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第210回夢語り小説工房 作品 「古文書」

2018-07-12 15:16:17 | 小説

210回夢語り小説工房 作品

「古文書」  作 大山哲生

私は地球大学の考古学教授である。

 今から二千年前に書かれた「洛中記」の中に、興味深い記述を発見したので、ご披露申し上げる。

 以下「洛中記」第八章と九章よりの抜粋である。

 

【この話は二十一世紀中頃のことである。後のために書き記す。

 私の名は、斉藤隆盛。四十五歳。京都町議会議員をしている。議員は三期目になる。だいたい四期目になると壮烈な議会議長や副議長の争奪戦が始まる。そういう人は、それまでだらだらしていても急に人格者のように振る舞うようになる。そして、各会派や各議員に根回し工作をがんばるようになる。

二月の京都の臨時議会で画期的な条例が可決された。全会一致で可決されるものは少ないのだがこの時はなぜか全会一致だった。

 その条例というのは、選挙の投票率で議員の給料が変わるというものである。

 投票率70%以上なら満額支給。10%下がるごとに給料も10%下がり、投票率20%以下は給料は一律20%にするというものであった。この条例は『投票率連動条例』と呼ばれる。

 この条例ができたのには大きな理由があった。

 それは、京都町議会議員の不祥事が相次いだからであった。私は、特に熱心な議員ではないし人のことを言えたものではないが、連続する不祥事はあまりにもひどすぎた。

 ある議員は、毎週末に東京に視察にいったことにし、多額の政務活動費を詐取していた。発覚したきっかけは東京視察の偽申請をだしていることを忘れて金閣寺を訪れ「百万人目のお客様」としてテレビで放映されたことであった。マスコミがこの詐取を連日取り上げ、議員は辞職し起訴され有罪が確定した。

 またある議員は、高校の同窓会でおれが一番えらいとわめいていたところに衆議院議員をしている同級生にたしなめられ、腹いせに相手の顔に玉子を投げつけて起訴され有罪になった。またある議員は、愛人数人に貢いでいた金を「困窮者救済基金」として政務活動費から支出しマスコミの批判を浴びた。そして起訴され有罪となった。

 私が政務活動費をほとんど使わなかったが、これを見た仲間たちは笑った。「数十万円が地面に落ちているのを拾わないやつはアホだ。ああいうものはとれるだけとりゃいいんだ」と。

 不祥事はまだ続く。ある議員は、子どもの遊んでいたけん玉をとりあげいいところを見せようとしたがうまくできずに川に投げ込んで子どもを泣かせた。その後起訴され有罪となった。

 また、ある議員は釣り竿を万引きしズボンに入れたが、足がしゃっちこばって逃げるときに階段からころげ落ちて捕まった。その後起訴され有罪となった。

 これらのことが一度に起こったものだから、京都町議会の信用はがたがたに落ちてしまった。

 その直後の京都町議会議員選挙では、投票率1%という少なさであった。

 人口二百万人の京都町でトップ当選した議員は1522票、最下位当選した議員に至っては66票であった。私は下から三番目という順位で得票は83票であった。私は当選したという喜びも実感もなかった。

 果たしてこれは、京都民の信託を受けたことになるのか。新聞、雑誌、ワイドショーは連日この問題を取り上げた。

 私を含め、当選した議員たちさすがに後味が悪く、民の政治に対する関心を呼び起こすことこそ最優先課題として議会改革に取り組むこととなった。

二、

 連日、議員の控え室では話し合いが行われた。私の属していた「こん平党」でも、数人の議員で連日話し合いを持った。

「しかし」と私は、番茶を飲みながら、

「ここまで、投票率が低いとはおもわなかったなあ。1%やからな。これで、私は皆さんの代表ですとは口が裂けても言えんわ」と言った。

「そう思うわ」と有馬さんは続けた。

「これだけ低いと毎日が針のむしろや。いっそのこと落選してた方が気が楽やったわ」

「とにかく、投票率をどうやって上げるかやな」と東田さんがいった。

「やっぱり不祥事が続きすぎたわ。議会への信用を取り戻さなあかん」と私は言った。

「今まで、何十年と議会改革と口では言うてきたけど、なんにも変えられなかった」と高田さんが言う。

「つまり、口だけの改革ではだめだということや」と有馬さんは言った。

「つまり」「つまり」「つまり」三人が口をそろえた。

「身を切る改革」「それ」「それ」二人が口をそろえた。

 各会派の代表が集まって幹事会が行われ、話し合いの結果を出し合った。

私が「身を切る改革」と言うと「それ」「それ」「それ」「それ」「それ」残りの五人の代表全員が口をそろえた。

「具体的には ?」と私が言うと、十分近くの沈黙が続いた。

 その時、議会事務局の職員が、

「身を切る改革というなら、投票率が下がれば議員の給料も下がるというのはどうですか」と言う。

「なんやて」「なんやて」「なんやて」「なんやて」と四人が口をそろえた。

「わしらの給料を下げるんか。いくらなんでも」と語気を強めたのは、京都町議会のドンといわれた七橋弥太郎である。七橋が言うとたいていはその方向で決まるのが普通だが、この日は「七橋さん、それくらいのことをやらないとこの先大変です」と七橋をたしなめる意見が出た。七橋は、意外な展開に目を向いたが、助け船はどこからも出ない。

