旧司法試験 合格体験記: 伝説の 伊藤万里子さん「私の前には条文があるではないか。」

2020年10月16日 16時44分00秒 | 新司法試験
昭和52年 
伝説の司法試験受験生、
伊藤万里子さんの
合格体験記です。

メンタルで
これだけ強くなれますか?

「 神様は、最後まで諦めなかった者に奇跡のようなご褒美をくれる。 」

を伊藤万里子さんを見ると
その時だけでも信じる。
4年生で1位で合格している・・・・。
レジェンドですね。

この体験記には、書いていないが、
当時、口述の体験記があったはず・・・・。
口述の試験管は
伊藤さんの優秀さを絶賛。
ずいぶん褒められたらしい。




「ところが二日目の商法の問題を見た時は目
の前が真暗になった。貨物引換証の条文など見たこともなかった。悲しいかな、大学の商行為法の
授業は答練に追われて出ていない。逃げ出したいような思いにかられながら、とにかく条文を見つ
けた。大きく深呼吸をする。バッグの中にお守り代わりにしのばせてきた優秀賞の賞金袋を思う。

 「私は真法会で優秀賞をとったのだ。
自分の実力をぶつけてゆけばどんな問題でも書けないはずがない。」
 
 「私の前には条文があるではないか。
学者も最初は条文から学説を展開しているのだ。」

 ほんの一分間の間に自分でも驚くほど落ち付いてきた。あとは有価証券の基本をきっちりと押えミスを恐れず書いた。書かずに落ちるよりも書いて落ちたかった。商法の試験が終わった時はもう脱力状
態であった。昼休みに顔をジャブジャブ洗いどうにか午後の刑法の試験に臨んだ。難問を前に、時
々フッと論文を書く気力がなえそうになったものである。この地獄のような二日目を除いては、か
なり思い切った答案を書くことができた。五通ほど自分なりに満足のゆく答案もあった。私の今の
実力ではどの答案も最大限のものであったと思う。」




** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** ** **   

「 
昭和52年度司法試験合格者体験記
喜びと戦跡を語る
幸運な私の在学中合格の記録
中央大学 伊藤万里子

はじめに
 一〇月八日法務省の庭に五一九・伊藤万里子という名前を見つけ、沸きたつような喜びを感じる
とともに、あまりにも順調すぎるということに何か恐ろしさを覚えずにはいられませんでした。私
の受験生活は、両親とそして真法会研究室が与えてくれた最高の条件に支えられ全く恵まれすぎた
ものでした。今こうして合格したことに有頂天にならずに新たな第一歩を踏み出すために、ここに
私の受験生活を振り返ってみたいと思います。

一 中央大学入学まで
 私が司法試験を受けようと思ったのは、高校二年の頃であった。幼稚園から中学校まで日本女子
大学の附属の優等生としてヌクヌクとして育って来た私は、それこそ通学時間を短縮して自由な時
間がほしいという単純な動機から、教育大の附属高校を受験した。そしてそこで私は何人かの個性
豊かな女友達を得た。私達は「女性は如何に社会に生きるべきか」について語り合った。そしてそ
の中で私は法律家になろうと思うようになっていった。「○○駅のロッカーから嬰児の死体発見」な
どというニュースに触れるにつけても、法律の世界にも女性の目、女性の発言が必要であるように
思えてならなかったのである。

 そして当然のようにして東大受験。この時初めて私は挫折というものを味わった。解答欄の取り
違え!諦めようにも諦めきれぬ気持ちで夜中にベッドの上に起き上がり悶悶とする日が続いた。そ
れでも浪人生活を送る気持ちにもなれず、私は中央大学に入学した。

二 真法会入室まで

 こうして入学した中央大学での生活は何か物足りない味気のないものだった。私の気持ちのどこ
かに「解答欄の取り違えさえなければ」というおもい上がりがあったことは否定できない。一方で
休学して再受験しようかと考えながら、趣味でやっていたバレエやチェロのレッスンに逃避して毎
日を無為に過ごしているうちに、夏休みが近づいていた。

