第263回夢語り小説工房作品
「からたちの木よ、永遠に」 作 大山哲生
一
今から六十数年前のことである。
現在、京都伏見深草の塚本町には龍谷大学があるが、六十数年前その場所は白壁の巨大な兵舎がいくつも建ち並ぶ米軍の駐留基地であった。その前の南北に延びる道路は、今も昔も師団街道と呼ばれている。昔、この地に陸軍第十六師団があったことから、この地名が残っている。そして十六師団の兵舎はと言えば、茶色い板壁でできており、駐留軍基地の隣にあった。
私はその兵舎に住んでいた。兵舎は府営住宅で家賃は月に五十円であった。
兵舎の師団街道沿いには、からたちの木が植えられている。私は、子ども心にからたちの鋭いとげがこわく、遊べない木だと思っていた。
兵舎は昔の木造校舎を二回りほど巨大化したもので、南北に長く百メートルを越す大きさであった。二階建ての中廊下一棟式の建物である。建物の真ん中に通路があり、その両側に八畳の部屋がたくさん並んでいる。八畳間の入り口には小さな台所があるが、水道とトイレは共同である。
八畳一間に一家族が住むのであるからその狭さは推して知るべしである。部屋の天井は普通だが、廊下の天井だけは高くて太い梁が縦横に張り巡らされているのが見える。私は小学一年から六年までその兵舎の二階の一部屋に家族五人で暮らしていた。
貧しさを絵に描いたような長屋ではあったが、子どもにとっては天国であった。
まず、子どもの数が多かった。鬼ごっこをすれば少なくて七、八人、多いときは十五人くらいで遊ぶのが普通であった。
おまけに兵舎の周りには広い庭があったから、遊ぶ場所には困らなかった。向こうでドッジボール、こっちでは石けりと野球が一度にできた。
雨の日でも遊べたのはこの兵舎のいいところであった。まん中の廊下や階段の踊り場などにはところどころに床几が置いてある。雨の日にはそこに座ってトランプ遊びをしたりすごろくのようなゲームをしたりするのである。
夏の夜などは、夕食後に子どもらがぞろぞろと家から出てきて、庭で花火をしたり床几にすわって怪談話に花を咲かせたりした。
二
私が小学二年生の時、フラフープが流行った。私はねだった覚えはなかったけれど、父親が薄い水色のフラフープを買ってきてくれたときは歓喜した。フラフープは子どものおもちゃと言うよりは社会現象であったような気がする。
ある日曜日の朝のこと。兵舎の前庭が騒がしい。私は飛び起きて二階の窓から下を見ると、たくさんの子どもが色とりどりのフラフープを回して遊んでいる。私はすぐにフラフープを手に取ると、前庭に走り出した。フラフープ仲間に入りたかったのである。そのとき、私はフラフープを数回しか回すことができなかったけれど、皆と同じように練習した。
小一時間も遊んでから家に帰り、朝食を食べた。その日は、日がな一日フラフープでみんなと遊んだ。
しかし、フラフープのブームの終わるのは早かった。次の日曜日の朝は、フラフープで遊んでいる子どもは皆無であった。石けりやドッジボールが復活していたのである。私は、今度こそもっとフラフープが上手にできるようにがんばろうと思っていたので拍子抜けをした。
本当かウソかはいまだにわからないが、新聞にフラフープをすると腸がねじれるという記事が載ったので、各家庭では大人が止めさせたように後で聞いた。
私は子ども心にブームとそれの過ぎ去る速度のすさまじさを思い知った。
三
これだけ大きい兵舎であるから、子どもにもグループができる。兵舎をおよそ三等分して、北部のグループ、真ん中あたりのグループ、南部のグループである。
私は南部のグループに属していた。北部や真ん中にもクラスメートがいるからよく遊びに行ったが、見るものすべてが珍しく雰囲気も違う。そして少し居心地が悪い。北部だって同じ兵舎であるからいじめられることはなかったけれど、それほど親しくはしなかった。 私の属する南部グループには男女合わせて十数名の子どもがいたが、私が特に仲良くしていたのは啓ちゃんだった。啓ちゃんは私より一学年下である。啓ちゃんは野球は下手で、どちらかと言えば漫画が好きだったから、私とよく気が合った。
