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がんになっても、あわてない

自由学園『旧東天寮』見学会

 中学1年から高校3年の夏休みまでを過ごした「自由学園男子部・旧東天寮」。一部取り壊した上でリフォームする計画となっており、その前に見学会が催されたので行ってきました。(写真は旧東天寮にぞろぞろと入っていくところ)

 ひばりヶ丘(西武池袋線)駅の周辺は、30年前とだいぶ変わっていましたが、学園の正門のあたりは(守衛さんがいる以外は)変わりませんね。

 最高学部(自由学園の大学みたいなところ。大学じゃないけど同じようなことが学べる)の3階に集合しました。3階の窓から見ると、今まで見たことがない自由学園の景色が広がります。主に見えているのは初等部(小学校)。

 普段は鍵がかかっている裏門を抜けて、旧東天寮に向かいます。

 旧東天寮は「しののめ寮」という名前になって、多目的に使える施設に生まれ変わるらしいです。男子部の寮がグランド脇の清風寮だった建物に10年ぐらい前に引っ越して、それ以降この建物は廃墟になっていましたが、耐震診断をしたら「構造体はまだ十分使える」ということで、学園の敷地からはみ出したところにある地の利を活かして(?)、学園と地域社会をつなげるような役割をする施設にするとか。

 裏から見た旧東天寮。ずいぶん薄汚れています。

 建物の中に入って、説明を聞きます。基本的には、自由にどこでも見て回って良いということでした。ここは、私が5000回ぐらい食事をした食堂。当時は昼食も男子部校舎からは敷地の反対側の端にある東天寮に歩いてきて、みんなで食べていました。荒れた天気の日とかは、大変だった。

 食堂の隅には、当時と同じ場所にピアノが鎮座しています。続木君(自由学園男子部は先輩のことを“君”づけで呼ぶ)がピアノ弾いてたりしてたな。

 寮の廊下。奥が13号室、手前が14号室。13号室は、私が中学に入学した時に、最初に入った「新入生部屋」でした。

 13号の入口には「幼児生活団荷物置き場」の張り紙があり、なんと鍵がかかってる。他の部屋はみんな開いているのに、ここだけ入れませんでした(泣)

 しょうがないので14号の中を、13号の代わりに撮ってきました。真ん中に机があって、右(この写真)に4人、左(次の写真)に4人の、計8人が一部屋で暮らしていました。少し高くなっているところはカーペット敷きで、そこに布団を4人分並べて寝ていました。

 見学しているみんなが言っていたのは「こんなに狭かったっけ?」という感想。高校生の頃と比べて体の大きさは(横幅は除いて)そんなに変わってないはずなのに、みんな「もっと広かったように思うけどなあ」と言っていました。私もそう思いました。何故なんでしょう。

 食堂の上にある「17号室」。ここだけは、他の部屋と比べて二回りほど広め。

 17号の両脇にある「予備室」と呼ばれていた部屋。風疹などが流行った時には隔離部屋になったり、悪い人たちのたまり場になってジャラジャラ音がするゲームをしている人たちがいたり、寮生が多い時には18号という部屋になったり(よくこんなところに住んでたな。自分も住んでた時期があったけど)、いろいろと活躍した部屋でした。

 11号室(3階の一番東端)から、取り壊されてしまう南側を見たところ。道の向こう側には、当時からあった駐在所が今もあります。当時は丸さんという駐在さんがいて、仲良くしていただきました。丸さんにちなんで、東天寮で飼っている犬にも「マル」って名前をつけました。

 食堂(建物の中心にある)の2階部分から、渡り廊下(玄関の上)を見たところ。1年生の時、同級生の原くんがこのガラスに頭から突っ込んで、粉々にガラスを割りました。ここを見ると、同級生は必ずその話をします。

 食堂の2階部分。朝食と夕食は寮生だけなので1階で間に合いますが、昼食は通学生も一緒に食べるので、2階部分も使っていました。床のピータイル、剥がれてボロボロですね。正面に見える部屋は自習室とかいっていた部屋で、百科事典とか置いてあった。

