備忘録

忘れないための頭の中のメモ帳

阿羅漢をつくる方法②

2024-09-25 00:00:00 | 
  • 次には、仏法真理を踏まえて、「自分の心を磨く」という実践行為が必要です。この実践行為が反省です。

 

  • たとえ通勤時間のなかであっても、仏法真理の本を読んで学習し、そして、夜寝る前に、十分でも十五分でもよいので、その日一日の間に起きた出来事や思ったことの一つひとつを反省してみることです。もちろん、三十分でも一時間でも結構であり、時間の長短は問いません。

 

  • こうした反省という実践行為を通して、心の透明感が、ますます増していくのです。

 

  • 一日のうちで必ず一つや二つは何かマイナスのことを思ったことがあるでしょう。他人に対して、悪く思ったこともあるでしょう。憎しみの思いを持ったり、怒りの思いを持ったり、悔しい思いを持ったり、さまざまなマイナスの思いを持ったことがあるでしょう。

 

  • そういうマイナスの思いに対しては、やはり、マイナスをプラスに変えていく必要があります。

 

  • その意味では、心に去来した思いを、まな板の上に載せ、仏法真理という包丁で調理をしてみることが必要です。

 

  • まず、「どうして、そういう思いが出てきたのか」ということを探究します。この”根っこ”の探究が大事です。

 

  • 根っこを探究したら、次は、この根っこから、その思いを抜き去ることです。「どうして、その思いが出たか」ということを見たら、その思いを取り去ることです。

 

  • そして、そういう思いを二度と出さないように決意することです。

 

  • 人に対して、失礼なことを言ったならば、すぐ「ごめんなさい」と言う心境、また、それが空間的に果たされないことであるならば、心のなかで、まず謝るという心境、これが大切です。このような実践行為が、とても重要なのです。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


阿羅漢をつくる方法③

2024-09-25 00:00:00 | 
  • 阿羅漢をつくっていくための方法論としては、さらに、「修行者同士で互いに切磋琢磨していく」ということが、とても大切です。

 

  • 人間は、自分独りで自分を見つめていると、どうしても、その目が甘くなってしまいます。自分には甘く、他人には厳しくなるのが人間のさがなのです。このように、「自分に甘い」というさががある以上、「修行者同士で互いに切磋琢磨し合う」ということが大事なのです。

 

  • お互いに、悪いところがあったら注意し合い、そして、向上に向けて拍車をかけていくことです。自分には分からないことであっても、岡目八目で、他人の目から見れば分かることがあります。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


阿羅漢において大切なこと

2024-09-25 00:00:00 | 
  • 菩薩になる前の阿羅漢において、とても大切なことは、一つには、「自己確立」ということです。「自分づくり」ということです。阿羅漢の段階は、とにかく自分づくりなのです。

 

  • 自分づくりのできた人が智慧を持って与えて、初めて人々は導かれていくのです。自分づくりのできない人が、智慧なくして他の人に愛を与えんとしても、その愛は、真実、人を生かすことにはならないことが数多くあります。

 

  • 真実、人を生かすためには、真実、人を愛するためには、智慧が必要です。この智慧をつくる期間こそが阿羅漢の修行段階なのです。

 

  • すなわち、「阿羅漢の段階は自己確立の時期である」ということを、明確にしておきたいと思います。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


阿羅漢に必要なこと

2024-09-25 00:00:00 | 
  • 菩薩への準備段階として阿羅漢に必要なことは、仏への思いを募らせること、仏の愛を感じ取ることです。仏の愛を感じ取って初めて、そのありがたさが、しみじみと分かってくるのです。

 

  • 六次元光明界のなかには、「自力、自力」という思いで、「何でも自分でやろう」とする人が数多くいます。それは、自己確立期においては、とてもとても大切なことです。しかしながら、この上の段階があることも事実です。それは、仏から与えられる光のありがたさを実感していくときなのです。

 

  • 仏からは大きなものが与えられています。人間は多くのものを与えられています。いちばん大切なことは、「永遠なる生命を与えられている」という事実です。そして、次に大切なことは、「永遠の生命を与えられている人間が生きていける環境が、多くのものの奉仕によってつくられている」という事実です。

 

  • さすれば、人間は、どうしなくてはならないのでしょうか。それは感謝ということではないでしょうか。仏への感謝です。そして、感謝に基づく報恩という行為が、その次にあるのではないでしょうか。感謝に基づく感謝行、報恩行が必要とされるのではないでしょうか。

 

  • その意味で、阿羅漢の境地において、菩薩への準備として必要なのは、仏の愛に感謝する気持ちだと思います。この感謝の気持ちが強くなっていかなくては、菩薩へと上がっていくことは難しいと言わねばなりません。

 