この塚本町の兵舎の子どもたちが一体感を感じることがあった。
私の通っていた砂川小学校では月に一回子ども会という時間があった。子ども会とは、校内の決められた場所に、学年やクラスに関係なく同じ町内の子どもが集まるのである。私の町内は小学生の数が五十人を超していたから、教室の中では立つものもいたほどであった。そして子ども会会長の話を聞く。たいていは連絡だけである。夏休み前には、毎朝実施されるラジオ体操の連絡があったりする。
子ども会が終わると、町内別に校庭に一列で並ぶ。このとき我が塚本町の列は断トツで長くなる。その列の長さに私は妙な優越感を感じたものだった。皆もおそらく塚本町の一体感を感じたのに違いない。
秋には町内対抗の子どもソフトボール大会があった。塚本町には野球の好きな子どもが多い上に毎日広い庭で野球遊びに興じていたから、練習量は十分であった。我が塚本町は二年連続優勝を果たした。当然と言えば当然の結果であった。
この時は、北部、真ん中、南部のグループが一体となって戦った。このことも、塚本町の一体感を強めることとなったのであった。
四
塚本町の兵舎の裏は警察学校であった。兵舎の板塀には警察学校にはいる戸があったから、私たちはよく警察学校の庭に入って遊んだ。警察学校の庭は広かった。春はレンゲを摘み、夏は木陰で遊び、秋にはバッタ取りに興じる。時には奥の方まで行って探検をしている気分になったりして実に楽しかった。警察の人が私たちの横を通ることがあったが、注意されたことは一度もなかった。
警察学校の広いグラウンドで模型飛行機の大会が行われたことがある。当時は模型飛行機の全盛時代で「オリンピック号」や「サーパス号」といった名前の模型飛行機が人気であった。ここで優勝したのは南部グループの同級生の茂ちゃんだった。私は自分の町内から優勝者が出たことに大変誇らしい気持ちになった。
五
毎日が夢のように楽しかった兵舎の生活であったが、私が小学三年生の時に大変な問題が持ち上がった。それはこの兵舎が取り壊しになるという。そのために、兵舎の住人全員が、少し離れた池之内町というところに建てられる新築の団地に移住をすることになったのである。団地は一年ごとに計三棟建つ予定なので、住人は三年かけて全員が『集団移住』をすることになる。
私の家はこの兵舎に住んで日が浅いということで、第三期の引っ越しと決まった。順調にいけば、私が六年生の夏に池之内町の団地に引っ越すことになる。
六
京都には地蔵盆という行事がある。八月末の三日間、町内の子どもたちがお地蔵様をまつるというものである。実際は、大人が三日間子どもたちを遊ばせてくれる行事である。
遊ぶ場所を提供するところがあり、そこに子どもたちが入り浸る。ござを敷いたところで子どもたちは一日中遊ぶ。おやつが日に何回か配られるし、盆踊りや福引大会もある。
トランプの大会もある。夜には映画会がある。こういうものが三日間続くのであるから、子どもたちにとっては天国のような日々なのである。
地蔵盆が終わるときはそろそろ夏休みも終わりの時である。だから地蔵盆がおわると、夏休みの宿題の追い込みとなる。
私が小学三年のときの塚本町の地蔵盆は、実に盛大なものであった。次の年からは住人の三分の一が池之内町の団地に引っ越しをしていくから、全体で行う地蔵盆としてはこれが最後なのであった。
まず、兵舎の庭に丸太で舞台が作られた。そこで、町内の子どもがいくつかのグループに分けられ、出し物をすることになった。私のグループは、私の姉が中心となって「山の音楽家」を歌った。大人たちは、着せ替え仮装競争をした。リレーのように一人ずつ衣装を持って走り、一人の人間を仮装に仕立て上げるというものである。夜は盆踊りや大福引大会が行われた。
