中国生活の基礎知識~中国史の入門講座~

中国で生活するための基礎知識として、中国の歴史・文化を、楽しみながら学んでいきましょう。

史記の列伝を読む―伯夷・叔斉

2011年10月30日 | 史記
考えてみれば、中国史の講義とは言いながら
必修科目である『史記』の話をしていなかった…。

ただ、クソ真面目に読んでも面白くないので
一番ドラマチックな列伝から
人気人物を拾い読みしようと思う。

まずは伯夷・叔斉ブラザーズをば。

殷代末期、孤竹国という国の王子様で、
伯夷が長男、叔斉は三男。

父親である孤竹王が崩御の際、「三男の叔斉に後を譲りたい」と遺言したのだが、
伯夷は「父の遺言を守らねば」と王位に就かず
叔斉は「兄を差し置いて王位を継げない」と拒否。
挙句の果てに、二人そろって出奔してしまうのである。
結果、国民は次男坊を立てて国王にしたのだが、
(ちなみにこの次男、名前すら残されていない…)

二人は周の文王の評判を聞き、周の国へ行くが
文王はすでに亡く、子の姫発が(文王の次男、後の武王)あとを継いでいた。
だが時は紀元前1046、姫発は殷王朝討伐の準備をしていたのである。

ここで伯夷・叔斉ブラザーズは、なんと姫発を怒鳴りつける。
父親が亡くなって間もないのに、軍を発し、
 あまつさえ主君を討とうとは、なんと不義不忠なことかっっ!!


怒る諸将。それを押しとどめたのが太公望(文王・武王の師匠で軍師)
この二人は義の人です。傷つけてはならんでしょう
こうして、二人は周を離れた。

やがて殷の紂王が死に、周が殷王朝に取って代ったことが知らされる。

オレたちゃ、そんな周の粟は食わん!!
二人は、俗世を嫌い首陽山へと住み着き、周の土地でできた粟を食わず
(粟は当時の貴族の主食だった)
ワラビなどを食べていたのだが、やがて二人そろって餓死したのである…。

「忠臣は二君に仕えず」の代名詞ともされているが、
兄弟による後継者問題の解決方法として
いろいろと日本にも伝えられているお話である。

ちなみに、この故事に大きな興味を持ったのが
江戸時代の徳川光圀、つまり水戸のご老公さまである。

というのも、この方、三男でありながら水戸徳川家を次いでいるからだ。

その理由は
父・徳川頼房が、子どものいない兄二人をはばかり長男出生時に届けを出さず、
尾張の義直、紀伊の頼宣に跡継ぎが生まれたのを見届けた後、
その後生まれた三男・光圀を以って嫡子届けを提出したためであった。

この話を聞くまで、乱行の限りを尽くしていた光圀公、
後を継げなかったお兄ちゃんを思い、学問・徳業にいそしんだという。


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