Augustrait





エイズ―ウイルスの起源と進化


 約100nm、球形で表面にカギ型の丸い突起物がおよそ80個ついている。球形の膜に包まれたその中心に、核様体がある。核様体は、正12面体の結晶構造をしていて、宿主細胞に取りついた後、内容物が細胞内に侵入する。ウイルスの外郭であるエンベロープは、糖質様のタンパク質でできている。ウイルスはこのエンベロープを通じて細胞に付着して感染させるわけだ。これが、ヒト免疫不全ウイルス(Human Immunodeficiency Virus:HIV)である。

http://www.aids.gov.br http://www.sciencemuseum.org
左 《HIVの構造》
右 《HIVの増殖様式》


 
§ 無邪気なウイルス
 HIVによって引き起こされる免疫不全症が、後天性免疫不全症候群(Acquired Immunodeficiency Syndrome:AIDS)であることはいうまでもない。現状としては、世界中で、少なくとも1000万人が感染していると考えられている。
 この病を制圧するための死闘は、すでに20年余に及んでいる。しかし、まだ人類が勝利を収めてはいない。免疫担当細胞の中で複製を繰り返すこのウイルスは、免疫不全症候群を宿主に発症させ、死にいたらしめる。しかし、ウイルスは宿主の生命活動を停止させることが目的ではない。宿主と共生するレトロウイルスがいるのと同じように、HIVも宿主と共生できるに越したことはないのだが、現実には宿主に致死的な症状をもたらす。
 ――通常、人間の細胞のパターンは、DNAを鋳型としてRNAを形成する。しかし、レトロウイルスは、宿主の細胞に侵入すると、RNAと逆転写酵素という酵素を放出し、ウイルスRNAを鋳型としてDNAをつくり、そのウイルス由来のDNAを宿主細胞のDNAに組みこませる。つまり、通常の細胞パターンと逆の経過をたどるのである。ここから、「逆行」を意味する“レトロ”の名がとられた。

 本書は、HIVを制圧するための技術を培うために、この恐るべきウイルスの成立史を丹念に追う。その中で一貫してHIVをとらえる視点は、人類がHIVの「生き残りの戦略」と対決する、ということだ。
 HIVは単純に、細胞に複製するための対象を求めているだけである。HIVの感染効率が悪いということは、広く知られる。日常的な接触であれば感染はしないし、密接な接触でもその経路は限られている。例えば、HIVに汚染された注射針を誤って指に指した場合、HIVに感染する確率はおよそ300分の1である。これは、同じ条件で肝炎ウイルスに感染する確率よりもはるかに低い。したがって、感染効率は悪いといえるだろう。そこで、HIVは生き残りの戦略を次のように立てた。

 それは、血液や精液の中で高いレベルのウイルス量を維持する、ということである。しかし、皮肉なことにウイルス量が増えれば複製効率は増し、宿主の免疫機構を破壊する。それを防ごうとするため、血中ウイルスレベルを低く抑えようと努力することが、HIVの遺伝的変異を促すことになる。このウイルスは、まるで無邪気なのだ。それに翻弄されてしまうのは避けられない。

http://www.aids.gov.br
《HIVの増殖様式》


§ ウイルスのセックス
 HIVは1980年代から猛威を振るうようになったが、その存在は決して新しいものではない。おそらく、アフリカのサルに感染していたウイルスの子孫が、現在の姿になったに過ぎない。HIVは、きわめて変異が速いということが1つの特徴である。
 2組の異なる遺伝子がシャッフルされ、組み換えることを「セックス」という。哺乳類のように有性的なセックスは、無性的なセックスと違って単なるコピーとして子孫を残すわけではない。異なる遺伝形質をもった子孫を残していくのだ。厄介なことに、多くの微生物が無性的に子孫を残すのに対し、レトロウイルスは、有性的に子孫を残すことができる。その結果、親ウイルスから一本ずつ遺伝子を受け継いだ、新たなウイルスが発生する。このようなウイルスを「ヘテロな遺伝子をもつウイルス」という。