  • 自力で修行し、自己確立をし、優れた人になっても、感謝の念のない人には、次なるステップ、次なる向上への道が、なかなか開けてこないのです。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


阿羅漢とは何か

2024-09-25 00:00:00 | 

阿羅漢とは、「悟りたるもの」「目覚めたる者」ということである。

私たちが現在生きてる物質世界、この三次元世界のなかにおいて、物質的なる考え方、肉体的なる思いというものを捨て去って、真実の霊的なる世界のものの見方、考え方に立つということである。

 

「信仰告白の時代」 第5章 空と阿羅漢


阿羅漢とは

2024-09-24 00:00:00 | 
  • 阿羅漢(あらかん)とは、一通りの反省が終わって心の塵や垢が落ち、後頭部に後光が差し始める段階のことをいいます。

 

  • 仏教には、「五百羅漢(ごひゃくらかん)」という言葉や、「羅漢さん」という言葉があります。羅漢とは、阿羅漢のことであり、五百羅漢とは「五百人の阿羅漢」と考えてよいのです。

 

  • 阿羅漢の境地は、私が説明している次元構造で言うならば、六次元光明界の上段階にある境地と言ってよいでしょう。

 

  • リーダーたちが集まっている六次元光明界のなかで、真実、仏神を信じ、菩薩に向けて修行をしている人たちのことを、阿羅漢といいます。

 

  • また、その境地で地上に出て菩薩に向けて修行している人たちのことも、阿羅漢といいます。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して

 


阿羅漢の心境とは

2024-09-24 00:00:00 | 
  • 阿羅漢の心境とは、どのようなものであるかというと、地上人で見た場合には、人間として、ある程度の完成領域に近づいていると言ってもよいかもしれません。別な言葉で言うならば、そうとうな人格、あるいは、そうとうな心境であると言えます。

 

  • さまざまな仕事に携わってきた人で、心清く生き、霊的直観が非常に鋭くなっているような人の中にも、阿羅漢はいます。

 

  • 阿羅漢の中には、もちろん、在家の人も数多くいます。自分が阿羅漢であることを本人が知っているといないとに関わらず、阿羅漢の状況にある人はいるのです。

 

  • 地上に生活していて、多少なりとも仏法真理の体得を目指している人にとっては、阿羅漢の境地が最初の関門であり、ある意味では合格点でもあるのです。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


阿羅漢の基準①

2024-09-24 00:00:00 | 
  • 阿羅漢と認定されるための基礎基準の一つとしては、「心に透明感がある」ということが挙げられます。

 

  • これは、別な言葉で言えば、「心の中に執着という名の引っ掛かりがない」ということです。

 

  • たいていの人には心の中に引っ掛かりがあります。その人の心の姿を見たならば、ガン細胞のようなものが心のどこかに巣くっているのです。そして、暗い陰をつくっています。

 

  • この「執着」という名のガン細胞は、極めて三次元的なこと、この世的なことに関して、思いがとどまっていることを示しています。

 

  • 出世や金銭、異性に対する思い、あるいは、もっとマイナスのものになってくれば、積極的な憎しみ、愚痴、怒り、嫉妬、こういう思いが一点に止まっている状態を執着というのです。

 

  • 執着のなかには、まれに自己実現的な執着もあります。ある意味で自分の向上を目指しているのだけれでも、現状が、向上への思いに、とても追いつくことがなく、それが執着になってしまっている気の毒な人も、世の中にはいます。

 

  • いずれにせよ、阿羅漢となるためには、心のなかの、この手のしこりを取り除く必要があります。ガン細胞を切除しなければならないのです。

 

  • そのいちばんよい方法は反省なのです。

 

  • 『釈迦の本心』などにも書いておきましたが、反省は、心の曇りを、さまざまな尺度でもって除いていく方法です。

 

  • たとえば、「八正道」においては、「正しく見る」「正しく思う」「正しく語る」「正しく行為をなす」「正しく生活する」「正しく道に精進する」「正しく念ずる」「正しく精神統一をする」という八つの基準が設けられています。

 

  • 宗教者として当然守るべき、こういう基準をきっちりと守り、自分の心の針がずれた部分、揺れた部分を、天上界に向けてピンと戻しておくこと、これが反省の方法なのです。

 

  • 人間の心は、一日のうちに、さまざまに揺れています。それは、ちょうど時計の針のようなものであり、よいことを思っていれば、上のほう、すなわち天上界の方を向いていますが、悪いことを思っていれば、下のほう、すなわち地獄のほうを指し示しているのです。ただ、たいていの場合は振り子のように揺れているのが実際の姿です。

 

  • しかしながら、大きな執着を持っていると、そこで心の針がピタッと止まっていることが多いのです。その結果、針が天上界のほうを指すこともなく、天上界の人々から啓示を受けることもなくなってしまうわけです。

