最終回をアップするまでに、かなり時間が空いてしまいました。その間、大掃除を10日間に渡って行い(もう屋根から壁から床から、家具は言うまでもなく、掃除しまくりまして、2キロ痩せました)、その後、村上春樹さんの「朝日堂」エッセイ、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』を読んでいました。昔から春樹さんのエッセーを殊の外喜んで読んでいまして、途中で止められないのです。初めは『村上ラジオ』から始まり、その後、『村上さんのところ』などなど。それが間抜けなことに、私はまだ『村上朝日堂』(このタイトル絡みで出たエッセイ集の最初の本)をまだ読んでいないことに一昨日気づいたのです。またハードオフで買ってこようっと。
『資本論も読む』の第十五回のタイトルは、「「わからない」を「わからない」として味わう」です。
ここまでで宮沢さんは連載を一年以上続け、資本論の第一章である商品論の部分を読み終えました。この回で、連載していた雑誌が休刊になり、新たに別の雑誌に連載をすることになったと報告されています。ただ、添付の日記の部分で、最初に連載していたのは、(経済情勢を扱っている)経済誌で、その中で(経済に関する本である)資本論を読むという連載をしていたから(そして、その本を読んでも理解できないことを報告していたので)「冗談になった」のだと、彼らしい言葉で述べています。でも、読んで連載をしてみて「ほんとうによかった」と書いています。
何が良かったのでしょうか?タイトルの通り、「わからない」を「わからないとして味わう」ことができて良かったのでしょうか?それとも、一通りは読んでみたので良かったのでしょうか?一部でも理解できたから良かったのでしょうか?それは分かりません。
私はこの宮沢さんが書いた『「資本論」も読む』の最大の功績は、「資本論の商品章を読んでみたが、よく分からなかった」ということを記録してくれたことにあると思っています。これは、宮沢さんが意図したのかどうか分かりませんが、この本は、「資本論を読んでみたが、わからなかった、ということがわかった」ことを味わう本なのです。
しかし、よく考えてみますと、理解できなかったということを書いている本というのは、きわめて珍しいわけです。どうしてなのかと更に考えてみると、意外にすぐにその答えはわかります。そんな本を読みたいと思う人はあまりいない、つまり、そんな本を出版してもあまり売れないからです。そりゃ、そうだ。
普通、人は本を読んで何らかの理解なりプラスの効用を得たいと思うわけです。小説なら、そこから様々な感情を味わったり、はらはらしたり、どきどきしたり、ほっこりしたりしたいわけです。他のことをしていては得られない、感情の動きなどを味わいたいのです(ま、他の効用を求める場合もあるでしょう、例えば、部屋に飾ってみたいなど…世の中には本当に本をディスプレイ用に買い求める人がいるようで、オークションサイトには外国語の本が「ディスプレーにどうぞ!」などと、まるでその本の第一効用が飾り付けであるかのような宣伝文句によく出会います)。しかし、人がある本を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読んでみる、という人はあまりいないのです。
上記の効用、すなわちこの本に関して言えば「人が資本論を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読む」という効用を得るために、この本を購入した人いるとしたら、つまり、結果的に上記のことを知るのではなく、そのことを目的に購入する人がいるとしたら(つまり宮沢さんのファンだからとか、くだらない内容のエッセーが大好き——私もそうですが——だからなどという理由意外で購入する人がいるとしたら)、それは以下の三つの立場の人しかいないでしょう。
おそらく一番多いのは、資本論の入門書と勘違いして買う人でしょう。あの宮沢さんが書いたのだから、おもしろおかしく解説してくれるのだろう、と期待して買った人でしょうね。もちろん、その期待はまったくもって外れるわけですが。でも、これをきっかけに、「やはり心して資本論に取り組まなければならないな」と意志をより強固にもったり、「そうか、資本論にはかなり擬人的な表現が登場するんだな」とか、本質的な理解に近づく上で励みになることもあるでしょう(となれば良いんだけど)。
もう一つは、「私もかつて資本論を読んでみて理解できなかったのだが、他の人も理解できなかったということを知って、安心したい」と思って購入する人です。つまり、バカは自分だけではないのだ、とか、自分の頭の程度も捨てたほどではない、ということで納得したい人です。あるいは逆に、マルクスっていうすごい人がいると聞いて、資本論を読んでみたけど、やっぱり理解できないからマルクスはすごい、と納得したい人でしょうか(そんな人がいるか?)。
