢峠があって、その西に荒山の尖峰が聳え、その東北に前浅間山・西南に鍋割山が突出し、前浅間山の北・牛石嶺の背後に見えるものが、中央火口丘の神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)である。この駅附近からは赤城山中の東北の隅に聳える黒檜山から、西南に突出する鍋割山の至る東南部の平面が一眸の下に指呼される。

 新大間々駅を出発し新川を過ぎると、虚空藏山(※小地蔵岳)が長七郎山に隠れ、武井を過ぎると黒檜山と駒ヶ岳とが一峰のようになり、長七郎山と神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)との間に小円錐形の峰が現れる、これは小沼寄生火山の火口壁をなす朝香山(※浅香嶺)で、膳駅に近づくと黒檜山は大分その偉容を失うが、その東側に花見ヶ原から急下した裾が見えてきて、長七郎山の右に虚空藏山(※小地蔵岳))が尖頭を現す。粕川駅に近づくと荒山の中腹に在る大穴の窪地が明らかとなり、長七郎山の東南に茶の木畑山が、長七郎山と離れて見えてくる。新屋附近から黒檜山が全く隠れ、前浅間山が段々荒山の背に入り、樋越を過ぎると全く見えなくなる。

大胡駅附近に至ると、鍋割山の背後から姥子峠から聳え立つ尾根が現れ、朝香山(※浅香嶺)が牛石嶺に覆われ、長七郎山と神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の間に駒ヶ岳が現れるが間もなく見えなくなり、江木を経て赤坂に近づくと、神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)が段々荒山の背後に入り終いに全く隠れ、上泉駅を過ぎると、鍋割山の左から遙か北方に一尖峰が現わる。これは鍬柄山の西にある鈴ヶ岳で、片貝を経て、三俣に至る間で荒山と長七郎山の間に遙かに黒檜山の尖峰が現われ、三俣を過ぎると、赤城山は見づらくなり、榛名山が明かに指呼されるが間もなく市街地の屋根に覆われ、一毛町を経て中央前橋駅に着く。

○中央前橋駅から新大間々駅へ、

中央前橋駅は両毛線前橋駅のやや北東約500mを隔て、八間道路の東側・比利根川(※広瀬川)の左岸、前橋市一毛町に在って、上毛電鉄の基点であると共に、東武線電車桐生線接続の終点となっている。

この駅を出発し一毛町停留所に近づくと、左側の窓の全面に赤城山が望まれ、西と南に長い裾野を曳いている。山中の西南部に突出して直に前橋市の背後を圧するものは鍋割山で、その北部に聳える尖った峰が荒山である。荒山と鍋割山の左に在る窪地は、前橋口登山路にあたる白川谷で、その左の尾根の頂が姥子峠で渋川・敷島方面の登山道である。姥子峠の北には西部の外輪山が堤防状に連なり、姥子山・鍬柄山と数えられ、最北の鍬柄山の西腹に聳え立つ険しい山が、鈴ヶ岳である。荒山の東に続く連峰は南部の外輪山の一部で、そこに県社赤城神社の鎮座する三夜沢に下る軽井沢峠と、その東に在って湯之澤、瀧澤方面に下る牛石峠があり、牛石の東にある窪地は粕川谷の上流にある銚子の伽藍である。

この窪地の東に連なる所が躑躅ヶ嶺で、そこから南下する尾根を躑躅ヶ嶺通りといい、瀧澤不動堂に降るもので躑躅ヶ嶺の東に梨木鑛泉及び大間々町に下る茶之木畑峠があり、その北に聳える尖峯が長七郎山である。

三俣・片貝を過ぎると鈴ヶ岳が次第にその影を没し、荒山の東北に小円錐峰が現われる。これが赤城山中の最高峯黒檜山である。上泉駅を出発し桃ノ木川を渡り台地に入ると荒山の蔭から神庫山(俗称地藏嶽※ほくらやま・地蔵岳)が現われ黒檜山が次第に隠れる。

赤坂・江木を経て大胡駅を過ぎると、神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)は円形となってその容積を増し長七郎山の尖峯も丸み帯びる。樋越に近づくと長七郎山の西牛石の右肩から小円錐が現われる。これは長七郎山・虚空藏山(※小地蔵岳)と共に小沼を囲む朝香山(※浅香嶺)である。

樋越を出発すると神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)と荒山の間に前浅間山が現われ、長七郎山の北に虚空藏(※小地蔵岳)・駒ヶ岳・黒檜山等の諸峯が頭角を現わし、新屋を過ぎると黒檜山の東側が花見ヶ原となり、その東方に急下して遙か東に栗生山が望まれる。粕川を渡り粕川駅を過ぎ、膳に近づくと浅香山(※浅香嶺)と虚空藏山(※小地蔵岳)とが隠れ鳥居峠の窪地が僅かに認められる。鳥居峠は大間々、水沼方面の登山路である。

膳を経て武井を過ぎると、黒檜山がその容積を増し、巍然(※ぎぜん)として北緑に聳え最高峯たる見得を張って、その南に駒ヶ岳・鳥居峠・虚空藏山(※小地蔵岳)・長七郎山と次第に連なり、長七郎山の南に在る茶の木畑山も明かになり、前橋の上泉附近とは全く山容が異なっている。

