こちらのブログに久しぶりに書こうと思います。
コロナ禍になり数年、今までの関係がどんどん崩れて、私の数少ない周りにいてくれた
人達とも会えない日々が続きました。
父、母ももういなく、弟はいれど話し相手にはならず、職場と家の往復のみ。
職場は気を許せる人もおらず、逆に貶められる状況でした。
気軽に話せる、なんてすばらしいことでしょう。
私は、今まで見ないようにしてきた色々なことがあらわになり、どんどん従来のネガティブ思考に
拍車がかかっていきました。
酷いことを言うと、旅行やカラオケに一人で行きたくない為にお友達を誘っていました。
長年の友人と思っていましたが、実は友人というか、都合の良い付添人なんじゃないかと
思い当たりました。
多分相手もそうなんじゃないかな。悲しいことですが、コロナ禍になって一度もあちらから
様子を尋ねるメールは来ませんでした。それは私がそのように接してきたから、ですよね。
自分の行いのせいです。
先日久しぶりに会いましたが、もう、心から楽しめませんでした。残念です。
でも、それは私が心を開き、相手を思いやり、そういう態度ではなく、上辺だけのお付き合いをしてきたから
かなと。意図してやっていたわけではないのですが。
どんどん生きづらくなって苦しくなっていきました。
相談する人はいません。
自分を自分で見つめ直すしかありません。
幼少期からの母との関係(母とはなぜか合わないと子供の頃から思っていました)、20才位からいつも自分は変わらなければとなぜか、思っていたこと。
ここではないどこかに幸せがある、そんなことをずっと考えていました。
そのころから、ふとした時に「消えたい」と浮かぶようになりました。砂のようにサラサラと消えれたら。
痛いのが怖いので、実際に行動に移すことはできませんでしたが、折に触れて思うようになりました。
酷い時は、毎日のように。
コロナ禍でそれはどんどん酷くなり、被害妄想もどんどん膨らみました。
なぜ私は愛されないの?
なぜ私は手伝ってもらえないの?
なぜ私は無視されるの?
なぜ私は八つ当たりされるの?
なぜ私は蔑ろにされるの?
ぐるぐると回る思考。
こんなことを考えてたら余計どす黒いオーラが出て、周りに人寄せ付けませんよね?
でも気づいたのです。
自分で、それを選択していることに。
「私は愛されない」
「私は人を頼ってはいけない」
私の2大呪縛です。
幼いころの刷り込みを忠実に守っていたのです。
思い込み、というやつです。
私にはいろいろ苦手があるのですが、それも幼き頃、または何かの拍子に刷り込まれた思い込みで、
例えば小さいころできなくても、大人になったらできることあるじゃないですか?
おばかさんなので、ずっと子供のまま「できない」「怖い」となっていたことは、
実は今は普通にできることだったり、するのです。
思い込み、凄い。
それと私は「恐怖心」が強いようで、薄々感じてはいましたが、新しいこと、新しい人、新しい環境へも
怖いので、中々一歩を踏み出せず、ずっと凝り固まってひとところに居ようとしてしまう。
今の職場でもブラックですが、なんやかんやで10年以上います。
恐怖心。恥をかきたくないという(いらない)プライドも。
ばっかじゃないのー!
と過去の自分に言ってやりたい。
恐怖心が強いゆえに、新しいことをどんどん拒否して、拒絶して、独りぼっちになってしまった。
自分で選択して一人になった。という結論に。
あとずっと私は「我慢」してきました。
私が我慢することでうまくいくなら、我慢できることはしようと。
そんなことをしていたら、人の顔色を窺い、ちょっとでも不機嫌な表情を見つけると
下手にでて、相手の機嫌が直るようにしたりしていました。
そんなことをしても、機嫌が直るなんてことはほとんどないし、相手がそれを望んでいる訳でもなく。
勝手に機嫌を窺って、うまくいかなくて落ち込んで、あほみたい。
先読みするくせも最近出始めて、本当にこれはやばいと。
私はそんなことをしたいわけではないと。
要するに他人軸の人生を選んできたわけです。
人のいいように。自分の意見はない、という。
悲しいですね。
でももう自分を貶めたりしない。大事にする。
私を攻撃するのも許さない。
とやっと思い至った訳です。
わかるのに歳をとりすぎていますが、しょうがない。
私には必要な時間だったのでしょう。
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