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マルクスとヘーゲルの思想・日常生活で感じたことを、エッセイ風に

翻訳 現状報告

2023-11-23 17:23:29 | マルクス・ヘーゲル

ごぶさたしています。

『資本論初版』の翻訳で、一区切りがついたこともあり、自分の防備録、兼、近況報告として、ブログを久しぶりに書きます。

翻訳の方は、8月末に、初版商品章、初版商品章の注、付録、初版交換過程章、初版交換過程章の注と、目指す部分の訳出を全て行いました。9月から訳出のチェックに取り組み、先ほど、初版商品章と初版商品章の注のチェックを終えました。

今まで出版された初版の翻訳本の全ての文に目を通し、参考になる場合には現行版の訳本(4冊)にも目を通しながら、最善の訳を目指しました。私自身の感覚によってしまいますが、現在使用されている日本語に馴染みやすいことを目指す一方で、簡易にすることが目的ではないので、ドイツ語の構造に出来る限り忠実にすることを旨として、出来る限り、日本語とドイツ語のバランスを取ろうとしています。

予備校講師をしていた頃は、テキスト作成チーフとして、訳文のチェックの最終責任を負っていましたが、そのことを思い出しながら、自分の訳文のチェックをしていました。私は専ら私大の長文を扱うテキストを担当することが多く、26歳で講師になり、その翌年にはテキストスタッフになり、その翌年には新たに作成されたテキスト作成チームのチーフになり、それからずーっと、20数年にわたって長文を扱うテキストの執筆とチェックを行ってきました。

そんな調子で英文と格闘していたのですが、今回、マルクスのドイツ語の訳出をするにあたって、ドイツ語の文法の学習を2012年から始めたにも関わらず、なかなか文の構造が取れないということが、たまにありました。英語においては、動詞と主語がひっくりかえったりする「倒置」が出現するのは稀で、文法の授業でも例外的なものとして扱うことになっていましたが、ドイツ語は寧ろ「倒置」が当たり前なんです。ただ、名詞の性とそれに対応する冠詞の形態がきちんと決まっていますので、名詞の性さえ分かれば、どの要素であるかは分かるわけですが、そのためには、その名詞の性が男性か女性か中性かを知らないといけません。ですから、当然、ドイツ語を学び直すに当たって、単語とその性を冠詞を含めて覚えることを始めましたが、ドイツ語の単語集に掲載されている単語は殆どが日常生活で使用する単語で、資本論で登場する単語は、ホントに僅かしか掲載されていません。数年努力しましたが、結局単語を覚えることに専念することはやめました。辞書を引き引き頑張ることにしました。

都合10冊程度の訳本を参考にしながら、全て新たに訳出しましたが、本当に不思議なのは、その訳者の内、牧野紀之さんと長谷部文雄さん以外は、翻訳に当たって、ここはこう解釈した等の感想なりを残していないのです。長谷部さんも『資本論随筆』という本で語彙の訳出に関して数点取り上げているだけで、文構造や内容などに関しては全く書き残していません。後日読んだ『回想の長谷部文雄』という本の中では、本人は「職人でありたい」と言い続けて、結局資本論に関する注釈なり解説なりは書きませんでした。その代わり、訳本に関しては何度も改訂しています。『原典対訳 マルクス経済学レキシコン』という抜粋形式の訳本を出した久留間鮫造さんも、著作の方で一部(例えば「二者闘争的」と訳すべきか「二重性」と訳すべきか、等)に関しては述べていますが、ほとんど書いていないに等しい。牧野さんくらいです、まともに疑問に思ったことを注で書き残しているのは。いや、本当に翻訳をした者は、疑問に残っていることは書き残して、後世の者にその解決を委ねないといけないと思います。

ということで、今度出版する訳本では、私が分からないと思っているところと、他の訳者と異なるところ等々、訳出面に関することをわんさか掲載するつもりです。つまり、資本論の翻訳に関しては、まだ解決されていないところがあるということです。

