無足場ワンダーランド

題詠100首マラソンとか、サブ的なこと用です

006:困 観賞

2011-08-28 | 題詠2011観賞
006:困はTB241までを鑑賞しました。ありがとうございました。


ほきいぬ (カラフル★ダイアリーズ)
リクエストしていいですか おしまいの儀式は一緒に呼吸困難
 キスをせがんでいるシーンだと受けとりました。
「リクエストしていいですか」とはキスに対してちょっと大仰で、そこが面白みだと思うわけですが。
 慧眼は下句ですね。この、愛は死であるという感覚。塚本邦雄の「馬を洗はば馬のたましひ冱ゆるまで人戀はば人あやむるこころ」を持ちだすのはまあ野暮かもしれませんが。
「儀式」とあるのではっきり心中的なものだとわかるわけですが、キスによる呼吸困難、愛の極まりとしての死というのはやはり私であってもそそられるものがあります。


みち。 (銀塩プロローグ。)
困ってるあの日の僕を助けてもここから先に道はできない
 これは思わず取ってしまいました。
 初句切れと読むか、切れてないと読むかで意味が二重になっているのですが、その重層感が歌にとっていい味になっています。
 あの日の困っている僕と、いまその「あの日の僕」を助けようとして、けれど助けたところでどうしようもないと気づいてしまって困っている「いまの僕」。
 いや、こんなタイムマシーン的な解釈は一般的ではないのかもしれませんが。しかし過去を振り返って、あのときの自分を……という感情は誰にも覚えのあるものですよね。その覚えに働きかけてくる一首だと思うのです。


我妻俊樹 (半ドア)
ねえさんの困り顔さえ黄金で夕涼みどこまでが味方なの
 まず単純に、困り顔に夕陽が照り映えている情景が美しいですよね。まあちょっと夕方=黄金はよくありすぎる気もしますけれど。
 「夕涼み」という「情景」に対して、お前はどこまでが味方なんだと問いかけているのが面白いです。夕涼みの時間帯というのは、光と影の領域が入れ替わっていくときなわけですが、その曖昧な境界を思うときに、「どこまでが」という言葉が響いてきます。
 あとは「ねえさんの困り顔」ですよね。このねえさんを血縁のあるなしなどどう捉えるかは各人によると思うのですが、しかしやっぱり「ねえさん」には「困り顔」が合っている気がします(笑)

005:姿 観賞

2011-08-22 | 題詠2011観賞
005:姿はTB239までを鑑賞しました。ありがとうございました。


音波 (短歌のなぎさ)
そのまんま春が来そうな休日に後ろ姿の猫を見ている
 ぽかぽかと日なたの温かい休日に猫の後ろ姿を見ている、という景を描いているわけですが。
 なんといいますか、猫の後ろ姿=春みたいな響きに感じられてくるんですよね。これは実際に猫を触ったことのあるかたならなんとなくわかっていただけるんじゃないかと思うんですけど。
 あの丸い頭、丸い背中、あったかい体、猫ってやっぱり春のイメージですよね。


帯一鐘信 (シンガー短歌ライター)
どうみても明らかすぎる姿にて二月の雲と古いクーポン
 不思議な魅力があります。どよどよと雪でも降りそうな二月の曇り空のもと、期限切れ(もしくは期限ぎりぎり)でちょっとよれよれになっちゃってるクーポンを手にして、呆然と突っ立っているように私は感じられました。
 上句はこれどういうことでしょうね。クーポンを使いに行くということに対して明らかすぎる姿なのか、あるいはもっと別の、(誰が見ても)明らかに○○な姿、ということなのか。
 下句はいずれも不安をにおわせるイメージの組み合わせなのですが、やっぱり上句はその「明らかすぎる姿」を見て心配しているのでしょうか。


佐田やよい (低速飛行)
地下鉄の窓に四月の違和感が私のような姿で映る
 私には縁遠いものというか、望んで得られなかったものなのですが、新生活というものに対する不安感はいくらかわかります。共感性も高いですしね。
 着慣れないスーツ、あるいは高校の制服というケースもあるのかもしれませんが、地下鉄にも慣れない、慣れないだらけのなかを過ごしている。
 ポイントはやっぱり違和感と私をひっくり返していることですね。私が違和感のような姿で映る、というのが日本語として本来あるべき流れです。
 しかしこの歌では、違和感のほうがフィールドが決まっていて、そこに私が寄せられていっている状況になっています。地下鉄の窓に映った姿というあのぼおんとぶれて浮き上がるような景を思い浮かべると、たしかにこれが「違和感」だと言われても自然に納得できる気がします。

