昭和と平成の狭間に、「実在」した。
「いつの間にか硬くなった子供の両手を合わせてやることさえできなくなっていました。上着をハサミで切って、とりのぞき・・・・。すると、体に赤い斑点ができていました。虫が喰った入った形跡などないのに、まるで日の丸のように、判子でも押したかのように、赤い斑点が出来ていました。そこは、できものではなく、平らだし、少しへっこんでいるのです。皮が、はがれて流れることのない血が見えたと言ったほうがわかりやすいでしょう。『変わってしまうだなあ。』と思いました。
やがて子供の顔が、老人のようになってゆきました。ひきつったしわが体全体にでき、あのこちこちに硬かった体が、今度は水のようにぶよぶよに柔らかくなってゆきました。とても、この世の臭いとは思えない程の悪臭。」(藤原新也『新版 東京漂流』、新潮文庫、1990年)
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無関心の殻外れず 幼女連続殺人・宮崎被告<朝日新聞:2006年 1月16日 (月)>
88、89年の連続幼女誘拐殺人事件で殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とされた宮崎勤被告(43)の上告審判決が17日、最高裁第三小法廷で言い渡される。事件から17年余。最高裁の判決を前にして今、何を考えているのか。宮崎被告は拘置所で多くの手紙を書き、膨大な言葉を発してきた。ただ、やりとりを続けている臨床心理士らにも、宮崎被告の心はまだ見えてこない。
「関係ありません」
臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授は、昨夏から「被告の内面を少しでも明らかにできれば」と学生とともに手紙を8通出した。返事は6通来た。
なぜ、事件をおこしたのか。事件について、どう考えているのか。
宮崎被告は、問いかけに対し、決まって「関係ありません」と答えた。
宮崎被告は月刊誌「創」の編集部とも96年以降、数百通の手紙をやりとりしている。
昨秋以降、編集部に届いた手紙をみても、事件や裁判への無関心さが目立つ。
▽(遺族への謝罪の気持ちは)ありません
▽(最高裁に期待することは)期待するしない、というものがない
▽(死刑について)関係ない
▽(今度の判決は)無罪だと思う
篠田博之編集長は「今度の判決で自分の刑が確定するという認識がないようだ」と語る。
長谷川さんは、大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件の宅間守・元死刑囚と15回面会し、04年9月の執行直前まで対話を重ねた。
同じ死刑という罰に向き合っているはずなのに、2人はあまりにも違う。長谷川さんはそう感じている。
「宅間元死刑囚は、早期の死刑を望みながらも、一方では死を恐れ、夢でうなされるほど苦しんでいた」
長谷川さんが面会した際、「自分が、殺された子どもの立場やったら、無念だろうと思う」「生まれてこなければよかった」と話した。元死刑囚が自分の行動を認識して後悔し、苦しんでいる。そう感じた。
これに対し、宮崎被告の手紙には、後悔の気持ちや感情が含まれた言葉が見あたらない。手紙の文字も、宅間元死刑囚は罫線(けいせん)の間いっぱいの大きな字でぎっしり書いていたのに対し、宮崎被告は小さな文字を頼りなげに連ねている。
長谷川さんは精神鑑定の内容なども踏まえて、こう分析する。
「居直っているのでなく、一人だけの世界に深く入り込み、その枠内で君臨しているので、『枠の外』のことに全く興味がない状況。どんな判決が出ても、何も感じないのではないか」
「コミックマーケットのカタログがほしい」
宮崎被告は昨年12月、創編集部に届いた手紙でこう訴えた。最高裁の判決日が決まった後も、今夏の行事のことを気にしていた。
法廷で「もっと有名になりたい」などと発言した自己顕示欲の強さは最近の手紙でも変わらない。「私のことを書くときは、宅間守のことを織り交ぜてください」。そんな記述に、長谷川さんは「注目を浴びた人物と肩を並べたいという意識の表れだろう」とみる。
最高裁での公判をめぐっても、「傍聴にきてください」と長谷川さんを誘ったり、17日の判決を報じるテレビニュースを「ビデオに撮っておいてほしい」と創編集部に頼んだりしている。有名になりたい理由を「産まれてくる人たちに自分のことを知ってほしい、ということなのです」と書いている。
宮崎被告の心はいま、どんな状態なのか。
昨年11月ごろ、創編集部に届いた手紙。
「以前の幻聴は、得たいのしれない力を持つ人たちが、サワサワと話し合って『ツトム』とか『リンチ!』というものだった。01年ごろからは、『目を針で刺すのは私にやらせろ』とか、『耳をそぎ落とすのは私にやらせろ!』とか言って、話し合っているのです」
弁護人は「統合失調症だ」と主張し、審理を東京高裁に差し戻して再鑑定するよう求めている。一方、長谷川さんは「統合失調症とは断定できない」とし、(1)パーソナリティー障害(2)離人症(3)性的サディズムの三つが交ざった状態ではないかとみる。「これまでの司法判断にそえば、責任能力があると判断されてもやむを得ない」と考える。
宮崎被告は公判で「ネズミ人間が出てきた」などと不可解な供述を繰り返した。「詐病」「計算ずく」との見方も根強い。これについて、10年やりとりを続けた篠田編集長は「結局、どちらかわからなかった」。
長谷川さんは思う。
「なんとか彼の世界に入り込みたい」
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一人の亡霊は43歳になっていた。
リアリティとは何なのか?