 その頃中大の中庭では数々の研究室の新入室員募集が始まっていた。それ迄私は中大に研究室とい
うものがあることすら知らなかった。もちろん真法会の名も……。数ある研究室の中で私は何とな
く「真法」という名前が気に入って、入室試験を受けてみる気になった。それまでの怠惰な生活と
早く訣別したかった。そして夏休みに真法会の論文試験に備えて初めて法律書を開いた。憲法ⅠⅡ
である。憲法Ⅰの「憲法の意味」の部分でつっかえて、そこばかり一〇回程も読んだものである。

 そして一〇月に私は真法会研究室への入室を許可された。口述試験で向江先生に「解答欄の取り
違えも実力の内である」と叱られたことで、やっと私の思い上がりはたたきつぶされていた。

三 入室後の一年間

 真法会研究室に入室した後も私の無気力はすぐには直らなかった。冬に毛布にくるまりながら勉
強をしている先輩の姿は何とも異様なものに思え、どうしても研究室に馴染むことができなかった。
春には休室届を出して、バレエの発表会の準備に明け暮れる毎日が続いた。この間の法律の勉強と
いえば、憲法少々、刑法総論を全く解らぬまま二回読んだこと、民法総則を一回読んだこと位である。


 そんな私に一つの転機が訪れたのは、大学二年の夏期休暇前、語学の中間試験を終えて久方振り
に研究室に顔を出した日のことであった。全く突然にI先輩が刑法総論のゼミをやって下さるとい
うのである。I先輩の好意に甘え、八月の暑い最中マンツーマン指導でゼミは進んだ。とにかく最
低限刑法綱要だけはガッチリ読み込んでゆき、疑問点は絶対に残さないように質問をした。そして
ゼミが終わるころ、私は何か刑法が解ったような気持ちになっていた。この時のゼミの経験が以後
の私の勉強方法の基本となったように思う。「自分で教科書をガッチリ読み込み、ある程度理解した
上で初めてゼミを行う。ゼミでは、他人の別個の物の考え方に触れる中で理解を深め整理をしてゆく。
整理の課程でノートを作成する。そして一回ある科目についてゼミをやったらそれでその科目は理
解しきってしまうのだという意気込みでゼミには取り組む」ということである。

 この夏のゼミを契機に私は勉強をおもしろいと思うようになっていた。続いてA先輩の刑法各論
のゼミに入れていただき、一気に勉強をすすめていった。

四 研究室委員

 そんな私を待っていたのは研究室委員という仕事であった。真法会研究室では入室二年目の室員
が研究室委員として室内の整備、雑務にあたるのである。委員になったから勉強ができなかったと
いう言訳だけはしたくなかった。しかし、委員の仕事もできる限りのことをしたかった。結局委員
をしながらの勉強は思うようには捗らなかった。委員席で本を開いても、誰かが呼びに来て勉強が
中断した。そこで私は一つの勉強方針を立てた。委員の間は理解しようという気持ちで本を読むこ
とは諦め、今迄白紙に近い状態の民法にとにかく一通り目を通すことにした。そして本を読むに当
たっては、勉強が中断したらそこに印をつけておき、次に読むときはその印の先を読み進めるとい
う方法をとることにした。前に読んだ部分を思い出すために後戻りしていると、ページがあまりに
進まないためにとった苦肉の策であった。ところがこの方法は私に思わぬ成果をもたらしてくれた。
大きな脈絡の中のどこの部分を読んでいるのかを常に意識して本を読むという術をいつしか私は身
につけていたのである。委員の人気を終わる大学三年の六月末には、民法に一通り目を通したとい
う安心感とともに、本の読み方を体得することができていたように思う。