004:まさか 観賞

2011-08-16 | 題詠2011観賞
004:まさかはTB252までを鑑賞しました。ありがとうございました。


黒崎聡美 (ゆびおり短歌)
まさかさまに家々うつす町川のかなしいことはひとつもなくて
 夜の風景を思い浮かべました。暗い川面に、時代がかった電柱灯や家屋の明かりがぽん、ぽんと映っていて。
 なにもかなしいことなんてないなのに、かなしいことがないということが逆にかなしいような、不安なような、そんな収まりの悪さを捉えているのではないかと思います。地方都市が日本の発展の途中で見につけた存在そのものの不安感、とまで言うとちょっと言いすぎでしょうか。
 この歌は震災前に投稿された歌なのですが、震災を踏まえて読みますとまた違う読み味になってしましますね……。
 日本にはいまも以前と同じように家々を映す町川がある一方で、その家々をなくしてしまった町川もあるのです。


月原真幸 (さかむけのゆびきり。)
いまさかのまんなかにいる のぼるのかくだるのかまだきめかねている
 坂の途中に家があるというのでもないかぎり、そこまで登ってきたか下ってきたかというプロセスがあるわけです。
 なのに、登るか下るかを決めかねている。
 これは明らかに妙で、あたかもいきなりぽーんと坂の途中に置かれているとしか言えません。
 言葉として使うだけでなく、状況でも「まさか」を表現しているメタ短歌として面白いです。


我妻俊樹 (半ドア)
さっきから五月の悪口がつづくテーブルにまさかのわたしたち
 素直に解釈しようとするなら、五月に喫茶店かどこかに入って、仲間たちの誰かがその場にいない他の仲間の悪口をずっと続けている――ような感じになつかと思うのですが。
 私は妄想派なので、ただの人間でしかない主体たちがたまたま月神世界の店に迷いこんでしまったようなシチュエーションを期待してしまいます。六月や四月と相席になってしまって、彼らのいう五月の悪口をぞくぞく聞かされている。
 現代短歌では曜日や月の擬人化はそれほどトリッキーではないのかもしれませんが、相席という、日常に起こりうるちょっとした非日常のマジックがやはり効いているのではないでしょうか。

003:細 観賞

2011-08-08 | 題詠2011観賞
003:細はTB261までを鑑賞しました。ありがとうございました。


南野耕平 (ボクといっしょに走りま専科)
細い道でしたが確かに道でした 少し冷たい水をください
 ここまでやって来た苦難がしのばれます。自意識過剰と言われてしまうかもしれませんが、多くの人はやはり、いままで自分がたどってきた道のりを振り返ったとき、楽じゃなかったなぁという思いを抱くのではないでしょうか。
 細い道、そこが山岳縦走の尾根ならば少しの気の緩みも許されませんし、両サイドが壁なり岩で狭まっているなら体にごつごつ擦れて肌が傷だらけになる。
 そういうところを歩き通してきてやっといまここにたどり着いた。そのシチュエーションで、喉に心地良い温度の水を求めるというリアリティがなにより生き生きとしています。


牛 隆佑 (消燈グレゴリー)
電燈は時に暴力的なもの闇のか細さ 君に似ている
 人間を光にたとえることは珍しくないと思いますが、闇にたとえたことにセンスが光ります。
 肝だめしとかキャンプとかですごい強い懐中電灯を持ってくる子がたまにいますが、その子がひゅんとスイッチを入れた途端の闇の無くなっていく様はいまでもよく私も憶えています。暗いのは恐かったですからそのときはそれですごい安心しましたし、その電灯をうらやましいなと思って見ていたわけですが。
 有無を言わさず闇を駆逐する光、その駆逐の果てに、端のほうで闇が細く残っているわけです。それを見て主体は、愛しい人のことを思いだした。
 うーん、けして普段から明るいかたではないのでしょうね。でもだからこそ愛しいということだってあります。みんなが笑っているときにそのかただけあんまり笑っていなくて、それゆえに気にかかり……みたいな。
 相手のパーソナリティまでふわっと想像させてしまうことはこの歌の魅力であります。


