午後、つれあいと共に日曜ミサにあずかる。
聖堂の中に子供たちのあどけない声が響く。
「わたしのためにこのような子供のひとりを受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」
マルコによる福音。
菊雄…本人が「さん」なしで呼んでくれというから…はまだ式次第がよくわからない。彼はお父様から幼児洗礼を受けているが、ずっと遠ざかっていた。かつて婚約者を9・11で失くして以来のニヒリズム。わたしとの出会いを機縁にまた信仰を共にと願っている。もしかしたら菊雄の画風も変化するかもしれない、という予感。
生意気にならないように、とわたしなりに気遣いながら、絵画論などを彼とディベートする。わたしが時に彼の気に入らない反論などすると、菊雄は眉を軽くひそめて話を逸らしてしまう。消して否、と抑えつけないあたり、ニヒリストの防空壕のような虚淵も垣間見。
長いこと勝手気ままに暮らしてきたひとが、こまやかに家事を手伝ってくれる。これはのろけになる。
人生の連れとして、これから一緒に過ごす時間、心地よい彩りを、とわたしは願っている。
八幡宮の秋祭りで市街は賑やか。この大祭のためにわざわざ帰省した若い衆がドヤ顔して、捩り鉢巻きにきりりと揃いの祭り装束、物見の小さい女の子たちの中には、派手な彩りの、肩あげした着物姿も見えた。何台もの華麗な神輿が町を練り歩き、お囃子がミサの唱和に混じる。
良い1日だった。
感謝しつつ今日を終える。