一日四弦

デカダンレトリヲおかげさまで全員元気だった

活けた花の話

2018-06-01 07:00:00 | 日々の事柄
数日前
イオンの花屋で芍薬、シャクヤクの花を買いました。
大きな固いつぼみである

いつもうまく咲かず、つぼみのまま終わる経験しかないのに、巡ってきた季節に乗じたくまた買った。

レジで花屋の人にうまく咲かせる方法を聞いたら、その人は、そうですね...こうして...、といいながら、つぼみをほぐすように指で押し、そっけなく花をよこしてくれました。

部屋に帰ってからそれにならってつぼみを少し押してから、トイレと玄関に活けた。





国のゆくえに興味がわかない。そう言ったらあきれられるんだろうか。
日本しねの思いも情熱もないまま、河のように日々に押し流されそうになります。責任世代と呼ばれる年齢なのだから、政治経済に関心をもつべきかもしれないけども、それより気になって仕方ないのは、生身の人の心のうつろいの方だった。



進学が決まり実家を出る頃、母が、家族もしょせんは他人なのよ、というようなことを言ったことがある。白い曇りの日だった気がする。
なんてことを、とその時は思ったけども、後々になって、そう言わせてしまった諸々と、その気持ちとをほんのはしっこからわかりかけるとともに、大変にリアルタイムな実感として、その、他人という意味を思い知ります。

自分自身に思い描く将来展望、欲望、願望のたぐいは、もしかしたら努力や腕力でそうなっていけることもあるのに対し、家族はじめ、他人のからむことはそうならないことの方がきっと多い。信頼と期待のちがいもきっと、このへんにある。


このとてもさみしい事実の言いたかったことは、家族、まして や恋人、ましてやメンバー、行き先もわからない他人だからどうせ、ではなくだからこそ、隣にいる今現在が肝心なはずなんじゃないだろうか、ということでした。でも、かなりの時々、それを忘れてしまう。


思うところしかない日々のかたわら、指でほぐしたシャクヤクのつぼみは、二日後から本当に開きはじめました。

ほんのひと押しふた押しで、変わることもあるらしい。これは忘れずにいたい。