とりあえず、一応のチェックが終了したら出版しようと思っていましたが、やはり現行版(第四版)の訳出をしないと、初版の意義が半減するという思いが強くなってきました。ということで、初版の訳出チェックをしたら、次は現行版の訳出に取り掛かることにしました。来年の前半はそれに時間を費やすことになります。その後、チェックを経て、初版との対照をして、なんらかの形で、初版と現行版をまとめてみたいと思うようになりました。まあ、初めの計画が65歳までに出版と思っていたのです、それよりは早くできそうです。


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宮沢章夫さんを悼む(18) ——『資本論も読む』を読む 第十五回——  とりあえず、最終回

2022-12-20 16:21:07 | マルクス・ヘーゲル

最終回をアップするまでに、かなり時間が空いてしまいました。その間、大掃除を10日間に渡って行い(もう屋根から壁から床から、家具は言うまでもなく、掃除しまくりまして、2キロ痩せました)、その後、村上春樹さんの「朝日堂」エッセイ、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』を読んでいました。昔から春樹さんのエッセーを殊の外喜んで読んでいまして、途中で止められないのです。初めは『村上ラジオ』から始まり、その後、『村上さんのところ』などなど。それが間抜けなことに、私はまだ『村上朝日堂』(このタイトル絡みで出たエッセイ集の最初の本)をまだ読んでいないことに一昨日気づいたのです。またハードオフで買ってこようっと。

『資本論も読む』の第十五回のタイトルは、「「わからない」を「わからない」として味わう」です。

ここまでで宮沢さんは連載を一年以上続け、資本論の第一章である商品論の部分を読み終えました。この回で、連載していた雑誌が休刊になり、新たに別の雑誌に連載をすることになったと報告されています。ただ、添付の日記の部分で、最初に連載していたのは、(経済情勢を扱っている)経済誌で、その中で(経済に関する本である)資本論を読むという連載をしていたから(そして、その本を読んでも理解できないことを報告していたので)「冗談になった」のだと、彼らしい言葉で述べています。でも、読んで連載をしてみて「ほんとうによかった」と書いています。

何が良かったのでしょうか?タイトルの通り、「わからない」を「わからないとして味わう」ことができて良かったのでしょうか?それとも、一通りは読んでみたので良かったのでしょうか?一部でも理解できたから良かったのでしょうか?それは分かりません。

私はこの宮沢さんが書いた『「資本論」も読む』の最大の功績は、「資本論の商品章を読んでみたが、よく分からなかった」ということを記録してくれたことにあると思っています。これは、宮沢さんが意図したのかどうか分かりませんが、この本は、「資本論を読んでみたが、わからなかった、ということがわかった」ことを味わう本なのです。

しかし、よく考えてみますと、理解できなかったということを書いている本というのは、きわめて珍しいわけです。どうしてなのかと更に考えてみると、意外にすぐにその答えはわかります。そんな本を読みたいと思う人はあまりいない、つまり、そんな本を出版してもあまり売れないからです。そりゃ、そうだ。

普通、人は本を読んで何らかの理解なりプラスの効用を得たいと思うわけです。小説なら、そこから様々な感情を味わったり、はらはらしたり、どきどきしたり、ほっこりしたりしたいわけです。他のことをしていては得られない、感情の動きなどを味わいたいのです(ま、他の効用を求める場合もあるでしょう、例えば、部屋に飾ってみたいなど…世の中には本当に本をディスプレイ用に買い求める人がいるようで、オークションサイトには外国語の本が「ディスプレーにどうぞ!」などと、まるでその本の第一効用が飾り付けであるかのような宣伝文句によく出会います)。しかし、人がある本を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読んでみる、という人はあまりいないのです。

上記の効用、すなわちこの本に関して言えば「人が資本論を読んだ結果、よく分からなかったということを知るために、その本を読む」という効用を得るために、この本を購入した人いるとしたら、つまり、結果的に上記のことを知るのではなく、そのことを目的に購入する人がいるとしたら(つまり宮沢さんのファンだからとか、くだらない内容のエッセーが大好き——私もそうですが——だからなどという理由意外で購入する人がいるとしたら)、それは以下の三つの立場の人しかいないでしょう。