明日は、どこか街をふらつきたい気分だ。
「いつの間にか硬くなった子供の両手を合わせてやることさえできなくなっていました。上着をハサミで切って、とりのぞき・・・・。すると、体に赤い斑点ができていました。虫が喰った入った形跡などないのに、まるで日の丸のように、判子でも押したかのように、赤い斑点が出来ていました。そこは、できものではなく、平らだし、少しへっこんでいるのです。皮が、はがれて流れることのない血が見えたと言ったほうがわかりやすいでしょう。『変わってしまうだなあ。』と思いました。
やがて子供の顔が、老人のようになってゆきました。ひきつったしわが体全体にでき、あのこちこちに硬かった体が、今度は水のようにぶよぶよに柔らかくなってゆきました。とても、この世の臭いとは思えない程の悪臭。」(藤原新也『新版 東京漂流』、新潮文庫、1990年)
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無関心の殻外れず 幼女連続殺人・宮崎被告<朝日新聞:2006年 1月16日 (月)>
88、89年の連続幼女誘拐殺人事件で殺人などの罪に問われ、一、二審で死刑とされた宮崎勤被告(43)の上告審判決が17日、最高裁第三小法廷で言い渡される。事件から17年余。最高裁の判決を前にして今、何を考えているのか。宮崎被告は拘置所で多くの手紙を書き、膨大な言葉を発してきた。ただ、やりとりを続けている臨床心理士らにも、宮崎被告の心はまだ見えてこない。
「関係ありません」
臨床心理士の長谷川博一・東海女子大教授は、昨夏から「被告の内面を少しでも明らかにできれば」と学生とともに手紙を8通出した。返事は6通来た。
なぜ、事件をおこしたのか。事件について、どう考えているのか。
宮崎被告は、問いかけに対し、決まって「関係ありません」と答えた。
宮崎被告は月刊誌「創」の編集部とも96年以降、数百通の手紙をやりとりしている。
昨秋以降、編集部に届いた手紙をみても、事件や裁判への無関心さが目立つ。
▽(遺族への謝罪の気持ちは)ありません
▽(最高裁に期待することは)期待するしない、というものがない
▽(死刑について)関係ない
▽(今度の判決は)無罪だと思う
篠田博之編集長は「今度の判決で自分の刑が確定するという認識がないようだ」と語る。
長谷川さんは、大阪教育大付属池田小の児童殺傷事件の宅間守・元死刑囚と15回面会し、04年9月の執行直前まで対話を重ねた。
同じ死刑という罰に向き合っているはずなのに、2人はあまりにも違う。長谷川さんはそう感じている。
「宅間元死刑囚は、早期の死刑を望みながらも、一方では死を恐れ、夢でうなされるほど苦しんでいた」
長谷川さんが面会した際、「自分が、殺された子どもの立場やったら、無念だろうと思う」「生まれてこなければよかった」と話した。元死刑囚が自分の行動を認識して後悔し、苦しんでいる。そう感じた。
これに対し、宮崎被告の手紙には、後悔の気持ちや感情が含まれた言葉が見あたらない。手紙の文字も、宅間元死刑囚は罫線(けいせん)の間いっぱいの大きな字でぎっしり書いていたのに対し、宮崎被告は小さな文字を頼りなげに連ねている。
長谷川さんは精神鑑定の内容なども踏まえて、こう分析する。
「居直っているのでなく、一人だけの世界に深く入り込み、その枠内で君臨しているので、『枠の外』のことに全く興味がない状況。どんな判決が出ても、何も感じないのではないか」
「コミックマーケットのカタログがほしい」
宮崎被告は昨年12月、創編集部に届いた手紙でこう訴えた。最高裁の判決日が決まった後も、今夏の行事のことを気にしていた。
法廷で「もっと有名になりたい」などと発言した自己顕示欲の強さは最近の手紙でも変わらない。「私のことを書くときは、宅間守のことを織り交ぜてください」。そんな記述に、長谷川さんは「注目を浴びた人物と肩を並べたいという意識の表れだろう」とみる。
最高裁での公判をめぐっても、「傍聴にきてください」と長谷川さんを誘ったり、17日の判決を報じるテレビニュースを「ビデオに撮っておいてほしい」と創編集部に頼んだりしている。有名になりたい理由を「産まれてくる人たちに自分のことを知ってほしい、ということなのです」と書いている。
宮崎被告の心はいま、どんな状態なのか。
昨年11月ごろ、創編集部に届いた手紙。
「以前の幻聴は、得たいのしれない力を持つ人たちが、サワサワと話し合って『ツトム』とか『リンチ!』というものだった。01年ごろからは、『目を針で刺すのは私にやらせろ』とか、『耳をそぎ落とすのは私にやらせろ!』とか言って、話し合っているのです」
弁護人は「統合失調症だ」と主張し、審理を東京高裁に差し戻して再鑑定するよう求めている。一方、長谷川さんは「統合失調症とは断定できない」とし、(1)パーソナリティー障害(2)離人症(3)性的サディズムの三つが交ざった状態ではないかとみる。「これまでの司法判断にそえば、責任能力があると判断されてもやむを得ない」と考える。
宮崎被告は公判で「ネズミ人間が出てきた」などと不可解な供述を繰り返した。「詐病」「計算ずく」との見方も根強い。これについて、10年やりとりを続けた篠田編集長は「結局、どちらかわからなかった」。
長谷川さんは思う。
「なんとか彼の世界に入り込みたい」
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一人の亡霊は43歳になっていた。
リアリティとは何なのか?
明日は、どこか街をふらつきたい気分だ。
もっと、いかした事件があればいいのだけれど、これが私たちの時代です。
あれから17年。この事件がある意味、私にとって物事を考える際の立脚点の一つになっています。どんなに依存していても、インターネットが私たちの生活を変えるなんて、絶対に言いたくないというのも、このあたりからの発想だと思います。もっともインターネットなんてなかった時代の出来事ですが。
紙一重・・・ですね。
紙一重ですよね。
現代はいわゆる「おたくの時代」なんていわれているんで。
マーケットとして「価値」あれば、市民権得るんだなと。