新川を過ぎ新大間々駅に入ると、赤城山の東半部の山々が明瞭となり、渡良瀬川を隔て足尾山塊の諸峯に対峙している。何といっても本線は赤城山の正面にあたる山麓地帯を横切っているから、西方の姥子峠から聳え立つ尾根と、東方の茶の木畑峠から分岐して梨木嶺に続く尾根の間に介在する、尾根から尾根と谷から谷のシジハは明かに見え、秋の山腹の松林の間に交わる雑木林の紅葉が山腰を彩った車中の展望はまた格別である。

赤城山登山案内

 前橋口

○前橋市

 前橋市は赤城山の西南、利根川の左岸に在って、群馬県庁の所在地で、県庁舎は市の西方利根川の崖の上の旧厩橋(※後の前橋)城址にあり、市内には地方裁判所その他の官庁、銀行・会社等多く、市は近年その周囲に著しく膨脹し、最近の統計によると、人口94,207人、戸数16,753戸に達し、交通機関は東京上野駅から大宮を経て高崎市に至り、両毛線に接続して前橋駅に入り、更に伊勢崎・桐生を経て栃木県に入り小山に至り、上越線は高崎市より新前橋駅に入り、渋川・沼田・水上を経て新潟県に入り長岡に至る。

上毛電鉄は中央前橋駅を起点として大胡・新大間々を経て桐生市に至り、東武線電車は東京浅草雷門を出発し、本県に入り館林・太田・新桐生を経て、新大間々駅にて上毛電鉄に入り中央前橋駅に直通し、尚前橋駅前を出発して市内を通過して、渋川に至り更に伊香保温泉に至る電車(※東武鉄道伊香保軌道線、前橋線は昭和29年に廃止、伊香保線は昭和31年に廃止)がある。

その他乗合自動車が近隣の各町村に運転されている。市内に第一公園と第二公園が在って、共に自然の風致を取り入れ、展望が拓けて山光水色に富み、神社仏閣には県社八幡宮を初め、東照宮・神明宮・龍海院・橋林寺・妙安寺外に数多ある。また天川の二子山・岩神の飛石・敷島のお艶が岩・謙信杉・八幡宮の大公孫樹等の史蹟・名勝・天然記念物がある。(詳細は本会発行の「上毛電鉄沿線概観」定価金50銭を参照されたい)

○赤城登山バス 

本線は省線(※JR)連絡で、赤城乗合自動車商会の経営に属し、営業所を市内才川町に置き、両毛線前橋駅前に出張所がある。

 赤城登山バスは前橋駅前を出発し、いわゆる八間道路をたどり上毛電気鉄道中央前橋駅に至り、これからさらに八間道路を進み、東佐久間橋を渡り、突き当りから左折して小柳町の角からさらに右折して一本橋を渡り、清王寺に入り群馬県女子師範学校の前を通り才川町を過ぎ、飯玉橋・北代田橋を渡り、勢多郡南橘村下細井の耕作地を過ぎ、同郡富士見村上細井に入る。上細井は勢多郡にある延喜式内の官社白河明神(※白川神社)の鎮座する所で、登山道は漸く赤城山麓地帯に入り、爪先登りとなる。細井を過ぎ時澤に入り、時澤小学校の前を過ぎると間もなく、小暮に入ると正面に八幡鳥居が見える。鳥居の手前右手に小暮郵便局がある。鳥居を潜って富士見村小暮字所皆戸の新開地を進むこと1キロ余りで、左に朝香宮鳩彦王殿下(※あさかみややすひこおうでんか;旧皇族、1887年(明治20年)10月、久邇宮朝彦親王の第8王子として生まれ、1906年(明治39年)3月に朝香宮家を創設。朝香宮の宮号は、朝彦王が伊勢神宮の祭主をつとめた縁で、伊勢にある朝香山にちなんで名づけられたという。1910年(明治43年)に明治天皇皇女允子内親王と結婚した。)が赤城山御登山(※昭和3年9月2日)に際し、勢多郡青年団の分列式を受けられた記念の石標が建っている、2~300m進むと右に群馬県立種畜場がある。この附近から正面を見ると鍋割山が屹立している。

 種畜場から5~600m進むと松林中に入る。尚100m余りで大河原に着く、前橋へ12,449m、大洞へ11,227m、海抜540mと標記してあり、乗合自動車大河原待合所がある。白川(※赤城白川)の河原を渡り1キロ余り進むと、正面右に荒山左に神庫山(俗称地蔵岳※ほくらやま)が見えるが、直ぐに荒山が隠れ、次いで神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)が隠れる。5~600m進むと渋川の柏木方面の登山道が会している。さらに200mばかり登ると左に丸ト組製糸場指定蚕種白馬連盟原蚕飼育分場がある。この附近から右に鍋割山が現れ、その東北の尾根から荒山に連なり、更に北方の神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)に接し神庫山の西南山腹にあるヅロが望見される。路は漸く傾斜となり間もなく正面に三の輪(※箕輪)の部落が見え、目の前に牧場の木戸が見える。木戸には赤城牧場の標記がある。木戸を過ぎて進むとそこに放牧の馬や牛が群がっている。牧場内の溪流に架した橋を渡ると、間もなく櫻澤の溪流を渡り三の輪(※箕輪)の部落に入る。