 しかし委員時代のもっとも大きな成果は、研究室の受験生活を見つめる中で、将来社会のダイナ
ミズムの中で法を運用してゆくということと、年々困難となってゆく司法試験を前にともすれば社
会のダイナミズムに背を向けた机上の法律学に陥らざるを得ないという矛盾を、自分自身どのよう
に消化すべきかを真剣に考えたことであったように思える。

五 答案練習会まで

 委員の任期が終わるとすぐ私は一人で旅に出た。奈良の仏像を見て回りながら、これから始まる
受験生活の設計をした。自分は何故司法試験を受けるのかということまで突き詰めて考えたことに
より、それからの一年間迷うことなく勉強を続けることができたように思える。そしてその旅で得
た受験設計は、翌年六月末までの一年間を一区切りに一種の必要悪として、自分の生活を司法試験
のみに限定するというものであった。生活の「無駄」=「ゆとり」は一切捨象し、楽しむというこ
とには背を向けることにした。

 旅行から戻ると、毎朝八時半に登室し、夜の九時まで大学に授業を受けに行く以外は机にしがみ
つく生活が始まった。夏が終わるころには民法はどうやら全体的に把握できたように思われた。商
法については夏の終わりに集中的に会社、有価証券とゼミを行い、基本的な点については理解しえ
たように思われる。刑事訴訟法は大学の渥美ゼミでの春からの勉強により、ようやく刑事訴訟法の
考え方が分かりかけてきていた。全く渥美ゼミでの勉強は司法試験に自分を縛りつけた私にとって
オアシスのようなものであった。社会における法の何たるか、法解釈のあり方等々、随分いろんな
ことを考えることができた。
 また、この夏の収穫としてあげねばならないのは、小諸学生村における研究室の夏合宿で行った
論文ゼミである。毎日一通答案を書き検討しあうという作業を一〇日余続けるうちに、答案構成の
仕方、論理の運び方が、何となく分かって来たように思えた。

 こうして題四三回答案練習会が始まるころには法律選択まではとにかく何か書ける状態にしてお
くという私の第一目標はどうやら達成されたのである。

六 答案練習期間中

 一一月に答案練習会が始まった。大学の授業もある私にとって一週間一科目のペースはかなり苦
しいものであった。答練のペースについて行くためには、ゆっくりと休養をとることもできず身体
的にも疲労が蓄積してゆくのがわかった。思うように択一の合格点がとれず、次点が続いたりする
と疲労は倍増した。確かに苦しい勉強だった。しかしこれだけがんばっているのだ、今年落ちても
う一年勉強するよりは今もう少し勉強しようと思うとまた勉強時間を五分でも十分でも増やす気に
なった。勉強時間を増やして、つらくなればなるほど自分は今年落ちたら来年二度とこんなに集中
することはできない。糸の切れた風せんのようにどこかへ飛んでいってしまうのではないかと思わ
れた。そんな恐怖感に追い立てられるように私の勉強時間はますます延びていった。そしてこの時
期に私がこのようにやってこられたのは、全く助手の方々の暖かいアドバイスのおかげであったと心
より感謝しなければならない。

 さて、答案期間中の私の勉強は、何とか論文試験の答案の書き方を習得することに集中した。す
なわち、①決して基本書の読み残しはしないこと。いわゆる論点といわれない部分も飛ばし読みし
ないこと。②いわゆる論点については、基本書、参考書を読んだ上で自分なりの考え方をまとめる
こと。まとめるに当たっては、結論ではなく、問題への切り込み方に特に注意を払った。それ故に、
私は何説を採るのかと質問された時即座に答えることができない。私はこういう方向からこの問題
を考えるという整理しかしていないからである。③ノートは参考書のまとめにならぬよう、自分の
言葉で自分のものになったと思われる点を書きつけるという形で作っていった。④論点相互の関係
を見失わぬように、必ず基本書に戻るように気をつけた。