おそらく一番多いのは、資本論の入門書と勘違いして買う人でしょう。あの宮沢さんが書いたのだから、おもしろおかしく解説してくれるのだろう、と期待して買った人でしょうね。もちろん、その期待はまったくもって外れるわけですが。でも、これをきっかけに、「やはり心して資本論に取り組まなければならないな」と意志をより強固にもったり、「そうか、資本論にはかなり擬人的な表現が登場するんだな」とか、本質的な理解に近づく上で励みになることもあるでしょう(となれば良いんだけど)。

もう一つは、「私もかつて資本論を読んでみて理解できなかったのだが、他の人も理解できなかったということを知って、安心したい」と思って購入する人です。つまり、バカは自分だけではないのだ、とか、自分の頭の程度も捨てたほどではない、ということで納得したい人です。あるいは逆に、マルクスっていうすごい人がいると聞いて、資本論を読んでみたけど、やっぱり理解できないからマルクスはすごい、と納得したい人でしょうか(そんな人がいるか?)。

こういう人たちに、私が一言いいたのは、実は資本論の商品章の理解は、本当は誰にも、根本的には理解できない内容だということです。これはマルクスも含めてそうだ、ということです。ここには人間の思考にそぐわない内容が書かれているのです。ですから、人間の思考を保ったまま理解しようとしてはならないのです。そうすると、理解できないから私は大馬鹿だ、ということになるのです。商品は人間の思考のようなことをしていますが、人間の思考とは逆の仕方で思考のようなことをしています。ですから、人間は本当は商品のやっていることを、外から捉えることはできますが、同じ様に理解することはできません。それは量子の動きを我々が明確に捉えることができないのと同じです。推測ができるだけです。可能なのは、「こうでなければ(こう推測しなければ)、こうならないはずだ」、という段階の理解までです。こういうことが今まで言われなくて、理解したつもりになっている人、あるいは、理解できていないと自覚しても、何らかの理由で執筆をせざるをえなくなった人が、資本論の解説書を書いてきたので、資本論の商品章の理解の難しさは、努力すれば理解できるというものではなく、人間である以上、根本的な理解はできないという種類の「理解の難しさ」なのだということが理解されてこなかったのです。この手の本を読んだ人(私もかつてそうでした)が、解った気になってしまうということが延々と続いてきたのではないでしょうか。そして思い返してみて、何が理解できたのか分からないという事態が。非難するわけではないですが、最近では漫画まで登場しています。絵で商品の本質が描けるわけもなく、当然のことですが、商品論に関しては描写がありません(なお、『マルクス・ガール』という2巻本の漫画がありますが、これはマルクスとは全く関係がなく、主人公の女の子の部屋の壁にマルクスが描かれているというだけで、美術部の恋愛話でした。オークションで落として読んでみてびっくりした。しかもストーリーも何もない。著者が第二巻の冒頭に「マルクスとは関係がない」と書いていますが、だったらマルクスガールって名前もやめろよって思ってしまいます)。

もし通常の意味で理解ができない理由があるとしたら、それは前にも書きましたが、「相対」とか「等価」とか「抽象」とか「形態」など、専門用語を形成している語幹と申しますか、一部の語句の根本的な意味を理解しないまま読んでいこうとするからでしょう。これは私自身がそうだったからなのですが。ヘーゲルの翻訳家である牧野紀之氏は、ある語を理解しようとする際、その語の反対語を念頭においてみると良いと書いています。「相対」の反対語は「絶対」です。絶対とは単独で存在しうることです。となると、相対とは他が存在しないと存在できないという意味になります。相対的価値形態とは、自身で価値を表現することが出来ないが故に他の商品の形態で価値を表現するしかない形態ということになります。このように語の意味を大切にすることです。

さて、二つ目のタイプは、私のように、資本論のどこが理解しづらいのか、自分の経験だけではなく、他人の経験も知りたいと思って買う人ですね。しかし、こういう人は、その後、資本論に関する本を執筆したい人など、資本論に関して本当に理解したいと思っている人ですから、ほとんどいないでしょうね。しかし、本当にこの『資本論も読む』の効用があるのは、これなのです(もちろん、「ばかばかしい」とか「くだらない」と思いつつ喜んで読むというのでも良いのですが)。残念なのは、どこが理解できなかったのかということが詳しく書かれていないことですね。推測ですが、ほとんどすっとばしていた価値形態論の部分が、やはり理解できなかったのでしょう。理由は上記の通りです。宮沢さんほどの知性のある方が、通常の意味での理解が及ばなかったわけではないと思います。引用もほとんど無いので、引用しようもなかったのだと思えます。