○赤城牧場

現在群馬県勢多郡と前橋市の畜產組合の経営で、勢多郡富士見村赤城山御料地7,625,660㎡の広さである。その経営法は5月から10月まで放牧するもので全区画を二区画に分け、第一区は三の輪(※箕輪)を中心とする部分で、第二区は山頂の神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)を中心としている。従ってその海抜の差が大きいことから、第一区は草萌えが早いことを利用し5月6月の間放牧し、6月下旬又は7月上旬から第二区に移し、この場所に7月から8月の二ヶ月極暑の期間を過させ、秋冷を感じ牧草が硬化する9月になると、更に第一区に移して再生した柔らかな牧草を飼料に充て、いわゆる輪放牧の効果が得られる様に設計して、牛馬の夏季における衛生保健を全うすることを期待している。

○三の輪(※箕輪) 

富士見村大字小暮の字で、従来茅葺屋根の家屋約十戸ばかりの寒村であつたが、赤城山の開発に伴ってその外観を一変した。今は数軒の休憩所があり、赤城山バスの発着所がある。三の輪(※箕輪)の入口も標木を建て、前橋へ17,987m、大洞へ 5,689m、海抜1,040mと記してある。尚、金丸・大胡・伊勢崎・大間々等の近道と記した標木も建っている。(地元民によれば金丸へ8キロ、大胡へ16キロである)一杯清水へ地元民は2キロというが、徒歩で約40分を要す。

 三の輪(※箕輪)を出て白川(※赤城白川)に架けた姫百合橋を渡ると坂路となるが、旧道と異なり白川(※赤城白川)の左岸に近くに迂回して登るから、正面に神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)と船ヶ鼻(※昭和村の船ヶ鼻山とは別)を望み、対岸の風景を眺めながら登るので大分登山路の趣となってきた。赤城山乗合自動車の終点一杯清水は、旧道一杯清水の上方110m余り、地獄川と白川(※赤城白川)の合流する地蔵橋の傍にある。

○一杯清水 

旧道がテンヤ坂口に分かれる処の下に在って、路傍にこんこんとして清冽な泉が湧出しており、この登山道における有名な場所で掛茶屋もある。

自動車の終点から地蔵橋を渡り5~600m進むと、樺澤鉱泉の入口が右に分かれている。

○樺澤鉱泉

「地獄谷の湯」または「地蔵の湯」と称し、地獄谷の入口に在り、青々と茂った樹木に囲まれた静寂な仙境で、かつて幸田露伴はこの宿に泊まり「一口劍」を著した。

○地獄谷 

神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)と荒山との間に在り、これは赤城山最後の火山活動によって、中央火口丘神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の南側山腹と外輪山の西南の一部とを破壞した跡で、いわゆる爆発孔址であるが、爆発した後しばらくの間硫気を噴出したいわゆる硫気洞となっていたことは、今尚その崖壁に硫黄泥層を挟むことからもわかる。その面積はそれほど大きくはないが、後から雨水の浸食作用を受けて深刻な溪谷となり、人がこれに臨めば心気が悽然となるためこのように呼ぶという。

 樺澤鉱泉の入口から3~400m程進むと、いよいよ新坂に掛かるので、登山路は大分勾配を増すが先年改修の結果大いに緩傾斜となった。路はもちろん九十九折りで一歩毎に眺望が開ける。これを登り詰めた所が新坂平で、鳥居峠の展望に比して水色(※海・川の景色)は欠けているが、周囲が急に広々とするところが心地よい。野原のほとりに叢生する灌木は蓮華躑躅(※レンゲツツジ)である(山頂案内前橋口參照)

大間々口登山案内

 渡良瀬渓谷の関門である大間々町(※みどり市大間々町)から、赤城山に登る道路は数本あるが、今東武電車で回遊道路としてバスが運転されている。前橋・赤城山大洞・水沼線県道、即ち赤城山各登道中のその他のルートについて概略を記述する。

○赤城山バス 

東武電車又は上毛電鉄で新大間々駅に下車すると、駅前に赤城山タクシーの営業部があってバスが待っている。

○新大間々駅

大間々町の南端、七丁目の南端街路の東側に在る。

○大間々町(※みどり市大間々町) 

山田郡の西北端の渡良瀬川の右岸段丘地に発達した、南北に細長い小さな町で、古くから足尾への入り口となっていた。町は古く製糸と機織で発達したが、明治維新後著しく衰退し、今は僅かに生き残っているに過ぎない。殊に足尾線鉄道(※わたらせ渓谷鐡道)の開通によって、足尾の関門であつた鍵も取り外され、現在これと特筆すべきものはないが、明治の末年から著しく膨脹して、現在戸数1,733戸、人口8,171人存在する。

