P25より
寛文元年(1661年)義公(水戸光圀),深く神道の壊乱をいたみ,今井桐軒に命じて,広く古典秘分を探し,両部習合の雑説を排して,唯一宗源に帰しめ,桐軒日夜これを怠らず,遂に本書をなした。是において神仏初めて判れ,邪正掌を指すようになったが,唯惜しむらくは,浄書未だ終わらず,且つ神代口訣がいまだ未完成であった。津田閑斎によれば,浄写と補闕を命じられたと,書き残している。
而して其の宗廟社稷の弁に,世に(伊勢神宮のことか)内宮は泰伯の宗廟であって,外宮は后の社稷であろうという説に反駁して,
「近来の儒教を学ぶもの,牽強付会を以って本邦を軽んず,造言の罪,以って逃れる所なし,戒めるべき甚だしき也」と言い,唯一の両部弁に,末世に及んで教え弛み,神道衰えて仏盛んなり,邪説横行するを嘆いて,神籍の存するにたよりて,正邪を弁別して精順にかえさなければならぬと説くがごとき,その為学の方向を察するに足るであろう。
P33より,
『大日本史』の三大特徴を特筆しておかなければならない。
1)大友皇子を帝紀に立てる。
2)神功皇后を后妃伝に収める
3)南朝を以って正当となす。
加藤繁博士の説くところによると。
1)壬申功臣伝序にも見えることであるが,天智天皇崩御の後,天武天皇志すまでの間,近江帝を経づして,どこから政令が出されるのか。その近江朝廷と書するところは,豈蓋し明らかなる謂うにあらずや」
「一に旧史を成文を徴し,立てて本紀となす」「私意によって是を断じたものではない」(日本書紀天武天皇紀に,大友皇子を指して,近江朝庭または近江朝とかいているのをさしているのである)
2)神功皇后を后妃伝に収めた理由は,その伝註に書かれている通りに,即ち古事記が仲哀天皇より直ぐに応神天皇に移っていて,その間に神功皇后のことが数えられていないからであった。日本書紀にいたっては,皇后「摂政元年」と明記されている。その書法を厳正なるものとみなし,是を以って后妃伝に収めたのであった。
3)南朝を正当にした理由は,後小松天皇紀の賛にみえ,神器の所在を主とし,しかも神器は必ず名分の正しき所にありという信念を前提としているものであり,神器を物質的に観るものではない。
P37より
明治維新において,注目すべき点は,王政復古の大業に対する『大日本史』の貢献である。それは,従来しばしば言い古されてきたことではあるが,唯一つ渋沢青淵子爵から聞いた逸話をここに披露しよう。
「嘗て徳川慶喜公と伊藤博文公が,共に某大使館に招待されたことがあった。宴会が終了して,やがて人々が次第に散じた時に,たまたまストーブの側に,慶喜公と博文公が残っていた。博文公は之を好機に,慶喜公に質問をしようと考え,実行した。明治維新の際に,幕府は猶相当の戦力を保持していたのにかかわらず,慶喜公は一意恭順,大政を奉還せられましたが。どういうお考えだったのでしょうか。慶喜公は,この博文の質問に対して,答えた。事改まって,申すのもおこがましいが,私はご承知の通り,水戸に生まれたものであります。義公(光圀)以来の教え,子供のときから懇々と説き聞かされてきました。それですので,維新の時も,ただ其の教えに従ったまでです。自分の知恵才覚は用いませんでした。博文は之を聞いて感嘆し,後日渋沢子爵に語られたという。・・・しからば光圀が正保(しょうほう)2年(1645年)に伯夷伝を読んだ感激は,『大日本史』の編集につながり,而して遂に明治維新と謂う大業に対する貢献となったのだ。
P39より
明治以来の科学的研究の前に,『大日本史』は,その光を失ったのであろうという意見に対して,嘗て西田幾太郎博士が述べられた批評を紹介しよう。
「明治以来,我が国の歴史学は,西洋史学の影響を受けて,長足の進歩を遂げたとは,しばしば耳にすることであるが,自分の見る所を以ってすれば,明治大正の間,歴史の名に値するほどの著述は,一つもない。むしろ我々の考えている歴史というものから見て,真に歴史と云ってよいものは,水戸の『大日本史』があるだけである」
これは,昭和の始め頃,京都の自宅に訪ねて,その教えを請うた時のものである。不幸にして当時の日記は戦災のため,烏有に帰してしまい,その正確な年月は分からなくなってしまった。しかし内容の覚書は亡くなっても,その後鎌倉から送られてきた書簡は,今も存している。それは,昭和3(1928年)年11月16日の日付である。上の談話も,同年秋の時のことであろう。
而してその書簡には,
「私共は,従来の歴史化が,徒に些細な考証に流れて,其の背後に,GEIST(ドイツ語の精神の意味)をつかむ歴史といい,叉
「歴史は書と同じく(書は必ずしも、そうではないが)物の形を曲げずして、その背後に、物の精神を見なければならない。物を通じて心を見なければならない」
と述べてある。
かのように考えられる哲学者の目に、『大日本史』こそ、近世に於ける最高の、或いは唯一の「歴史」と映じたのであろう。