 渡り廊下の上から見た本館。

 みんなで入った風呂。口々に「こんなに狭かったっけなあ」と言っていました。夜の集中勉強の時間が終わるとみんなで殺到して混雑してたけど、もうちょっと広かったような気がする。気のせいだとはわかっていますが。

 この湯船の中に、多い時には10人とか入ってたとは信じられないほど、狭く見えます。一般家庭の風呂よりはずいぶん広いですが。

 食堂と玄関の間に「電話室」があり、外線の赤電話(ピンク電話だったかも)と、学園の内線電話(グレーの。当時は黒かったかな?)がありました。

 玄関。今は物置みたいになってます。下駄箱は、当時は扉がついてたけど、いつ頃から無くしたんでしょうね。たしかにない方が合理的だけど、若者の靴がたくさんある下駄箱に扉がないと、空気が結構大変なことになりそうな気もする。この玄関部分は、そのうち取り壊されてしまいます。

 玄関の先にある「寮長室」。第2期(1年間を1期から6期まで6つに分けて、それぞれの期間の委員長・副委員長・寮長を生徒が選挙で選ぶ)の寮長だった私は、夏休みを挟んで100日間、この部屋の住民でした。ここも無くなります。

 最高学部の前に戻ると、早くも梅が咲いていました。私は次の会議があったのでここで失礼しましたが、他の皆さんは立野川の暗渠の改修や木工所の移転なども見学した後、目白の明日館でおこなわれる「同学会新年総会」に行ったようです。

 旧東天寮は誰も住んでなくて廃墟になっていると聞いていたので、「このまま壊されちゃうのかな」と何となく思っていましたが、リフォームされて活用されるということで、ホッとしました。でも10年誰も住んでいないと、構造体は大丈夫でも見た目はかなり傷んでいて、これをちゃんとリフォームするのはかなりお金がかかりそうだなと思いました。自由学園の創立90周年記念事業の一環だそうなので、関係者の皆さんは、ちょっとずつでもいいから募金して、協力しましょう。

 ☆ ☆ ☆

 昨年10月30日の「自由学園男子部ホームカミングデイ」の時には車で行きましたが、今日は数十年ぶりに池袋から、西武池袋線に乗って行きました。池袋駅は、自動改札には変わっていたけど、30年前とほとんど同じ雰囲気。

 当時は3つドア(1輌の長さが20メートルの電車で、3つドアの車は珍しかった)の黄色や赤の電車がほとんどでしたが、今はほとんど(全部?)4つドアの車で、青いのとかが走っています。

 ひばりヶ丘駅は、昔から橋上駅舎でしたが、何だか全然変わっていました。階段が見当たらず、みんなエスカレーターで上り下り。

 ひばりヶ丘駅前の風景。西友は私が在学中に開店したんだったと思う。開店セールとか行った記憶がある。なんかワクワクしたなぁ。今はだいぶさびれた感じになっているという噂。西友の左には、JUN SKY WALKER(S)の歌にも出てくる「ブックスJ」があったんだけど、今は何だろう? パチンコ屋になったのかな? 文化の消滅。

 こっちは同じく南口の西側(駅から出て右側)にある「パルコ」。昔はなかった。その他にも、昔はなかったマンションがにょきにょき林立していたりして、ひばりヶ丘駅周辺はだいぶ変化していました。自由学園の周辺も、昔は空き地だったところが住宅街になったりしていますが、学園の中だけはほとんど変わっていない。「変わらない空間」を、できるだけ維持していってほしいなと思った1日でした。

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コメント一覧

hirakata
てつ兄さま、こんにちは。

お役に立てて嬉しいです。この記事を書いた後に、ずいぶん学園に行くことが増えました。十代の半分以上を過ごしたこの建物がリフォームされて活用されているのは、とても良いことだと思います。5月27日に自由学園記念講堂で私が参加しているオーケストラの演奏会がありますが、その打ち上げ(レセプション)でも、この建物(しののめ茶寮)を使う予定です。
てつ兄
本年度から、高等科男子部に入学させていただいた生徒の父です。東天寮を検索しておりましたところ、この記事に御縁をいただきました。学園の歴史を感じる、丁寧に記載された、貴重な記事を、拝読させていただきましたことに深く感謝しております。ありがとうございます!
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