 

今回は、最後でもあり、資本論の理解に関する回でもありますので、もう一つ書いておきます。それは、翻訳について、です。

私は大学の一回生の頃から、資本論の商品章を理解したいと思いました。なんとなく理解したつもりになることを許さない、マルクスのこの文章の意味を理解したいと思いました。しかし、本当にマルクスの言うことを理解したいのであれば、翻訳本を読んでいるだけではダメだと思ってもいました。

翻訳は当然のことですが、翻訳者が間に入ります。はたして翻訳者が正しく翻訳しているという保証はあるのでしょうか?恐らく、世界中のどこでも、翻訳の比較考証が行われることは稀でしょう。本当に翻訳が正しくなされているかどうかを知ることができる人は、皮肉にも、翻訳を必要としない人でしょう。しかし、本当は、そういう人が、存在する翻訳の是非について議論を展開してほしいものです。

資本論についてではありませんが、日本での著作権が切れた途端に量産されることになった『星の王子さま』の翻訳本を比較検証した、加藤晴久さん著『憂い顔の『星の王子さま』』という本があります。結果、多くの本がまさに王子さまを憂い顔にさせるだけの力をもった翻訳であった、ということが分かります。私はフランス語はほとんど理解できませんが、論理展開からして、加藤さんの書いていらっしゃることが正しいということは推測できます。

加藤さんは「外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件として、以下のように書いています。

「文学作品とは限らないが、外国語で書かれた本の翻訳を論ずる際の第一の要件は原書と翻訳書を比較して、まず翻訳の正確さを検証すること、次いで、翻訳が正確であるだけでなく、原文の味わいを、それにふさわしい日本語、いろいろな意味で「よい」日本語として映しているかどうかを検証することである。」

加藤さんは、この本を書くにあたって15冊の翻訳本を全て検討しています。私もほぼ同数の資本論翻訳本を打ち込み、検討しました。私の場合、ひとまずこの点はクリヤーしていると判断しても差し支えなさそうです。

しかし、「翻訳の正確さを検証する」のは、どうすればいいのでしょうか?その外国語の文法や語彙に通じることが必要なのは当たり前として、やはり、そこに書かれている内容を正確に理解して、論理に破綻が無いということを確認できることでしかないでしょう。

私が価値論を誰よりも理解されていると考えている榎原均さんの本もまた、とてつもなく難しく、なかなか理解できませんでした。それが、仕事を辞めて、榎原さんの著作にでてくる文章を、関連する用語毎に抜き書きしていくと、徐々に理解できるようになってきました。その時、私は、結局資本論の内容ではなく、資本論で使用されている、専門用語や論理展開が理解できないではなく、専門用語を形成している語の一つ一つに対する理解や配慮が足りなかったがために理解できないのだと気づいたのです。例えば、「抽象的・人間的労働」という専門用語は、これを丸ごと一気に理解しようとするのではなく、例えば「抽象」という言葉を理解しなくてはなりません。この場合の「抽象」は、日常的に頭脳で行う抽象という作業ではありません。頭のなかにある労働などということになれば、まさに観念論です。そこでヘーゲルの研究者であった許萬元さんなどの著作も読むと、この場合の抽象とは「現実的に行われる抽象」であることが分かってきました。こういう理解の仕方は「抽象的・人間的労働」あるいは「抽象的人間労働」などというセットフレーズにしてはできないのです。

許萬元さんは、既に亡くなったヘーゲル研究家ですが、このようにヘーゲルの理解もまたマルクスの理解においては重要です。マルクスはヘーゲルの弟子に帰ることによって、商品の分析に成功したのです。例えば、ヘーゲルにおいて「抽象」とは、まさにマイナスイメージをもっている言葉です。そのニュアンスをマルクスもまた引き継いでいます。「抽象的・人間的労働」など、本来は存在してはならないのです。