最終日の夜は、映画大会であった。タイトルは赤胴鈴之助。
実に豪華な地蔵盆であった。
七
私が四年の夏に、第一陣が新築の団地に引っ越しをしていった。その中には、仲の良かったクラスメートもいたが、二年経てば私もその団地に行けると自分を慰めた。第一陣が抜けたとは言え、南部グループはほぼ全員が残っていたから普通に遊べた。
私が五年生になると、第二陣で引っ越しをする予定の南部グループの六人の子どもらは、引っ越しの準備などで忙しくなり、今までのように無邪気に遊ぶと言うことはできなくなっていた。
第二陣の引っ越しの日は、七月の終業式の翌日だった。その日は、朝早くから廊下に人の話し声やら足音が慌ただしく響いていた。
私はなにやらうれしくなって飛び起きた。斜め向かいの博ちゃんの家はこの日に引っ越す。朝からにぎやかなわけだ。
私は博ちゃんに話しかけた。博ちゃんは嬉しそうにしている。博ちゃんのお父さんは見当たらなかった。博ちゃんに聞くとお父さんは先に新築の団地に行って掃除などをしているらしい。
この日には南部グループからは六軒が引っ越しをする。私は一階と二階を見て回ったが、どこも忙しそうにしていた。私は引っ越しをする友達と冗談を言い合ったりして楽しかった。私は、南部グループの子どもらと今まで通り遊べている感覚に陥った。トラックが出て行く直前まで、私は別れを意識していなかった。
やがて午前十時を過ぎると、拍手の中「お先に行ってまーす」「お先に」の声とともにトラックが次々と出て行く。茂ちゃんはトラックの助手席で「しばしの別れ」と大声でおどけて見せた。最後のトラックが出ると、今までの喧騒がうそのように急に静まり返る。足音ひとつが今までよりうつろに響く。
私はここに至ってことの重大さを認識することになった。第一陣、第二陣が抜けた後は、兵舎はコミュニティとしての機能を失っていた。私の家の周りはすべて空き家になっており。数軒向こうに女子のいる家が二軒残ったのみであった。
今までなら、家の中にいても、どこかの兄弟げんかの声や時には怒鳴りあう声、人の足音、また奥さん同士の立ち話の声などが廊下伝いによく聞こえていたものであった。それは、人の営みを直に感じ取るものだった。
ところが第二陣が出て行ったあとは、そういうものは全くと言っていいほど聞こえなくなり、静まり返った兵舎は不気味ですらあった。近所の子と遊ぶと言う文化はここに至ってほぼ壊滅してしまった。ただ、南部グループでよく遊んだ啓ちゃんの家は残っていた。しかし、啓ちゃんは同級生の博ちゃんがいなくなったので元気がない。
今までは、数多くの子どもがいたのだが、残った子どもはみんな遊び友達が激減したことに戸惑っているようだった。
あれほどにぎやかでいつも歓声にあふれていた兵舎は、だだっ広い空洞と化していた。夜になると廊下には足音もせず、布団に入ると高いところにある太い柱や梁のきしむ音が反響音を伴って不気味に響く。
そして、自治会で中心的な役割を果たしていた人たちがこの第二陣で引っ越してしまったため、その年の地蔵盆は中止になった。
私は寂しかったけれど、来年の七月には私の家族も引っ越しをする。私はそれを心待ちにしていた。
とりあえず、私は遊び友達を探さねばならなかった。啓ちゃんとも遊んだが、今までの南部グループの楽しさを知っている二人としてはなんだか物足りない。
そのときによく声をかけてきたのが、真ん中グループの竹本真一であった。竹本真一は、家が近かったので、私と遊ぶことが多くなっていった。
竹本は、私より一つ下だった。空き部屋の前に床几をおいて、私は竹本とよく「ロケットすごろく」をして遊んだ。ロケットすごろくは雑誌の付録で、さいころの目によってロケットでゴール付近までいったりその逆があったりするゲームである。
