デリリウム淀川の怨恨音的日乗

サイケデリック音楽、ニューウェイヴ、プログレ辺境、ノイズ・ミュージック、J-POP、映画、漫画、文学などを紹介します。

乃田吊『第七官界崩壊』(2010年)

2012-12-23 01:22:00 | 音楽
乃田吊の歌。それはキモイ。こんな感覚を覚えたのは初めてジャックスや北嶋建也の歌を聴いて以来だ。

乃田吊の歌は、声は、男という生き物の根源にあるモノに擦り付けられる。精液だけでは留まらない。血が出るほどに、涙が出るほどに、擦り付けられる。

「わたし、あなたの思春期になりたいの」

一体誰が考えた? この窒息するような名コピー。

"選ばれた者"だけが知る青春の暗黒―それは感じた者が「自分だけ」と信じたい傷口の艶やかなる粘膜。

パンテラ『俗悪』

2012-12-08 23:53:20 | 音楽
8年前の今日、パンテラのギタリストとして名を馳せたダイムバック・ダレルがダメージプランのパフォーマンス中に銃弾を浴びて絶命した。
パンテラは小学生のころメタルの流れで聴いていたけどギターソロとかあんまり無いし大して速くないから(速い曲もあるけど)メタルって言うよりはラウド/ヘヴィって感じだなとか思ってた(このパラドキシカルな感覚は僕の世代では既に必然だ)。パンテラってとにかく『俗悪』だの『脳殺』だの『鎌首』だのといった邦題が異常なカッコ良さとダサさを演出していて渋かった。で、1枚といったらやっぱり『俗悪』かなあ。『脳殺』もかなり棄て難いんですが。

『俗悪』が出たのが92年。前年には『ネヴァーマインド』があって、この2枚がその後のメインストリームの流れを決定的にしたというのはほぼ間違いがないと思う。つまり曲で言えば"Walk"と"Smells Like Teen Spirit"ということだ。あとメタリカの『ブラック・アルバム』(1991年)も重要だったのかもしれないな。早弾きとテクニックからグルーヴとヘヴィネスへ、という。90年代半ばから00年代初頭にかけての主流を思い出してみよう。ニューメタル(死語)なんてジャンルだってヒップホップ云々以前にこれらが無ければ存在しえなかったはずだ。

パンテラ聴いて無闇に人殺したくなったりとかは、実はあんまりしない。それよりもむしろ生きるためのエナジーを血がドバドバドバドバ出るくらいにブチ込んで苦難多き人生を力ずくでサヴァイヴするためにパンテラはある。賢く生きるということは他人に道を譲ってヘラヘラこびへつらうことのみを指すのでは断じてなく、時には暴れたり、ブン殴ったりしながらもいたずらにそこに安住するのではなくして目を曇らせることのない力への意志と、意志そのものが生み出す圧倒的な「パワー」。幻想と消極的ニヒリズムの脆弱なツガイを真っ向から否定できる数少ない好例。

Patty Waters "Sings"(1965年)

2012-12-01 13:31:38 | 音楽
パティ・ウォーターズはみんな大好きESPレーベルの暗黒部分を代表するシンガーだろう。インプロヴィゼーションにおける彼女の歌唱は壮絶を極めるものだし、ジャズソング、なんつったってとても聞き流し可能な甘っちょろいモンではない。女の情念の極北を知りたければ、絶対に避けては通れないアーティストだ。

"Sings"は、A面とB面ではっきりと趣向が分かれている。A面はパティ本人によるピアノ弾き語り。さりげなく慎ましやかな煌めきを持った小品が揃っている。彼女の場合、どうしても「伝説のカルト・シンガー」的扱いを受けることが多いため、先程僕も書いたような、インプロでの凄絶な歌唱ばかりに注目が行きがちなのだが、このような美しい歌も歌えるということを忘れてはならない。スモーキーな声が心地良く響く。軽く聴いた限りでは黒人女性かと勘違いさせるような、そんな声だ。

そしてB面は、ひたすらに14分間に渡る狂気の世界。ニーナ・シモンなどでも知られる定番曲"Black Is The Of My True Love's Hair"を暗黒の歌姫として、不吉に、不穏に、それでいて美しく「歌う」。特に中盤あたりからの声の放出は爆音で聴いていると歯が痛くなる。これこそが、オノ・ヨーコや、ディアマンダ・ギャラス、リディア・ランチ、JUNKO(非常階段)の源流だろう。バートン・グリーンらによるバック演奏も聴き所だ。ここからセシル・テイラーにだって飛べる。