また、村上春樹さんは、『村上朝日堂はいかにして鍛えられたか』の中の「趣味としての翻訳」というエッセーで、「翻訳の本当の面白さは、優れたオーディオ装置がどこまでも自然音を追求するのと同じように、細かな一語一語にいたるまでいかに原文に忠実に訳せるかということに尽きる。たとえばスピーカーに即していえば、聴く人に「ああ、これは素晴らしい音だな」と思わせるのは二級品、まず「ああ、これは素晴らしい音楽だなあ」と思わせるのが、本当に一級品だ。」と、すばらしい比喩を用いて書いています。しかし、「たとえば」の前後の文は、同一の意味になるのでしょうか?前の文は一語一語の忠実性を語っているのですが、その「一語」は、後の文では「音」に当たらないでしょうか?恐らく春樹さんがおっしゃりたいのは、関口存男というドイツ語の大家の言葉にしてみれば「訳というものは、部分的な意味よりは、むしろ文の勢を伝えることが第一義である」となるのでしょうか?全体が部分と響き合い、一つの作品になるようにせよ、ということでしょう。翻訳者は優れたスピーカー、ないしはオーディオ装置であるべきで、音楽を鳴らす際にスピーカーなり装置の存在を意識させてはならない、ということでしょう。

資本論を理解するのに、全ての人がドイツ語やヘーゲルをマスターしなくてはならない、などと言うつもりは全くありません。私はそれまでに何十年と何らかの形で資本論に直接・間接に関係する本を読みましたし、直接資本論に関わった時間で言えば何年も他の仕事をせずに費やしてきました。そんなアホなことができる人はもう必要ありませんし、今のご時世、なかなかできません。そしてそのアホは、可能であれば、私は上記のようなことを踏まえた翻訳者・解説者となりたいと思っています。みなさんが信頼して読んで頂けるような本を出したい。そして資本論を「ああ、これは素晴らしい論理展開だなあ」と思ってもらえるような翻訳書を出したいと思っています。

現在のところ、翻訳の方は来年中に一応の翻訳を終え、読み直しや追加原稿などを書き、表紙作りをして、再来年の中頃に出版する予定です。その後、その翻訳を使って、一年後に解説本を出版したいと思っています。後3年程度は、このアホなことに時間を捧げます(私にとっては至福の時間ですが)。

私は、その解説本では、宮沢さんのこの本を出来る限り引用したいと思っています。彼が脚本家であるが故に、今まで「経済学者」が目をつけなかった、あるいは、目を付けられなかった箇所に目を付け、それを取り上げているという素晴らしい面が存在する、とはこれまでも書いてきましたが、極端なことを言えば、大方の経済学者よりも、宮沢さんは商品論の本質に迫っていました。思えば、マルクスはシェイクスピアが大好きでした。そういう演劇面というのは、ひょっとしたら資本論の商品章の部分に何らかの影響を与えているのかもしれません。ただ、宮沢さんは理解をする上で、人間の思考という枠に収まって理解しようとしたので、「理解できていない」と思えたのだと思います。そういうプラス面も、また、正直にお書きになられている理解できなかった面についても参考にさせてもらいながら書いていきたいと思っています。

さて、宮沢さんの追悼として始めた連載ですが、これにて終了します。第十五回までとはいえ、この『資本論も読む』に関してここまで時間をかけて文を連ねたものは日本中捜しても他にないと自己満足をして(誰も捜さないと思うけど)、追悼の弁とさせていただきます。

 

宮沢さん、ありがとうございました。今後も『資本論も読む』を私は読みます。


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宮沢章夫さんを悼む(17) ——『資本論も読む』を読む 第十四回—— 

2022-11-27 18:00:36 | マルクス・ヘーゲル

第十四回のタイトルは「ともかくもようやく「貨幣」の登場である」です。

商品論はとにもかくにも貨幣の登場をもって終了するわけですが、貨幣もまた商品です(あるいは商品でした)。マルクスはそのことをまず商品論で書きたかったのです。もし貨幣が重要なら、貨幣はすでに存在しているわけですから、価値形態なんてものを書かずに、古典派と同じ様に、いきなり貨幣を登場させて、その後、資本への変転を書けば良いのです。どうしてここまでマルクスが貨幣をなかなか登場させず、延々引っ張って最後に貨幣を登場させたかというと、貨幣は本質的には商品であり、労働が結晶化しているものである、と言いたかったのだと思います。

