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第180回古都旅歩き小説 「百鬼夜行」

2017-12-20 14:24:06 | 小説

180回古都旅歩き小説

  「百鬼夜行」  作 大山哲生

 平安時代中期。

 ある秋の午後。

「どうや、清明よ。励んでるか」と声をかけたのは賀茂忠行であった。

ここは京の町。土御門大路(つちみかどおおじ)の南側にある賀茂忠行(かものただゆき)の屋敷である。数枚の屏風で仕切られた部屋に賀茂忠行と弟子の安倍晴明が相対している。賀茂忠行は陰陽道(おんようどう:平安時代にはこう呼ばれていた)の大家で、その力量を買われ朝廷にも出入りしている。

 弟子の安倍清明は賀茂忠行の元で陰陽道を学んでいた。安倍晴明は熱心な学徒であったので、賀茂忠行は弟子ながら心強く思っていた。

「師匠の教えを守り、日夜研鑽を積んでおります」と清明は答えた。

「陰陽道というものは、呪文を唱えさえすればなんでもできると思われている。たとえ相手が公家や大臣であっても、そう思わせ続けることが大切や」と忠行は言う。

「なるほど。私も陰陽道を学んで、陰陽道の神髄は情報と算学に尽きるということがわかりました。師匠はどのようにして情報を仕入れておられるのですか」と清明は尋ねた。

「そうやな、実は情報提供者を多数持っている」と忠行は麦湯をすすりながら、

「だいたい三百人くらいかな。この屋敷に直接出入りするのは十人くらいやけど。この間も、検非違使庁から盗賊団の隠れ家を占ってほしいと言われたから、呪文を唱えて言い当てた。情報の中には盗賊団の隠れ家に関わるものもあったさかい、呪文を唱えなくともわかってたけどなあ」と言った。

「情報提供者を屋敷に出入りさせると家人などに内情が漏れてしまうのではないですか」と清明は聞いた。

「だからわしは考えた。彼らを式神ということにしてある。普段はその式神をわしがどこかに隠しておいて、いざというときにはわしの手足として使うと言うことにしてあるよ」と忠行は言った。

「なるほど、それでわかりました。式神がなぜ生まれたのかが」と清明は言った。

 二人はそれからも話し込んでいた。

 夕焼けで空が赤くなる。

「もう夕方か」と忠行は屏風の陰から外を見やりながら、

「それにしても清明よ、気持ちのよい秋の夕暮れではないか。明日は晴れる。陰陽道にとって雲や空の観察は大切や。『観部』の者が毎日詳細に天気を観察して記録をつけている。こういう積み重ねがあるからこそ、雨乞いの祈祷のあとには必ず雨が降るんや」と忠行は言った。

「なるほど」と清明は相づちを打った。

 夜も更けていく。屋敷の庭では虫の鳴き声がする。ひいやりした空気が屋敷内に流れ込んでくる。賀茂忠行の屋敷は小さいながら寝殿造りなっている。広い板の間を数枚の屏風で仕切って部屋のようなものが作られている。四方とも戸は下ろしてあるが風が吹き抜ける。

 ろうそくの灯りに浮かび上がる忠行の顔は影が揺れていた。

「しかし、清明よ。公家や藤原氏はあの百鬼夜行を大変恐れているよの」と忠行が言った。

「私もその話は聞き及んでおります。夜な夜な、地獄から出てきた鬼どもの集団が一条通りや二条通りを歩き回るというあれですね」と清明は言った。

「そうや。あれを大変怖がっている。わしにもわけがわからん。あんなものがほんまに出てくるとは思えんが現実には見た者が多い」と忠行は言った。

「私が調べたところによりますと」と清明は帳面を取り出すと、

「貞観年間に左大将・藤原常行が愛人のもとに行く途中、美福門付近で東大宮大路の方から歩いてきた百人ほどの鬼の集団に遭遇しております」と清明はいった。

「なるほど。愛人の家に行くのも命がけやな」と忠行は麦湯の入った椀を見つめながら笑った。

「さらに、小野篁(たかむら)と藤原高藤が同行していたときにやはり鬼の集団に遭遇しています。いずれも、尊勝仏頂陀羅尼を着物に縫い込んでいたので事なきを得たようです」

「そこにも藤原がいたか」

「諸行無常と詠じながら一条大路を歩いていた馬頭の鬼の話も伝わっております」と清明は言った。

「ふーむ、困ったもんやな」と忠行は言った。

 それから数年が過ぎた。

 賀茂忠行は、寒い日の早朝、安倍晴明を土御門大路の自宅に呼んだ。

 忠行が清明を急に呼びつけるということは異例であった。清明は何かあったに違いないと推察した。

 清明は、忠行の屋敷の奥の間に座った。外の冷気が入ってこないように屏風を二重三重に立ててある。火鉢に火は入っているが、天井が高いため暖まるにはほど遠い。

そこへ忠行が入ってきた。

「おう、清明か。もうちょっと近くに」と忠行は声を潜めた。清明は、座ったまま近寄った。

忠行は腰をおろすと、自分も清明に近寄った。

「実はな、百鬼夜行の正体がわかった」と忠行はささやいた。

「えっ」

「声が大きい。正体はわかったが、この正体を公言するわけにはいかん。公言すれば、権力の中枢にいる藤原氏の権威を傷つけ、武力の争いに発展する可能性すらある。この問題に関しては今まで通り、地獄の鬼が時々悪さをしに出てくるということにしておかないと、わしら陰陽道すら存在価値がなくなる」と忠行は言った。