 ヘテロな遺伝子をもったウイルスは、遺伝ルートで感染するよりも、水平的に感染させるプログラムを戦略的にもつことになった。なぜなら、ヘテロは「多様性」を獲得するために編み出された知恵である。その多様性は、感染から発症まで5-10年という長い潜伏期間が効果を最大にする。潜伏期間の長さは、それだけ他の個体の感染の可能性を高めるからだ。仮に、どれほど強力なウイルスがいたとしても、潜伏期間が短時日であれば、ウイルスが存続することは難しいだろう。他に感染させる前に、宿主がすぐに死んでしまうからである。
 要は、ウイルスに接触する機会を増やすことが、ウイルスの繁殖を促すことになると、彼らは知っているわけだ。AIDSの場合、ヒトの性行為が感染にとって好都合だった。しかも、性的行動に多数のパートナーを持つ一定の層を足がかかりに、HIVは勢力を強めていくことになる。その経過を、ウイルスの発見とその戸惑いから展開された論争をふり返っておこう。

 1981年夏に、UCLAから出た医学論文により、初めて「AIDS」という病気を目にした、とロバート・ギャロ(Robert Charles Gallo;1937- )は述べている*1。この論文には、ロサンゼルスで若い男性の同性愛者集団に、肺炎が見られることが報告されていた。その原因は、ニューモシスティス・カリニ(PC)という原虫がもとで起こる肺炎だった。しかし、PCが原因の肺炎は、免疫が極度に低下した状態でなければ発現しないため、なぜロサンゼルスの一般人に多く見られたのかは不明だった。 
 同じ頃、ニューヨーク大学医学部、マウント・サイナイ医科大学では同性愛者の集団にカポジ肉腫(KS)の増加を見出していた。KSも、以前はほとんど見られなかった症例だったため、疫学者たちは新種の伝染性疾患かと思い始めていた。

 1983年、エイズの原因となる新しいレトロウイルスLAV(Lymphadenopathy-associated virus)が、パスツール研究所のリュック・モンタニエ(Luc Montagnier;1932- )らによって発見された。ところが、1984年にアメリカ国立衛生研究所のギャロらも発見を主張し、HTLV-III(Human T-lymphotropic virus type III)と命名された。1985年、LAVとHTLV-IIIの遺伝子塩基配列がほとんど同じであることが分かり、新レトロウイルスの第1発見者をめぐり、論争が起きた。これが「エイズ疑惑論争」である。

http://gblx.cache.el-mundo.net http://carpediemcom.free.fr
左 《ロバート・ギャロ》
右 《リュック・モンタニエ》


 この論争は、1991年にギャロがHTLV-IIIとLAVが同じであることを認めて終結した。ギャロはその後、ウイルス発見の事情を回顧録にまとめた。さらにその後、モンタニエもウイルス発見の経緯を書いた。
 ――それは、 『ウイルスハンティング : エイズウイルスとの邂逅』ロバート・ギャロ ; 山口一成訳 -- 羊土社, 1993年、『エイズウイルスと人間の未来』リュック・モンタニエ ; 小野克彦訳 -- 紀伊國屋書店, 1998年。この2冊は、ぜひとも対比させて読んでみることをお勧めする。ギャロとモンタニエの激しい論争がどのような根拠からか、両者の言い分が熱く繰り広げられている。

http://www.cagley.com http://nguyentl.free.fr
左 《パスツール研究所》
右 《アメリカ国立衛生研究所》


 なぜ、この病気は、同性愛者に集中的に見られたのか。米国疾病管理センターは、後天的に獲得された免疫障害が、エイズを発症した人か、発症することになった人と性的関係を結んだことと相関関係にあることを突き止めた。ということは、明らかにエイズは性感染症だということを意味していた。

http://www.mccarthy.com http://www.med.akita-u.ac.jp
左 《助手とともにウサギで実験するパスツール》
右 《米国疾病管理センター》


 感染症の領域において通用する、因果関係の公式がある。ロベルト・コッホ(Heinrich Hermann Robert Koch;1843-1910)の「コッホの原則」がそれで、原則は以下の4つで示される。第1に、病原体はすべての病巣で見つからなければならない。第2に、病原体は患者から分離され、純粋培養されなければならない。第3に、植えつけられた病原体は新たに病気を起こし、接種された動物から再び分離されなければならない。第4に、病原体は偶然の病原性のものであってはならない。
 コッホの原則は、細菌由来の病気を同定する際には有効であるが、ウイルス感染と発症には必ずしも当てはまらなかった。実験動物が確実に発症する保証はなく、日和見感染のように、潜伏の長い場合が多いからである。

http://hcr3.isiknowledge.com http://medicine.nobel.brainparad.com
左 《ロベルト・コッホ》
右 《Jaap Goudsmit》