何が言いたいのかと言うと、ここで宮沢さんが貨幣と排除について書かれているのは、柄谷さんに引きずられているのかもしれないので、気をつけてほしいということのなのです。宮沢さんが引用している「ある商品が一般的等価形態(形態III)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。」(岡崎訳 p.130)の主語が「ある商品」となっている通り、まず排除されるのは、一商品であり、貨幣ではありません。この一商品が、貨幣としての機能を果たすに相応しい性質をもっている商品に特化されて、貨幣となります。この過程は次の「交換過程」論で述べられます。そして、榎原均さんが指摘されている通り、実はこの排除はうまくいかないはずです。つまり論理的には一般的等価形態になりうる商品は論理的には何でも良いのであって、論理的に金が排除されるわけではありません。ここが実は初版と現行版との違いであり、初版には貨幣形態は論じられませんで、貨幣の登場は交換過程論になります。この辺りはかなり専門的に書かないといけないことなので、ブログの性質からはみ出しますので、ここまでにしておいきますが、一つだけ書いておくと、我々はこのように論理的ではない商品世界に巻き込まれている、ということです。

この回はまったくおふざけ無しに延々資本論の内容が書かれています(それがちょっと淋しいところでもあります)。付録の注においても、資本論の引用が続きます。例えば、

「商品形態は、人間じしんの労働の社会的性格を、労働諸生産物そのものの対象的性格として・これらの物の社会的な自然属性として・人間の眼に反映させ、したがってまた、総労働にたいする生産者たちの社会的関係を、彼らの外部に実存する諸対象の社会的な一関係として人間の限に反映させるということ、これである」

残念ながら宮沢さんはこの文章に対して「日本語かよこれという気もし、それにしたってなにを言っているのだおまえはと思う」と書かれていますが、これはまさに商品論の結語なのです。これをノートしているらしいのですが、気がついていらっしゃったわけですね、その重要性を。

ただ、大切なのは、この「反映」という言葉を取り違えないことです。反映しているというのは、そう脳裡に映しだしている・そう見せかけているという意味ではありません。現実的に反映しているのです。つまり、これが現実で、その現実の後ろに人間の社会的関係が存在しているのではありません。我々は商品の社会関係しか、経済的関係は築いていないのです。それは人間の外部に存在するもので、人間の内部に存在するものではないのです。それが自然的な属性として私たちには存在しているのです。

多くの人たちは、この反映という言葉を、あたかも商品社会の裏には、本来の人間の社会関係があり、それが商品で表示、反映されているので、物象化が起こっていると思っていますが、そうではありません。商品世界の後ろに本来あるべき人間関係なんて存在していません。そういう人間関係を想定することこそ、観念論です。現実は厳しいのです。我々の社会的人間関係は、商品の交換関係でしかないのです。

アー、厳しい。でもだからこそ、商品論は読む価値があるのです。だから商品や貨幣を「アレ」することが必要なのです。

ということで、次回がこのブログで宮沢さんの追悼として始めた『資本論も読む』を読むのは最後になります。


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宮沢章夫さんを悼む(16) ——『資本論も読む』を読む 第十三回—— 

2022-11-22 14:37:54 | マルクス・ヘーゲル

この記事を、私は今、Oscar Petersonさんの the way I really play のCDを聞きながら書いています。彼の人気版は WE GET REQUESTS ですし、私も昨晩、ウイスキーを頂きながら聴いていましたが(このCDは本当に音が良い。びっくりしました)、このアルバムが彼のソフトな面を表現しているとしたら、the way …は彼のダイナミックな面がよく表現されている名盤です。オスカー・ピーターソンさんのがっちりした体格などの外見からすると、まさに納得の演奏ですが、WE GET …の繊細な表現もまたオスカー・ピーターソンさんの真骨頂ですね。

さて、『資本論も読む』の第十三回のタイトルは「大きな字になっても難解さに変わりはない」です。これは宮沢さんは老眼が進んで、文庫版の資本論を拡大コピーして読んでいたことからつけたタイトルのようです。面白い事に、大きな字にすると、(私は)かえって内容が頭に入らなくなります。ですから、印刷する場合でも、A4ではなくB5にします。