こういう人たちに、私が一言いいたのは、実は資本論の商品章の理解は、本当は誰にも、根本的には理解できない内容だということです。これはマルクスも含めてそうだ、ということです。ここには人間の思考にそぐわない内容が書かれているのです。ですから、人間の思考を保ったまま理解しようとしてはならないのです。そうすると、理解できないから私は大馬鹿だ、ということになるのです。商品は人間の思考のようなことをしていますが、人間の思考とは逆の仕方で思考のようなことをしています。ですから、人間は本当は商品のやっていることを、外から捉えることはできますが、同じ様に理解することはできません。それは量子の動きを我々が明確に捉えることができないのと同じです。推測ができるだけです。可能なのは、「こうでなければ(こう推測しなければ)、こうならないはずだ」、という段階の理解までです。こういうことが今まで言われなくて、理解したつもりになっている人、あるいは、理解できていないと自覚しても、何らかの理由で執筆をせざるをえなくなった人が、資本論の解説書を書いてきたので、資本論の商品章の理解の難しさは、努力すれば理解できるというものではなく、人間である以上、根本的な理解はできないという種類の「理解の難しさ」なのだということが理解されてこなかったのです。この手の本を読んだ人(私もかつてそうでした)が、解った気になってしまうということが延々と続いてきたのではないでしょうか。そして思い返してみて、何が理解できたのか分からないという事態が。非難するわけではないですが、最近では漫画まで登場しています。絵で商品の本質が描けるわけもなく、当然のことですが、商品論に関しては描写がありません(なお、『マルクス・ガール』という2巻本の漫画がありますが、これはマルクスとは全く関係がなく、主人公の女の子の部屋の壁にマルクスが描かれているというだけで、美術部の恋愛話でした。オークションで落として読んでみてびっくりした。しかもストーリーも何もない。著者が第二巻の冒頭に「マルクスとは関係がない」と書いていますが、だったらマルクスガールって名前もやめろよって思ってしまいます)。
もし通常の意味で理解ができない理由があるとしたら、それは前にも書きましたが、「相対」とか「等価」とか「抽象」とか「形態」など、専門用語を形成している語幹と申しますか、一部の語句の根本的な意味を理解しないまま読んでいこうとするからでしょう。これは私自身がそうだったからなのですが。ヘーゲルの翻訳家である牧野紀之氏は、ある語を理解しようとする際、その語の反対語を念頭においてみると良いと書いています。「相対」の反対語は「絶対」です。絶対とは単独で存在しうることです。となると、相対とは他が存在しないと存在できないという意味になります。相対的価値形態とは、自身で価値を表現することが出来ないが故に他の商品の形態で価値を表現するしかない形態ということになります。このように語の意味を大切にすることです。
さて、二つ目のタイプは、私のように、資本論のどこが理解しづらいのか、自分の経験だけではなく、他人の経験も知りたいと思って買う人ですね。しかし、こういう人は、その後、資本論に関する本を執筆したい人など、資本論に関して本当に理解したいと思っている人ですから、ほとんどいないでしょうね。しかし、本当にこの『資本論も読む』の効用があるのは、これなのです(もちろん、「ばかばかしい」とか「くだらない」と思いつつ喜んで読むというのでも良いのですが)。残念なのは、どこが理解できなかったのかということが詳しく書かれていないことですね。推測ですが、ほとんどすっとばしていた価値形態論の部分が、やはり理解できなかったのでしょう。理由は上記の通りです。宮沢さんほどの知性のある方が、通常の意味での理解が及ばなかったわけではないと思います。引用もほとんど無いので、引用しようもなかったのだと思えます。
今回は、最後でもあり、資本論の理解に関する回でもありますので、もう一つ書いておきます。それは、翻訳について、です。
私は大学の一回生の頃から、資本論の商品章を理解したいと思いました。なんとなく理解したつもりになることを許さない、マルクスのこの文章の意味を理解したいと思いました。しかし、本当にマルクスの言うことを理解したいのであれば、翻訳本を読んでいるだけではダメだと思ってもいました。
翻訳は当然のことですが、翻訳者が間に入ります。はたして翻訳者が正しく翻訳しているという保証はあるのでしょうか?恐らく、世界中のどこでも、翻訳の比較考証が行われることは稀でしょう。本当に翻訳が正しくなされているかどうかを知ることができる人は、皮肉にも、翻訳を必要としない人でしょう。しかし、本当は、そういう人が、存在する翻訳の是非について議論を展開してほしいものです。
資本論についてではありませんが、日本での著作権が切れた途端に量産されることになった『星の王子さま』の翻訳本を比較検証した、加藤晴久さん著『憂い顔の『星の王子さま』』という本があります。結果、多くの本がまさに王子さまを憂い顔にさせるだけの力をもった翻訳であった、ということが分かります。私はフランス語はほとんど理解できませんが、論理展開からして、加藤さんの書いていらっしゃることが正しいということは推測できます。
加藤さんは「外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件として、以下のように書いています。
「文学作品とは限らないが、外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件は原書と翻訳書を比較して、まず翻訳の正確さを検証すること、次いで、翻訳が正確であるだけでなく、原文の味わいを、それにふさわしい日本語、いろいろな意味で「よい」日本語として映しているかどうかを検証することである。」
加藤さんは、この本を書くにあたって15冊の翻訳本を全て検討しています。私もほぼ同数の資本論翻訳本を打ち込み、検討しました。私の場合、ひとまずこの点はクリヤーしていると判断しても差し支えなさそうです。