YURIMARI『Love Love Dreamer』

2012-11-30 02:10:52 | 音楽
「ああ、いたよねー」なんて言われりゃマシ。誰も思い出さないもの、思い出す必要の無いものもあるし、しばしばそういったものは屈折を孕んだペダンチックな自慰行為としか機能しなくなる。それはあまりも虚しいし、自分自身そういった、一種の「芸風」が微塵も無いとは言わぬが、やっぱりそういうのはつまんないと思う。

YURIMARIの音楽が2012年現在でも大好き、という人が居たら是非話してみたい。いや、居たとしてもよっぽど性格の歪んだヤツか、変態かもしれないから、あんまり近寄りたくないかも。

アルバム『Love Love Dreamer』(1999年)はアイドル・ポップス史上に輝く大傑作だ。聴く者の神経を逆撫でしまくる「ガラッパチ歌唱」に、躁病的テンションで絶頂まで達するギミックまみれのサウンド、それに加え、背後に見え隠れどころか丸見えの悪いオトナたちの助平根性。90年代後半では、最も俗悪な音楽の部類に入るかもしれない(ただ、やる気は感じられる)。詞・サンプラザ中野、曲・パッパラー河合という爆風スランプコンビが全14曲を手掛けている。

当時YURIもMARIも16歳の女子高生。女子高生にちょっとエッチな暗喩を使った歌を歌わせているわけなんだけど、こういうのもっと一杯やってもらいたい。何がつまらんって、若い女が安易に同性受けを狙ったものほどつまらんものは無いわけですよ。これはどんだけ非難浴びても断言する。「それは男から見た視点でしかない」とかいう当たり前すぎる反論は拒絶する。そんなもんは「つまんねえんだよ!」の一言で終わる、クソみたいな難癖以外の何物でもない(また、「お前はロリコンだからこういうのが好きなだけだろう!」とかいうアホな意見もあるかもしれないが、僕の定義では、「ロリコン」という人種は女子高生なんかには興味ない。女子高生が好きな男はロリコンではなく一般的な、ごく普通の男だ。それは正しい定義だ)。とにかくつまんねえんだよそういうのは……。昨年のガッキーのアルバム聴けば解るじゃないか、そんなことは。ああいうところから現在蔓延しまくっているチンカス同然の共感至上主義、更にはセックスヘイター的な危険思想が生まれることになるのだと考えると本当に恐ろしい。
「等身大の」とか「身近な」とか「気持ち」とか、マジそういうのチョーキョーミねーわ。あーキョーミねーつまんねーダセー。そんなウダウダウジウジしたもんよりも、露骨なほどオナペット然としたもののほうが何兆倍もカッコイイものであることは明白だろう。そしてそこにこそ女としての強さがあるのではないのか? これを単なる傲慢とするのならもう僕は何も言えないし、言う気もない。アホ臭くて。

その意味で、YURIMARIは滅茶苦茶にカッコイイ存在だ。全曲素晴らしいが、特に13曲目の『未来はコンピューターネットワークの中に』はその女性性が、真にスタイリッシュに、俗悪に、結晶化した超名曲中の超名曲だ。今も聴いてて泣けてきた。

とにかくYURIMARI!!!!!!!!! YURIMARIを聴け!!!!!!!!!! 

YURIMARIにはPerfume、きゃりーぱみゅぱみゅの五億倍可愛くて、五億倍尊くて、五億倍恐ろしくて、五億倍崇高で、それでいて何千億倍もの安っぽさがある。

高橋敏幸『エレクトリック娑婆世界』

2012-11-30 00:13:19 | 音楽
「ロックンロールって何ですか?」

そんなマヌケにして難解にして無益にして有意義な質問をするクソバカな輩の眼前と耳元に突きつけてやるのはいつだって高橋敏幸の『エレクトリック娑婆世界』(1998年)と決まっているのだ。これはサイケではないしパンクではないしノイズではないしインプロヴィゼーションではないし若しくはそれら全てでもある。つまりはロックンロール。