私は竹本と特に遊びたいわけではなかったが、なにせ遊ぶ男子がいないので仕方なく遊んだ。竹本も同じであったらしく、同級生の仲のいい男子が悉く引っ越しをしてしまったために、仕方なしに私と遊んでいたのであった。お互いにそういう気持ちはわかっていたが、それでも遊ばねばならないほど、私も竹本も寂しい思いをしていたのだった。
私にとっては精神的に追い込まれたつらい一年であった。
翌年の七月、いよいよ我が家が引っ越しをする番になった。向こうに行ったら以前のようにみんなとわいわい遊べると私の心は躍った。この引っ越しで塚本町の兵舎は全くの無人となる。かつて百人近い子どもたちが高度成長期の文化を享受し、仲良く遊んだ兵舎であった。
八
池之内町の新しい団地での生活が始まった。私の家は三棟目の二階である。家に入ると新築のにおいがする。風呂はないが、水道とトイレが各戸にある。共同炊事や共同トイレの兵舎と比べると、文明が百年も進んだような気がした。
しかし、私の思惑は外れた。あれほど仲の良かった南部グループの子どもらは二つの棟に散り散りになっていたのである。兵舎のようにいやでも顔を合わせて遊ぶと言うことはできなくなっていた。
団地は鉄のドア一枚で人間関係というものを遮断することができる。まず、私は南部グループのほとんどの子どもらと顔を合わすことさえなくなった。特に二棟目の南部グループの茂ちゃんとは言葉すら交わすことはなく、実際に言葉を交わしたのは四十年後の同窓会の日であった。
塚本町の兵舎では昼も夜も一緒に遊んだ仲であったが、それは長屋という住まい方がそうさせたのであった。兵舎から団地への引っ越しは、言わば戦前の文化から戦後の文化に切り替わった瞬間だった。
長屋の人間関係をそのまま夢見ていた私は大いに当てが外れた。そしてこのあいだまで仲のよかった竹本は、三棟目の四階になり遊ぶことも顔を合わせることもなくなった。
大人も同じであったと見えて、兵舎の近所付き合いの活気は全くなくなってしまっていた。
九
それでも、塚本町の兵舎付き合いのDNAは、池之内町の地蔵盆で発揮された。
丸太の舞台こそなかったが、テントをいくつも張り、ござを敷いて子どもの遊び場所にした。夜は、福引大会や団地の四階からスクリーンを垂らした巨大な映画会が行われた。私が中学二年の時には広場の隅に小さな舞台が作られ、町内の高校生がエレキバンドをやった。
エレキギターがそれも生バンドで見られると言うので、舞台の周りは黒山の人だかりであった。
私はその後、兵舎の南部グループではなく、団地の三棟目の子どもとよく遊ぶようになった。特に、塚本町の南部グループであった啓ちゃんは同じ三棟目であったので、中学三年になってもよく遊んだ。
啓ちゃんと遊んだのはそのときが最後であった。
十
翌年、私は高校一年生になった。そしてその年の十月に私は池之内町から数キロ南の伏見桃山の公務員宿舎に引っ越した。塚本町から池之内町へと約十年間付き合った幼友達とは、ここで完全に別れることになった。
桃山の団地には待望の風呂がついていた。私はうれしかった。もう遠い銭湯に行かなくていい。
桃山の団地に来てうれしかったのはしばらくで、私は孤独との闘いを強いられることになった。外に出ると誰一人として知っている顔はない。声をかけたりかけられたりする関係も一切なかった。高校生はたくさんいたけれど、挨拶をする関係ですらなかった。
地蔵盆がどこでいつ行われていたのかも記憶にない。
小学一年から長屋の人間関係にどっぷりと浸かっていた私にとって、この異邦人のような生活は耐え難いものであった。
池之内町の団地に遊びに行こうかと思ったが、いまさら誰も声をかけてはくれないだろうと思うと、行くことができなかった。
十一
その後、私は中学校の社会科の教師になった。Q第四中学校で七年間勤務して、S中学校に転勤した。
四月一日、S中学の職員室で私は自分の机の整理をしていた。