さて、今回、宮沢さんが嘆いているのは、商品のフェティシズムを扱った章に早く入りたいのに、「「価値形態」と「等価形態」」が「気が狂いそうなほどわからない」ことです。

「価値形態」と「等価形態」が分からなければ、商品のフェティシズムは理解できません。なぜなら、等価形態こそが(相対的価値形態よりも)フェティシズムを生み出すからです。等価形態においては、その商品は、生まれながらにして、価値をもっているように見えます。しかし、本当は、相対的価値形態にある商品の価値を、等価形態にある商品体が表現しているだけであり、等価形態はその自然形態で他の商品の価値を表しているのですから、見かけと内容が一致しないわけです。それが貨幣となって、商品世界から「排除」されてしまえば、相対的価値形態にある商品との繋がりは断たれてしまっているように見えてしまうため、完全に独立して価値をもっているかのように見えます。これがフェティシズムを生み出す根本のメカニズムです。

しかし、私は、宮沢さんが「価値形態」と「等価形態」を理解できないのは、「形態」という語やその意味に対してあまり注意を払っていないためではないかと思っています。この「形態」という用語が理解できればかなり理解しやすくなると思います。

昨今、LGBTQが大きく取り上げられるようになりましたね。このことを考えてみましょう。逃げるようですが、私はそうではないので、つまり、出生時に与えられた性別が、精神的性別と一致しているので、ひょうっとしておかしなことを書いてしまうかもしれません。その場合は、ご指摘ください。

たとえば、出生時に生物的に与えられた性が女性であり、精神的には女性に惹かれる人は、生物学的性、それを外見と言って良いのかどうかわかりませんが、外見と精神が、そうではない視点からすると、「異なる」わけですね。この外見が「形態」に当たります。外見が女性であっても男性であっても、精神面はどちらにもなり得ます。形態と内容は一致しない、というか、形態は内容と別物なのです。ですから、見た目から中身は分かりません。

では、どうやって中身が分かるのでしょうか?それは他のものとの関係から、です。

フォイエルバッハはこう書いています。

「ある存在がなんであるかは、ただその対象からのみ認識され、ある存在が必然的に関係する対象は、その明示された本質にほかならない。たとえば、草食動物の対象は植物である。ところでこの対象によってこの動物はそれと別な動物である肉食動物から本質的に区別される。たとえば、目の対象は光であって、音でもなく、においでもない。ところで目の対象においてわれわれにその本質が明示されている。…われわれはだから実生活においても、多くの事物や存在をただそれらの対象によって呼んでいる。目は「光の器官」である。土地を耕す者は耕作者であり、猟を自分の活動の対象とする者は猟師であり、魚を捕らえる者は漁師である、等々。」(岩波文庫『将来の哲学の根本命題』p.14)

LGBTQの方々の場合、本人がそう自覚できるのは、他の同等の外見をしている人との比較からも可能でしょうが、やはり、どのような他者に惹かれるかどうか、から、自覚できるのでしょう。

マルクスが価値形態で展開しているのは、商品は他の商品との関係でしか、自分の価値を表現できないということが絶対的な基礎になっています。等価形態は、外見と中身が一致していない商品の形態なのです。

今では古い表現となりましたが、かつては「ジャケ買い」というものがありました。専らLPレコードの購入に関して、ジャケットがかっこいいなら、レコードの音楽もかっこいいだろうと考えて、聴いたことも無いのに買う、というものでした。貧乏な私はそんなことはできませんでしたが、これは「形態と内容が一致しているはず」と考えての行動でした。ジャズの名門、ブルー・ノートはジャケット作成に力をいれていましたし、本当にかっこいいジャケットが沢山生み出されました。そして、その中身たる音楽もまた、かっこいいものでした。

今後、この外見と内容の一致・不一致ということは、おいそれと判断できなくなりそうです。まして、そういう判断自体をしても良いのかどうかもあやしくなります。それで良いと思いますが、現在、まさに形態と内容について敏感になっている時代でもあります。今こそ、価値形態に関して勉強を進める時です。