この町の誇りは何と言つても、市街地の東裏に接した名勝高津戸峡である。この町は久しく交通機関に恵まれなかつたが、先に足尾線鉄道(※わたらせ渓谷鐡道)が敷設されて、町の中央四丁目東裏に大間々停車場を置き、次いで上毛電鉄が敷設されて新大間々駅が設けられ、尚東武電車が延長して新大間々駅に接続したから、東京への距離は著しく短縮して便利となった。尚前橋・大胡行・桐生足利行・岩宿行・赤城山行・水沼・花輪・神戸行・貴船・小平行・伊勢崎・茂呂行・国定・境行等の乗合自動車も発着している。

○高津戸峡谷 

本峡は広義には桐生市相生村・川内村・大間々町・福岡町・黒保根村の1市5ヶ町村にわたり200m余りの間と言はれているが、狭義には大間々町と対岸の川内村大字高津戸との間に架けた高津戸橋の下方から上流1,000m余りの信栄橋に至る間とする。

この間崖岸(※がいがん;水のほとりの切り立って高い所)は基骨を露わし、奇岩が突出して雑木が繁り、河床には怪石が横たわり、深い沢や浅い瀬が次ぎ次ぎに現れて奇峡をなしている。

春花秋葉の景も備わり、ことに左岸に迫って聳え立つ要害山は京の嵐山を彷彿とさせる。山頂に高津戸古城址があり、山脚に高津戸鑛泉が在って、近年山腹に桜を植えたが、桜花は未だ嵐山には及ばないが、山頂の展望は嵐山より勝っている。高津戸橋の西崖上に「ながめ」遊園地が在って、四季の花卉を植え、ことに牡丹・藤及菊花壇と菊人形が呼び物で、これ又町民が誇りの一つとしている。その他峡谷の中には屛風岩・伊勢ヶ淵・鄕社神明宮・鱍瀧(はねたき)・道了堂・清水瀧・見晴の藤等がある。

 長い大間々町の市街地を抜けて、上桐原の部落に入り左に深澤家の牡丹園を見て進む程に間もなく神梅新道の奇勝地に入る。

○神梅新道 

山田郡大間々町大字桐原の地から、勢多郡黒保根村大字下神梅に亘る1キロ余りの間で、左は頭上に高さ7~8mの断崖が懸り、崖脚に大間々町の灌漑用水がこんこんと流れ、右は脚下また幾仭の絶壁をなして渡良瀬川に臨み、対岸は崖骨露出して奇景を呈し、河床深くして幾多の奇岩怪石並列し、峽中獅子巖・郡界の岩門・烏帽子岩・勢山瀧・女蘿巖・七曲の奇勝・龍松ヶ淵・樋ヶ淵等の勝地があり、沿道春の花・初夏の若葉・秋の紅葉等とりどりの眺覽を備へ、ことに近年崖壁に山吹多く繁茂して、新景物を増した。

 神梅新道を出て下神梅の部落を過ぎると、右方対岸に貴船神社の社叢(※しゃそう;神社の森)が見え、右岸脚下に足尾線上神梅駅がある。

○貴船神社 

山田郡福岡村大字塩原字穴原に鎮座し、山城国鞍馬村鎮座、官幣中社貴船神社の分霊で、高靇神(たかおかみのかみ)を主神とし、相殿に赤城大神を奉祀し、つとに農工商業の守護神として地方民衆の信仰篤く、常に参拝者が訪れ、その講中は関東の諸府県にわたり、毎月1日19日の祭日と4月9月の各19日の大祭日の非常に賑うのを見て、ご神徳の赫灼(※かくしゃく・光り輝いている様)なることが窺うことができる。

○神梅鉱泉 

上神梅駅の北約四町の処にあり、この場所は渡良瀬川の右岸に位し、轉瀨の峽流に臨み、貴船の社叢に対して展望に富んでいる。泉質はカルシユーム泉で、胃腸病・神経諸症・リユーマチ・痔疾等に特効がある。

 上神梅駅・神梅鉱泉の前を過ぎ、上神梅の部落が終ると間もなく、梨木沢から来る深澤川に架けた深澤橋を渡り、大字宿廻に入る、2~300m程進むと梨木県道が分かれている。県道の西北台地に深澤城址がある。

○深澤城址

大字宿廻字城に在って、芥澤能登守の居住していた処で、旧本丸の跡に今天台宗比叡山直末勢多郡三ヶ寺の一つという正圓寺が在って、その左は二ノ丸・右は三ノ丸の跡で、左方に馬場と呼ぶ場所もあり、前方稍の低い地に天守閣の址がある。

○梨木鉱泉 

黒保根村大字宿廻字梨木澤に在り、県道の別れ口から約4キロである。梨木道は先に県道に編入されたが未成線であるため、自動車が橫づけできるのはまだ先のことである。当分は乗馬か駕籠による他はないが、深澤川に沿って山光水色の美しい道で、殊に近年大に改修されたから大低の足が弱い者でも徒歩で容易に登ることができる。

鉱泉は深澤川の左岸から湧出し、泉質は食塩を含む炭酸泉で、内服して胃弱・便秘によく、外浴して慢性粘膜カタル、夫人生殖器病・瘰癧(※るいれき・結核性頸部リンパ節炎)皮膚病・リユーマチ・呼吸器病等に特効がある。