そのとき「大山先生」と声をかけてきた者がいる。
振り向くと、若い男性教諭が立っている。
「ああ、どうも」と私は答えた。
「竹本です」とその教師は言った。
私は竹本と言う名に心当たりはない。
「塚本町でいっしょに遊んだ竹本真一です」
私の記憶の底からほろ苦い思い出がよみがえった。
「えっ、竹本か」
「てっちゃん、ですよね」
「うわあ、懐かしいなあ。いっしょによくロケットゲームをしたなあ」と私は言った。
「そうですね。懐かしいです」
「あのとき、第二陣が引っ越してしまって、兵舎はまるでゴーストタウンやったな」と私は言った。
「そうでした。あの一年はつらかったですね」と竹本は言った。
そのとき、「それでは職員会議を始めますので会議室にご集合ください」という教頭の声がかかった。
私は竹本と別れ、会議室へと急いだ。
一日の会議が終わったあと、私は竹本の席に行った。
「まさか、こんなところで竹本先生に会うとは思わんかった」
「ぼくもです。あの時は第二陣が引っ越していったので、あの兵舎はコミュニティが崩壊していました。兵舎の生活は楽しかったけれど、あの一年は大変な思いをしました」と竹本はため息をつきながら言った。
竹本とは、二年間いっしょに仕事をしたが、その後彼はK中学に転勤していった。竹本と塚本町の兵舎の話をしたのは、私が赴任したその日だけであった。
十二
十数年が過ぎ、私が教頭になった二年目、教育委員会から訃報のFAXが入った。私は、驚いた。
そこには「竹本真一」の名前があったのである。享年四十六歳であった。
私は動揺した。あまりにも早すぎる。
さらに十数年後、私が定年退職をした翌年に啓ちゃんが亡くなった。
塚本町の兵舎の楽しい生活や前代未聞の集団移住の顛末を知っている人間がどんどん少なくなっていくのは、実に寂しい。
現在、塚本町の兵舎跡には、警察学校の体育館が建っている。なにもかも変わってしまったが、六十年前と変わらずに残っているものがひとつだけある。それは道路沿いに植えられている、からたちの木である。
近年、近くを通りごつごつとしたこのからたちの木を見る機会があった。鋭いとげのあるからたちの木を見ていると、時代の狭間にあとかたもなく消えて行った兵舎を懐かしく思い出す。
今思い返すと、私の子ども時代の楽しい思い出は、塚本町の兵舎生活の小学四年生で止まったままなのである。
下記↓私にも解るような気がします。(*_*;
>>『今思い返すと、私の子ども時代の楽しい思い出は、塚本町の兵舎生活の小学四年生で止まったままなのである。』
気の合う友と無邪気に遊び♪屈託無い笑顔♪
人は歳を重ねる毎に孤独に成りますね?
選挙で選ばれる議員さん達のバックには大きな組織がリモートされて居るのかしら?と想えるような社会的背景をみ~んな背負ってる?からでしょうか?
社会から消えて行く屈託の無い笑顔。。
?(-_-)
京都には京都の、江戸には江戸の役割分担が在った江戸時代のように?日本国文化を守りつつ、新たな時代の幕開けと成るのでしょうか?
宜しおすなぁ~(^^♪と後々にも讃えられるような新たなる日本ブレンドの日本国文化の創生期?だと良いですね♪
もうすぐ春爛漫。。花ぞ今宵のあるじならまし
①人の不幸を踏み台にしてはいけない②お神楽二階は運が付かない③人を呪わば穴二つ?と云った言葉を思い出します。(-_-)
年齢を重ね両親を看送った今世の中の出来事を眺め乍ら今更のように気付く事多々なのですが、子を持つ親として改めて思う事は、略奪強盗文化にピリオドを!です。(*_*;
頭曲がれば何処迄も(*_*;なのですが、千代に八千代にお上が額に汗して御田植えするようなお国柄で在って欲しいなぁと願う草食系一般日本国民も多々で在りますね?
騙し殺し奪う超合理的?略奪強盗文化にピリオドが打たれますように♪
永遠の?からたちの棘はいったい何を刺すのでしょう?(-_-)