 答練会場に臨んでは、①毎回四五分前に会場に着き定席を確保した。②択一もさることながら論
文を書くことに全力を尽くした。論文を書く時はいつも最高得点答案を書くのだという意気込みと、
問題に対する自分のアプローチの方向を明確にしつつ矛盾なく論理を展開することに注意した。そ
して、答練最終回の憲法で初めて最高得点答案と評価された時は本当に嬉しかった。

 そうこうして半年にわたる答案練習会が終わる時、私は思いもかけず優秀賞をいただくことがで
きた。この優秀賞は論文試験に対する密やかな自信と、何としてもまず択一試験を通らねばという
意気込みとを私に与えてくれた。

七 択一試験に向けて

 答練期間の私の勉強は徹頭徹尾論文中心のものであった。答練を通じて論文の答案を書く力は着
実に伸びていったように思う。しかし択一に関してはからっきしダメであった。

 三月一日から私は研究室でH先輩の択一ゼミにいれていただき、択一試験に向けて勉強を開始した。
択一試験に臨むには何かコツがあるに違いないと思った。三月から五月までの二ヶ月間それを把む
ことに専心した。助手の方々からのアドバイスは悉く実行に移した。①基本書は最低二回読む。②
過去一六カ年の本番の試験問題は三回、近年五ヵ年分は五回まわして問題を覚えてしまう位にする。
③問題を解き肢を検討した点は、すべて六法に書き込む。④民法については条文をくり返しくり返
し読む。かれこれ五・六回も読んだだろうか。最初はつまらなく、ただ条文の字面のみをながめて
いたものであるが、最後には、条文の一つ一つから様々な問題点が浮かび上がり条文読みの苦痛も
感じなくなっていた。この方法により私は民法の択一にはかなりの自信を持つことができた。

 このような、無味乾燥なトレーニングの中から、問題は細心の注意を払って読み、決断は大胆に
行うという術を私は身につけた。

 択一試験に臨んで私はかなり大胆に決断をすることができた。問題を解き終わったのは試験終
了四・五分前。十分に答えの確認もすることができた。そして試験が終了した時は頭は芯からマヒ
したようであり、解答用紙を数える試験官の姿を見て、後はコンピューターが、私のこの一年を評
価するのかと思うと、何か恐ろしく震えが止まらなかったものである。

八 論文試験

 択一試験が終わった翌日一日休養をとると私は直ちに論文試験に向けて勉強を開始した。研究室
には、お互いに問題を再現し択一の答え合わせをする室員の姿があった。しかし私はそうした光景
から逃げるようにして、勉強部屋にこもり、苦手の会社法を手始めに論文の勉強を始めたのである。
もちろん択一の結果は気になった。しかし死んだ子の年を数えても始まらない、そんな思いで、勉
強を進めた。おかげで、択一試験の合格発表までに、会社法、刑事訴訟法、刑事政策、社会政策を
一回読むという計画は余裕をもって達成できた。その上、二、三日の余裕ができたので、メチャク
チャなスピードで、芦部先生の論文集「現代人権論」「憲法訴訟の理論」「民主主義と議会政」を読
んだ。憲法は好きな科目の一つだったので、良質の答案を書くために、前からいくつかの論文は読
んでいたのであるがこの二、三日間の勉強が私に何か憲法感覚を与えてくれたように思う。こうし
て択一合格発表前の落ち着かぬ数日間も、論文をむさぼり読むことにより充実して過ごすことがで
きた。そして択一の合格発表。小さな数字の中に五八〇一番を苦労の末見つけた時は、先輩に飛び
ついて喜んだものである。

 合格発表後は発表前の勉強が効を奏し、かなり余裕をもって論文試験の準備をすすめることがで
きた。苦手の会社法と、渥美ゼミでの勉強を十分生かした答案を書きたいと思った刑事訴訟法は、
論文試験前に二回まわすことさえできたのである。