地勢は赤城山の東南の輻射谷に在って、丘陵がその周囲を巡っているから、展望はあまり広々としていないが、四季の眺めが良く、標高500m余りの地に在るので、土地高燥(※土地が高く湿気が少ないこと)空気清涼にして山光水色に恵まれた別天地で、気候は夏の盛りの時でも40度を超えるのは稀で、朝夕冷涼を感ずるも、東南に面した山谷の間にあるので冬季は比較的暖かく、したがって避暑避寒の好適地として、四季を通して温泉客が絶えることなく、少ない時でも100余人、多い時は7~800人から1,000人を突破する盛况である。鉱泉旅館は深澤直十郎氏経営の梨木館一軒であるが、三階建ての棟が連なる客室大小百数十室あって、収容力が大きく設備の充実する東上州の鉱泉の中でも一番にランクされる。ことに質実な待遇と低廉な経費とは他の追随を許さないと言われている。 梨木県道を左に見て進み、城下橋を渡り対岸の風景を賞しながら進むと南雲橋に着く。橋の左袂に発電所がある。本流の河床に注意すると烏帽子岩が峙立している。間もなく大字下田澤字津久瀨の扇状地に入り、部落の北端近く赤城山県道が分かれ、前方河岸の沖積地に水沼停車場が見へる。駅前旅館赤城閣の北隣に赤城山タクシーの待合があって、赤城山行自動車に乗り換える。

○水沼から赤城登山道は実に四條ある

 第一線は字津久瀬の部落の北端から分れている県道で、津久瀨の坂路を登り、字前田原の部落を過ぎて、粕山の部落を経てその北端にある赤城山一の鳥居につく。この路は四條中距離においては最も遠いが、傾斜が緩やかなので夫人や子供連れの選ぶべき登山道である。

 他の三道中の一つは赤城閣の南200mばかりの所から右折して坂路を登り、字前田原俗称桐平に出で、前田原の部落を通り前記の県道に合流し、その二は前者の手前から右折して溪流に沿って登り、台地に出て又右折して字清水に出て本道に合流し、左折して1キロばかり進むと一ノ鳥居に到着する。その三は県道を北にたどり、水沼橋を渡り左折して溪流を渡り坂路を登り字清水の部落に入り前者に合流する。

○一ノ鳥居は赤城山県道と、沼田・大間々線県道(旧根利街道で高山先生が北上紀行に通過された道である)の合流点で、路傍に石鳥居を建て、赤城登道に沿った溪流に菫橋を架け、橋下に懸る瀧を菫瀧と呼んでいる。その名の通り左岸橋の袂に「山路来て何やらゆかし菫草」という芭蕉の句碑があることに因んでつけたのである。

 一ノ鳥居から左折して進む、地盤は赤城山の裾野で火山屑からなり、未だ固定せざる新道を辿るので自動車の動搖を免れないが、両側は概して新開地で展望に富み、原野及び林中にはツツジ類が多く自生している、こうして道を進むこと約2キロで鍛冶坂に着く。

○鍛冶坂 

地名は天正の頃(※1573~1592年)、ここに二人の刀鍛冶が居住していたので名付けられたという。今でも附近から鉱滓(※こうさい;精錬で発生するクズ、スラグ)を発見し、鍛冶の一人は深澤城に、一人は五覽田城に属したと伝えている。この地は西方が赤城山に面し、その最北部に山中の最高峰黒檜山が聳えて、南に駒ヶ岳・籠山と低下し、正面の最も凹んだ所が鳥居峠となり、鳥居峠の南に虚空藏山(俗稱小地藏山)長七郎山と列なっている。脚下は鳥居谷で下田澤の開墾地を隔て、二ノ鳥居の杉森を望み、回顧すると渡良瀬川の河谷を経て足尾山塊の諸峰に対し、その北部に峙立する袈裟丸山から、南は山塊の末端が平野に没し、更にその余脈が広沢丘陵となって南に延長し、その間に渡良瀬川の蜿蜒(※えんえん)蛇行するのを望見する。

 鍛冶坂を下り下田澤の開墾地を過ぎて、約2キロばかり進み橋を渡ると、左側に兜岩と呼ぶ一大岩塊がある。今ではその上部が破壞して全貌を損失したが、形によって名つけたもので、二荒神が山頂から盗み出したものと伝えている。目前に二ノ鳥居が見える。二ノ鳥居を出ると右に彎反岩(※ヒケソリイワ)の障壁が列なり、左は鷹の巣の岩壁が鳥居谷を隔て障立している。共に岩壁にツツジ類がかかり、花季には壮観を呈する。この風景を眺めながら1.4キロほど進むと溪流に逢着する。この場所を篠倉と呼び山中の奇勝釜の澤に発源している。これより約200m余りで利平茶屋に着く。利平茶屋はこの登山道の馬返しでこれから全く山路に入る。200mばかり登ると左に旧道がある。

○旧道は鳥居川に沿って登る谷道で、途中一本樅(登道中の老木)新三階瀧・不動瀧・一ノ行場・二ノ行場等を経て、白ナギ澤の下から急傾斜の坂路を上がって新道に合流している。