 AIDSの歴史とHIVの歴史は、似て非なるものである。AIDSは、もっとも古い記録によれば、1952年のアメリカ人のものが最初に見つかったAIDSと考えられている。ヒト以外にイエネコでしか発症しないAIDSは、感染の副産物として免疫低下による病気を呼び寄せるに過ぎない。ウイルスの意図的な発症ではないということだ。一方、サルのレトロウイルスは、はじめSIVという同種のサルの間だけで流行していた感染症だと考えられる。SIVは、HIV-1の祖先とされているウイルスである。このサルをヒトが殺戮し始めたとき、ウイルスは自己防衛の手段を探し始めた。すなわち、新たな宿主を探し始めたのである。
 HIV-0、HIV-1、HIV-2という3種類のヒト・レトロウイルスが誕生した理由は、サルのレトロウイルスが安住の地を求めて変異を繰り返した結果、ヒトに宿ることを合理的と判断したためであろう。


§ どう立ち向かえばよいのか
 ウイルスのセックスが繰り返されたことは、さらに難しい問題を生んだ。西アフリカではHIV-1、HIV-2両方のウイルスに感染している人々が見つかった。タイプの異なるウイルスは、共存できるのである。特に感染力が強いのは、HIV-1であった。ヨーロッパやアメリカで1型が牙を剥くのにわずか数十年しか要しておらず、アジア、南アメリカ、中央アメリカに流行は広がったのである。それを止める有効な手立てはない。
 このAIDSの原因となるレトロウイルスは、そもそもは無害なサルレトロウイルスの子孫である。HIVに変異する以前から、ウイルスはセックスを繰り返して宿主を転々としてきた。赤道熱帯雨林西部の限定された地域で流行していたAIDSは、あるものはカメルーン、またあるものは東アフリカへと持ち込まれ、HIVとして進化を遂げたと推測されている。膣性交または肛門性交でウイルスがヒトの体内で生息し、安住するためにセックスによる変異を繰り返す。

http://news.bbc.co.uk
《HIVの世界分布》
 
 結局、われわれがHIVを防衛するために必要なことは何か。本書の提言をまとめておこう。
 <我々は2つの重要な目標に向かって突き進む必要がある。1つ目は、野生のサルを保護することである。野生のサルの存在によって我々がどれだけ自然の脅威から守られているか今一度考える必要がある。2つ目として、人類、特に貧困地域や貧困層に暮らす人々をHIVの脅威から守ることである>*2

 1984年、当時のアメリカ合衆国の保健福祉省長官は、ギャロ・グループによるHIV再発見を公表した時、効果的なワクチンが2年以内に開発されるだろうと、きわめて楽観的に述べた。しかし、現状は知っての通りである。2002年のAP通信は、2500万人もの死者を出したAIDSのワクチンが必要であると訴えた上で、開発が難航している理由の1つに、やはり変異の速さを挙げている。そして、ワクチンが作用する免疫機構そのものに、HIVが攻撃を加えることからウイルスの制圧に結びつかないことを明らかにしている。HIV対策の特殊性は、レトロウイルスの近縁種への有効なワクチンが開発されていないことからも、十分にうかがえる。
 ただ1つ、そのための取り組みは個人の範囲を超えている。したがって、HIV感染に対するリスク行動の変容を目標にし、努力によって達成しなければならない、とする本書の結びには、耳を傾けるべき訓戒が大いに含まれている。

http://www.flix.co.jp http://www.guardian.co.tt
左 《エイズ・マーチ》 Trinidad Guardian
右 《エイズに対する国連プログラム(UNAIDS)活動を行うナオミ・ワッツ》


http://www.mainichi-msn.co.jp http://news.xinhuanet.com
左 《第13回国際エイズ会議》 ナイロビ 2003年
右 《第15回国際エイズ会議》 バンコク 2004年


[関連書籍]
感染症 AIDSの虚像と真実 HIV/エイズと中国 感染者たちの挑戦 血液クライシス グローバル・エイズ

++++++++++++++++++++++++++++++
Title: VIRAL SEX : The Nature of AIDS
Author: Jaap Goudsmit
(C) 1997 Oxford University press, Inc
▽ 『エイズ』Jaap Goudsmit ; 山本太郎訳
-- 学会出版センター, 2001年

*1 『ウイルスハンティング』ロバート・ギャロ ; 山口一成訳
-- 羊土社, 1993年、p.161
*2 本書、pp.403-404