このブログ読者は、特に関西の方が多いと思うので、今回、僕が見て感じた地震について書いておこうと思う。
地震の日、僕は横浜にいた。この日、何故、横浜にいたかというと、翌日に鎌倉で義弟の結婚式を控えていた為。妻と子供と3人で、滋賀から新幹線に乗って、昼頃に横浜入り。ランチを食べ、山下公園近くの今晩の宿へ向かおうとしていたのだけど、この日も花粉の飛散が凄くて、目のかゆみで涙が止まらない状態。やっぱり、都会の花粉は非常にキツイ。
「しまった。サングラス忘れたなぁ…。」
妻と子供には横浜駅近くのスターバックスで待ってて貰って、僕は一人でサングラスを買いに。用事が済んでスターバックスに戻り、「さぁ、今から向かおうか!」と立ち上がった矢先だった。
「アースクエイク!」
隣のテーブルに座っていた外国人の方の、この一声で気が付いたかと思うと同時に物凄い揺れ。しかも長い。棚に並んでいたコーヒーカップは落ちて割れ、天井から吊ってあったライトの傘もことごとく割れた。その陶器やガラスの割れた甲高い音が、さらに集団パニック的な様子を掻き立てた。
悲鳴と共に、慌てて外に飛び出した人々で、駅前の道路という道路は埋め尽くされた。で、パニックから少し時間が経って、みんなが取った行動は、やはり携帯を開ける事。僕は駅前の赤い鉄塔が揺れ続けているのを見ながら祈った。
「せめてここ横浜が、一番震度が高い地震でありますように…。」と。
しかし、僕の願いは、携帯で一早く情報を掴んだ人の話してる声で一瞬で消え去った。
「震源は仙台の方だって!」
僕は直感した。「絶対、東北が大変な事になっている。」
実は、義父は仙台の出身。だから、明日の結婚式には、仙台から義兄とその子供達や沢山の叔父さん叔母さんが来る予定になっていた。しかし、この状況下では、具体的な情報は全く分からない。
心配を抱えながらも、まずは宿へ向かうべく交通機関の復旧を待つも、復旧のメドは立たずで時間は過ぎて行くばかり。そうこうしてる間にも、二度三度大きな揺れが起こり、怖くて建物の中にも入れない。外でじっとしてるだけ。目の前のキヨスクには長蛇の列が…。みんな飲食物の確保に必死だ。
そして夕方になり、昼間の暖かさが嘘のように天気が悪くなってきた。このままいくと寒さでやられてしまいそうだ。雨も降ってきた。まずい。
僕は横浜の地図を広げて考えた。「もう歩くしかない!」
特に4歳の娘は、泣き言も言わず頑張って歩いてくれた。僕は重いスーツケースで手が棒の様になりながら約2時間。ようやくホテルに着いてテレビを点けた瞬間、初めて東北がどうなっているか分かった…。
僕は、妻と結婚する段になるまで、東北とは、ほとんど縁が無かった。高校の修学旅行で会津に行った事がある位だった。初めて仙台に行ったのは、結婚前に仙台の義祖母や叔父さん叔母さん方に挨拶に行った時だった。
この時、僕は仙台という街を一発で気に入った。僕は、それまで色んな街を見てきたけれど、ある程度の人口の都市(例えば「政令都市」という括りでも良いけれど)で、こんなに美しい街を見た事が無かった。街の人の心の持ち方とか、倫理観とか、そういうものに凄く惹かれた。
あの仙台空港から市街に向かう海岸道路や、叔父さんに案内してもらった女川町等、僕の美しい記憶にある美しい風景のほとんどが、あのドス黒い津波で押し潰されてしまった。信じられない映像が僕の目に飛び込んだ。
結婚式は延期という事になり、僕ら家族は、今晩、何とか滋賀に戻ってきたけれど、未だにニュースを見て呆然としてる。原発の事とか言いたい事も沢山あるけど、まずは、少しでも多くの命が救われて欲しい。ホント切にそう思うし、それに尽きる。