高橋敏幸というロックンローラーの存在を果たしてこのちっぽけで鼻糞みたいな日本とかいう国に住んでいる人口の何%が知っているだろうか? 少なくともmixiの高橋敏幸コミュには僅か僕も含め89人しか確認できない。その事実こそがこの国に住んでいる圧倒的マジョリティがどうにもならないチンカスマンカスチングソマングソであるというこれ以上ない証明になっていることは明らかであるし更にその存在を知りながらその価値を見出せない人間は肥溜めにまみれた腐った醜女の小陰唇の悪臭をビニール袋にたっぷり詰め込んで嗅がせて無理矢理吐瀉物を吐き散らさせた挙句それを喰わせながら市中引き回しの刑に処してもまだ足らないほどの救い難いキリスト教右翼以下のゴミ虫カスブタ野郎女だ。

アルバム冒頭を飾る『追いつめられた青春の爆発』を聴いた瞬間に賢明な人々は気付くだろう。ウォリー・ゴンザレスにもマイケル・ヨンカーズにもジミ・ヘンドリックスにも負けないロックンローラーが日本に居ることを。

David Tudor"Three Works For Live Electronics"

2012-11-29 23:38:58 | 音楽
マセたサブカル中高生から生真面目な現代音楽ファン、現代美術ファンに至るまで、未だに重要視され続けている芸術史上最大の問題作、ジョン・ケージの『4分33秒』(1952年)。この無音の"音楽"を初めて公の場で"演奏"したピアニストこそ、今回紹介させていただくデヴィッド・チュードアである。

しかし僕はピアニストとしての彼の活動については殆ど知らないし、さほど興味もない。やはりチュードアの真価は(ゴードン・ムンマや小杉武久らと共にマース・カニンガム舞踊団の一員として作曲されはじめた)ライヴ・エレクトロニクス音源にある。

中でも72年から81年までの音源を収録した"Three Works For Live Electronics"(1984年)はライヴ・エレクトロニクス、現代音楽、そしてノイズと、どのコンテクストからでもイける超絶壮絶凄絶的悶絶必至の大名盤である。
無機質にして無慈悲な鋼鉄の如き冷たさとストイシズムを孕んだ音塊からは同時にドラスティックなまでの熱さが内在するという矛盾が確認でき、そしてその矛盾は何物をも寄せ付けぬほどの圧倒的な暴力と絶対的な"美"―つまり"パワー"に充ち満ちている。

小杉武久によるアブストラクトなヴァイオリンと妙ちきりんなヴォイスも聴きどころだ。

JOHN & PHILIPA COOPER/The Cooperville Times(1969年)

2012-11-29 23:15:22 | 音楽
日本での知名度はかなり低いが(現地でもどうかは知らんが)これはまさしく隠れたサイケデリック・ロックの名作。
南アフリカの兄妹デュオで、効果音を鏤(ちりば)めた良質なサイケ・ポップを聴かせてくれる。特に幾つかのナンバーでリードヴォーカルを担当する妹フィリパの可愛らしく凛とした声は聴く者を惹きつける。

南アフリカのサイケということでキワモノ扱いされそうだが、サウンドの基盤は英国ブリティッシュ・フォークのソレに通ずるものがあり取っ付き易い。全トラック2分台ということもありあっという間に聴き終ってしまう。

ネットショップの普及で以前より格段に入手しやすくなった「サイケ/アシッド・フォークの"隠れた名盤"」だが、それでもまだ埋もれた作品は星の数ほどある。
ネット通販でそれらを買うのも決して否定しないが、出来れば自分の足で誰も知らないレコードを"発掘"してほしいものだ。

AMON DÜÜL 『Paradieswarts Düül 』(1970)

2012-11-29 22:58:15 | 音楽
アモン・デュールは67年、ミュンヘンにて音楽・反戦といった問題意識でコミューンをつくったアーティスト集団であり、その中には大きく分けて政治志向の人間と芸術志向の人間が居た。芸術志向のほうはのちに「アモン・デュールⅡ」名義でプロフェッショナルな音楽をやるようになる。

有名すぎるアモン・デュールの1stアルバム『Psychedelic Underground』(1969)は中学から高校に上がるまでの一年間、何度聴いたか解らない。訳の解らぬ中学生のクソガキが妄想する「サイケデリック」そのものを体現したような轟音混沌夢想の限りを尽くした音の嵐は、甘美な悪夢として現在に至るまで僕の中に棲みついている。