 新道は旧道の分かれ口から右に登り、左折して山腹を進むもので、右は所々に断崖が壁立して崖腹に数多の洞穴があり急雨の避難所となり、左は鳥居谷に臨み、対岸虚空藏山(※小地蔵山)から東に分岐する輻射嶺に対して展望に富み、峽中にはツツジ・カエデの類が多く、山草類に富めること、赤城登山道十余條中、変化が多い風景と共にこの登山道を随一とする。旧道の分かれ口から約1.9キロで旧道に合流し、その右側の山腹に鐘岩と呼ぶ巨岩が突出している。これから約300m許りで頂上に着く(山頂案内大間々口參照)

赤城山山頂廻遊案内

◎前橋口から新坂峠を登りきると、前に広い新坂平が開け、右に神庫山(俗称:地藏嶽※ほくらやま)が聳え立ちし、西方には南から姥子峠・姥子山・鍬柄山の順に旧火口壁西部の一部が堤塘(※ていとう;湖沼などの水が溢れないように、土を高く築いたもの)状に連なり、その北部の鍬柄峠の西北に鈴ヶ岳が見える。後ろを振り返ると全面の左に荒山が聳え、西方の外輪山の東端の船ヶ鼻(※昭和村の船ヶ鼻山とは別)との間に白川溪を控え、殊に若葉の景色が美しい。原頭にはミヅナラ・シラカバ等の古木が点々と樹立する間に蓮華躑躅(※レンゲツツジ)が一面に生えていて、花季には紅焰みなぎるような盛况を呈している。原頭を北に橫切ると、渋川口・敷島口(姥子峠口 鍬柄峠口)の道路が合流している。これから雑木林の間を進むと200mばかりで左に見晴山がある。山頂の展望は殊にレンゲツツジの眺望台となっている。さらに200~300m進むと岐路がある。右は赤城神社道で(約800mで達する)左に下ると約400mで沼尻の青木旅館の前に出る、これから大沼湖畔を東に辿ると約800mで赤城神社の前に出られる。青木旅館から船で湖上を縱斷することも愉快である。

 青木旅館の前を過ぎて西に進むと、沼尾川の源である大沼の排水口がある。これを渡ると深山・敷島口の出張越路が分かれ、なお少し進むと沼田口となる野坂峠路・東利根入口となる旧五輪峠路等が分かれ、湖の西方の隅附近から湖畔が漸く開けて抱えきれないほどの太さの楓類が林立している。この辺りが所謂紅葉ヶ淵で、左方の山腹に鱒の孵化試験場の建物がある。湖畔の林の中を辿り湖の東北の隅に至ると東利根入口なる新五輪峠道と黒檜山の登路が岐れている。東北の隅から南に向ふと間もなく右に小鳥ヶ島の入口に合流する。小鳥ヶ島を一周して本路に出て前進すると、左に黒檜山の旧登山道が分岐している。前面左側に峙立するは駒ヶ岳で、右方の湖の南に聳うるのが神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)である。駒ヶ岳の裾を200mばかり進むと東に原野が開けている。この場所が番小屋平で東方の覚満平に続き、覚満川が縦断している。湖畔を辿り覚満川を渡り湖の東南の隅にある辨天ヶ淵附近から展望すると、湖の東北の隅に聳える黒檜山から西に五輪峠・陣笠山・薬師岳・野坂峠と列なり、それから南に折れて最後に美しい円錐形をなした出張山が出張って、外輪山の西北部が半環状をなして保存されていることが認められる。赤城神社に詣で門を出ると、右に茶店と社内屋が在り、鳥居を潜って左に進むと赤城旅館(※猪谷旅館)がある。

□小沼へ 

赤城旅館(※猪谷旅館)の前から南に上る路が所謂八町坂(※八丁坂)で、右は神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)で左は千日澤の樹海である。少し登り牧場の木戸を越へると間もなく、神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の山腹に有名なシャンツェ(※赤城シャンツェ:猪谷六合雄は、大正末期から昭和初期にかけて、赤城山頂にいくつかの小型スキージャンプ台(シャンツェ)を造っていた。1928(昭和3)年には、猪谷六合雄が中心となって地蔵岳の東面中腹に、日本で最初の本格的スキージャンプ台(60m級)が造られた。)がある。

八町坂(※八丁坂)を登りきった所に庄塚の婆(※三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)が正塚婆(しょうづかのばば)となったとされる。閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計る。)の石像があって路が枝分かれしている。左折して進むと約200mで小沼の縁に出られる。

 △大胡方面とテンヤ坂口、八町坂(※八丁坂)の上から南に神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の裾を進むと火口原小沼平が開けて神庫山の東南の隅から湯之澤・瀧澤口の牛石峠が岐かれている。ここから原野を横断して雑木林の間を抜けると牛石峠に合流する。なおこの岐かれ口から神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の南裾を辿り、雑木林に入ろうとする附近に、三夜沢路が岐かれている。その左前方に峙立する前淺間山の東裾を南に進むと軽井沢峠に出る。この岐路から雑木林の間を西に進むと300mばかりで地獄谷の南崖に出る。これがいわゆるテンヤ坂通りで下る程に前橋口の一杯清水の上に出られる(この方面への近路であるが、すこぶる難路である)