 

『幸福の科学とは何か』 第7章 阿羅漢を目指して


救済力の源は信仰心

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 救済力の根源はどこにあるかというと、やはり信仰心なのです。多くの人たちが信仰するようになってくると、救済力は拡大してくるのです。

 

  • 信仰心が立たない場合、すなわち、哲学的思想としてのみ学習している場合には、救済力は出てきません。学問的にいくと、学力がつくかどうかは各人の問題です。しかし、信仰心が高まってくると、同時に救済力も出てくるのです。

 

  • 多くの人たちの信仰心が集まってくると、光を欲している人たちのところに、熱い情熱の塊、光の塊のようなものを手向けていくことができるようになるのです。

 

  • 多くの人の信仰心のエネルギーでもって、光が欠乏している人たちのところに光を廻していくことができます。

 

  • したがって、信仰と救済は一体なのです。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


お盆の起源

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 日本では、毎年、夏になると、お盆に先祖供養をするわけですが、「先祖供養というものは、どのような起源を持っているのか」ということから話をしてみたいと思います。

 

  • 「仏教思想のなかに、はたして先祖供養をする思想があるのか」ということについては、学者のあいだでも、いろいろと意見が分かれています。

 

  • インドから東南アジア方面に伝わった南伝系統の仏教の、パーリー語で書かれている阿含経等のお経を、西洋の学者が翻訳していますが、彼らの、「仏教は非常に現実主義であって、あの世のことなどをあまり説かない教えなのだ」という解釈が、日本にも、明治以降、かなり流入しています。

 

  • そのため、「先祖供養的な思想は、仏教の教えとは相いれないものだ」という見解も、仏教学会のなかでは、かなり強いのです。

 

  • しかし、インドからチベットや中国へ伝わり、朝鮮半島を経由して、あるいは中国から直接に、日本に入ってきた、北伝系統の仏教のなかには、先祖供養に当たる内容の経文が確かに遺っているのです。

 

  • 竺法護(じくほうご)という人が翻訳したとされる、『仏説・盂蘭盆経(うらぼんきょう)』という漢訳のお経があって、このなかに出てくる「盂蘭盆(うらぼん)」がお盆の起源であると言われています。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


『仏説・盂蘭盆経』

2024-08-17 00:00:00 | 
  • この経文(『仏説・盂蘭盆経(うらぼんきょう)』では、釈迦の十大弟子の一人である大目連(マハーマウドガリヤーヤナ)が主人公です。

 

  • 大目連は神通力(じんつうりき)を身につけ、霊界のことが分かるようになりました。そして、あるとき、「私の母は、亡くなったあと、いったいどうなっているのだろうか」ということが気になって、霊視能力、透視能力でもって、亡くなった母親を捜してみました。ところが、天上界のどこを捜してもいないのです。

 

  • 「おかしいな。どうしていないのだろうか」と思った大目連は、まさかとは思いましたが、今度は地獄界のほうを見てみました。すると、あにはからんや、彼の母親は餓鬼道に堕ち、骨と皮のようになってしまっていました。何も食べられず、やせ細って、餓鬼の姿になっていたのです。

 

  • 大目連は、「哀れ、わが母よ。なんというお姿になっているのか。いったい、なぜ、そんなことになってしまったのか」と思い、こみ上げる涙を抑えることができませんでした。

 

  • そして、お茶碗一杯のご飯をよそい、それを、餓鬼道に堕ちた母の所に、神通力によって届けました。

 

  • しかし、母親が、そのお椀を左手に取り、右手でご飯を食べようとすると、それはたちまち燃え上がり、炭になってしまったのです。

 

  • 「なぜ、こんなことになるのだろうか」と、不思議に思った大目連は、仏陀に、「母が地獄でお腹をすかせていたので、ご飯を供養したのですが、燃え上がり、炭になってしまいました。どうしてでしょうか」と尋ねました。

 

  • すると、仏陀は、「マハーマウドガリヤーヤナよ。おまえが供養したものは、母親が食べようとすると、燃え上がってしまい、食べることができなかった。しかし、おまえだけが母親を救えないのではない。天界のあらゆる神々が努力しても、おまえの母親を救うことはできないであろう。なぜならば、おまえの母親は、生前、非常に吝嗇(りんしょく)であったからだ」と答えたのです。

 

  • 吝嗇とは、物惜しみをすること、ケチなことです。

 

  • 大目連の母親は、たとえば、お坊さんが来ても布施をしなかったのです。「働きもしないで、乞食ばかりしているような坊さんに、何の値打ちがあるか」と、棒で追い払ったりしました。

 

  • また、彼女は、隣近所の犬や家畜などの動物を棒で叩いたりするという、非常にむごいこともしています。殺生の心も持っていたのです。

 