 六月二二日から論文試験が始まった。とにかく今までやってきたありったけを出し切って書いて
こようという感じであった。初日の憲法では論文を読んでいたおかげで二問とも満足のゆく答案を
書くことができ、好調にスタートをきることができた。ところが二日目の商法の問題を見た時は目
の前が真暗になった。貨物引換証の条文など見たこともなかった。悲しいかな、大学の商行為法の
授業は答練に追われて出ていない。逃げ出したいような思いにかられながら、とにかく条文を見つ
けた。大きく深呼吸をする。バッグの中にお守り代わりにしのばせてきた優秀賞の賞金袋を思う。

 「私は真法会で優秀賞をとったのだ。自分の実力をぶつけてゆけばどんな問題でも書けないはずがない。」
 
 「私の前には条文があるではないか。学者も最初は条文から学説を展開しているのだ。」

 ほんの一分間の間に自分でも驚くほど落ち付いてきた。あとは有価証券の基本をきっちりと押えミスを
恐れず書いた。書かずに落ちるよりも書いて落ちたかった。商法の試験が終わった時はもう脱力状
態であった。昼休みに顔をジャブジャブ洗いどうにか午後の刑法の試験に臨んだ。難問を前に、時
々フッと論文を書く気力がなえそうになったものである。この地獄のような二日目を除いては、か
なり思い切った答案を書くことができた。五通ほど自分なりに満足のゆく答案もあった。私の今の
実力ではどの答案も最大限のものであったと思う。

九 夏

 論文試験が終わった後数日間私は十和田湖へ一人で旅に出た。奥入瀬渓流を歩きながら、自分の
この一年間を総点検した。十和田湖から戻り再び勉強を始めたがどうにも集中することができない。
そこで、自分に新たな問題意識を提起するためにもと思い、過去八ヵ年分の受験新報の口述問題集
をコピーし、各科目問題類型別に、分類する作業を行った。そして、その資料を傍らに、刑事訴訟法、
商法について今まで気付かなかった問題点を考えてみたりもした。

 夏期休暇中は研究室の合宿において、数名の後輩を相手に刑法各論のゼミを行った。人に説明す
る立場に立ち、自分のしゃべる言葉の不正確さに気付き、正確な言葉の大切さを痛感したものである。

 そうこうしているうちに九月八日の論文試験の合格発表。自分の一年間の生活に対する評価が下
されるのかと思うと無性に恐ろしかった。足が震え口の中がカラカラになるようであった。それだ
けに合格を知ったときはもう気が狂いそうに嬉しく、涙があふれ出してどうにも止まらなかったも
のである。

十 口述試験

 論文試験の発表から口述試験までは、アッという間であった。夏に作成した分類別口述問題集を
片手に基本の復習という形で勉強をすすめた。また二日に一回の割合で、研究室のNさんの好意に
甘え、過去五ヵ年分の口述体験記で口述の練習もすることができた。その上研究室ではわずか数名
の合格者のために講師を招いての口述模試まで行われた。夏季合宿のゼミでの経験以来言葉の正確
さには気を付けていたので、しゃべることはかなりスムーズになっていた。
いよいよ九月二七日より口述試験が始まった。初日は控え室の異様な緊張と三時間近い待時間に
疲れ果て、主席と話がかみ合わぬままに試験が終了した時は、こんなことが一〇日も続くのかと
暗澹たる気持になったものである。しかし翌日からは控室に話し相手もでき試験も順調に進んだ。
口述試験は総じて楽しい試験であったように思う。

 こうして私は全く幸運にも一〇月八日に最終合格を果たすことができたのである。

おわりに

 私の受験生活は全く幸運なものでした。周囲の好意に甘えっぱなしで、思い通りに勉強し、思い
通りに合格できたのです。全く感謝せねばならない人々に囲まれてきたように思います。まだまだ
勉強不足であると痛感しつつ、この合格におぼれることなく、これからはじっくりと「法」を学ん
でゆきたいと思っております。






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