小沼路を辿ると左は北山で右脚下に血の池の潴水(※ちょすい・水たまり)がある。小沼に下る手前に朝香山(※朝香嶺)の登路が岐かれている。朝香山は小沼の西岸にあって、東岸に長七郎山、その北に虚空藏山(里俗小地藏山と呼ぶ)が峙立している。

梨木鉱泉口 小沼の西岸朝香山(※朝香嶺)の東裾を辿り、南岸に出て小沼の排水口を渡り、右折して小沼川の左岸に出て、長七郎山の南に連なる前山野の腰部を進むと1キロ程で茶の木畑峠に逢着する。途中脚下右前方にオトギノ森のナラ林があって、森の西南端小沼川に旭瀑が懸かっている。茶の木畑峠の西に連なる所がいわゆる躑躅ヶ嶺で、これを西に辿ると数100mで銚子伽藍の上に出る。その途中に瀧澤路が岐かれている。これがいわゆる躑躅ヶ嶺通りである。茶の木畑峠の木戸を排して下ると数100mにして路が枝分かれする、右は旧道で新里村及び大間々方面に下るもので、左が梨木新道である。

○小沼から鳥居峠へ、

小沼の北岸牧場の柵を越へて東北に進み、虚空藏山(※小地蔵山)の西裾雑木林の間を進むと約500mで鳥居峠に到着する。西方脚下に覚満平が展開してその中央に覚満淵を湛え東は脚下に鳥居谷の樹海が漂い、遙かに袈裟丸・日光・足尾の諸山を望み、展望の良い山中随一と称すべき所である。これから東に下ること約2.5キロで利平茶屋に着く。

 鳥居峠から西に下り覚満平、番小屋平を横断すると約600mで講堂の前に出る。講堂の北に赤城図書館(※現在柴田テント赤城山バンガロー村事務所)がある。これより湖畔に出て赤城神社の前から湖畔を西に進むと数100mで四本楢平(※しほんならだいら)に出て右に沼尻路が分れている。左折して進むと新坂平に到着する。

◎大間々口から、東登山道の鳥居峠を登りきると眼界急に開ける。その場所は海抜1393mの地点で、山頂に庄塚の婆の石像を安置し、里俗婆坂と呼んでいた。その下に延命泉が湧出している。鳥居峠は外輪山の一部で、北は外輪山駒ヶ岳から続く籠山で山腹に山骨(※さんこつ・山の土砂が崩れて露出した岩石)の露頭が散在し、南は小沼寄生火山の東北壁をなす虚空藏山(※小地蔵山)の北部で、雑草が茂生する中にレンゲツツジが叢生している。東は直に鳥居谷に臨み、美しい樹海を隔てて鍛冶坂を望み、遠く足尾山塊の連嶺が連なって、その北部には袈裟丸山を初め足尾・日光の諸峰が聳え、漸次南に低下してそれらが平野に没しようと蜿蜒(※えんえん)として流れて平野に入り、茫漠たる平野の東南の遙かに筑波の双峰(※筑波山)が、天空を摩せんばかりに聳立している。その大観を展望して回顧すると、赤城火山の北半部が双眸に映ずる。即ち脚下は覚満淵から番小屋平の火口原が展開して、火口原湖赤城湖(※大沼)に連なり、火口原の北には外輪山の一部なる駒ヶ岳が峙立し、南は小沼寄生火山の火口壁の北麓が侵食された千日澤の樹海に接し、火口原の中央部には覚満淵の小潴水を湛え、その末流は原頭に林立するミヅナラ・シラカバ中に没し、原野の大部は矮草茂生してレンゲツツジが叢生している。また湖の南には頭顱(※とうろ・頭蓋骨)形の神庫山(俗稱地藏嶽※ほくらやま・地蔵岳)が峙立して、その北腹は雑木が密生して直に湖に臨み、その東端に見える針葉樹叢は赤城神社の社叢で、その北方の湖中に突出する針葉樹叢は小鳥ヶ島の南角である。また湖の西北部には旧火口壁が堤防状のように圍繞(※いじょう・回りを囲い廻らすこと)している。その西部の南に峙立する美しい円錐形の山が出張山で、その北端に峙立して二三個の握飯を集めたような形をなすものが薬師岳で、その西腹に沼田口の野坂峠がある。薬師岳の東には笠形をした陣笠山があって、その東は五輪峠で黒檜山に連なっているが、黒檜山は駒ヶ岳に隠れて見えない。人がもし東登山道を上り以上の景觀に接すると誰でも鳥居峠の胸突約数100mの難路の苦を一掃して快哉を再唱する。殊にこの場所は霧の名所で、その起消聚散する景趣に変化があって面白い。筆者は登山者の誰にでも一度はこの登山路を辿ることを推奬する。頂上から西に下ると700m程で講堂又は赤城旅館の前を過ぎ赤城神社に達する。