 後日、法制課から、条例案が各会派に示された。それは投票率70%以上なら満額が支給されるが10%下がるごとに給料も10%下がり、投票率20%以下は一律に二割支給になるという厳しいものであった。

 私をはじめ条例案を見た議員は青くなった。選挙費用どころか生活にも困るレベルとなる。これで政務活動費も自粛するとなると、議会への信頼を取り戻すために相当がんばらないといけない。

「大変な条例ですね」と私は言った。

隣にいた有馬さんは「身を切る改革だよ」と言う。

いよいよ、この条例案は議会に上程されることになった。

そこで議会としては自分たちの姿勢を正すことこそ大切だとして、「投票率が給料に連動する条例」を全会一致で可決したのであった

 

 このときから議会の様相は一変した。

 私が周りを見回すと議会中に居眠りする者やスマホをいじっている議員はいなくなった皆、資料を見ながら一応前を向いている。メモをとっている人もいる。私も、少し真剣な顔をして審議に聞き入った。

私がほとんど政務活動費を使わないことを笑っていた議員たちも政務活動費を使わなくなった。やむを得ず使った場合には領収書ネットで公開した。こうして政務活動費を全く使わない議員は九割を超えた。

 閉会中はどうしたらいいのか、これも各会派で話し合いが行われた。

「少なくとも、我々議員が仕事をしているところを町民に見せる必要がある」と有馬さんがいった。

「そしたら、議員の仕事ってなんや」と東田さんが言う。

「なんでしょうね」と私は言った。

「我々は」と有馬さんは冷えた茶をすすりながら、

「選挙で選ばれた町民の代表や」と当たり前のことを言う。

「代表ということはつまり」と東田さんはいいかけて口をつぐんだ。この人は理屈っぽいことはよくわからない人だ。

「つまり、代表ということは、町民の意見の代表」と私が言った。

「わかったぞ」と有馬さんは言った。

「町民の意見や困っていることを調べて政治に生かす」有馬さんはここまで言うと首を縦に大きく振った。

 結局、閉会中は町民の生活や仕事を視察して問題があれば議会で意見を言う、ということになった。

「これやったら、町民に仕事をしてるとこを見てもらえるな」と東田は首を縦に大きく振った。

 かくして議員たちは議会のないときは京都のあちこちを回って視察に励んだ。ある議員は西陣織などの地場産業を視察し、ある議員は農業を視察した。ある議員は学校付近の道路を視察し、ある議員は騒音に悩む人々の声を聞いた。

 こういう議会や議員の変化を「洛中の奇跡」として新聞や雑誌が取り上げた。私のところにも、数社からインタビューが申し込まれた。私はていねいに一社ずつ対応した。NHKのクローズアップ現代でも取り上げられて、私は生まれてはじめてテレビに出た。

 しかし、多くの識者の意見は冷めたものだった。

「これで普通なんだよ」と。

 二年後、突然の議会解散でまた京都町議会議員選挙が行われた。議会改革に取り組んだ成果がどう現れるのか関係者は気をもんだ。

 投票率は33%前回よりは上昇したものの議員の給料は大幅カットのままだった。

 この結果を受けて、各会派の代表が集まり対策を検討することとした。

 九月十二日。場所は議会事務局隣の会議室。

御目出党の春日太郎は切り出した。

「我々は議会の正常化をこつこつとやってきたけど、投票率は一向にあがらへん。なにか、もっと市民の関心を引きつけるようなことをしていかなあかん」

そうすると『一問一党』の大御所・桜坂光男が言った。

「確かに、議会を一生懸命にやるだけでは投票率につながらん。どうしたらええかいな」

「やり方はありまっせ」と勢い込んで言ったのは有賀党(ありがとう)の和多田和義である。

「有権者がくるのを待ってるからあかんのや。来させるようにせなあかん。投票所の出口で紅白まんじゅうを配るというのはどうやろ」

「あんた、もの配ったら法に触れるんと違いますか」

「そやな。ちょっと無理があるかな」

「こんなんどうやろ」

「それはええ考えや」

「いや、まだ何にも言うてへん。つまり、遠い投票所までわざわざ行って、名前書いて帰るだけやから無駄足みたいな気がするねん。投票所で歌謡ショーとかマジックショー、それに漫才大会みたいなものをしてついでに楽しめるものにしたらええ」