「その正体とは」清明は尋ねた。

「今は言えん」と忠行は言うと、脇息にもたれかかった。

「ただし」と忠行は再び前のめりになると清明のそばでささやいた。

「正体なるものは、わしらに公表してもらいたがっているようや。わしらがいつまでも公表しないと、正体なるものはわしらを襲うかもしれん」

「そのときは」

「そのときは、例の『式神』と呪文で追い払うことにする」と忠行はにやりと笑って言った。

 ある夜、師匠の賀茂忠行が下京あたりに用事で出向いた。清明は供をして歩きながら忠行の乗った牛車のうしろについていた。

 忠行は車の中でどうやらぐっすり寝込んでしまったようである。

 清明が、闇に目をこらすと向こうの方から車に向かって大勢の鬼どもがやってくる。

清明はあわてて車の後ろに回ると忠行を揺り起こして、

「師匠、大変です。前方から鬼の大軍がやってきます」と清明は言った。目を覚ました忠行は、「心配せずともよい。例の呪文を唱えてあの鬼どもを追い払ってやろう」と言うと、呪文を唱え始めた。

 清明が見ていると、近づいていた鬼どもがくるりときびすを返すと逃げ始めていくではないか。清明は驚いた。鬼どもが逃げていくなどということはついぞ聞いたことがない。さすがは師匠であるなあと感心することしきりであった。

 しかし、清明は自分たちのはるか後方に数十人の『式神』が控えていたことには気がつかなかった。

 やがて、師匠である賀茂忠行は亡くなり、安倍晴明は陰陽道の大家として遅い出世をしていった。安倍晴明は藤原氏や朝廷の信頼厚く、宮中で祈祷をすることもしばしばであった。特に北東の鬼門封じは清明の主要な仕事であった。

 清明は、天気を調べる『観部』と太陽や星の動きを計算する『算部』をさらに充実させ、その技術や膨大な記録は一切門外不出とした。

 さらに清明は、師匠と同様『式神』と呼ぶ情報提供者を数百人も持つに至った。清明は用心深い性格であったから彼らと自宅で会うようなことはせず、会う場所を一条戻り橋の下と決めていた。

 このことから、安倍晴明は一条戻り橋の下に式神を隠しているという噂が広まったのである。

 安倍晴明は、百鬼夜行の正体を師匠の賀茂忠行から教えてもらうことはなかった。しかし、その後清明は『式神』からの情報で、ついにその正体を知ることとなったのである。

なるほど、師匠の賀茂忠行が恐れたはずである。これが公表されると、藤原氏の権威を傷つけると同時に京の町が混乱する。ひょっとすると武力衝突にも発展しかねない。清明もこれは公表しない方が賢明だと判断し、百鬼夜行は地獄の鬼がこの世に現れたのだという見解で押し通したのであった。だから、正体のことは弟子にも伝えなかった。

賀茂忠行、安倍晴明がそれほどまで恐れた百鬼夜行の正体とはなんであったのか。

平安京が作られると同時に、奈良の葛城方面から京の町に移り住む者が多くいた。彼らは、百五十年前に藤原氏に滅ぼされた蘇我一族の流れを汲む者たちであった。彼らは藤原氏に深い恨みを抱いており、いつか藤原氏に復讐をと子々孫々に伝えていた。

彼らは、決して一カ所に固まって住むようなことはしなかった。平安京のあちこちに分散して住み、検非違使などにも気づかれることはなかった。

彼らは、昼間は何食わぬ顔をして生業にいそしみ、暗い夜を選んでは鬼の装束に身を包み出没したのである。当時は鬼門や鬼といったものがまことしやかに信じられており、その効果は大きかった。目的は藤原氏を怖がらせることにより政権に揺さぶりをかけようというものであった。そして、賀茂忠行や安倍晴明が正体を公表するなら武力で藤原氏を襲おうと考えていた。

しかし、忠行や清明が百鬼夜行は地獄の鬼のいたずらという見解を押し通したため、藤原氏は、この蘇我残党たちの動きには気づかなかった。

こうして、蘇我氏の残党たちのもくろみははずれてしまったかに見えた。

 その後、藤原道長や頼通の時代に藤原氏の全盛期を迎えるが、清明たちの『百鬼夜行は地獄の鬼のいたずら』という見解が、思わぬ形で藤原氏に深刻な影響を与えることとなったのである。

 当時、釈迦の教えは滅び地獄の餓鬼がこの世に出てくるという末法思想が広まっていた。公家も貴族もこの末法の世を恐れた。道長も頼通も例外ではなくただただ地獄を怖がった。周りの者から見ると、その恐がりようは異様とも思えた。

 道長、頼通父子は、地獄の恐怖から逃れるためひたすら阿弥陀如来にすがり念仏を唱え極楽往生を願った。

道長は法成寺を建立し九体仏を安置して後世を願ったし、頼通は、宇治に平等院を建立しやはり後世を願った。二人とも、大勢の僧の読経の中、阿弥陀仏の手に糸を結び、その糸を握ったまま亡くなった。

 しかし、賀茂忠行と安倍晴明以外にこの正体に気づいていた者がいた。

 それは「大鏡」という書物の作者である。大鏡では百鬼夜行に触れている。藤原師輔(ふじわらのもろすけ)が深夜に出会った集団が蘇我入鹿や蘇我馬子など藤原氏に殺されて恨みをもった者たちだったという。

 その後藤原氏の権勢が衰え、武士が台頭して世の中の秩序が乱れてくると百鬼夜行の話は出てこなくなり、説話や絵巻物の題材として扱われるようになる。世の中は、百鬼夜行よりもっと恐ろしい、秩序なき力の時代へと移っていったのであった。

なお、大鏡の作者は源顕房(みなもとのあきふさ)という説が有力である。

 

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