スールディーヌ・オンディーヌ

水辺に聴いた詩と歌の日記

源氏物語の色彩     一

2015-10-01 16:45:50 | 日記

 王朝、すなわち平安時代の文学に表現された色彩について、多くの成果を残された伊原昭さんは、竹取物語から堤中納言物語に至るこの時代の散文作品における色の造形について、際立った三高峰の聳えることを明示されました。
 第一は宇津保物語。
 第二は枕草子。
 第三の最高峰として源氏物語。
 伊原さんは源氏物語について、以下のように述べておられます。
「この峰において見逃せぬことは、他の作品の場合のように、色が物の形容的立場にのみとどまり、その色による物も、単に物語の中に個々に孤立して散在しているのではない、ということである。すなわち、色が表面に、ただ視覚的な効果をもってばらまかれているのとは異なる。
 色も、色よる物も、そこから生まれる情動も、その多くが作者の意図する目的、それは物語の内容を動かす事象であり、あらかじめ作者によって設定されているものであるが、それに深い連携をもっている。したがって、創作のために設定された範囲の中で色も選ばれ、その対象となる物もえらばれ、さらに情動すら、それに適うものが選択される」(『平安朝文学の色相』)

 色彩が源氏物語において「孤立して散在」しているのではない、とは、読者の興味をそそるただの刺激、単調を防ぐためのアクセントとしてのみ描き込まれたのではなく、人物造形、場面構成、ひいては展開の裏打ち、次の物語を引き出す予兆として作者にあらかじめ認識され、意図されたということです。それは、作者紫式部が、彼女の選び出したひとつひとつの色彩効果を熟知していたからにほかなりません。

 現実世界を顧みれば、色彩は実景のなかで決して孤立してはいません。たとえば建築についてなら、
「われわれの日常生活では、人は単一の色彩だけを観察することはない。目に二つに割ったピンポンの球をかぶせ、外から色光で照らした等質視野では単一の色を見ることができるが、このような状況はふだんはありえない。
 たとえば、われわれが柿の橙をきれいというとき、われわれは橙だけを見ているのではなく、柿の枝の黒や夕暮れの空の淡い紅色を一緒に見ており、意識するにしろしないにしろ、それらとの関係のなかで、橙がきれいだと感じるのである」(乾正雄 『建築の色彩設計』)

 このように、現実世界でわたしたちの眺める色とりどりは、そのリアルタイムの心理や、時々刻々と移り変わる周囲の状況によって絶え間なく変化しています。
 
 源氏物語の世界に戻って探すなら、光源氏が何度か着用する桜襲(さくらがさね)の直衣(のうし)など、好例としてあげられます。
 桜襲は表白裏紅で、裏表かさねた表面の色相は、ごく淡く、とても明るい赤紫になります。いまどきのわかりやすい表現を探すなら、曖昧ですが、パールピンクとも言えるでしょう。
 光源氏はこの桜襲の直衣で、あるときは右大臣家の籐花の宴に招かれ、あるときは大堰(おおい)の明石の君を訪れます。藤花の宴の時間は「いたう暮るるほど」、後者は「隅なき夕日」を背景に、「光る君」の艶姿がほれぼれと描写されています。字面だけ読んでしまうとあっさりうっとりとスルーしてしまう現代人かもしれません。ですが、桜襲という衣裳を身近な実景としていた王朝の貴族女性読者の抱くヴィジョンは、わたしたちとは比較にならないほど、物語の情景の甘いニュアンスを追体験していたはずです。
 どういうことでしょうか?
 それはごく淡く、白に近いほどに明るい桜襲の色調は、同じ直衣装束とはいえ、ここに引用した二つの情景においてさえ、まったく異なる印象を与えるものだからです。一口に桜襲とは言え、とっぷり暮れ方の情景の中で見るのと、夕映えに浮かび上がるそれとは「異なる顔」を見せるのです。
 ということは、源氏物語、ひいては紫式部の色彩意識をより精確に味わうためには、書き込まれた色彩単語、固有名詞だけではなく、その文脈全体の色彩調和を想定する必要があります。

 もともと、色彩はそれ自体単独では美醜のいずれともつきません。そこにはただ個人的な好き嫌いがあるだけです。
 ひとつの色彩は他に複数の色彩と組みあわせることによって、個人的な好悪を越えた「美」効果が生じます。

 それは音楽と似ています。一音ではただの音。楽器の種類によって音質の違いはありますが、それだけです。ところがそこに複数の音を重ねると、和音あるいは不協和音というハーモニーが生まれます。

 

 日々の口ずさみの短歌日記のあいまに、これからときどき、源氏物語と紫式部そのひとについて、色彩という魅惑的な帳をひきあけ、すこしづつ近づいてゆこうと思っています。
 桐壷巻から宇治十帖へ、夢の浮橋へと、作者がたどりついた世界を色彩調和をたよりに捜してゆきます。
 ごいっしょにミステリアスな旅をお楽しみください。