さて、次回第十四回のタイトルは「ともかくもようやく「貨幣」の登場である」です。ありゃ、価値形態論に関して、ほとんど触れられませんでしたね。特に簡単な価値形態に関して、は。


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宮沢章夫さんを悼む(15) ——『資本論も読む』を読む 第十二回—— 

2022-11-17 16:39:10 | マルクス・ヘーゲル

第十二回のタイトルは「体力あってこその『資本論』だ」です。体力がある内に、資本論を読み切らなければならないと宮沢さんは書いています。とりあえず宮沢さんは第一巻は読み切っているので、この目標は達成されたと言って良いでしょう。よかった。

この章の後半で、どこかの誰かが宮沢さんが資本論を読んでいることに関して、「無意味」だと表現していたそうです。それに対して宮沢さんは、

「ばかが。

このくそばか。おおまぬけのとんちきのおおばかやろうだ。」

と、正確に(?)反論しています。

なぜ、資本論を読むことが無意味だと判断しているのか、その理由が分からないので、反論しようがないわけですが、まあ、こういう批判は当然ありえます。しかし、あえて書けば、それは資本論が未だ理解されていないからでもあると思います。ですから、努力しなくてはならない、と私は改めて思いました。それが実現できていない限りは、私も何を書いても意味がないわけです。よって、私も、宮沢さんと同様、次のように言います。ただし、私自身に向かっても。

「あほが。この、どあほう。」

 

さて、この章には宮沢さんが資本論から横道に逸れて、柄谷行人さんの『トランスクリティーク』を読んでしまったということが書かれています。

私も柄谷さんの本はよく読みました。『マルクス その可能性の中心』が一番有名ですかね。大学一回生のときに読みました。まあ、かっこいいんですね。それまで日本で鋭意努力されてきた「マルクス経済学」の成果など全く知らなくてもいいのだ、と応援されている感じがします。気持ちが楽になります。

しかし、マルクスの理解には大きな誤解がありました。榎原均さんが指摘している通りで、この時期の思想界は、フランス哲学の影響をもろに受けていて、「差異」を重視していました。そこに「共通性」が入りこむ場所はありませんでした。ならば、価値形態論において、等式が成立する可能性はなくなります。等式は共通性がなければ成立しません。とすると、商品交換や貨幣による商品の購入などはできないはずなのです。その時期の柄谷さんはどうやって商品を買っていたのでしょうか?

この差異を重視する思想が蔓延したのには理由があります。それは差異ある個人が賞賛されるという、バブル時期特有の雰囲気にマッチしていたのです。個人が集団に属さなくても十分にお金を稼ぐことができる、という雰囲気です。よって起業家がもてはやされました。

私も集団にべったり依存する、日本の因習は大嫌いです。したがって、柄谷さんら現代思想家の言っていることには魅力を感じました。ですが、幸いにもそれまでに、マルクスの正しい解釈をしている榎原さんのことを聞き及んでいたので、現代思想家の本を読みつつ、同時に榎原さんの本『資本論の復権』も読み進めていました。ですから、染まりませんでした。今から考えたら奇跡です。私は村上龍さんも大好きでしたし、どう考えても、行動や嗜好は現代思想に近かったのですから。

最近では「多様性」という言葉がもてはやされています。この現象は「差異があることを認めていこう」ということですが、私には、「グループ間の差異」を認めようという意味であると思われます。個人よりも範囲は広がっているわけですから、そこには共通性が認められています。が、グループ化されただけであり、やはり差異がそこには存在しているということも同時に認識する構図になっています。こうなると、どうしても相対主義に陥らざるをえません。

今後必要なことは、もっと大きな「人間」という枠組をいつも確認した上で議論を行うことだと思います。それ以上に大きな共通性はないと思います(生物ってのもあるかもしれせんが、動物や植物まで含むとヘーゲルに怒られます)。

 

さて、私が体力のある内に読んでおきたい本はなんでしょうか。今手持ちの本では、「ヴァレリー全集 カイエ篇」ですね。実に9巻あり、1巻当たり平均600ページあります。可能であるならば、75歳までマルクス関係の執筆をして、それ以降(ぼけていなければ)読みますか。


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