  • そのために地獄に堕ちているのであって、大目連の力でも、あるいは天神の力でも、それを救うことはできないと仏陀は言ったのです。

 

  • 「お前の母は、生前なしたことによって、そうなっているのであり、たとえ、子供であるおまえが、わが弟子となり、悟って神通力を持ったとしても、母を救うことはできないのだ」と仏陀は語りました。

 

  • 要するに、仏陀は「因果の理法」について話をしているのです。

 

  • 大目連は仏陀に訊きました。「世尊、因果の理法については、よく分かりました。しかし、このままでは、あまりにも母が哀れです。どうにかして救ってあげたいのです。何か方法はございませんでしょうか」

 

  • すると、仏陀は次のように答えました。「それならば、一つだけ方法を教えよう。『自恣(じし)』のときに、花や食べ物を供え、大勢の比丘で声を合わせて、亡くなったものを供養し、その幸福を祈ってやれば、救うことができる」

 

  • これを「盂蘭盆」といい、これがお盆の起源と言われているのです。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


先祖供養と因果の理法

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 「因果の理法」的に言えば、天国に行くか地獄に堕ちるかは、生前の行為によって決まるわけですが、遺された子孫には、「地獄に堕ちた先祖を、生前の行為がよくなかったからというだけで、そのまま放置するのは忍びない。何とかしてあげたい」という気持ちが出るのも事実です。

 

  • 1992年の「先祖供養祭」で、私は「廻向(えこう)」*について話をしました。「子孫が徳を積み、その徳の力、光の力を廻すことによって、先祖を救ってあげることができる」という話です。

  (*『幸福供養祭 特別御法話』第1章)

 

  • 例えば、足が不自由で、自分だけでは歩けない人でも、他人が手や肩を貸したりして介添えしてあげると、歩くことができます。廻向という思想も、それと同様です。「光を手向けることによって、多少なりとも、彼らを救ってあげることができるのではないか。浮きのようなものを与えることができるのではないか」というのが先祖供養の思想なのです。

 

  • そのためには、遺された子孫が、きちんと立派に修行をしていること、正しい宗教に帰依し、そのお手伝いをしていることが非常に大事です。それによって、子孫は光を受け、徳を積むことができるわけであり、子孫のその徳が先祖のほうにも伝わっていくのです。

 

  • 「祖先の人生は、あまりよい人生ではなかったけれども、子孫たちは、世の中のため、人助けのために、立派に尽くしている」ということであれば、そういう子孫をつくったのは、当然、先祖の力でもあるので、先祖のほうにも影響が出てくるわけです。そういう因果関係が、あることはあります。

 

  • したがって、あくまでも因果の理法は無視しがたいものではありますが、「亡くなった方を救いたい」という気持ち自体もまた、愛の気持ちであって、尊いものだと思います。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


帰依することで赦しの門が開く

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 帰依といえば、通常は、この世での、サンガにおける三宝帰依をいいますが、ここでは、あの世の諸霊に対しても帰依を勧めています

 

  • 「まず、帰依しなさい。帰依することによって、あなたがたに救いの道が開かれるのだ。帰依しないで、ただ『救え』というのは傲慢である。あなたがたも仏陀に帰依しなさい」と言っているのです。

 

  • 帰依することによって、素直に教えを聴く心が出てきます。帰依することによって、みずからを反省することも可能になります。それによって、救いの道が開けるのです。大いなるものに帰依し、素直に心を開き、反省の涙が流れるようになって初めて、赦しの門が開くのです。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


自らを振り返る気持ちが出てくるまでは

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 傲慢になって、「自分がこのようになるのはおかしい」と思い、「自分が、自分が」というようなことを一生懸命に言っている人は、もはや救いようがないのです。

 

  • 「私は何一つ悪いことをしたことがない」というなことをくり返し言っている人は、救えないので、しばらく放置する以外に手がありません。

 

  • みずからを振り返る気持ちの全くない人、傲慢な人は、どうしようもないので、「私は本当にだめな人間だ」ということが自分自身で分かるところまで、一定の期間、地獄のなかに置いておくしかないのです。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』


「仏説・願文『先祖供養経』」の特徴

2024-08-17 00:00:00 | 
  • 「仏説・願文『先祖供養経』」の特徴は、あの世の人を諭してしながら、同時に、この世の人にも、「自分もそうならないようにしなさい」という戒めと教えを用意していることです。

 

  • あの世の霊人に帰依させて、四正道を教えながら、同時に、この経文を読んでいる人自身をも、「みずからを振り返って、悪いところに行くことがないように」と戒めているのです。

 

  • したがって、これは、あの世とこの世が同時に救われる方法論なのです。

 

『仏説・願文「先祖供養経」講義』