「なるほどそれはええ考えや。ついでに屋台も出したらええ。そうや、道の駅みたいに野菜を売るというのはどうやろ。これは実費で買ってもらうのやから違反にはならへん」

 出席者一同は納得した。

 私は半信半疑であったが、雰囲気というのは恐ろしいもので、反対できない雰囲気の中、全会一致で可決された。予算は年間五千万円が計上された。

次の選挙はそれで行くことになった。

 そのまた二年後、ある議員の突然の死亡により、補欠選挙が行われることになった。

 投票所に指定された三つの小学校の体育館は、早朝からにぎやかだった。

マジックショーとカラオケ大会と漫才をローテーションで各投票所で四時間ずつ実施した。

カラオケ大会は地元老人会の協力でなんとかいけたが、マジックショーはテレビでおなじみの有名なマジシャンを呼んできたからかなりのギャラが発生した。

 投票所の視察に来た桜坂は秘書に、

「見てみ。なかなかの盛況やないか。投票率もかなり上がりそうや」と言った。

秘書は「そうですね。多いですね」と驚いた。

かくして投票率は68%と跳ね上がった。今回は補欠選挙であったため、議員の給料には反映されなかったが、議員たちは手応えを感じていた。

 そのまた二年後。

 京都町議会議員選挙が実施された。各会派とも自分たちの政策を熱く主張した。

 そしていよいよ投票日。各投票所にはそれぞれ趣向をこらして様々な催しがあった。

 金閣寺に作られた臨時投票所では、足利義満を題材にした歌舞伎が演じられた。清水寺に作られた投票所ではアッカンベー48と三年坂46の共演という、前代未聞の豪華さであった。手品や歌謡ショーは言うに及ばず、京都の地域に伝わる踊りや歌などが披露された。

 また、各大学では、発表の機会が増えたと言うことでダンスやジャグリングなどのサークル活動が活発になった。彼らは各投票所で芸を披露したのであった。

 かくして投票率は75%に達した。議員の給料は満額支給されることとなり、初期の目的は達成されたのであった。

 かくしてこの制度で、有権者は投票率の上げ下げという武器を手にすることとなったのである。有権者も確実に手応えを感じていた。

 京都は新しい選挙制度の先駆的モデルとして全国から視察が相次いだ。テレビでも報道された。京都は常に新しいことをするところだと。

 問題は選挙のたびに別途多額の費用がかかることだった。だから、この投票所にぎやか条例は突然打ち切りとなった。

それは長の鶴の一声だった。

「選挙は普通でも多額の金がかかるのに投票所の催し物までやると莫大な金がかかる。これ全部、税金やで」

 この市長の一声を受けて、各会派は会議を持った。確かに催し関係だけで多額の金が使われていた。結局、反対ができない雰囲気の中、全会一致でこの『にぎやか条例』は廃止された。

 しかし、あの『投票率連動条例』はまだ残っている。

 こん平党の控え室で会議を行った。

「このままいったら、わしら議員の給料は下がったままになるで」と有馬さんは言った。

「そうですね、いくら議会改革といったところで投票率が五割を超すことは考えにくいですからね」

「いっそのこと、投票率連動条例はやめたらどうや」と東田さんは言った。

「そうやな、それしかないな」有馬さんは言う。

私は「でも今やめるとなると町民の反発は強いと思いますよ」と言った。

「でも、わしらの生活が大変やで」と東田さんはぼやいた。

それまで考え込んでいた有馬さんが顔を上げるなり、

「投票率連動条例は廃止もやむなし」と叫んだ。

各会派の代表が集まって幹事会が開かれた。

有馬さんが開口一番、

「連動条例は廃止」と言うと「そのとおり」「そのとおり」「そのとおり」と皆、口をそろえた。

 ここからが早かった。次の日には、反対できない雰囲気の中、条例の廃止が全会一致で可決された。

 私と有馬さんは、早速支持者の会合へ出向き、説明をすることにした。しかし、私たちを待っていたのは、町民たちの非難や怒号であった。

「なんで、条例を廃止したんや」

「おまえら議員は金の亡者か」

「議員の仕事をしてない者にまで給料は払いたくない」などのヤジが飛んだ。

 この会合は数時間にもおよび、私が家にたどり着いたのは夜中の三時だった。

かくして、その後の選挙関係の公費は抑えることが出来るようになったが、仕事をしない議員にまで常に給料が満額支給されることに対して忸怩たる思いの民も少なくなかった。

 というのが、二千年前に書かれた「洛中記」八章と九章の内容である。

 現在、京都に続いている洛中踊りは、二千年前の投票所での催しが起源という説が有力である。

 しかし、異論もある。ある学者は、洛中踊りは紫式部が始めたと主張する。紫式部が宮中での宴の際に踊ったのが起源ということである。また別の学者は出雲の阿国が始めたと言っているが、はっきりとしたことはわからない。

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