地震の日、僕は横浜にいた。この日、何故、横浜にいたかというと、翌日に鎌倉で義弟の結婚式を控えていた為。妻と子供と3人で、滋賀から新幹線に乗って、昼頃に横浜入り。ランチを食べ、山下公園近くの今晩の宿へ向かおうとしていたのだけど、この日も花粉の飛散が凄くて、目のかゆみで涙が止まらない状態。やっぱり、都会の花粉は非常にキツイ。
「しまった。サングラス忘れたなぁ…。」
妻と子供には横浜駅近くのスターバックスで待ってて貰って、僕は一人でサングラスを買いに。用事が済んでスターバックスに戻り、「さぁ、今から向かおうか!」と立ち上がった矢先だった。
「アースクエイク!」
隣のテーブルに座っていた外国人の方の、この一声で気が付いたかと思うと同時に物凄い揺れ。しかも長い。棚に並んでいたコーヒーカップは落ちて割れ、天井から吊ってあったライトの傘もことごとく割れた。その陶器やガラスの割れた甲高い音が、さらに集団パニック的な様子を掻き立てた。
悲鳴と共に、慌てて外に飛び出した人々で、駅前の道路という道路は埋め尽くされた。で、パニックから少し時間が経って、みんなが取った行動は、やはり携帯を開ける事。僕は駅前の赤い鉄塔が揺れ続けているのを見ながら祈った。
「せめてここ横浜が、一番震度が高い地震でありますように…。」と。
しかし、僕の願いは、携帯で一早く情報を掴んだ人の話してる声で一瞬で消え去った。
「震源は仙台の方だって!」
僕は直感した。「絶対、東北が大変な事になっている。」
実は、義父は仙台の出身。だから、明日の結婚式には、仙台から義兄とその子供達や沢山の叔父さん叔母さんが来る予定になっていた。しかし、この状況下では、具体的な情報は全く分からない。
心配を抱えながらも、まずは宿へ向かうべく交通機関の復旧を待つも、復旧のメドは立たずで時間は過ぎて行くばかり。そうこうしてる間にも、二度三度大きな揺れが起こり、怖くて建物の中にも入れない。外でじっとしてるだけ。目の前のキヨスクには長蛇の列が…。みんな飲食物の確保に必死だ。
そして夕方になり、昼間の暖かさが嘘のように天気が悪くなってきた。このままいくと寒さでやられてしまいそうだ。雨も降ってきた。まずい。
僕は横浜の地図を広げて考えた。「もう歩くしかない!」
特に4歳の娘は、泣き言も言わず頑張って歩いてくれた。僕は重いスーツケースで手が棒の様になりながら約2時間。ようやくホテルに着いてテレビを点けた瞬間、初めて東北がどうなっているか分かった…。
僕は、妻と結婚する段になるまで、東北とは、ほとんど縁が無かった。高校の修学旅行で会津に行った事がある位だった。初めて仙台に行ったのは、結婚前に仙台の義祖母や叔父さん叔母さん方に挨拶に行った時だった。
この時、僕は仙台という街を一発で気に入った。僕は、それまで色んな街を見てきたけれど、ある程度の人口の都市(例えば「政令都市」という括りでも良いけれど)で、こんなに美しい街を見た事が無かった。街の人の心の持ち方とか、倫理観とか、そういうものに凄く惹かれた。
あの仙台空港から市街に向かう海岸道路や、叔父さんに案内してもらった女川町等、僕の美しい記憶にある美しい風景のほとんどが、あのドス黒い津波で押し潰されてしまった。信じられない映像が僕の目に飛び込んだ。
結婚式は延期という事になり、僕ら家族は、今晩、何とか滋賀に戻ってきたけれど、未だにニュースを見て呆然としてる。原発の事とか言いたい事も沢山あるけど、まずは、少しでも多くの命が救われて欲しい。ホント切にそう思うし、それに尽きる。