寛文元年(1661年)義公(水戸光圀),深く神道の壊乱をいたみ,今井桐軒に命じて,広く古典秘分を探し,両部習合の雑説を排して,唯一宗源に帰しめ,桐軒日夜これを怠らず,遂に本書をなした。是において神仏初めて判れ,邪正掌を指すようになったが,唯惜しむらくは,浄書未だ終わらず,且つ神代口訣がいまだ未完成であった。津田閑斎によれば,浄写と補闕を命じられたと,書き残している。
而して其の宗廟社稷の弁に,世に(伊勢神宮のことか)内宮は泰伯の宗廟であって,外宮は后の社稷であろうという説に反駁して,
「近来の儒教を学ぶもの,牽強付会を以って本邦を軽んず,造言の罪,以って逃れる所なし,戒めるべき甚だしき也」と言い,唯一の両部弁に,末世に及んで教え弛み,神道衰えて仏盛んなり,邪説横行するを嘆いて,神籍の存するにたよりて,正邪を弁別して精順にかえさなければならぬと説くがごとき,その為学の方向を察するに足るであろう。
P33より,
『大日本史』の三大特徴を特筆しておかなければならない。
1)大友皇子を帝紀に立てる。
2)神功皇后を后妃伝に収める
3)南朝を以って正当となす。
加藤繁博士の説くところによると。
1)壬申功臣伝序にも見えることであるが,天智天皇崩御の後,天武天皇志すまでの間,近江帝を経づして,どこから政令が出されるのか。その近江朝廷と書するところは,豈蓋し明らかなる謂うにあらずや」
「一に旧史を成文を徴し,立てて本紀となす」「私意によって是を断じたものではない」(日本書紀天武天皇紀に,大友皇子を指して,近江朝庭または近江朝とかいているのをさしているのである)
2)神功皇后を后妃伝に収めた理由は,その伝註に書かれている通りに,即ち古事記が仲哀天皇より直ぐに応神天皇に移っていて,その間に神功皇后のことが数えられていないからであった。日本書紀にいたっては,皇后「摂政元年」と明記されている。その書法を厳正なるものとみなし,是を以って后妃伝に収めたのであった。
3)南朝を正当にした理由は,後小松天皇紀の賛にみえ,神器の所在を主とし,しかも神器は必ず名分の正しき所にありという信念を前提としているものであり,神器を物質的に観るものではない。
P37より
明治維新において,注目すべき点は,王政復古の大業に対する『大日本史』の貢献である。それは,従来しばしば言い古されてきたことではあるが,唯一つ渋沢青淵子爵から聞いた逸話をここに披露しよう。
「嘗て徳川慶喜公と伊藤博文公が,共に某大使館に招待されたことがあった。宴会が終了して,やがて人々が次第に散じた時に,たまたまストーブの側に,慶喜公と博文公が残っていた。博文公は之を好機に,慶喜公に質問をしようと考え,実行した。明治維新の際に,幕府は猶相当の戦力を保持していたのにかかわらず,慶喜公は一意恭順,大政を奉還せられましたが。どういうお考えだったのでしょうか。慶喜公は,この博文の質問に対して,答えた。事改まって,申すのもおこがましいが,私はご承知の通り,水戸に生まれたものであります。義公(光圀)以来の教え,子供のときから懇々と説き聞かされてきました。それですので,維新の時も,ただ其の教えに従ったまでです。自分の知恵才覚は用いませんでした。博文は之を聞いて感嘆し,後日渋沢子爵に語られたという。・・・しからば光圀が正保(しょうほう)2年(1645年)に伯夷伝を読んだ感激は,『大日本史』の編集につながり,而して遂に明治維新と謂う大業に対する貢献となったのだ。
P39より
明治以来の科学的研究の前に,『大日本史』は,その光を失ったのであろうという意見に対して,嘗て西田幾太郎博士が述べられた批評を紹介しよう。
「明治以来,我が国の歴史学は,西洋史学の影響を受けて,長足の進歩を遂げたとは,しばしば耳にすることであるが,自分の見る所を以ってすれば,明治大正の間,歴史の名に値するほどの著述は,一つもない。むしろ我々の考えている歴史というものから見て,真に歴史と云ってよいものは,水戸の『大日本史』があるだけである」
これは,昭和の始め頃,京都の自宅に訪ねて,その教えを請うた時のものである。不幸にして当時の日記は戦災のため,烏有に帰してしまい,その正確な年月は分からなくなってしまった。しかし内容の覚書は亡くなっても,その後鎌倉から送られてきた書簡は,今も存している。それは,昭和3(1928年)年11月16日の日付である。上の談話も,同年秋の時のことであろう。
而してその書簡には,
「私共は,従来の歴史化が,徒に些細な考証に流れて,其の背後に,GEIST(ドイツ語の精神の意味)をつかむ歴史といい,叉
「歴史は書と同じく(書は必ずしも、そうではないが)物の形を曲げずして、その背後に、物の精神を見なければならない。物を通じて心を見なければならない」
と述べてある。
かのように考えられる哲学者の目に、『大日本史』こそ、近世に於ける最高の、或いは唯一の「歴史」と映じたのであろう。