○小沼を経て大洞へ、鳥居峠の頂きから左折して虚空藏山(※小地蔵山)の西麓を辿って、雑木林の間を縫って進むと約500mで牧場の柵に到着する。附近にはコメツツジが叢生している。柵を越へると前面に小沼を湛へ、沼を囲む長七郎山・虚空藏山(※小地蔵山)・北山・朝香山(※朝香峰)の山腹にはレンゲツツジが叢生して、花季には紅焰を漂わせ、牧場の牛馬の数頭が若草に舌皷を鳴らし、数頭が湖水に渇きを潤おす樣は絵画もまた及ばない風情がある。湖畔を南に辿ると排水口の南に瀧澤口なる躑躅ヶ嶺通り、梨木口の茶之木畑峠路がある。小沼の北岸を西に辿ると、左に朝香山(※朝香嶺)の登路がある。朝香山は全山ツツジ類が多く眺望もよい。朝香山の登り口から西に辿ると、前面に神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)が聳え、左方朝香山の西北に血の池があるが、近年多くは水が涸れて一つの小さな窪地に過ぎない。神庫山の南は火口原小沼平で殊にレンゲツツジがよく繁茂している。小沼平の南に峙立するものが荒山である。前進して神庫山の裾に到着したところが八町峠で、左側に庄塚の婆の石像(※三途川(葬頭河)で亡者の衣服を剥ぎ取る老婆の鬼。脱衣婆、葬頭河婆(そうづかば)が正塚婆(しょうづかのばば)となったとされる。閻魔大王に仕え、三途の川を渡る亡者から衣服をはぎ取り罪の軽量を計る。)がある。路はここで枝分かれしている。左折して南に進み神庫山の東南隅附近から左に進み、原野を横切って進むと湯の澤瀧澤口の牛石峠に至り、神庫山の南裾を巡り雑木林に入ろうとする附近から左折して前淺間山の東裾を進むと三夜澤口の軽井沢峠に出られる。尚雑木林の中を西に辿り地獄谷の南岸を経てテンヤ坂を下ると、前橋口の一杯清水の上に出る。

 △神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)登り、八町峠(※八丁峠)から神庫山の東腹にある小溪の北に沿って登ると、比較的容易く神庫山の山頂に達する。山頂には三角標点と地藏尊の石像及石燈籠等がある。山頂から西に下ると新坂平に下り、東北に下ると赤城シャンツェを経て八町坂(※八丁坂)の北部に出られる。

八町峠(※八丁峠)から右折して北に下り、赤城シャンツェを過ぎて木戸を越えると、間もなく赤城旅館(※猪谷旅館)の前に出て、その西に赤城神社の鳥居が見える。神社の境内に茶店や社内屋がある。神社の前を西に進むと、沼尻・見晴山・新坂平等がある。

○湖岸巡り 赤城神社に詣で湖畔に出て、湖舟を雇って沼尻に至るも一興であるが、小鳥島から北岸を廻遊することもまた興味がある。辨天ヶ淵から湖畔を北に辿ると、前面右方に駒ヶ岳が湖に臨み五月から六月にかけて紅ヤシオ(俗称アカギツツジ)が咲き乱れ、八月初旬には夫木集(※ふぼくしゅう;鎌倉後期の私撰(しせん)類題和歌集。『夫木和歌集』ともいい、「夫木抄」または「夫木集」とも略称する。撰者は冷泉為相(れいぜいためすけ)の門弟で遠江勝田(とおとうみかつまた)(現静岡県牧之原(まきのはら)市)の豪族藤原(勝田)長清)に、「萬代に赤城の山白椿君がさかゆく卯杖にぞきる」とある白椿又夏椿と云い、シャラとも呼ぶ白椿がつらつらと咲きほこり、初冬には木花がついて美しい。駒ヶ岳の北に黒檜山が聳え、その西腹に猫岩が突出して五輪峠に連なり、五輪峠の西に陣笠山・藥師岳・野坂峠と連なり、それから南に折れて出張山となる北西部の外輪山を眺めながら進む程に、小鳥ヶ島の手前で右に黒檜山旧登山道が分岐し、その先方左に小鳥ヶ島路が分れている。小鳥ヶ島は樅栂等の常綠樹の中に雑木を交え、すこぶる閑寂な仙境で種々なる山草が繁茂している。島を出て北に進むと、黒檜山登山道と五輪峠道が分岐している。湖の北岸を西に辿ると西北部の山腹に鱒の孵化試驗場の建物があって、その附近の湖畔を紅葉ヶ淵と呼び紅葉がよい。西岸を進み排水口を渡ると目前に青木旅館がある。青木旅館附近から湖水を隔てた眺望も美しい。旅館の東から湖畔を辿って東に進むと800mで赤城神社に到達する。

○見晴山から新坂平へ、青木旅館の東から右折して南に上ること約500mで大洞路に合流する。これより2~300m進むと右に見晴山が在って眺望に富んでいる。さらに雑木林の間を数100m進むと、右に鍬柄峠道と姥子峠路が分岐し、目前に新坂平の火口原が展開している。新坂平は神庫山(※ほくらやま・地蔵岳)の西裾に在って、その南端の新坂の上から白川谷を望むと、右に船ヶ鼻(※昭和村の船ヶ鼻山とは別)が突出し、左に荒山が峙立しその間に白川谷を擁して眺望がよい。

昭和9年6月20日印刷納本

昭和9年6月25日発行

編集兼発行人 岩澤正作 群馬県山田郡大間々町大字大間々1228

印刷人 仁井田錠次郎    群馬県前橋市北曲輪町43

印刷所 株式會社前橋印刷 群馬県前橋市堅町101

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