続く2作目『Collapsing』(1969)は1stのときのセッションから録音されたものであり、より曲としての体裁を重視しているため聴き易いかもしれないが相変わらずノイジーさは健在。これも聴きまくった。

そしてこの3作目である『Paradieswarts Düül』――楽園へ向かうデュールは、これまでの2つとは大きく違うサウンドを聴かせてくれる。まず、アモン・デュールのパブリック・イメージとも言うべき野蛮かつ攻撃的な、聴く者を高揚させるリズムの嵐と電子的なギミックが全く聴き取れない。何だか腑抜けたようなアシッド・フォークである。

で、今これがたまらなくいい。ドラッギーな狂乱の宴は過ぎ去り、新たなる楽園を目指し彷徨するデュール。酒池肉林のあとの虚脱感が与えてくれる浮遊に身を任せるように、延々とギターとパーカッションと歌は続く。クールになった脳味噌と夢の世界が入り混じったままだ。

ゆらゆら帝国がかつて『空洞です』において提示してみせたものを読み解く大いなるヒントにも成り得るはずだ。

ソニック・ユース"SONIC DEATH"

2012-11-29 22:48:25 | 音楽
"SONIC DEATH"の中に渦巻いているものは当然の如くダブでハイパーポストパンク、そして超パンク。83年の欧州ツアーから凶悪な部分だけを繋いで作られたこの作品が、どうにもこうにも愛おしく感じる。この作品が僕はソニック・ユースのアルバムの中では一番好きである。そして、何百回も聴きこむことは義務のような気すらしてくるのだ。ダブとかパンクとかサイケとかノイズとかアートとか何でもいいが、結局この中に全てある気もするし、何物でもない気もする。取り敢えず、この記録を聴き続けることは正しい行為だろう。

コリン・ブランストーン『一年間』(1971年)

2012-11-29 22:36:11 | 音楽
もう2012年もあとわずか……。この一年、僕は有意義に過ごせただろうか? などということを別に考えているわけでもないが、ここのところ久々にずっと聴いているのがコリン・ブランストーンの『一年間』(1971年)だ。これは、本当に素晴らしい。そして哀しい。途方もなく。その哀しみの根源とは、コリン・ブランストーンの「呼吸」にある。

コリン・ブランストーンはゾンビーズ(勿論アメリカのほう)のシンガーである。僕はゾンビーズも非常に好きであるが、サイケデリックという観点から見ると、こちらのソロに断然軍配が上がる。とにかくこの声である。歌である。

僕は常々、ヴォーカルというものは本当に重要だと思っていて、実際、どんなにほかが良くてもダメなヴォーカルのせいで何もかも台無し、ということが実は結構多い。ダメというのはヘタということだ。ヘタというのは音程が取れないとか、そういう意味ではなく、陳腐な物言いを敢えてするならば、魂が込もってないということである。当然、それは力強く歌い上げればいいというものではない。やる気が無さそうな歌でも、そこに魂を感じることだって多々ある。

「魂って何?」と訊かれても正直言葉に詰まって狼狽するばかりだが、ただ一つ解り易く形として現れるのは、「呼吸」であり、声の揺れ具合である。そう、ヴァイブレーションである。その点において、コリン・ブランストーンは完璧だ。

僕はセンチメンタリストではないので、ここにある歌が、ごく自然に歌われたものだとは思えない。それどころか、試行錯誤して、四苦八苦して、まるで血まみれになりながら、死ぬ思いで産み出した歌であるはずだ。それほどまでに細やかな神経が無くては、こんな歌が歌えるはずがない。

自然体であることを意識しすぎるばかりに返ってあざとさを感じさせてしまうヴォーカルが、特に近年のマイナーなSSWモノに多いと感じる。そもそも「自然体」とされた時点でそれはもう不自然であるし、その不自然を自然体であると妄信し更にそれを繰り返すという悪循環になっているのだ。それを抜け出すための、極めて有効な一つの手段が、コリン・ブランストーンのヴォーカルなのではないだろうか。

繰り返すが、『一年間』は本当に素晴らしい作品だ。人間が生きるということが、人間であるということが、そしてそこに発生するサイケデリアが、こんなにも深い哀しみを帯びて、喜ばしく感じられる、そんな作品である。