しかし、「翻訳の正確さを検証する」のは、どうすればいいのでしょうか?その外国語の文法や語彙に通じることが必要なのは当たり前として、やはり、そこに書かれている内容を正確に理解して、論理に破綻が無いということを確認できることでしかないでしょう。
私が価値論を誰よりも理解されていると考えている榎原均さんの本もまた、とてつもなく難しく、なかなか理解できませんでした。それが、仕事を辞めて、榎原さんの著作にでてくる文章を、関連する用語毎に抜き書きしていくと、徐々に理解できるようになってきました。その時、私は、結局資本論の内容ではなく、資本論で使用されている、専門用語や論理展開が理解できないではなく、専門用語を形成している語の一つ一つに対する理解や配慮が足りなかったがために理解できないのだと気づいたのです。例えば、「抽象的・人間的労働」という専門用語は、これを丸ごと一気に理解しようとするのではなく、例えば「抽象」という言葉を理解しなくてはなりません。この場合の「抽象」は、日常的に頭脳で行う抽象という作業ではありません。頭のなかにある労働などということになれば、まさに観念論です。そこでヘーゲルの研究者であった許萬元さんなどの著作も読むと、この場合の抽象とは「現実的に行われる抽象」であることが分かってきました。こういう理解の仕方は「抽象的・人間的労働」あるいは「抽象的人間労働」などというセットフレーズにしてはできないのです。
許萬元さんは、既に亡くなったヘーゲル研究家ですが、このようにヘーゲルの理解もまたマルクスの理解においては重要です。マルクスはヘーゲルの弟子に帰ることによって、商品の分析に成功したのです。例えば、ヘーゲルにおいて「抽象」とは、まさにマイナスイメージをもっている言葉です。そのニュアンスをマルクスもまた引き継いでいます。「抽象的・人間的労働」など、本来は存在してはならないのです。
また、村上春樹さんは、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中の「趣味としての翻訳」というエッセーで、「翻訳の本当の面白さは、優れたオーディオ装置がどこまでも自然音を追求するのと同じように、細かな一語一語にいたるまでいかに原文に忠実に訳せるかということに尽きる。たとえばスピーカーに即していえば、聴く人に「ああ、これは素晴らしい音だな」と思わせるのは二級品、まず「ああ、これは素晴らしい音楽だなあ」と思わせるのが、本当に一級品だ。」と、すばらしい比喩を用いて書いています。しかし、「たとえば」の前後の文は、同一の意味になるのでしょうか?前の文は一語一語の忠実性を語っているのですが、その「一語」は、後の文では「音」に当たらないでしょうか?恐らく春樹さんがおっしゃりたいのは、関口存男というドイツ語の大家の言葉にしてみれば「訳というものは、部分的な意味よりは、むしろ文の勢を伝えることが第一義である」となるのでしょうか?全体が部分と響き合い、一つの作品になるようにせよ、ということでしょう。翻訳者は優れたスピーカー、ないしはオーディオ装置であるべきで、音楽を鳴らす際にスピーカーなり装置の存在を意識させてはならない、ということでしょう。
資本論を理解するのに、全ての人がドイツ語やヘーゲルをマスターしなくてはならない、などと言うつもりは全くありません。私はそれまでに何十年と何らかの形で資本論に直接・間接に関係する本を読みましたし、直接資本論に関わった時間で言えば何年も他の仕事をせずに費やしてきました。そんなアホなことができる人はもう必要ありませんし、今のご時世、なかなかできません。そしてそのアホは、可能であれば、私は上記のようなことを踏まえた翻訳者・解説者となりたいと思っています。みなさんが信頼して読んで頂けるような本を出したい。そして資本論を「ああ、これは素晴らしい論理展開だなあ」と思ってもらえるような翻訳書を出したいと思っています。
現在のところ、翻訳の方は来年中に一応の翻訳を終え、読み直しや追加原稿などを書き、表紙作りをして、再来年の中頃に出版する予定です。その後、その翻訳を使って、一年後に解説本を出版したいと思っています。後3年程度は、このアホなことに時間を捧げます(私にとっては至福の時間ですが)。
私は、その解説本では、宮沢さんのこの本を出来る限り引用したいと思っています。彼が脚本家であるが故に、今まで「経済学者」が目をつけなかった、あるいは、目を付けられなかった箇所に目を付け、それを取り上げているという素晴らしい面が存在する、とはこれまでも書いてきましたが、極端なことを言えば、大方の経済学者よりも、宮沢さんは商品論の本質に迫っていました。思えば、マルクスはシェイクスピアが大好きでした。そういう演劇面というのは、ひょっとしたら資本論の商品章の部分に何らかの影響を与えているのかもしれません。ただ、宮沢さんは理解をする上で、人間の思考という枠に収まって理解しようとしたので、「理解できていない」と思えたのだと思います。そういうプラス面も、また、正直にお書きになられている理解できなかった面についても参考にさせてもらいながら書いていきたいと思っています。
さて、宮沢さんの追悼として始めた連載ですが、これにて終了します。第十五回までとはいえ、この『資本論も読む』に関してここまで時間をかけて文を連ねたものは日本中捜しても他にないと自己満足をして(誰も捜さないと思うけど)、追悼の弁とさせていただきます。
宮沢さん、ありがとうございました。今後も『資本論も読む』を私は読みます。