またたびエッセイ集

ふと心に刺さった棘のようなもの。
それをきちんとしたコトバにしてみたい。

かけがえのない、今

2005年09月19日 00時36分09秒 | こころ

春の美しい時期は、なんと短いのだろう。 


近所に雑木林の美しい散歩道がある。 
天気の良い春の一日に、ふらりとそぞろ歩きで小一時間。 
私の「太陽電池」は それだけでも充電される。
たった5日後にはこの芽吹きの美しさは失われ、濃い緑が浸食してくるだろう。
そう。まぎれもなく「失われる」のである。
私には、それがまるで永遠に失われてしまうかのように胸が痛むのだ。


人は云う。「春は毎年巡ってじゃないか」と。
『今年がだめなら来年でいいじゃない。』
気軽に言う。

だけど春は何度でも来る、だなんて ただのレトリック。
「去年の春」と「今年の春」と「来年の春」。
ひとつひとつが、かけがえのない、取り返しのつかないものだ。



こんな感覚におそわれるようになったのは
多分 30代半ばぐらいから。
世間的にはまだ大した年齢ではなかったのに、自然や季節に対してやたらと過敏になった。
春に萌えたつ雑木の散歩道にさしこむ、輝くばかりの木漏れ日の美しさにさえ、たまらず涙ぐんでしまうほど過剰にセンシティブになった。
確かにどうかしている。 

だが、何かが私をせき立てる。 


  このひとときは、取り返しのつかないひととき。
  このひとときは、「いのち」のひとしずく。 
  このひとときに対して真摯であれ。 


この一日が another day と同じだなどと誰が言った。 
one of them だなどと。


そう。
春は年に1度 ”しか”めぐってこない。 
それはどういう意味かというと、
ひとはだれも自分の寿命分しか春を楽しめはしない、ということだ。

それは配給の限られた限られた貴重な『資源』。
あなたは今何歳?
例えば40歳だとしようか。
もし80歳で死ぬならあと40回しか春は来ない。
4000回ではなくて40回。
たったの40回。
1から40までなんてあっというまに数え終わる。
目の前の春はそのうちの貴重な1回。


私がこんなに思い詰めたのだから、75過ぎた父親や母親【注】にとっては、この美しい春はどのように映ることであろうか。


この春、父親は都内各所の桜の名所の公園などに精力的に出かけたようである。
「急がなければ」という気持ちになっているのかもしれない。
最近 しみじみ考えるのは そういうことばかりなのである。


人生に
「かけがえのないもの」
「とりかえしのつかないもの」
そういうものばかりが折り重なってゆく。
ひとひら、また ひとひらと舞い散る桜の花びらのように。

 

【注】 2005年秋現在 父は病床で寝たきりとなり
    逝く日を数えるばかりとなった。
    父はおそらくもう一度春を迎えることはないのだろう。




2011年追記:

父は2005年9月23日永眠した。二度と春と味わうことはなかった。
本当にあれが「最後」の春になった。

 

http://chobi256.blog108.fc2.com/blog-entry-225.html


潔い女(ひと)

2005年09月14日 21時07分21秒 | つれづれ

もう10年以上前のことだろうか。
「彼女」はとても印象的だった。

私の仕事はいわゆるIT屋さんであるが、当時「コンピュータ教育」の項目でもタウンページに登録していたので、「彼女」はそれを見て飛び込みでやってきたのである。

ある日かかってきた
「パソコン教えてもらえませんか」
という電話。

私の会社では、個人レッスンなどやっていない。しかも彼女は電話の向こうで「お金がないから1日分しか出せない」という。普通ならば断っているのだが、妙に彼女の様子に興味をそそられた私は、色々話を聞いてみた。
そして当人と相談した結果、1日だけ、料金はたったの1万円で教えられるだけのことを教えてあげる約束をした。
完全なボランティアである。動機は「好奇心」


そして約束の日、「彼女」はやって来た。
見ると、お腹が大きい。
聞けばアメリカから帰国したばかりという。
彼女は20代後半、配偶者の転勤で日本に戻ることになり、一足先に住居探しなどのために帰国したそうだ。
もちろんダンナの稼ぎだけでは暮らせない。
パソコンのプライベートレッスンを受けるのは、日本での就職を少しでも有利にするため。
彼女が渡米前に持っていた僅かなワープロの知識だけでは役に立たないと思ったのだそうだ。
それはそうだろう。この世界は日進月歩なのだから。
「でも1日では大したことは出来ないですよ?」と聞くと、それでもいいのだ、という。
面接で「はったり」をかませられるように、とにかく付け焼き刃でいいからどうにかして欲しい、という。
その迫力にこちらも「やれるだけやりましょう」ということになった。


さて、レッスンの合間に雑談していたところ、彼女は「足立区」に住む予定だという。
なぜ足立区なのか?
その理由を聞くと、これがまた面白い。


子供が生まれる → 生活できないので自分も稼ぐべし 
        → 子供を預けなければ働けない
        → お金はない
        → 公立の長時間保育園に入れるべし
        → 当然、どこも待機児童でいっぱい