たた (たたたん、たたたん、たた短歌 題詠blog)
塾帰りだったのでしょう糸よりも細くチーズを割いていました
 上句は類推なのに、そこから下句で断定に向かっているリズムが不思議で気になりました。
 これはちゃんと読むと主体の回想なんですよね。つまり、チーズを割いている場面は憶えているけれど、その前に至る部分の記憶があやふやで、確定的なことが言えない。当時の生活習慣・チーズを割いていたときの心理(ストレス)からたぶん塾帰りだったんだろうな、ぐらいの感じ。
 神経症的と言いますか、さけるチーズを食べることよりも割くことを目的にしている具体がユニークで面白いです。塾でいつもなにかよくないことがあったのでしょうか。
 作者本人の意図とはずれていると思うのですが、塾帰りの「帰り」に引きずられるかたちで、私は家ではなく帰り道の場面を想像してしまいました。コンビニでさけるチーズを買って、歩きながら、バスや電車に乗りながら、もくもくとチーズを割いている。そこまでいくと本当に怖いですね。怖くていい歌です。

002:幸 観賞

2011-08-03 | 題詠2011観賞
002:幸はTB266までを鑑賞しました。ありがとうございました。


西巻真 (ダストテイル-短歌と散文のブログ-)
幸福論のやうなよこがほあらはれてとつぜん「きつと春です」と言ふ
 論のような横顔というのが面白い。単純に幸せそうな顔というのではなく、論とつくことでいろいろな想像が膨らみます。
 春というのは四季のなかでやはり一番幸福感に満ちている季節だと思うのですが、それを横から突然現れて言われるとなると、いかに真実であってもちょっとぎょっとしますよね。
 そしてこの歌はきっと季節としては春でないときだと思うのです。「きっと」ってつけているくらいだからその横顔に人にも推論的な部分がまだあって、それでも「春です」って言いたくなるくらいのことは起きていると思うんですけど、それさえも幸福のなかであるがゆえの思い込みで……


紗都子 (羽うさぎの日記帳)
泥はねのブーツにもある幸せを冬の舗道にさらさら零す
 以前拙歌で『廃ビルの影うつくしくなにものにもいつしか訪れる黄金期』というのを作ったことがあるのですが、本来そこにプラスのものなどなさそうなところからプラスのものを見出していくというのは、短歌における魅力的なところでしょう。
 乾いた泥がブーツから零れているようにも見えますが、「さらさら」というオノマトペに注目すると、少なくとも泥でないものも同時に零れているようです。幸せとありますが、これは泥と関係なく、ブーツであれば誰でも備えているようなものでしょうか。あるいはブーツに限らず、有機物無機物含めた全物体にあるようなものかもしれません。
 泥で汚れてしまっているけれど、そういうものでもひとつの確かさとして、冬の寒い舗道にさらさらと零していく。情景が美しいです。


ひぐらしひなつ (エデンの廃園)
膝についた砂を払えば幸福の遠景として立つ無人駅
 地面に膝をついていたんですよね。あるいは転んだのかもしれませんけど。とにかく膝を起こしながら、そこに付いていた砂を払った。
 その顔をあげるかあげないかの瞬間に、遠く、無人駅が見えた。
 無人駅って聞いてだいたいどういう感情になるのが一般的なんでしょうか。さびしいとかボロいなとかなんかそんなあたりがよくあるところだと思うんですけど、この主体はわりと幸福と無人駅を近く結びつけている。そう感じる心境って、どういったものになるのでしょう。ここに想像の余地があり、面白い歌になっていると思います。
 やっぱりここでもマイナスに扱われがちなもの(無人駅)から、プラスのものを見出していくことが行われているんですよね。無人駅はさびしくてボロいかもしれないけど、少し見方を変えると、悠久の安穏を得てその地域の花鳥風月とたわむれているかもしれない。

001:初 観賞

2011-08-02 | 題詠2011観賞
001:初はTB280までを鑑賞しました。ありがとうございました。


新田瑛 (新田瑛のブログ2)
繋がれたままの記憶を(初期化します)袋小路の奥へ(さよなら)
 パーレンによるジグザグ感が楽しい。袋小路の奥へ進めることが初期化するための行いと読めるわけですが、DVDとかBDをプレイヤーに挿入するときの感じを思い出してしまいました。初期化ってデジタル用語だったんだとふと気づく面白さ。


夏樹かのこ (鹿の子帳)
なにもかも初めてになるまっさらの朝を齧った最後の四月
 ポイントは「齧った」。私はどうしても林檎を想起してしまうわけですが、その林檎の赤く丸いシルエットが朝の太陽と重なってきます。
 朝を丸ごと呑みこんで力にしていく、新しい時を歩まんとする主体の決意感が見えてきて、ちょっと勇気をもらうような。


砺波湊 (トナミミナト2011)
「初めてだった?」「初めてだった!」と笑いあう階段に足音を撒き散らし
 同性の友だちの会話と思われます。恋愛の歌の多い題でしたが、直接的な表現をかわしつつ、思春期のあのなにもかもが特別に思えたころの高揚を見事に切り取られています。