ここまでは皆さんにもお馴染みの状況だろう。
普通はそこでフルタイムを諦めたり、親に泣きついたりするのだろう。
ところが、彼女はその先が普通と違うのだ。


「あちこち役所に電話をかけまくるんです!」


そして、絨毯攻撃したあげく、足立区でやっと空きを見つけたというわけだ。
かくして、引っ越し先は足立区に決定。 


素晴らしいではないか。
私はこういう「潔い」人がとても好きである。
自分の目的が大変明確で、その為のメソッドを無駄なく実行できる。
とても筋が通っていて、聞いていてものすごく気持ちがいい。


お金がないからフルタイムで働く。
面接でハッタリをかますために、パソコンのイロハを1日で身につけようと思う。
そのために体当たりで電話帳片手に予算内で望む結果を与えてくれるところを見つけだそうとする。

予算的にも公立長時間保育園が絶対条件。
だから、保育園が空いている土地に自分の方が移住する。


彼女は「実現できないことの言い訳」を絶対にしないだろう。
「地元に空きがないから仕方がない」というのは言い訳で
優先順位を自覚するならば、空きのある土地に自分が移住するという選択肢がある。

誤解しないで欲しいのは、私はすべての人がそういう選択をすべきと言っているのではない。
地元にいたい ということの優先順位がより高いために、そのために公立保育園をあきらめる、またはフルタイム就業を諦める、と、自らの意志で明確に「選択」するぶんには問題はないのだ。

真の理由をごまかして責任転嫁することが潔くない、と言っているだけだ。

彼女のような人がもっと増えたら世の中は大分住みやすくなるのだが。


彼女は今も何処かで元気良く、彼女の息子か娘と生きているのだろう。
そう想像するとなんだかこちらまで楽しくなってしまう。


余談であるが、いつだったか朝日新聞投書欄である専業主婦の投書を読んだ。
専業主婦優遇策(年金掛け金タダなど)を見直すという政府の方針に対する憂慮の投書である。

「結婚したら退職しなければならない会社だったので、退職し、今は子供が出来て働けない。 なのになぜ?
 社会のせいなんだから、責任取ってくれてもいいじゃない!」

たしかこんな趣旨だったはずだ。
 
つまり自分が現在収入がないのは自分のせいではなく、夫や世の中のせい。
だから、自分の保険料は有責者である側が負担してくれるのが当然なのに、なんで後ろ指さされなきゃいけないのだ、というような感覚である。

思わず、苦笑してしまう。そして、「足立移住予定の彼女」のことを思い出してしまった。
おそらくこの主婦に彼女のような人のことを話しても、
「そう言う人は『特別』な人なのよ。
 皆がそんなに『強い』わけではないわよ」

とでも言うのだろう。(この辺、内田春菊の「幻想の普通少女」などを連想しつつ書いている。)

彼女は『特別強い人』でもなんでもない。 自分の人生を自分で選びとって、それを納得して生きている「潔い人」であるだけである。「強い」からそうするわけではない。

そもそも女子社員は結婚したら退職、という方針のその会社を選んだのは誰?
この主婦は30代前半だったから、時代的には他にも選択肢はあったはず。
本人がOL時代に「いつかは寿退社」と思ってだけのことでは?


百歩譲っても、それで風習に従って会社を辞めたのは【自分が選んだこと】であると何故自覚しない?
世の中にはそういう会社方針に逆らって自分の意志を貫く女性はいくらでもいる。選択肢はあったはずだ。
少なくとも 「何か」と天秤にかけて、角を立てない方を自分が選んだはずだ。

     『その方が楽』だから。


だから 「結婚退職」は自分が選んだことであって、誰のせいでもないのである。
結婚したら家に入って欲しいというダンナを選んだのであれば、それも自分の選択。
(もしくは、そういう価値観の男性に「私は家庭的よ」と媚びを売ったのかもしれない。)
全ては「自分のせい」である。世の中のせいではない。
自分が好きで維持している御身分に対して、なんで他人が保護してやらなければならない?

子供が居るということ自体は、本来は働けない理由には全くならない。

それで働けないというのは 自分の中に理由があるのである。
決して世の中のせいではない

専業主婦を選んだのがまるで不本意であるかのような物言いが、中途半端で不愉快である。
いいじゃないの、「専業主婦」で。

「私って働かないですむなら働きたくないし、専業主婦の方が向いてると思うからやってるの。」
・・・そう明言すればよいだけである。
但し、自分の趣味でやってるわけであるから、それをお上や世間に優遇してもらう「権利」があるなどと思い違いしなければいいだけのことなのである。


そう。それだけのことである。

本来 有職者と無職者は 同等だ。
どっちだっていいのである。自分が選んだという自覚と責任さえ持てれば。それが自由というものだ。

「お金がある人に 自分の分まで払ってもらおう」という発想は、乞食の発想だし、とても意地汚くて嫌いである。
 お金がないなら、稼げばよい。単純なことだ。あれこれ理屈をつけて言い訳する必要なんかない。
 病気で動けない人は保護の対象になるが、健康な人を別に保護する必要はないではないか。


自分のことは自分で。

自分の人生は自分で選び、自分で落とし前をつけよう。

働くも働かないも自分の自由。
だけどその結果生じる経済力格差も自分の選んだことである。

・・・・たったそれだけのことである。 なんて簡単なんでしょう!